今日のBBCのニュースに「『働く父親たちは職場で損をしている』と議員が報告」といううタイトルの記事が出てました。
Working dads lose out in workplace, say MPs (BBC News, 20 March 2018)
趣旨を簡単に要約すると
- 様々な調査によれば、女性のキャリア発展に伴い、男性の育児への関与度が高まっている。そして、育児に時間を割くために仕事へのコミットの度合いを減らしたい、というニーズを持つ男性が多くいる、ということも最近の調査からわかっている
- しかし、職場の現実はそうしたニーズに追いついていない。伝統的な男女の役割認識が根強く残っているため、育児休暇をとった男性が職場で不利な扱いを受けたり、育児のために労働時間を抑えて働きたいというニーズにあった職場が見つかりにくかったりする
ということです。
実際、記事の中で出てきた興味深いケースとしては、「子供の送り迎えがあるので、決まった時間に退社する形で働きたい」と就職活動で雇用主に伝えたところ、「君の奥さんは何をしているの?奥さんは送り迎えはできないの?」と言われた、と言うケースがあるようです。まあ、そういうことを言う採用担当者がいるというのは残念な話ですが、率直に言って、想像に難くはありませんね。
この背景には大きく2つの要因がありそうです。(1)「会社としては、100%コミットしてくれる人材の方が嬉しい」という身も蓋もない話と、記事の中でも触れられていますが、(2)「男は仕事、女は家庭」という男女の役割認識が根強く社会に存在する、という話です。
(1)に関しては、男性でも女性でも変わらない話です。
以前、東京大学の大湾先生がある研究会で発表されていた研究によると、何社かの日本企業の人事データを分析した結果、「女性が出産後、育児休暇を長くとってから復帰すると、その後の給与の伸びにマイナスの効果がある」「一方で、出産後、非常に短い期間で復帰すると、給与の伸びにむしろプラスの効果がある」という結果が得られた、ということでした。
この研究が示唆していることは「育児休暇をどれくらいとったか」が、単に「仕事経験を積む機会のロスになる」というだけではなくて、何らかのシグナリング効果を持っているのではないか、ということです。「育児休暇を長く取ること」は人事や上司からは「仕事・会社よりも家庭の事情を重視した」というシグナルとして受け取られ、逆に、「出産後すぐに復帰する」ことは「仕事・会社の事情を重視した」というシグナルとして受け取られるのではないか。そしてそれがその後の給与の伸びに影響するのでは、という解釈です。もちろん、「もともと勤務意欲が高い人のほうが早く復帰する可能性が高く、そういう人はその後の評価が高くて給与が上がりやすいのでは?」という因果の可能性を考慮すべきですが、そこは出産前の人事評価データを考慮して統計分析を行えばよいわけですし、上記の研究ではそうした基本的なコントロールはされていたと記憶しています。
で、上記のBBCのニュースの話も、多かれ少なかれこうしたことが絡んでいるのではないかと思われます。女性だけでなく男性も、育児休暇を取る、あるいは育児のために労働時間を抑えたいという人は、「望ましくない」人材だ、と思われがちだ、ということです。仮に、男女ともにそうなのであれば、それは差別ではなくて、企業としての人事ポリシー上の選択の話だ、ということになります。これについての是非の議論はありますが、社会の変化に伴って、「人材市場においてそういう企業に人が集まりにくくなる」あるいは「制度・文化的に、そういうポリシーを持つ企業が容認されなくなる」といった変化が生じれば、企業にとってはなにが得なのか、という判断が変化し、ポリシー選択も変わる、という類の話でしょう。
一方で、(2)は性別が絡む話です。
男性と女性にことなる役割期待をもつ(=男性は外で稼ぎ頭として働くことが当然で、女性は家事や育児を頑張るのが自然、とする)ことは、程度の差こそあれ、多くの社会で見られる傾向です。このことは、様々なところで女性のリーダーが社会に増えにくい理由の一つとして指摘されていますね(例えば、シェリル・サンドバーグによるTEDの講演:翻訳付き)。
が、一方で、このことは男性の生き方を苦しくしている、という点もあるわけです。具体的に言えば、「稼ぎ頭はない選択」をした男性が、マイノリティとして厳しい扱いを受ける、ということです。これは、男性、女性の両方がやりますよね。前者で言えば、上記の「君の奥さんは・・・」のくだりは、多分男性から男性にむけたセリフでしょうし、日本でも、地域限定社員という働き方が出てきたときに、「ああいうポジションに男子学生が応募してくるのはちょっと驚きますね(笑)」というトーンで話されていた男性の人事の方の記憶があります。後者の、女性から男性に対してで言えば、例えば上のシェリル・サンドバーグの講演に、「平日の昼間に公園で男性(=父親)が子供に付き添っていると、周りにいる母親たちはその男性を遠巻きにして近寄ろうとしない」みたいな話が出てきます。これらの反応に通底するのは、「(稼ぎ頭である)男のくせに、なにしてるの?」という感覚でしょう。
僕は、この点に関しては、性別で役割を期待するのはいい加減にやめたらどうですか?という立場です。統計的に見れば男女で様々な違いがあるということは確かに様々な研究で示されているのですが、それと同様か、それ以上に、男性の中、女性の中での個人差もあるからです。考えてみれば当たり前のことですが。
一部では「これは古くからの日本の伝統なのだ」みたいなことを言ってたりする方もいらっしゃるようですが、社会学の研究によると必ずしもそうとは言えないのではないか、という説があるようです。例えば、橋爪大三郎氏編の「社会学講義(筑摩書房)」には、こうした男女の役割分担は農村社会にはあまり存在せず、工業化にともなって経済活動の現場(=例えば工場)が家庭から遠く離れたことによって生じたという説が紹介されています。だとすると日本の場合、工業化といえば明治以降の話ですから、たかだか150年程度の歴史しかない、ということになります。
一方で、東アジアにおける男女の役割区別の源流は儒教にあって長い歴史があるのだ、みたいな話もあります。ただ、儒教の本家本元たる中国はといえば、女性もかなりばりばり働く社会です。最近発表された、自ら富を築き上げた女性億万長者(female self-made billionaire)のリストの上位には中国の女性が多数ランクインしてる、といったあたりにも、女性の活躍度合いが明確に見て取れますね(男性の同様のリストと比べても、女性のリストにおける中国の突出ぶりは目立つようです)。そして、こうした女性の活躍については、毛沢東が中国は男女が平等に貢献する社会になるべきだ、と主張したことが、きっかけとして大きく寄与している、ということを、私の大学の同僚たちを始め、各方面から聞きます。
ここから言えるのは、仮に伝統と言っても、その歴史は意外と短いかもしれない、ということ、そして、仮にそれがもっと長い伝統に根ざしているとしても、だからと言って変えられないものでもない、ということです。仮に工業化によって役割区別が強化されたのであれば、現代は脱工業化の時代である、と考えれば前提が崩れつつあるし、儒教の伝統があったとしても、政治的な意図を持って社会にメッセージを発することでそれすらかなり変わりうるからです。