Brexit=イギリスへの投資が減る、は短絡すぎる。

昨日ちょうど、Brexitに関するTheresa May首相の大きな演説があり、改めてイギリスのEUからの離脱について関心が高まった訳ですが、今日はこのことが企業にもたらす影響について少し考察をまとめておきます。

EU離脱に関しては、日本企業も様々な動きを見せておられまして、孫正義氏が率いるソフトバンクがARMに巨額の買収を仕掛けたとか、日産が、イギリス政府からBrexit後もヨーロッパとの交易条件が悪化するようなことはないようにする、という言質を取った上でイギリスの生産拠点に投資するとか、さらには、金融機関各社が財務大臣のHamond氏に直談判をしに行くといった出来事が、国民投票でのBrexit決定以降、次々と起こっておりました。

日本のメディアではどちらかというとBrexitに関して悲観的というか、イギリスは経済の先行きが暗いのでは、EUとの交渉はうまくいくのか、といったトーンの報道が多いように聞いています(直接日本の報道をチェックできていないので、国内の知人達からの伝聞だよりです。間違ってたらすいません)。上記の金融機関各社の動きにも見られる通り、EUへのアクセスが悪くなることで、イギリスに拠点を置いている企業がビジネスを大陸側に移す、また、新たな投資が行われなくなる、ということへの懸念はわからなくもありません。

が、実際にイギリスでニュースを見ていると、Brexit後に、新たにイギリスで拠点を拡大する、あるいはイギリスに戦略的な拠点を置くことにした、それにあたって新たに雇用が増える、といった意思決定をした企業が目白押しです。Googleがロンドンにあらたな拠点を設けて3000人を雇用し、Appleはイギリス郊外に新たな巨大キャンパスを設置、Facebookがロンドンの拠点を1.5倍に拡大、さらにはIBMがデータセンター機能を3倍に拡大するということです。最近も、ミールデリバリー事業を世界中で展開しているDeliverooがロンドンの本社を拡大して、ハイスキル人材を新たに雇用すると言うニュースが出ておりました。

読者の方は既にお気付きだと思いますが、ITに関連する高スキル系の拠点ばかりでして、製造業の話で大きいのは上述の日産くらいです。これは一体なんなのか?という話です。

そもそも、企業が海外に投資する理由には大きく4つあると言われておりまして、①その国の市場でモノ・サービスを売る、②その国でしか取れない資源(金属とか石油とか)を調達する、③コスト面での優位を獲得する(一時の中国のような人件費の話もありますが、規制が緩いというのもコスト面では優位になりますし、税制優遇なども同様です)、そして④その国に偏在している知的資源にアクセスする、というのがあります。

最初の3つは古典的なのですが、①については後で関連してくるので1点補足を。実は、売るだけならば現地の企業と契約して輸出する、でもいいのです(さらにその派生としてはライセンスやフランチャイズなどがありますが、ここでは省略します)。それなのになぜ現地に拠点を置いて自社で売るかというとA)本国から運ぶと輸送費がかかって効率が悪い(特に重さやサイズに対する付加価値が低い製品に当てはまります、B)関税や規制などの障壁があり、現地で作ったほうがコスト的に有利、あるいは現地で作らないと売れない、C)価格政策やブランドマネジメントなどを自社できっちりコントロールできる、などなどの理由があります。

また、④は比較的新しい(と言っても2000年以降くらいの話ですが)観点です。この、4つ目の話には、産業クラスターが密接に関わります。シリコンバレーがわかりやすいですが、特定の産業が集中している場所には、それに関連したスキルを持つ高度な人材が集中しやすく、なおかつ、人脈を通じて新しい情報が手に入りやすい、さらに言えば関連サービス(例えばシリコンバレーの例で言えばインキュベーターやVC)も集まっている、と、場所に依存した濃密な知的資源が渦巻く傾向があり、それらにアクセスしようとすると、その場所に拠点を持って、人脈の中に入り込むのが早い、となるわけです。余談ですが、ロンドンで言えば、映画などのSFX の画像処理の世界有数のクラスターらしく、専門性の高い小さいスタジオが無数に集まって、濃密なネットワークを形成していて、ハリウッドの映画などもかなりがロンドンで画像処理が行われていたりする、らしいですね。

さて、そもそも論が長くなったので、そろそろEUの話に戻ります。

ここに、EUなどの経済ブロックがどう関わるというと、単純に言うと①の範囲が拡大するのです。EUの中は規制が統一されており、関税がかからない、しかも物理的な距離もかなり近い、となると、イギリスで製造したモノを、なんの障害もなくEU中で売れるわけですね。正確に言うと、EU内のどこで製造しても、EU全域が市場になります。金融の場合も同じで、従来であれば各国によって金融の規制が異なり、それぞれに拠点を置いて金融取引の免許を取らないといけなかったのが、「パスポーティング」という制度のおかげでイギリスの拠点でEU中のどこにでも金融サービスを提供できるようになっています。

これが、EUから出ると、こうしたメリットがなくなる、あるいは薄れるために、イギリスの企業がヨーロッパに売れなくなって困るのではないか、また、イギリスに投資する企業が減るのではないか?というのがBrexit後のイギリスに対する悲観論のベースにあると思われます。ですが、イギリスへの投資に限って言えば、上記の通り、新しい投資の話が結構頻繁にあるわけで、この発想は必ずしも正しくありません。

ここでポイントになるのは、この手の投資の主たる目的が①なのか?ということですよね。イギリスでモノをつくってEUに運んで売ることを考える場合には、EU離脱は大いに問題になりえます。特に、これから始まる自由貿易交渉がうまくいかなかった場合はそうです。また、金融も同じですね。ロンドンのシティで人を採用して、EU中にサービスを提供する、というのができなくなるかもしれない、困る、というわけです。

しかし、上述のテクノロジー企業がイギリスに投資するにあたって彼らが重視しているのは、EU市場へのアクセスなどではなく、高スキル人材の調達のしやすさだと思われます。例えば、Facebookはロンドンの拠点拡大の目的を以下のように説明してます。

“Many of those new roles will be high-skilled engineering jobs as the UK is home to our largest engineering base outside of the US,” said Ms Mendelsohn, who is vice-president for Europe, the Middle East and Africa at Facebook.(BBCより引用

イギリスはソフトウェアの開発拠点であり、ハイスキルのエンジニアを採用するという話です。同様に、Googleも投資にあたって以下のように述べています。

“We see big opportunities here. This is a big commitment from us – we have some of the best talent in the world in the UK and to be able to build great products from here sets us up well for the long term.”

“The innovation we see here, the talent we have available here and how on the cutting edge of technology we are able to be here makes it an incredible place for us to invest,” he said.(BBCより引用

やはり、イギリスの人材(Talent)が大きなポイントとなっています。ここからは、イギリスのハイスキル人材を獲得し、世界に向けたサービス開発の拠点として活かしていこう、という方針が見えてきます。上記の海外進出目的でいえば、④知的資源へのアクセスが目的、というわけです。

冒頭で挙げたAppleやGoogle, IBM, Facebook, Deliverooは、いずれも製造業でも金融でもありません。ウェブ上で提供できるサービスは世界中どこにいても提供できるわけですし、それを支える技術の開発もどこでやってもいい。そのための人材がいるか、イノベーティブな人たちのネットワークがあるか、が大事なわけです。このように、距離や規制に関係なくどこにでもサービスを提供できる立場から考えれば、イギリスがEUの単一市場の一部だということは、イギリスに投資するメリットには殆どなりません。逆に言えば、イギリスがEUから出てもあんまりデメリットはないはずです。

考えてみればARMについても同じで、彼らは半導体の設計を中心に開発機能に特化した企業で、製造は自分でやってません。開発した技術をライセンスとして他社に提供することで稼ぐ会社です。イギリス(や世界各地)の拠点で開発した知的資産(IP)は、世界のお客さんに提供されるわけで。おそらくイギリスにある拠点の中で、EUの市場にサービスを提供するための機能は営業などの一部機能に限られると思われます。どのみち、営業機能はEU内と言ってもイギリスに集約するより各国においたほうが効率良いかもしれませんしね。

さらにこの考えを推し進めると、日本企業の中でもイギリスに製造拠点を置いてEU内市場に輸出をしている場合は別ですが、それ以外の、「イギリスにヨーロッパ向けの開発拠点はおいているけども製造自体は東欧でやっている」とか、「イギリスに欧州・中東・アフリカの統括機能をおいているけれども、製造は東南アジア、販売は欧州の各国」みたいなパターンの企業は、Brexitによるマイナスの影響がものすごくあるのか?というと僕には正直、思いつきません。実際、イギリスにいる日系製造業の方と話していても、「製造と物流の機能はイギリスには置いてないんで、とくに影響ないんと思うんですよ」みたいな話は少なからず聞きますし。統括機能に関しては、開発の話と少し観点がかわりますが、税制が有利、各国への航空アクセスが充実してる、関連するプロフェッショナルサービスにアクセスしやすい(例えば会計事務所や法律事務所、コンサルティング、金融サービスなど)、英語で高度なスキルの人材が採用しやすい、統括する先との時差が少ない(欧州で中東やアフリカを統括するのは、旧植民地のつながりに加えて、これが大きな要素ですよね)みたいな条件がロケーションの選択の肝になりそうで、だとすれば、EUへの市場アクセスが大きく影響するとは思いにくいわけです。

と、いうことで話をまとめると、EU離脱によって問題が出るかもしれないのは、あくまでもEUを拡大国内市場と見て、そこに売るためモノを製造したり、金融サービスを提供する拠点としてイギリスに進出する、という話であって、EUに限らず世界を市場と見て、そのための独自の知的資産(例えば技術)を獲得、創出するためにイギリスに進出する、あるいは、グローバル(あるいは特定地域の)経営を統括する拠点として進出する、という話には殆ど関係がないはずです。むしろ、産業クラスターの形成が進んでいるか、といった、イギリスの独自性に関わる条件のほうがよほど重要ではないかと。

そして、Brexitによってイギリスは、産業や地域ごとに独自の税制や産業振興策をEUから離れて行うフリーハンドを得ますし、もともと世界で有数の大学が沢山ある国ですから、この手の知的付加価値の高い産業・機能を意図的に増やしていく動きが増えるのでは?と僕は推測しています。また、EUからの移民を制限する一方で、高スキルの労働者を歓迎することを一貫して変えない移民政策も、この方向性と合致してますしね。もちろん、これによってイギリス経済全体が幸せになれるのかは僕には確信が持てませんが(特に、金融でヨーロッパとの関係がどうなるか、はシティのイギリス経済における存在感を考えると気になるところです)、知識化・グローバル化する世界を前提にすると、非常に興味深い試みだなあ、と思います。(特に、Brexitに投票したロンドン以外のイングランドの人たちが、これによって幸せになれるのか?については、かなり疑問も多いのですが、それはまた別の議論ということで)。

研究においてもやはり「職場の雑談」は必要だ。

今週2本目の投稿だ。ここ数週間、根を詰めてやっていた論文がひと段落ついたので、なんとなく気が抜けている。ブログもさぼり気味だったので、ここらで書き溜めておこう、という魂胆である。

さて、今週は生徒のエッセーの採点をして、フィードバックを書いていた。要するに小論文だ。LSEは生徒の評価は多くの場合、エッセーと試験、あとはグループワーク(これも結局はグループでエッセーを書くのだが)で行われる。今回のものは、Formative Assessmentと言って、正式に評価には反映されない、練習として行うものだが、それだけ、真面目に出してきた学生には、ちゃんとフィードバックをしなければいけない。

と、いうわけで、PhD学生の研究室に詰めて、地道にエッセーを読んではコメントを書き、採点基準とかを参考にしつつ点数をつける、というのを週の中頃からずーっとやっていた。諸々他のミーティングなども結構あって、結果的に、久しぶりに研究室に1週間、ほぼ毎日通って、朝からずーっといる、という生活になった。

それで気づいたのが、職場の価値だ。やはり、職場にいると、雑談するのである。

基本的に、うちのPhD生は自分の研究テーマを抱えていて、それを仕上げることに向かっているので、あんまり共同で取り組むこと、というのはない(一人の研究者の指揮下で動いている理系の研究室と違って、全然違うことをやっているPhD生が部屋を共有しているだけ)。

なので、元気?くらいの声をかけるくらいが、通常は関の山である。うちの学部のカラーかもしれないが、しーん、としたオフィスで、皆んなが個人の作業をしている、というのが僕がPhDを始めてからの基本的な風景であった。

今週、研究室には、もう一人、カナダ人の4年生のPhDがずーっと詰めていた。他のメンバーもたまーに現れるが、基本は朝から夕方まで僕と彼女の二人である。そうすると、当たり前だが、ちょこちょこ、雑談する。テーマは授業のことや、それぞれの研究のこと、また、今後のキャリアのことなど、いろいろである。

そして、週の後半に向かうにつれて、僕と彼女の間で、それぞれの仕事をやりつつ、時々真面目に雑談するというのが普通になった。

そうすると、次は他の人にそれが波及する。

木曜日の午後のことだ。

後輩が指導教官とのミーティングから帰ってきて、明らかにへこたれている。どうやら、かなりやられたらしい。そこで、なんとなく「大丈夫かー?」と僕が声をかける、そして、そこからリサーチモデルについてのちょっとしたお悩み相談が始まり、その後輩の研究テーマと若干重なる領域をやっている4年生の彼女も絡んで、フリップチャートに図を描いてああでもないこうでもない、という会話がしばし続いた。

そして、金曜日の午後には、へこたれていた後輩がその議論をベースにリサーチモデルを作り直してリベンジした。そして、見事、指導教官から、「これはいいじゃない!」という絶賛のフィードバックを勝ち取ったのである。

その指導教官のキャラを考えると、これは滅多にないことで、僕も4年生の彼女と一緒にその後輩の成果を喜んで、実にご機嫌な金曜日になったのであった。

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まあ、会社であれば当たり前の光景だが、やはり、ちょっとした雑談が出来る環境がやっぱり、知的生産性という観点では、大事だ。

個別のテーマを追っかけているとはいえ、一人で考えても思いつくことはたかが知れている。やっぱり他人に話してみて、キャッチボールをすることが大事な場面が結構あるのだと思う。

そして、その結果、生まれた成果を互いに喜ぶ、というのも大事なことだ。ポジティブな感情は、クリエイティビティに繋がりやすいし、精神衛生上もいい。孤独にトピックに向き合うPhDはストレスもたまりやすい。

残念ながら、こういう会話がうちの研究室には、殆どなかったのである。先輩たちに聞いても、何年も前からそうだったらしい。率直に言って、リサーチ環境としても、学びの場としても全然ダメである。

この辺り、学部の教授の皆さんと、先輩諸氏は、一体どうお考えなのか、多少疑問に感じるところである。組織論を勉強してたら、当たり前のことだと思うのだけど。やはり、わかるのと、出来るのは違う、ということか。

この辺り、なんとか変えたいとずっと思っていたのだが、今週はなんとなく、その糸口をつかんだような気がする。やはり、ある程度、まとめて職場にいることが、そうは言っても大事なのかもしれない。

「国立競技場のドタバタを批判する」ことを批判的に考察する。

新国立競技場でまた問題が生じたようだ。

新国立競技場、聖火台の置き場なし 「要望聞いていない」とJSC (ハフィントンポスト日本版)

ここまでくると、ドタバタ劇として面白くなってきた。不謹慎って言われるかもしれないけども。

しかし、一歩引いて考えると、このことは大事な示唆があるようにも思う。

日本では一般的に「ものごとが細部まできっちり計算されて、漏れがないこと」が尊重される。それが高品質とか信頼性、といった評価につながっている。イギリスに住んでみて、様々な国から来た人と接する中で、相変わらず日本製品の品質や信頼性は尊敬されているし、自分の実感としても、日本のものは安心だ、と思う。

この背景には、文化論でよく知られているホフステッドの枠組みで考えると、「不確実性の回避」傾向が日本では強いことがあるのだろう。日本人は、相対的に見ると、不確実なこと、予期せぬことが起きることを許容できる程度が低く、見通しが立つことが好きなのだ。

しかし反面、こうした価値観の逆作用としては、意思決定に多くの人が関わり、慎重に検討が行われるため、逆にスピード感がないとか、大胆な変化が出来ないっといったことにもつながっている。このことを、海外や外資系企業で働いた経験のある人が、「だから日本企業はダメだ」的な論調で批判して語っていることも目にする。

本件、そのあたりを批判している人たちはどう見るのだろうか。

僕は、日本の高品質や信頼は素晴らしいと思う反面、意思決定に時間がすごくかかることや、大胆さにかけるところは変わった方がいいと思っている。

だから、個人的には、本件についても、みんなで不具合を見つけて、ドンドン機動的に修正して行って、結果的に上手くいけばいいんじゃないの?と思う。もちろん、想定外のお金が消費されてるとか、期日に間に合わないかも、みたいなことは全然ダメだけど。途中で変更すること、ミスが見つかること自体を批判するのはイマイチだと思う。

見落としがありました、変更します、を批判しすぎることは、意思決定をする人を萎縮させるし、結果的に、総花的で面白くない意思決定につながる仕組みを再生産するだけだ。

素早く、多くの要素をもれがないようにチェックして、その上で、大胆な意思決定をする、なんてことができるとすれば、それはスーパーマンだ。そして、社会に生きるほとんどの人はスーパーマンではない。

他人の意思決定に完璧を求めると、それはブーメランのように僕たち自身を縛ってしまう。そして、結果的に、みんなで慎重に判断する文化は変化しないだろう。

日本の社会を、機敏で、大胆に変化する社会になってほしい、と願うのであれば、本件のドタバタ(そのもの)を批判しすぎるのは止めたらどうか。繰り返しになるが、予算の超過や期日に間に合わない、ことは問題にしていいし、すべきだと思う。しかし、不具合が途中でてくること自体を批判するのとは、別の話だ。

グローバル経営における、意思決定の現地化を促すもの。

グローバル経営において、意思決定をどのように本社と現地拠点のあいだで行うのが良いのか、というのは、古くて新しい問いだ。国際経営論においても、何十年も議論が続いているテーマである。

先日、このテーマに関して、日本企業のロンドンの拠点に赴任している方々とパネルディスカッションをする機会があった。イギリスにおいてもおそらく誰もが知っている日本を代表する製造業で、ヨーロッパ/イギリスにおけるマーケティング、営業活動に関わっている皆さんだ。私は、交通整理役として最初にフレームワークを提示し、問いを投げかける役割をやらせていただいた。

各社において、本社と海外拠点とのあいだでどのように意思決定を行っているのか、今後、グローバル経営における意思決定のあり方をどのようにして行こうとしているのか、を伺いつつ、何がその背景にあるのか、について議論した。議論からの示唆は大きく4つだ。

  1. 対法人向けビジネスでは、現地で意思決定をする必要性が高い。個別の顧客への対応や、個別市場にどのようにアプローチするのか、といった戦術的なレベルを超えて、中期的な製品やソリューションの開発方針といった事業戦略に近いレベルまで、現地に近いところに意思決定を分散する、あるいはその企業にとってのメイン市場(例えば欧州)に意思決定拠点を日本から移すことが必要となっている。顧客課題に地域性があり、その情報を効果的に集め、それに対する製品・ソリューションをスピーディに提供する、現地に根づいて長期的ビジネスをやっていく覚悟がある、という姿勢を現地の企業から認められないと、現地の競合に勝てないためだ。
  2. この傾向は、製品・ソリューションににおけるソフトウェアのウェイトが高まることで加速している。アジャイル開発、スクラム開発などの手法の発展によって、新たな仕様を実装、提供するサイクルが短期化したためだ。この結果、ヨーロッパから日本本社に諮り、意思決定をして、というスピードでは追いつかなくなっている。特に、日本本社の意思決定に時間がかかることが障害となっている。ハードウェアのウェイトが高い時代は、開発サイクルが長かったため、本社の意思決定スピードが制約になることが相対的に少なかったが、ソフトウェア比重が高くなることで、日本本社の意思決定は遅すぎる、という問題意識が(海外拠点においては)高まっている。
  3. 一方逆に、消費者向けの家電ビジネスでは、グローバルに統括管理をする重要性が相対的に高い。今回の議論で語られた最大の懸念は価格政策である(これは恐らくパネルメンバーがマーケティング畑の業務に現在関わっておられるということも一因かと思う)。世界のどこからでも商品が流通するため、どこかで安安く売ると、それが他の地域に流入してしまう。販売拠点間、代理店間の価格の統制は、本社がグローバルで統括する必要がある。
  4. また、日本に技術的な強みの基盤が集中している場合、海外拠点に意思決定を大胆に移すことには躊躇が発生する。製品仕様など、意思決定にマーケティング上の見解だけでなく、技術的な知識、ノウハウの蓄積が必要となるからだ。より表層的な部分については意思決定を海外に移管、あるいは分散できても、製品、ソリューションのコア機能を担う部分については(当面は)日本で担う、あるいは関わる必要があるという見解が各社から聞かれた。ただし、逆に、海外で買収した企業が持っていた技術、ノウハウをコアに事業展開をする領域については、逆に海外に意思決定の機能を持っていくという判断が進みやすい。

1と3は市場特性、という観点でコインの裏表、と言っていいだろう。3で価格政策をグローバルに統括する必要があるのは、グローバルに共通の製品が通用する、という市場特性があるからだ。1は逆に、グローバルに共通の商品が通用しにくい、という特性が、意思決定の現地化を促している。

4は、自社のコア知識の源泉の立地と、事業戦略上の意思決定の立地を切り離しにくい、という話である。1や3における市場特性への注目とは異なり、ここでは自社内の強み(Firm Specific Advantage = FSA)に注目した議論だ。

ここで大事なのは、市場特性上、意思決定の分散化、あるいは日本から他の地域への移転が有効と考えらる場合であっても、知識はそれほど簡単に移転できない、という点だ。暗黙知も含めた深い知識の蓄積には、粘着性(stickiness)があり、蓄積された「場」から簡単には流れないという特性がある。インターネットで情報がやりとりされる時代になっても、シリコンバレーがイノベーションの源泉として機能し続けていること、物理的にそこに「いる」ことが、シリコンバレーに蓄積され、作り出される知識にアクセスする上で重要なことを見ても、物理的な場所に(広い意味での)知識が粘っこく蓄積されることは見て取れる。この例は企業や大学などをまたぐ、産業クラスターの話だが、企業内においても、知識には粘着性がある。

ここから考えると、海外拠点にそうした知識蓄積を行うには時間をかけて自社で行うか、既にある知識蓄積を買収するのが早い、という話になる。これは私見だが、そうした粘着性は恐らく日本企業においては特に高いかもしれない。日本人のコミュニケーションが一般的にハイコンテキストで、言葉で知識を明示的に伝える習慣が相対的に弱いからだ(逆に、空気を察する、という力が強いわけだが、それは文脈を共有していない人には通じない)。

個人的に最も面白いかったのは2だ。どんなビジネスにおいても意思決定のスピードは重要だが、扱っている商品、サービスによって自ずと「会社が持っている時計」のサイクルは違う。ハードウェアの開発のスピードと、日本企業の意思決定サイクル、スピードはそれなりに噛み合っていたのだろう。しかし、ソフトウェア依存の要素が増えた(逆に言えば、ソフトウェアを改めることで、ハードウェアはそのままでも提供価値を高めることができるようになった)ことで、これまで慣れ親しみ組織に根づいている「時計」よりも早いスピードで開発サイクルをまわすことが可能になり、その結果、海外拠点側の本社中心の意思決定に対するフラストレーションが生まれている。果たして、この「時計」のミスマッチの問題に、日本企業はどのように対応するのだろう。

Googleのイギリスへの納税問題に見る、多国籍企業に対する国家主権のささやか(?)な勝利。

BBCでは、Googleがイギリスの国税当局(HMRC)に1億3000万ポンドを収めることに合意したというニュースが今日のトップニュースだった。

Google agrees £130m UK tax deal with HMRC

背景をご存じない方のために多少補足をすると、このアクションは数年前から起きている、多国籍企業の節税、あるいは脱税(論者によってどう呼ぶかは結構まちまち)行為に対する批判に端を発している。

AmazonやGoogle、Starbucks Coffeeなどが、世界各国の税制優遇制度をうまく組み合わせて、イギリスなどの進出先国で大量の売り上げを上げておきながら、実質的に、現地の税金をほとんど払っていない、ということに対する批判である。

イギリスでは、財務大臣(Chancellor of the Exchequer)のGeorge Osborneが議会でイギリスでの活動に見合った税金を納めさせる!と大見得を切るなど、かなり大きなニュースになっていた。

こうした社会問題化を受けて、税務当局によってGoogleに対する監査が行われ、それに対して、Googleは、自分たちが脱税をしたということは認めないものの、ルールの変更に対応する、という名目で1億3000万ポンドを支払うことに合意した、というわけだ。

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これを、少し引いた目で見ると、国家主権と多国籍企業の間の綱引き、というふうに見える。

国家の側からすると、企業は雇用を生み出してくれたり、技術などを持ち込んでくれる存在であり、多国籍企業には自国に進出してほしい、という欲求が存在する。特に失業率が社会問題になりやすいヨーロッパの政治においては、雇用の創造は重要である。結果として、税制優遇などいろいろな方法を用いた、国間の多国籍企業の誘致競争が行われている。

こうした状況は、多国籍企業の側からすれば有利な状況である。彼らは国境を越えて活動を行い、様々な国の制度を自分たちに都合がいいように活用することができるからだ。国々を比較して、相対的に有利な条件を提供している国に拠点を動かす、あるいは、各国の税制をうまく利用して納税額を抑えたりすることができる。

その結果が、「イギリスで何億円もの収益を上げているにもかかわらず、実質的にイギリスでほとんど税金を払わない」といった現象だ。

しかし、このことは国家からすれば問題である。企業が活動する上では、その国の様々なインフラ、社会制度を活用している。例えば、その国の高等教育のおかげで優秀な人材を採用できる、あるいは、国が法制度を維持、整備してくれているおかげで、自分たちのビジネスを守ることができる、といったことだ。こうした社会的なインフラ、制度は公共財であり、その国に入れば自然と活用できるものだが、その維持には税金が使われている。イギリスで活動し、利益を上げているのに税金を払わない、ということはすなわち、そうした社会インフラ、制度にただ乗りしている、ということなのだ。

しかし、上述のように企業は国境を越えて活動できる、そして、各国が企業を惹きつけたいがために制度を利用しているだけである。企業の側からすると、「真っ当にルールに従っているだけだ」という正当化が可能なのも、また事実だ。今回の件で、Googleが自分たちは脱税をしていたわけではない、という立場を崩さないのも、こうした従来の主張と一貫している。

今回に関して言えば、イギリスの当局が結果的にGoogleに税金をイギリスに対して収めることに同意させた、というわけで、国家主権の側が多国籍企業に一矢報いた、と言えるだろう。ルールに従っている、という名目のもとで、ただ乗りするのは許さない、というわけだ。

しかし、国の側に、企業を惹きつけたい一方で、きちんと税金を取りたいという欲求があり、企業の側に、国境を越えて活動できるという自分たちの強みを生かして、少しでも自分たちに有利な条件でビジネスを行いたい、という欲求がある限り、この綱引きの構造は大きくは変わらないだろう。つまり、このニュースは、おそらく、国家主権と多国籍企業とのパワーゲームの一幕に過ぎない、ということだ。

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しかし、それにしてもGoogleが国税当局に対して支払いに応じたのはなぜだろうか?。今回の例でいえば、2005年からの6年間の活動に対応する税額だ、ということなので、昔やったことに対して、後から決めたルールを遡って適応して税金を支払う、という話である。「ルールの変更に対応している」と声明では言っているが、通常はルールは決めたらその時点から後のことに対して適応されるものだ。だから、法的な面だけ考えれば、Googleがこの額を支払う義務はないように見える。

ここのキーワードは、Legitimacy(正当性)ではないか。経営学には、「企業が社会で活動を続ける上では、実は法律を満たすだけでは不十分である。社会から、存在を認められ、正当な社会の一員として認められている必要がある」という考え方がある。CSRなどにも関連する概念である。

特に、この考え方は国際経営においては重要だ。なぜなら、外国企業は自国の企業よりも正当性が認められにくい傾向があるからだ。その国で労働者を惹きつけ、政府から許認可を得て、取引先を開拓し、ビジネスを育てていく上では、正当性を確保し、まともな企業である、というふうに見られることは、基盤と言っていい。正当性が認められないと、一つ一つの活動で相手から信用を獲得することにいちいちコストがかかる。

Googleは世界的に有名であり、その先進性も含めて一流の企業だと広く認知されている、と言っていいだろう。しかし、そうした企業であっても、進出先の国の政府や大衆から、「現地の税金を払わずに『ただ乗り』している」というふうに見られてしまうことは、正当性を損ない、目に見えないコストとして、将来に禍根を残すことになる。そうした判断があったのではないか。

また、もう一つ重要なのは、Googleが、「正しいことをする」ことを会社としての理念として掲げていることだ。何が正しいことなのか、というのは議論の余地があるが、進出先の国から「ただ乗り」として指を指されることは「正しいこと」ではない、というふうに感じる幹部や社員がいたとしてもおかしくない。社員に対して、経営層が自分たちの経営判断の「正当性」を示す、ということも、今回の経営判断の背景にはあるのかもしれない。理念として掲げた以上は、約束を守らないと、進出先の国だけではなく本国も含めた各地の従業員からもそっぽを向かれてしまうかもしれない、ということだ。

そういう意味では、Googleの側にとっても、今の社会の情勢を捉えた時に、自分たちにとって結果的に得なのはどういう風に振る舞うことなのか、ということを冷静に考えた上での意思決定であったように見える。まさに彼らが声明で述べている通り、法律だけではない、社会的な認知のあり方も含めた「ルールの変化」を捉えて対応した、ということだろう。

伝統は創造される。

先日、British Museum(大英博物館)でやっていた、Celt – Art and Identityという企画展に行ってきた。

皆さんは、”ケルト”についてどれくらいご存知だろうか?
展示によれば、最初はギリシャ人が自分たちの文化圏の外側の人々をΚελτοίと読んだのが、歴史上の初の記録らしい。フランスからドナウ川流域まで、かなり幅広い範囲の人たちがこの呼び名で呼ばれていた記録が残っており、明確に特定の民族集団を示す単語ではなかったようである。

ただし、文化の面で、ギリシャやローマに代表される地中海系の工芸品とは異なる系統の美意識を共通して持っていたようで、上の写真にもあるように、螺旋や円を強調した抽象性の強い様式が特徴的な工芸品が多数展示されていた。

この文化は、ローマ帝国の拡大による地中海文化のヨーロッパ全域への展開、また、その後のローマ帝国の崩壊などをへて、いろいろな文化と融合したりしていくのだが、ケルトという言葉自体は、一度完全に忘れられてしまう。

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しかし、面白いのはここからである。現代のイギリス周辺には、自分たちを「ケルト文化の継承者」として認識している人たちが一定数存在するのだ。アイルランド、スコットランド、マン島、(イングランド東部の)コーンウォール、(フランス北西部)のブリタニーなどに住んでいる人たちだ。

この人たちは、どうやって自分たちを「ケルト」だと認識するようになったのだろうか?

実は、この人たちは、遺伝的には共通の集団に属しているわけではなく、かなりバラバラな出自の遺伝集団であることがわかっている。そして、近代にある出来事が起きるまでは、それらの人たちを「ケルト文化群」と考える人もいなかったという。

しかし、これらの地域には、英語やフランス語とは違う、独自の言語が存在し、今でもかなりの人たちがその言語を使っている。そして、それらの言語の間にかなり共通性があることが近代になって言語学的に明らかになったのだ。

そして、それを明らかにした研究者が、ルネッサンス以降に再発見されたギリシャの文献をもとに、「ケルト語群」とこれらの言語を読んだことから、「ケルト」という民族意識の創造が始まる。

自分たちは、イングランド、フランスとは違う、独自の歴史を持つ集団なのだ、という自意識である。

心理学的に言えば、人は誰しも、自分について肯定的に考えたい、という欲求を持っている。そして、自分が属している集団が特別なのだ、価値があるのだ、と思うことは、そうした自己肯定感の礎になる。

ちょうどそれにタイミングを合わせるように、上述のような独自の美意識を持った工芸品がイングランドも含めた様々な場所で発掘され、その様式を模倣したアクセサリーなどが流行することで、「独自の文化を持っていた過去の民族集団がここにいたのだ」というロマンティックなイメージが「ケルト」という言葉に付加されていく。

そして、現在は、Celtic Nationsという言葉が存在する。

Wikipedia – Celtic Nations

ここでさすNationsという言葉は、実際に独立した国を必ずしも指すわけではなく(アイルランドはもちろん独立国だが)、上述の自分たちを「ケルト文化の継承者」と考えている人たちの住む地域を指している。

そして、それらの地域の人たちが集まって、「ケルトの文化」を祝うお祭りが様々に作り出され、実施されている。また、それらの地域間のラグビーリーグのような、スポーツのイベントも実施されている。それらの祭りに参加した人たちは、おそらく、ケルトの伝統を感じ、アイデンティティの一部として抱くようになるだろう。こうして、伝統は再創造され、継承されていく。

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この話は、民族集団としての自意識や、それを支える伝統は、実はかなり流動的なもので、社会的に創造され、維持されるものなのだ、ということを、実に分かりやすく示してくれる。

そういう意味で、今回の展示会は非常に良い機会だった。

我が身を振り返って考えれば、日本人、という自意識が本格的に確立されたのはおそらく明治維新前後だろう。もちろん、日本という国号自体は遥か昔に成立していたようだが、明治に入って標準語が作られ、新聞が広まり、共通の教育が行われるようになるまで、ほとんどの人は、「XX藩の人」あるいは「XX村の人」という自意識がアイデンティティの中核だったのではなかろうか。

日本という国自体は、世界で最も古い国として認識されているようだが、だからと言って、自分たちが今、伝統だと思っていることが、ずっと続いてきたとは限らない。また、人々がずっと、自分のことを日本人だと思って生きてきたわけでは、おそらくない。これからについても同じである。

国際比較調査にはご用心。

データを読み込み、理解する力は現代のビジネスにおいて重要な能力の一つと言っていいだろう。ビッグデータの様々なビジネス分野における活用や、データサイエンティストの活躍に見られるように、データドリブンのビジネス意思決定が広まっている。

昨日ちょうど出ていたニュース記事に、人事領域でのデータ活用についての記事があった。

TechCrunch – HR Technology Conferenceに見る人材領域イノベーションと日米温度差

表題の通り、日米での人事領域におけるデータ活用の違いについて語っているもので、内容自体は非常に興味深く読んだ。筆者が日本における人事領域でのテクノロジー活用の展開の遅さに警鐘を鳴らしていることは、筆者がまさに人事領域でのアプリケーションの提供をしていることを割り引いても、納得できる話だ。

新しいテクノロジーの導入に日本企業が慎重なことはこれまでにも様々な場で指摘されてきているので(例えば、ITメディア ー 日本人の生真面目さが企業をダメにする)、ここでもか、という印象である。

さて、しかしここで議論したいのはそこではない。筆者が記事の中で引用している日本企業におけるエンゲージメントの低さについての調査データだ。

エンゲージメントの高い社員は、比例してパフォーマンスが高くなると証明されているにも関わらず、アメリカ全体でエンゲージメントが高い社員は全体の三分の一以下に留まっているという。ちなみに日本はどうかというと、2013年のGallupの調査では7%とアメリカを大幅に下回る数字が出ている。調査会社により数字の違いはあるものの、Aon Hewittの調査でもダントツで世界最低水準となっている。

この手のデータはよく引用されており、日本の職場慣行について批判的に議論する上では使いやすいのだが、重大な落とし穴がある。実は、この手のサーベイ調査への回答の平均値を元に国際比較することには、かなり大きなハードルがある。

それは「項目の解釈」と「回答パターン」に関する問題だ。

事実を聞く質問(例えば、「あなたは通勤に何時間かけますか」)の場合は、世界中のどこで質問をしても、回答は比較的安定している。翻訳をしたとしても、質問が指し示す現象が劇的に変わることは無いし、事実を聞いているので、単純に事実を答えればいいからだ。この場合は、国際比較もしやすい。

それに対して、主観的な心理について聞く質問は、まったく違う問題を抱えている。まず、どんなに頑張って翻訳をしても、国、言語によって解釈に違いが生まれやすい。翻訳先の言語に、元の言葉の意味にちょうどぴったり対応する概念がない場合は特にそうだ。ここでいう、エンゲージメントはまさにそうだ。だからこそ、漢字やひらがなで表現できる日本語に翻訳がなされずに、そのままカタカナとして使われ続けている。もちろん、Gallupにせよ、 Aon Hewittにせよ、この問題は理解しており、慎重に翻訳をして、同じような意味の項目であることを担保していると思うが、それなりのチャレンジである、ということは改めて述べておきたい。

次に、よりこちらの方が大きな問題だが、国によってサーベイの回答パターンに違いがある。簡単に言えば、以下のような5段階の選択肢から、どれを選びやすいか、ということだ。

1. 全くそう思わない
2. あまりそう思わない
3. どちらとも言えない
4. そう思う
5. 全くそう思わない

日本人は相対的に見て、調査に回答する際に控えめに選択することが知られている。つまり、肯定的な回答をあまり選ばないのである。また、中庸な選択肢(この場合は3)を選びやすい傾向がある、と指摘する研究もある。

例えば、Anne-Wil Harzingは、様々な調査項目を含む、26カ国の調査データをもとにした分析で、各国の回答パターンについて報告している。肯定的な回答の選択率から否定的な回答の選択率を引いた値(相対的に肯定的に答えやすい度合いを示す)は、26か国中で日本が圧倒的に低い。

こうした、回答パターンの違いがあるため、エンゲージメントに関する調査回答の平均値に国間で差があったとしても、、果たしてその差違が、回答パターンの違いによるものなのか、それとも実際に感じていることが違うことによるものなのか、切り分けが難しいのである。データとして、日本人のエンゲージメントに対する回答が低いことは事実だとしても、それをすなわち「日本人はエンゲージしていない」と解釈するのは間違いかもしれない、ということだ。

まさに、冒頭の記事の筆者が書いている通り、データがReliable(信頼できる)かどうか、慎重に考える必要がある。特に、主観的な心理について聞く調査の回答についてはそうだ。そのまま文字通り国際比較をしても解釈をしてもいいのか、そうではないのか、用心した方が良い。