新国立競技場でまた問題が生じたようだ。
新国立競技場、聖火台の置き場なし 「要望聞いていない」とJSC (ハフィントンポスト日本版)
ここまでくると、ドタバタ劇として面白くなってきた。不謹慎って言われるかもしれないけども。
しかし、一歩引いて考えると、このことは大事な示唆があるようにも思う。
日本では一般的に「ものごとが細部まできっちり計算されて、漏れがないこと」が尊重される。それが高品質とか信頼性、といった評価につながっている。イギリスに住んでみて、様々な国から来た人と接する中で、相変わらず日本製品の品質や信頼性は尊敬されているし、自分の実感としても、日本のものは安心だ、と思う。
この背景には、文化論でよく知られているホフステッドの枠組みで考えると、「不確実性の回避」傾向が日本では強いことがあるのだろう。日本人は、相対的に見ると、不確実なこと、予期せぬことが起きることを許容できる程度が低く、見通しが立つことが好きなのだ。
しかし反面、こうした価値観の逆作用としては、意思決定に多くの人が関わり、慎重に検討が行われるため、逆にスピード感がないとか、大胆な変化が出来ないっといったことにもつながっている。このことを、海外や外資系企業で働いた経験のある人が、「だから日本企業はダメだ」的な論調で批判して語っていることも目にする。
本件、そのあたりを批判している人たちはどう見るのだろうか。
僕は、日本の高品質や信頼は素晴らしいと思う反面、意思決定に時間がすごくかかることや、大胆さにかけるところは変わった方がいいと思っている。
だから、個人的には、本件についても、みんなで不具合を見つけて、ドンドン機動的に修正して行って、結果的に上手くいけばいいんじゃないの?と思う。もちろん、想定外のお金が消費されてるとか、期日に間に合わないかも、みたいなことは全然ダメだけど。途中で変更すること、ミスが見つかること自体を批判するのはイマイチだと思う。
見落としがありました、変更します、を批判しすぎることは、意思決定をする人を萎縮させるし、結果的に、総花的で面白くない意思決定につながる仕組みを再生産するだけだ。
素早く、多くの要素をもれがないようにチェックして、その上で、大胆な意思決定をする、なんてことができるとすれば、それはスーパーマンだ。そして、社会に生きるほとんどの人はスーパーマンではない。
他人の意思決定に完璧を求めると、それはブーメランのように僕たち自身を縛ってしまう。そして、結果的に、みんなで慎重に判断する文化は変化しないだろう。
日本の社会を、機敏で、大胆に変化する社会になってほしい、と願うのであれば、本件のドタバタ(そのもの)を批判しすぎるのは止めたらどうか。繰り返しになるが、予算の超過や期日に間に合わない、ことは問題にしていいし、すべきだと思う。しかし、不具合が途中でてくること自体を批判するのとは、別の話だ。