さて、社会交換理論に関する連載も第4回目です。

第1回目では、組織における様々な人間関係が交換で捉えることができること、第2回目には交換にもいろんなパターンがあること、そして、第3回目では、交換に関する世界共通の「規範」があり、受けた恩に報いることは多くの社会で望ましい行動だと考えられている、ということをご紹介しました。

第1回: 世の中は交換で回っている。

第2回: 職場における「恩に報いる」を科学する。

第3回: 「交換」に関する考え方は世界共通?

さて、今回は組織と個人の間の交換に注目して、組織が個人の期待を裏切ると何が起きるのか、というテーマについて検討します。まずは、日本における組織と個人の交換関係において、何が交換されているのか、について考えてみたいと思います。

 


「日本における組織−個人交換関係」


 

組織と個人の交換関係は重層的で、いわゆる「交渉型」交換と、「報恩型」交換の両方の要素を含んでいます(交渉型交換と報恩型交換については第2回をごらんください)。

交渉型交換としては、「どんな仕事を担当し、どんなアウトプットを出せば、どんな報酬や処遇が得られるか」について、組織(を代表する人事や管理職)と応募者が交渉し、合意することがそれに当たります。

日本の新卒採用の場合、「新卒」という一つの集団として採用されるケースが多いので、採用の時点で入社後に担う仕事内容や、報酬について個人レベルでの交渉が行われることは稀です。(もちろん、企業によっては、特殊な能力を持つ人材を採用するためには、新卒であろうと職務内容や報酬面で個別の交渉も辞さない、というケースもあるでしょうが・・・)。

一方で、中途入社、特にそれなりに経験を積んだプロフェッショナルな人材を採用するケースは、双方にかなり期待が明確にあるでしょうから、交渉を通じて握る要素がそれなりにありそうです。

採用する企業側は「どんな役割を担ってほしい」「どんな成果をあげてほしい」という期待が明確にあるはずですし、応募するプロフェッショナルの側も「自分にはこういう経験があり、こういうことができる。逆に、こういうことは自分の得意領域ではないが問題ないか」という風に期待値を調整する会話が行われることが一般的でしょう。またそれに対応して、報酬やその他の条件についても、かなり明示的な会話が行われ、双方の交渉で細部を詰める、ということは珍しくないはずです。

私自身も、過去にある外資系企業の人事部門のビジネスパートナー(事業部門にコンサルタント的に入っていき、組織開発をする仕事でした)としてお誘いいただいた際に、先方から明確に「この仕事はピープルマネジメントのポジションではない(=部下がつく、いわゆる管理職パスではない)が問題ないか」と言われ、「いや、僕は人のマネジメントは得意分野じゃないので、その方がいいです」という会話をした記憶があります。

もちろん、交渉の余地があるかどうかは双方の交渉力に依存しています。が、ここでのポイントは、明確に条件(給与やその他の待遇)と、貢献内容(職務の範囲や求められる成果)を双方が合意している、という点です。

ただし、組織と個人の関係は交渉で明確にできる要素だけではありません。もっとはっきりしない、言語化されない双方の期待が存在します。

例えば、典型的な日本企業の正社員の場合、「真面目に勤めて、就業規則を守っていれば、そうそう簡単に解雇はされないはずだ」という期待が従業員側にはあるでしょう。また、「組織から求められた成果を順当に上げていけば、ある程度の年齢で管理職になれて、それなりに収入が増えていくだろう」というのも、多くの人が暗黙的に組織に期待する約束だ、と言えます(これが現実的な期待かどうか、というのはさておき、伝統的な日本企業に正社員として勤める際に、こういう期待を持つ人が多いのは今でもある程度当てはまるかと思います)。

では、こうしたメリット(安定的な雇用と、内部昇進の機会、勤続に伴う給与増)と引き換えに、個人は何を(交渉を経ずに)組織に約束してきたのでしょうか?

伝統的な日本企業の正社員について言えば、「残業も厭わず頑張って働く」し、「自分の業務に直接関係ないことでも、組織運営上の行事(例えば飲み会や、社員旅行)には参加する」「異動や転勤を言い渡されたら、基本的には受けいれる」、すなわち「組織の命に忠実な正社員としての振る舞い」が、個人が組織に対して暗黙的に「約束」してきたことなののではないかと思います(もちろん、これらが時代とともに徐々に変化しているのは言うまでもありませんが)。

ですから、ある種のステレオタイプであることを承知で簡単に表現すると、日本の伝統的な企業における個人と組織の暗黙的な約束は、組織が個人を「長期的に面倒を見る」ことに対して、個人が「組織に対して忠実に勤める」ことだった、と言えます(このあたりの議論については、「日本企業の心理的契約」(服部泰宏著、2011年、白桃書房)が詳しいです)。

当然、ここにはばらつきがあります。企業により雇用に関する考え方が違い、それに伴って暗黙的な期待の醸成のされ方も違います(例えば、私の古巣のリクルートは、個人は自分のキャリアは自分で面倒見るもの、リクルートが合わなくなったら自分から去るもの、というふうな雰囲気があり、多くの人がそれを当然だと見なしていたと思います)。また、同じ組織の中に、雇用形態によって個人が組織に対して抱く期待は異なってくるのが自然ですし、さらに言えば、同じ組織、雇用形態でも、個人の性格によって、期待の形成の仕方が違う、ということも知られています。相手を信頼しやすい人もいれば、慎重な人もいる、というわけです。このこからは、暗黙的な期待は、個人が(自分なりの状況観測がもとになっているとはいえ)ある種、勝手かつ主観的に「約束だ」と認識しているものだ、とも言えるでしょう。

 


「約束」が破られると何が起きるのか


 

個人の間で「約束が破られる」ことが珍しくないように、個人と組織の間での約束(暗黙的なものも含む)が破られることも、珍しいことではありません。

例えば、「安定的な雇用と、内部昇進の機会、勤続に伴う給与増」が約束されている、と考えてきたのに、入社して何年か経つと、「何年経っても給与が上がらず、昇進については上が詰まっているせいでいつまでたっても機会がない」現実に直面する、といったケースは典型的な、「約束が破られた」ケースだと言っていいでしょう。

また、入社する段階では、「育児支援が充実していて、男性も積極的に育児休暇を取ることが奨励されている」と期待していたのに、実際に休暇を取ろうとすると「お前、休暇とか言っている場合か?プロジェクトはどうするんだ?」というふうに上司から言われた、と言ったケースも、「約束が破られる」に当てはまります。

このように、暗黙的な約束にせよ、明示的な約束にせよ、組織と個人との約束が破られたように個人が感じる場面は、少なからず存在するわけです。

こうした「約束破り」は、個人の心理に大きな影響を及ぼします。先行研究からは、「職務満足」「コミットメント」が下がり「離職意図」が上がることが、おしなべて示されています。また、組織に対する信頼も低下することもわかっています。

興味深いのは、過去の職場でそうした「約束破り」を経験した人は、次の職場に転職した際にも、企業をなかなか信用せず、明示的に交渉された役割と報酬だけを「約束」と見なして、それ以上の組織貢献をしようとしなくなる傾向がある、ということです。

裏切りは、人を慎重にする、ということかもしれませんね。

ただし、こうした「職務満足」や「コミットメント」の低下と、「離職意図」の上昇といった、「心理面」での悪影響が、実際の「行動」にどれくらい影響を与えるか、というと、実はあまり大したことがない、ということも同時にわかっています。多くの研究の結果を横断的に統合して再分析するメタアナリシス、という手法で分析した結果からは、「約束破り」を経験した人は、そうでない人に比べて、実際に離職しやすく、組織に貢献する行動をしない傾向があることがわかっています。ただし、心理に及ぼす悪影響に比べると、行動に及ぼす影響は比較的、軽微だ、ということも同時にわかっています。

これはどういうことでしょうか?

一つ考えられるのは、「人はそれでも生きていかないといけない」ということでしょう。つまり、組織に裏切られたと感じ、組織に対する信頼を失っても、個人はお金を稼いで生活していく必要があるわけで、簡単に組織を去ったり、組織内での自分のパフォーマンスを落とすわけにはいかないわけです。様々な事情から、組織らかは裏切られたけども、組織内に踏みとどまる、という行動を取ることは、十分に合理的な判断だと思えます。

組織から去るわけにはいかないし、パフォーマンスを落とせない。では、どうするか。研究からは、個人は「裏切られた」という気持ちを行動に反映する代わりに、自分が持つ組織に対する期待を調整しなおすことが多い、ということがわかっています。

これは、友人、知人関係でもあることですよね。「こんな奴だとは思わなかった」という経験を経て、相手への期待を調整しなおして、「あいつはそういう奴だと思って付き合う」に落ち着く、という。

特に、「暗黙の期待」に関しては、(極論すれば)自分が勝手に思い込んでいた、という話ですから自分の相手に対する期待を見直せばいいわけです。

組織を取り巻く環境も、個人を取り巻く環境も時間とともに変化するわけで、暗黙的な約束にせよ、明示的な約束にせよ、いつまでも無条件で守り続ける、というのはあまり現実的ではありません。また、そもそも、暗黙的な期待は、個人が採用担当者や上司、先輩から聞いたことなどをもとに自分の中で形成するものですから、それが100%守られるということは、そもそもあまり期待しにくい性質のものです。

ただ、明示的に議論できる部分は、状況の変化に応じてオープンに議論すれば良いわけですが、暗黙的な期待は、明確に言葉になっていないし、お互いの公式な合意もありませんから、そうはいきません。

そういう意味では、「約束破り」は、時間をかけて互いの期待値を調整する機能を担っている、とも言えるでしょう。組織への信頼を一気に失わせてしまうような大きな約束破りは、そのまま関係性の破綻につながりかねませんが、ちょっとした約束破りは、組織と個人の間の関係性構築のプロセスで相互理解を深めるための不可避のコスト、と考えたほうがいいのかもしれません。

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