「立ったままデスクワーク」を本格導入(その1)。

博士課程も本格的に後半に突入し、連日家で調査を設計・実施したり、データを分析したり、論文を書いたりと、本格的にデスクワーク漬けの日々がスタートしております。

これまでも、多かれすくなかれ似たようなものだったわけですが、やはり根を詰めていろんな作業を同時並行でやり始めると、どうしても長時間、下手をすると朝の8時半から夜の11時くらいまで食事を作って食べる時間以外はデスクに座っている、みたいな日が出てきます。

コンサルタントとして働いていた頃も、相当デスクワークは多かった方だと思いますが、そうは言ってもミーティングやらお客様のアポやらで、それなりに立ち上がったり、出歩いたりする機会があったわけですが、それが激減しております。

これでは、さすがに

健康に悪い!

というわけで、最近話題のスタンディングワークを導入することにしました。

といってもいきなり流行りに乗っかって決めたわけではなく、幾つかの布石がありまして。

まずは、大学のうちの学部の先生にひとり、このスタイルで研究室で仕事をしている先生がいるのです。彼女の場合、完全に高い位置のデスクで固定にしているので、ほんとにあれで仕事できるの?と多少疑問の目で見ていたのですが、1年くらいたってもずーっとそれで仕事をし続けており、もしかするといいのか?と思い始めたのでした。

そしてさらに、PhD学生用の研究室にも数ヶ月前に一つ、なぜだかデスクが高いスタンディング用のデスクが導入されまして。誰からも特に事情は聞いてないので背景はわからないのですが、どこかで余ったデスクを放り込んだというのが実情ではないかと疑ってます。

が、理由はさておき、上記の先生のことがあったので、早速何回かそれで作業をしてみたのですが、なかなか快適でして。もちろん足は多少疲れますが、1時間やそこらで疲れて座りたくなる、というほどでもない、ということがわかりました。

という実験の上で、いよいよ自宅にも導入を決定しました。まあ、350ポンド(7万円)ですのでそこそこの出費ですが、将来のことを考えると悪い投資ではないか、と判断しました。

長時間座ったままなのは、明らかに健康に悪いというのは、昔から言われていることですし、今後もデスクワークが多いのは明らかですからね。そしてどうも、カロリー消費が増えて痩せるし、筋肉もつく、と言う情報もあり、プラスは十分に多いかと。

ということで、今日お昼に物が届いたので、早速設置して使っている(現在も)のですが、5時間くらい使ってみたところでは、かなり快適です。いくつかの初日の感想ですが、

・素足でやるとカカトが痛くなる

・集中力が明らかに続く

・足腰には多少くるが、背中や肩は楽

といったところですね。最初のに関しては、もちろん靴下くらいは履いているわけですが、それだけだとカカトに全体重がかかるので痛くなってきます。多少カカトにクッションがある室内履きを履くなどした方がよさそうです。

集中力に関しては驚きましたが、意図して休憩を取る以外は、ほとんど休憩したり、いらないウェブサイトを見たりせずに、がっつり集中して仕事ができました。普段よりもだいぶいい印象です。

最後の点については、明日、眠りから覚めたときに、足腰がどうなってるかですね。

また、レポートしますので続編をお楽しみに〜。

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儀式とアイデンティティ

ロンドンに住んでトータル3年が過ぎましたが、イギリスで驚くのは過去の戦争を振り返るイベントを年中やっていることです。イベントといっても、戦勝記念の賑々しいものばかりではなくて、戦争で「国家のために戦い、命を落とした人」を悼むものも多いです。つい先日もRemembrance Sundayという、二回の世界大戦及びその他の戦争で命を落としたイギリスおよびコモンウェルス圏の兵士を弔うイベントが行われてました。

そして、日本とは比較にならないレベルで報道が行われます。例えば、BBCでは一日中このイベントについてのニュースが流れてます。

近代の歴史を通じて、基本的には戦勝国であり続けていることを考えると、戦没者について国家を守った、あるいは、正義を守った(特に第二次世界大戦ですね)英雄である、と言うふうにストレートに考えやすいのかな、と、日本との比較で感じます。

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これらのイベントを見ていて感じるのは、このようなイベントが国民としての自意識、ナショナルアイデンティティにとってどんな意味を持つのか、ということです。戦争そのものについて云々するのはここでの私の狙いではありません。それよりも、このような振り返りを儀式として繰り返すこのが何の意味を持つのか、ということに本稿は絞って書きますね。

僕は、このような儀式の一つの機能は「国家」の存在および、「国家の一員としての国民」というアイデンティティを強調するということにあると思います。

一般論で言えば、アイデンティティ(自分は何者か)は、人間の心理の有り様における中核的な要素だと考えられています。そして、アイデンティティの一部は、「何かの一員である」という意識(アイデンティフィケーション)で構成されています。

例えば、僕を例にとれば、僕は「元リクルート社員」であり、「LSEの学生」であり、「LSEの教師」でもあり、「コンサルタント」であり、「吉川家の一員」だと自分のことを認識しています。そして、これらに加えて自分のことを「日本人」であり「関西人」だと認識しています。いずれも僕にとっては意味のあるもので、それなりの感情的な思い入れが伴うものです。

これらのアイデンティティは、場面によってどれが表出するかが変わりますし、場合によっては、複数のアイデンティティが衝突を起こすこともあり得ます。たとえば、「ビジネスパーソン」としてのアイデンティティと、「子供の父・母」というアイデンティティが衝突する、というのは、仕事と育児の両立に悩む人の心の中では、少なからず起きているのではないでしょうか。

イギリスの場合は、結構アイデンティティは複雑で、移民が多いこと、そして、連合王国という国の成り立ちから、単純に自分のことを”British”だというふうに捉えている人は結構少ないのではないかな?と思います。スコットランドの人たちの間では、”British”というアイデンティティよりも、”Scots”というアイデンティティの方が強い、という人が多いかもしれません。

両親の代でロンドンに引っ越してきてイギリス生まれのアイルランド系の知人は、自分のことは”British”でも”Irish”と言われても違和感がある、と話していました。どちらかといえば”Londoner”って言われたらシックリくるね、ということでした。

戦争での死者を悼む儀式は、このような文脈で捉えると、国民としてのアイデンティティ強化の機会、と捉えることができるのではないかな、と思うわけです。戦争は国と国が行うことで、「どの地域の出身の人であろうと、国に貢献した人はイギリスという国家のために戦った人たちであり、国家は彼らのことを忘れない」というメッセージがこのようなイベントの根底に流れていると思われます。それを、儀式として重みをきちんと持たせ、記憶に残るように行う、ということは、おそらく国民としてのアイデンティティを強化するように働くのではないかと。

言い換えれば、こうした儀式のばでは、国という単位で、「内」と「外」の境界を強調するメッセージが発信されるわけです。そして、その結果として「内」のメンバーは一つの集団なのである、というイメージ形成(誘導?)が行われる、といえると思います。

国に対するアイデンティフィケーションは、国家の安定の基礎だと思われます(みんなが自分はイギリス人だと思っていないと、イギリスという国家は安定的に存続しにくいですよね。スコットランドの独立投票もありましたし)から、このこと自体は意味のあることですが、一方で、「内」と「外」が強調されるということはまた、「あいつらと俺たちは違う」といった意識につながり得る、もろ刃の剣、とも言えます。

少し話は変わりますが、ちょうど昨日の夜おきた、パリでの事件と、その後の報道を見ていると、アメリカやイギリスなどの欧米諸国が「自分たちはフランスと共にある」というメッセージを出しているのが目に付きます。こういうメッセージは「先進欧米諸国」という集団としてのアイデンティティを強調しているのだなあ、と感じます。もちろん、テロリズムは許し難いですし、被害にあった方を悼む気持ちはとてもあるわけですが、一方でこうやって「境界」が作られ、対立構造が意識の中に作られることが、この後の展開にどのようにつながるのだろうか、と思ったりもします。

実際、今まさに流れているニュース番組のインタビューで、あるフランス人が、フランスという社会の中で「ムスリム」になんらかのレッテルが貼られ、社会が分断されることを懸念している、と語っていました。

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最後に少し、この話を企業に置き換えて考えると、どのような示唆があるか、というのを考えてみます。企業の立場で考えると、従業員に対して「自分はこの企業の一員である」というアイデンティティをどのように形成し、強化するか、そのために儀式をどう使うか、という問いが立てられますね。一般的に、アイデンティフィケーションが強い人ほど、組織のために一歩踏み出した動きをする、離職しにくくなるなど、総じてポジティブな効果がある、と知られています(もちろん、内輪志向による逆効果を指摘する研究もありますが)。

そして、社員総会や、社員旅行、高業績者の表彰式といったイベントは、従業員のアイデンティティを強化するための儀式として使うことができる場と考えられます。が、必ずしもそのような意図を持って設計し、実施している例ばかりではないようにも思います。例えば、高業績者だけを集めて表彰会をしても、あまり招かれた人たち以外には影響がないでしょうし。

「儀式」というと、現代の企業活動にはあまり関係がない、古臭いもの、という風に思うかもしれませんが、儀式は今の社会にもたくさん存在しますし、それなりの影響を私たちに与えていると僕は考えます。企業の経営や人事に関わる方々は、むしろ、きちんと「儀式だ」という意図を持って設計し、実施することが結構大事なのではないかと思います。

また、果たして、「企業」全体の単位でアイデンティティを形成したいのか、それとも、「事業」という単位でアイデンティティを形成したいのか、というのも大きな問いですね。

国の繁栄度を測定する。

先日の信頼感に関する国際比較にちょっと関連する調査を見つけました。

The Legatham Prosperity Index 2015

この調査は、ロンドンにあるLegatham Prosperity Instituteというところが毎年出している調査だということです。

ちなみに、日本は19位で、アジアではシンガポールが17位。そこに香港(20位)、台湾(21位)、韓国(28位)が続きます。

上位にはノルウェー、スイス、デンマーク、ニュージーランド、スウェーデンなど、いわゆる欧米の比較的人口規模の小さな国が並びます(ニュージーランドは地理的には欧米ではないですが)。人口が小さい方が国民の合意形成がしやすくて、多くの国民の意思を繁栄した政治が行われやすいとか、機動性がいいとか、そういうことがあるんでしょうかね?

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この調査はまさにIndexと言う名前が示している通り、8項目の性格の異なるサブカテゴリーの得点を総合して総合得点を算出するタイプの尺度(=ものさし)なわけですが(*詳しくは後ほど)、サブカテゴリーの中で上位のものはHealth(健康)が全体で7位、下位のものはPersonal Freedom(個人の自由)が全体で33位となっています。

で、実はこのPersonal Freedomの点数を引っ張っているのは、どうやら先日の投稿で書いた、信頼感と、内輪びいきの話のようなのです。

信頼感の国際比較 ー 日本人は「よそもの」をどれくらい信頼するか

この項目は、さらに小さなカテゴリーに分かれておりまして、項目と内容を超訳してみると、以下のような感じになっています。

1. Composite of civil liberty and freedom of choice

(サーベイ形式で自由の度合いを国民に聞いたもの)

2. Civil liberty

(法の支配や表現・信条の自由、様々な権利などの制度的充実度)

3. Satisfaction with freedom of choice

(選択の自由に対する満足度をサーベイで聞いたもの)

4. Good place to live for ethnic minorities?

(民族的マイノリティにとって住みやすい場所か?をサーベイで聞いたもの)

5. Good place to live for immigrants?

(同じく移民にとっては?を聞いたもの)

日本の得点と調査全体の平均値を見ていくと、明らかに低いのが4と5。民族的マイノリティと移民にとって、それほど住みやすい場所ではない、というわけです。他の項目は平均点を(ものによってはかなり)上回っているので、この2項目が全体の足を引っ張った、と言えそうです。

これはまさに、日本の社会に根付いた「よそ者」に対する扱い方を反映した調査結果といえますね。メインストリームの日本人(ってなんなのか、ってのも議論の余地がありますが)には快適かもしれないが、それ以外の人にはあんまり快適じゃないかもしれない、それじゃあ本当に繁栄した国とは言えない、というふうにこの調査上では扱われているわけです。

まあ、もう少し考えると、みんな少しづつ違う、と考えると、誰でもマイノリティになり得るわけで。寛容さが低い、というのはなかなか誰にとっても実際には住みにくい部分があるのでは?とも思います。

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さて、そもそもは、先日の記事で書いたことが違う形で現れた調査に、ほんの数日の間に出くわした、ということがそれなりに面白い、と思ってこのポストを書き出したのですが、ここまで書いてみて、それよりもむしろ興味深いのは、

民族的マイノリティとか移民が住みやすいことが「国の繁栄度」の大事な要素だ、と言う風に真面目に考えている人たちがいる

ということかもしれない、と気付きました。
この項目がランキングに入っていること自体、そういう意味ですからね。

そういえば今年は、ミスユニバースをめぐるとても残念な出来事がありましたが、この辺りの、「違う」人たちをめぐる心の有り様と言うのは、日本の社会に深く根付いているもののようです。で、そこからさらに考えると、

多分、日本人が同じようなランキングを作ったら、これらの項目は入らないのではないかな?

と思うのです。まあ、この研究所があるロンドンには、電車の中で英語を聞く方が珍しいくらい外国人が沢山いる、という現実を反映している、というのもありそうですが、それとは別に、いわゆるリベラルな多様性に対して寛容でありたい、という価値観がこの調査設計の根底には流れているように思われます。

そう考えると、調査自体が文化というか社会の価値観を反映している、ということで、この手の社会科学の分野においては、何事も客観的ではいられない、ということを指し示しているようです。


<おまけの社会科学豆知識>

IndexとScaleという、二つの物差しについて。

このランキングは「Index」という種類の尺度なのですが、上にも書いた通り、性格の異なるサブカテゴリーの点数を総合してできています。つまり、「国の繁栄度」を、健康、個人の自由、統治、経済など様々な要素で測ってそれを足し合わせればいい、というふうに考えているわけです。大学ランキングなんかも、このパターンです。

それに対して、社会科学でよく使われるもう一つのタイプの物差しに、Scaleがあります。これは、似たような性格の要素を複数測って、それを総合することで測定する、というものです。意識調査とかではよく使われる方法ですね。一個一個の項目は回答のブレの誤差があるけど、複数の項目で同じようなことを少しづつ違う聴き方で聞くことで精度を上げる、というものです。

この二つは、尺度の設計における、「測りたいこと」に対する考え方が大きく異なりますし、当然、それを反映して、適切な統計的な扱い方も違います。まあ、そんなことはいいのですが、Indexといえば、複数の違う観点を組み合わせたものだ、ということは、知っておくと役に立つかもしれません。

大学の「ひどい授業」をどうするのか? イギリスの場合。

今日、こんなニュースが朝からBBCでもちきりに。

University fees linked to teaching quality

簡単に言うと「大学の学費を教育のクオリティに連携させる」ということです。

イギリスは学費の上限が年間9000ポンド(だいたい今のレートで170万円くらい?)と決まってます。それについて大学担当の大臣から、「教育のクオリティが一定以上の基準を満たしている場合に限って、インフレ率と同じ勢いで学費をあげて良い」ようにしよう、という政策を提案されているそうです。

現在の大臣は、大学が研究ばかりに力を入れて授業に重きを置いていない、ということに痛く問題を感じているようで、それに対する対策としての政策だ、と説明されてました。

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僕は大学の授業のクオリティについては、イギリスの場合はインセンティブ設計の問題が大きいと思ってます。正直言って、大学の教員に与えられているインセンティブの仕組みを考えれば、

「授業よりも研究」

となるのは、ある種、しょうがないんじゃないかなあ、と思う部分もあります。

大学の先生は教授になってしまえばTenure(終身在任権)が得られ、基本的には終身雇用になります。が、一方でそれまでは有期契約です。教授への昇進の可能性がある准教授へのポジションで一定の実績をあげて教授にならない限り、安定は得られません。

そして、そうしたポジションへの採用にせよ、そこから先の教授への昇進にせよ、「論文をどれだけ主要な学会誌に掲載しているか、それがどれくらい引用されているか」が大事で、授業がどれくらいうまいかはほとんど参考にされない、とまことしやかに研究者の間では語られてます。

まじめに自分の将来のことを考えれば考えるほど、理屈では授業をちゃんとやったほうがいいと思いつつ、実際には授業よりも研究が気になるはずです。そもそも研究がしたくて博士課程に進んで、そのまま研究者の道を選んでる人が多いはずですしね。

LSEでも准教授クラスの先生と話してると、

「正直言って、教育頑張っても評価されないからさ・・・残念だけど」

みたいな話はたまにボソッと出てきたりします。

で、こうなっている背景の一つには、大学がおかれている状況があります。

日本でも毎年話題になる世界の大学のランキングは、多くの場合、研究上の成果が大事な指標になっています。その他にも国際化度(留学生がどれくらいいるか、とかですね)も考慮されるのですが、まずは研究で成果を上げていることが重要です。研究成果についてはある程度、定量的に評価する仕組みが国際的にできあがっているのですが、逆に「授業の質」を横断的に比較評価するのは難しいので、僕が理解している限りでは、多くのランキングで関係がないはずです。

Times Higher Education World University Ranking

なので、この手のランキングで大学の評価を上げようとすると、

「まずは研究!」

と大学の幹部も言いたくなるなるわけですね。

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実際、授業のクオリティについてはLSEもかなり問題があるようで。就職状況や企業からの評価はいいんですが、満足度は有力大学の中ではかなり低くて、学内でも問題視されてます。

実際、先日、僕が去年担当した授業の生徒にヒアリングをしてみたところ、

「全く払った学費に見合ってない。一部に素敵な先生もいたけど、

全然授業にやる気がなくて、自分の研究にしか興味がない先生ばっかり。

ほんと最悪。」

的なコメントが何人かから帰ってきました。もちろん、学生のコメントを鵜呑みにするのは少々危険な訳ですが、こういう声が出てしまうこと自体が、かなり残念な話です。

まあ、もちろん放ったらかしにされているわけではなくて、いろいろな施策が打たれています。生徒からのフィードバックアンケートを各授業ごとに学期ごとにとる仕組みもきちんと運用されてますし、イギリスの国としての大学教員の資格もあって、それを取得するためのトレーニングを通過してないと、そもそも教えられないですしね。

ただまあ、どんなにトレーニングをしようと、上記のようなインセンティブの仕組みになっている限り、そもそもの問題は解決しないだろうなあ、と言う感じがします。正直言って、教育を頑張っても評価されないのであれば、個人の善意頼り、ってことですからね。

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てなわけで、イギリスの場合は、大学に対する金銭的なインセンティブを導入すること、さらに言えば、教育の質のランキングを公表することで、大学の、教員に対するインセンティブの与え方を変えようとしているわけです。

僕は、大学の教員にとっては、研究も教育も大事な仕事だと思っているので、趣旨としてはいいことだと思います。教育の質を評価するのは難しい、という声もあるでしょうが、それは研究の質だって同じですからね。それをいろんな無理はあっても定量化して評価する仕組みが出来上がっているから、研究成果に関心が向くわけで。無理してでも教育の質を定量評価することは、基本的には前進だと思います。

が、一方で、それを学費に連動させるってのがなんだかなあ、という感じもします。日本でもそうですが、学問にせよ教育にせよ、評価を金の配分に反映させて金で釣る、ってのには、なんとも釈然としない部分があります。まあ、それよりいい方法が思いつくわけではないのですが・・・うーむ。

ちなみに、日本の先生たちのインセンティブはどうなってるんでしょうね?一度、専任講師とか、准教授になってしまえば、正社員と同じで基本的にクビにはならないはずですから、イギリスとは少し違うはずですよね。どのようなインセンティブが働いているのか興味深いところです。誰か教えてください。

日本人は「よそもの」をどれくらい信頼するか ー 信頼感の国際比較

World Values Survey という調査(以下、WVS)をご存知だろうか?

日本では世界価値観調査という名前でも知られているこの調査は、世界の何十各国で共通の項目で調査をするという大規模な研究プロジェクトで、5年ごとに新しいバージョンの調査が行われているものだ。

最新の調査データは2010-2014年の期間に取られたものが上記のサイトからダウンロードできる。このデータは研究目的であれば誰でもダウンロードして使うことができるため、社会学などの分野で比較的広く使われている。

最近、このデータを使って各国の信頼レベルについて分析する機会があったので、ここではそのことについて書こうと思う。

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WVSには、信頼について幾つかの質問が含まれているのだが、主要なものに以下の6問がある。

1. あなたは、近所に住む人たちをどれくらい信頼していますか?

2. あなたは、個人的な知り合いをどれくらい信頼していますか?

3. あなたは、家族をどれくらい信頼していますか?

4. あなたは、初めて会った人をどれくらい信頼しますか?

5. あなたは、異なる宗教の人をどれくらい信頼しますか?

6. あなたは、異なる国籍の人をどれくらい信頼しますか?

この6問のうち前半3問は身近な人たちをどれくらい信頼するか、を聞く設問であり、後半3問は、見知らぬ人たちをどれくらい信頼するか、を聞く質問だ。

これらをそれぞれ集計したものは、「in-group trust(身内への信頼)」「out-group trust(よそ者への信頼)」という指標として知られている(例えば、van Hoorn, 2014を参照)。

これをいくつかの国をピックアップして集計してみたのが以下の結果である。ちなみに、元の調査では1〜6の6段階で、数字が少ないほど信頼が強い、という形で聞いているのだが、直感的にわかりにくいので0〜100の範囲で大きいほど信頼が強い、という物差しに変換してある。

20151105 wvs1

「身内への信頼」については、率直に言ってあまり面白くない。簡単にいってしまえば、身内への信頼は国が違ってもそれほど変わらないということだ。

一方、「よそ者への信頼」についてはかなり値にばらつきがある。スウェーデンは高く、日本と中国は低い。つまり、スウェーデン人に比べて、日本人や中国人は「よそ者」をあんまり信頼しない、ということだ。ちなみに同じアジアでも、シンガポールは日本や中国と比べるとかなり高い。

ちなみに、この差を取ってみると違いはより明らかになる。この差は、簡単に言ってみれば「身内びいきの強さ」と考えてもいいだろう。

20151105 wvs2

私は、このあたりの外部の人に対する信頼感のなさが、国際経営をとりまく様々な企業内外の行動に影響するのでは?と最近考えている。例えば、武田製薬においてフランス人のクリストフ・ウェーバー氏が社長に就任するなど、色々な企業における外国人経営者の登用のニュースが時折話題になるが、

武田薬品、壮大な実験?前代未聞の事態が進行 外国人幹部主導の「根こそぎ国際化」

こうした取り組みに、ともすると否定的、あるいは懐疑的な声が出てくる(この記事はどちらかというと好意的なトーンだが)背景には、上記のような「よそ者への信頼」の低さが影響しているのでは?と感じられるのだ。

(もちろん、日本語と英語の間の壁、日本特有の市場慣行や雇用慣行などもこれらの背景には考えられるので、一概に信頼だけを議論するのはイマイチだ、というのは当然のことである。本稿は、信頼の部分だけを切り取って書いている。)

また、ヨーロッパなどのように国際統合が進むことは、こうした信頼のありかたに影響するのか?というのも興味深い。残念ながらWVSのこの項目は最近の2回の調査から導入されたものなので、長期の変化を分析するにはまだ蓄積が足りない状況のように思われる。

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ちなみに、余談だが、日本は今回挙げた国々の中で、「身内への信頼」も「よそ者への信頼」もともに、最も低いことに気づかれただろうか?

このことは以前から社会心理学者の山岸俊男氏(現在は一橋大学の国際企業戦略研究科の特任教授)が指摘されていることで、日本はデータからみれば、「低信頼社会」なのである。このことが何を意味するのか?については、またいずれ考えてみたい。

参考文献
van Hoorn, A. 2014. Trust Radius versus Trust Level: Radius of Trust as a Distinct Trust Construct. American Sociological Review, 70(6) pp.1256-1259.

WORLD VALUES SURVEY Wave 6 2010-2014 OFFICIAL AGGREGATE v.20150418. World Values Survey Association (www.worldvaluessurvey.org). Aggregate File Producer: Asep/JDS, Madrid SPAIN.