プレゼンテーションはコミュニケーション、といってもそれはどんなコミュニケーションなのか。

「プレゼンテーションはコミュニケーションだ」というのは、よく耳にするフレーズです。

プレゼンテーションは、聞き手に自分の考えを伝えるわけだから、コミュニケーションに決まってるじゃん、当然だよね、と思われるかもしれません。

しかし、コミュニケーションを「自分の考えを相手に伝えることだ」と捉える考え方こそが、世に数多ある「相手不在の一方通行の残念なプレゼン」の源泉なのではないか、と僕は思っています。

「プレゼンテーションはコミュニケーションだ」といっても、人によって、そもそもコミュニケーションってなんでしたっけ、というところの認識にずいぶん幅があるわけで。

最近、効果的なプレゼンと残念なプレゼンの違いの根底にあるのは、表面的なスキルの問題ではなくて、「コミュニケーションとは何か」に関する根本的な捉え方の違いなのではないか、と思う出来事が最近幾つかありまして。今日はその辺のことを、コミュニケーションに関する理論的な考察も交えて書こうと思います。

二つのコミュニケーション観

コミュニケーションを「自分の考えを相手に伝える」と捉える考え方は、コミュニケーション論における古典的なモデルである「土管(conduit) モデル」にピッタリ当てはまります。これは、コミュニケーションを、

  • 「話し手」が、自身の意図(伝えたいこと)をメッセージ媒体(話し言葉や書き言葉、ジェスチャー)に変換する
  • メッセージが「話し手」から「聞き手」に向かって伝達される
  • 「聞き手」は、受信したメッセージをもとに「話し手」の意図を解読する

という風にモデル化するものです。

このモデルによれば、コミュニケーションのゴールは、話し手の頭の中にある意図を、寸分たがわず、聞き手の頭の中に再現することです。そして、コミュニケーションの効率は、この変換、伝達、解読のプロセスで生じるエラー(誤解や見落とし)をどれだけ避けられるか、によって決まる、と考えます。「コミュニケーション=話し手と聞き手を繋ぐ土管」であり、それがいかにスムーズに流れるようにするか、という考え方ですね。

このモデルの源流は、もともとは通信技術や情報圧縮理論を専門とする工学系の研究者によって提唱されたShanon-Weber モデルという考え方にありまして、非常に工学的、機械的にコミュニケーションを捉える考え方です。

この考え方を極端に推し進めると、古典的な大学教授の授業になります。教授が一方的に自分の考えを話し、黒板に書き、それを生徒は黙って聞いてノートをとる、というあれです。当然、生徒は予備知識がなかったり、授業の中身に集中してなかったりしますから、聞き逃しや理解漏れが生じる。そうなると、試験の問題に答えられない。だから、「よくできたノート」をコピーしてその中身を暗記することが重要になるわけです。

組織の例としては、部下に自分の考えをとうとうと語る上司、というのは、こうした土管モデルでコミュニケーションを捉えている、と言えそうです。自分がしっかり考えを説明すれば、相手はそれを受け取れるはずだ、という思考です。

多くの家電製品やコンピューターのマニュアルも、土管モデルで設計されてますね。マニュアルを書くエンジニアが「知っている」ことを、いかにミスなく漏れなく「紙の上に書かれた図や文字」という媒体で伝達するか、に注力しているからです。頑張って作っているのはわかりますが、残念ながらあんまり読みたいと思えないし、頭に入ってこないですよね。

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この「土管モデル」が決定的に見落としているのは「聞き手」の主体的な関与です。

私たちは通常、人の話を聞いたときに、相手の意図をただ受け止めるわけではありません。むしろ、相手が言ったことを、自分の考えていることや知っていること、感じていることとつなぎ合わせたり、比較したりして、「相手が話したこと」を「自分なりの世界」の中に位置付けていきます。

例えば、「上海マジで暑い。死にそう」と僕がフェースブックに書き込んだとしたら、東京に住んでいる友人の多くは、「東京も今年は暑いんだよなー。上海もか」と頭の中で自分たちの日常を連想しながら読んで、頭の中で「上海も東京も今年は暑い」という風に変換するはずです。

それに対して、長年上海に住んでいる友人たちは、同じ投稿を読んでも、「いやいや、今年は結構マシだけどなあ」と、経験則に照らして僕の投稿を読み(実際、昨年、一昨年の方が暑かったそうです)、人によっては「そういえば吉川君、今年が上海で最初の夏だっけ?」と考えることもあるでしょう。

つまり、「聞き手」は、「話し手」の発信したメッセージ媒体(この例だとフェースブックの投稿」を受動的に受け取るだけではなく、自らの持っている知識や経験を元に主体的に考えるのです。聞き手が違えば、同じメッセージ媒体を受け取っても、そこから刺激されて考えること、その結果としての解釈は異なっているのです。

さらに言えば、「話し手」が「聞き手」の頭の中に起こした思考がレスポンスとして帰ってくることで、さらに「話し手」の頭の中でも思考が生じます。例えば、上述の僕のフェースブック上の書き込みに、上海の住人から「いや、今年はマシだよ」とコメントが入ったら、僕の現状に対する認識(=上海マジ暑い)が、新たな認識に変質するはずです(例えば、「もっと暑いこともあるってどーすりゃいいんだ・・・」とか)。

この点に注目すると、コミュニケーションとは「話し手」が、「聞き手」の頭の中の思考を促す刺激を発信する活動であり、複数の個人が互いに刺激しあい、新しい認識を形成していく活動、という風に捉えることができます。

このようにコミュニケーションをより動的、相互作用的に捉える考え方は、「constitutiveモデル」と呼ばれており(*)、古典的な「土管モデル」に代わって、コミュニケーション研究では徐々に重視されるようになってきています。

*英語の研究論文で使われている、”constituitive model of communication”をうまく翻訳する日本語が思いつかなかったので、そのままにしてます。

 

「プレゼンテーションはコミュニケーション」を「constituitiveモデル」で解釈する

冒頭で、


しかし、コミュニケーションを「自分の考えを相手に伝える」ことだ、と捉える考え方こそが、世に数多ある「相手不在の一方通行のプレゼン」の源泉だと僕は考えています。


と、書きました。

これは言い換えると、コミュニケーション=土管モデルでプレゼンテーションを考えるとろくなことが無い、ということです。

自分が考えたこと、言いたいことを、どれだけうまくスライドに落としこむか、ということを考えて行き着く先は、家電製品やコンピューターのマニュアルです。残念ながら、そういうプレゼンは世の中にたくさんありますよね。

これまでの経験から僕が大切だと考えているのは、「constitutitiveモデル」的に、「聞き手は自分の経験や知識をもとに自分で主体的に考える人たちなのである」というふうに捉え、彼らの思考をどのように刺激するか、に集中することです。

具体的には、

  • 「聞き手」はどんな人なのかを考える
  • 自分のプレゼンテーションを通じて、「聞き手」の頭の中でどういう思考を刺激したいのか考える
  • その刺激を起こすために、どんな素材を使って、どんな順番で何を話すといいか考える

ということですし、

  • 「聞き手」の頭の中で生じている思考をプレゼンテーションの途中で掴んで、それに応じてコミュニケーションを調整するための準備をする

ということです。

「聞き手」を想定することが重要なのは、聞き手によって、「知っていること/知らないこと」「当たり前だと思っていること」「興味があること」が違うからです。人間は考えるときには、(無意識に)様々な前提をおいて考えているので、前提を揃えないと、話し手と聞き手の間で思考が噛み合いません。

また、人の話を聞いて考えることは、エネルギーを必要とする活動ですから、ちゃんと動機付けをする必要があります。「この話は自分にとって価値がある話だ」ということをどうやって感じてもらうか、ということです。

あとは、よく語られることですが、スライドを文字でぎゅうぎゅう詰めにすると、聞き手は考えられません。複雑な図やグラフ、表も同じです。むしろ、経験則的には「スカスカ」のスライドを適宜はさみこみ、じっくりとお話をする方がいいようです。スライド上で全部説明しないほうが、むしろ聞き手は自分で頭を使うということではないかと。

結局のところ、「constituitiveモデル」的に考えると、プレゼンテーションの成果は、「自分の考えをどれだけ表現できたか」ではなく、「相手の思考をどれだけ刺激できたか」「その結果として、どれだけ、新しい認識を作り出せたか」です。なので、「自分の考えをどう伝えるか」ではなく、「相手にどう思考を促すか」という観点で考えるのが、プレゼンテーションの準備で重要だ、ということになります。

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そして、「聞き手」の頭の中で生じている思考を掴むためには、「聞き手を見る」ことが重要です。プレゼン中にスライドや手元の資料を読んで喋るのは、聞き手を見ることができなくなりますから問題外です(加えて、自信がなさそうに見えますしね)。

なので、「聞き手を見る」ためには準備が必要です。スライドがなくても全部お話ができるようにリハーサルを徹底的にやって、さらに、聞き手から出そうな反応や疑問、理解が詰まりそうなポイントについてあれこれ頭の中で思考実験をすることです。そうすれば、話しながらスライドを見る必要がなく、聞き手をじっくり観察して、反応があるかどうか確認しながらお話できますし、質問が出たらそれに合わせて軌道修正できる。

また、「問いかけ」を投げかけるのも一つの方法です。スライドに最初から「質問」を埋め込んでおいてもいいし、「どうかな?」と感じたら、話を止めて「どう思います?」と聞いてしまえばいいのです。これも、余裕がないとできませんから、準備が大事です。古い言葉で、「段取り八分、仕事は二分」というのがありますが、まさにプレゼンテーションでも同じではないかと。繰り返しになりますが、相手に目を向けるためには、自分の準備が十分にできていることが重要だ、というわけです。

 

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経営・組織理論を考える(4)心理的契約 と契約違反

社会交換理論の基本的な考え方については何度かご紹介しました。

世の中は交換で回っている。

経営/組織理論を考える(2)社会的交換理論 (social exchange theory)

一言でまとめると、上司と部下、社員と組織、社員同士、営業担当と顧客など、様々な関係において「一方が、何かを相手のためにおこなう(give)と、相手から恩返しが帰ってくる(take)」というお話でした。

こうした交換のベースが成り立つためには、一定の期待が必要です。「相手に何かをすれば、それなりにちゃんと帰ってくるだろう」というものです。これには二つの要素があります。一つは「人間や人間の集団はそもそもそういう風に振る舞うものだ」という普遍的な期待(個人の信念、と言ってもいいですね)。もう一つは、「この人(あるいは、この組織)は、こういう風に振る舞うだろう」という個別の人や組織に対する期待(信頼、と言ってもいいでしょう)です。そうした期待がないと、明確な見返りを約束されでもしない限り、相手にgiveをすることは割が合いません。

ここで浮かんでくる問いは、「では、その期待を裏切ると何が起きるのか?」ということです。

本稿では、社会的交換理論をベースに発展した「心理的契約」という概念をもとにこの点について考えます。

組織と個人の間には、「暗黙の心理的な契約」があると考えられています。従業員が組織に対して、「会社は自分をこういうふうに扱ってくれるだろう」というふうに期待する一方で、「自分は会社に対してこういうふうに貢献しなければいけない」というふうに自分の責務を感じるのです。

具体的に言えば、正社員の場合であれば、「ある程度頑張れば、自分の頑張りを認めてくれて、昇給や昇進の機会を会社は与えてくれるはずだ」とか、「自分の能力を最大限発揮できるよう、研修や配属を通して、適切な機会を与えてくれるはずだ」「この会社にいれば、一人前の社会人として恥ずかしくない収入や地位が得られるだろう」「◯歳くらいまでには年収はXXXX万円くらいにはなるだろう」などを期待するわけです。

逆に、「残業はある程度やらないとダメだよな」とか、「転勤の辞令がでたら、会社の一員として、世界中どこでもいくんだ」、さらには「早く一人前になって上司のサポートがなくてもちゃんと仕事ができるようにならないと」「会社の名前に傷がつくようなことはできない」など、様々な「社員としての義務」を感じるわけです。

こうした「契約」は、職務定義書や、雇用契約書に言葉として書いてある範囲を超えた、暗黙的なもので、いわゆる法的にサインをするような「契約」とは別のものです。採用段階でのリクルーターや人事との会話や、入社後の上司や先輩との会話、周囲を観察することを通じて、徐々に形成されるもの、と考えられています。日本の場合は、職務定義書や雇用契約が存在しない場合が多いですから心理的契約が雇用関係において果たす役割は大きいと考えられますが、欧米の研究でも、こうした、必ずしも書面に基づかない暗黙的な心理的契約が存在することが確認されています。

企業によって、組織が従業員に約束すること、期待することは異なります。コンサルタントとして、私は幾つかの企業の「人材マネジメントポリシー」の作成に携わりましたが、各社の経営者の従業員に対する考えというのは似ているようで微妙に異なっていて、それをどのように言葉で表現し、伝えるのかに頭を捻ったものでした。

ただ、上で述べた通り、個人が感じる社会的契約は、あくまでもリクルーティングや入社後の受け入れ研修、上司や同僚との関わりを通じて形成されるものです。経営層が考える「自社として約束したいこと」「期待すること」が必ずしも従業員にそのまま共有されるとは限りません。

組織としてのポリシーが様々な人事制度や仕組みに反映され、人事や管理職が同じような認識を持つようになってはじめて、共通の期待が形成されていくようになるのです。逆に言えば、同じ会社の中にあっても、個人によって認識している心理的契約には違いがあるのが自然な状態だ、と言えます。

組織が従業員との「約束」を裏切るとき

このように、心理的契約はその名の通り、個人の心の中に存在するものです。そして、ときに、個人は組織の「裏切り」を経験することになります。

例をあげればキリがありません。

 

  • 若手にどんどん機会を与える社風だ、と言われていたのに、入ってみたらオペレーションの仕事ばかりで全然チャレンジの機会がない
  • 長く勤められるという安定的な雇用だと思って働いてきたのに、経営不振から突然リストラが始まった
  • 女性活躍を支援する制度が充実している、と言われて入社したのに、先輩女性社員は産休・育休後に復帰するとマミートラックに配属されていて、意欲を失っている
  • 3年間現場を経験したら本社で企画の仕事ができる、と期待していたのに、5年目の異動でも現場から脱出できなかった

本人にとっては、「こういう機会、支援が組織から得られるはずだ」と思い、「その期待と引き換えにその組織に入社し、頑張ってきた」わけですが、その「得られるはず」のものが得られないために、「裏切られた」と感じるわけです。

こうした機会や支援、といった要素以外にも「約束」の裏切りは生じます。例えば、

  • テクノロジーを通じて社会正義を実現することにコミットしている会社だと思って入社したのに、軍と契約して自分たちが開発したテクノロジーを軍事目的に転用を始めた

みたいなケースです。最近、GoogleがAIをめぐって米軍と契約していたことに従業員が反発している、というニュースがありましたが、当事者の従業員はこういう心理ではないかと推測します。

このように、組織としての理念に共感して入社したのに、組織が理念に反するような行動をとった、というのも心理的契約違反になります。本人にとっては、「理念の実現に向けた大きな活動の一部」に自分はなれる、と思っていたのに、そうではなかった、「裏切られた!」というわけです。

こうした「裏切り」を、学術的には心理的契約違反と呼びます。こうした「裏切り」が個人に及ぼす影響については、組織研究者によって様々な研究が行われています。本稿の最後では、この点について議論します。

 

心理的契約違反(=裏切り)は個人にどんな影響を及ぼすか

この問いに対する自然な仮説は、心理的契約違反は個人の組織に対するネガティブな態度や、行動につながるのではないか?ということですよね。しかし、研究からは、「態度」についてはその通りなのですが、「行動」に関しては必ずしもそうではない、ということが示されています。

「態度」に関するわかりやすい例としては、組織に対する「愛着的なコミットメント」が低下し、「離職意向」が上昇します。この会社が好きだからこの組織のために頑張りたい、という気持ちが減り、「転職したい」という気持ちが高まるというわけです。

しかし、一方で、こうしたことが、そのまま組織に対するサボタージュや、実際の転職につながるかというと、そうでもありません。実証研究からの証拠を見る限り、「気持ちは下がるけど、行動までには至らないことも多い」というのが、せいぜいです。

この「行動には至らないことも多い」理由としては幾つかの説明が提唱されています。

まずは、「思い通りにいかないことがあったとしても、人は働いて、食べていかないといけない」ということです。組織が自分の期待通りに自分を扱ってくれないとしても、職場における自分の役割や責任は存在し、顧客の期待があり、給与をもらわないと自分は生きていけない。そうした意味で、多少心理的に組織に対してネガティブになることがあるとしても、行動までには直接至りにくいのではないか、ということです。

当然、ここからはさらに、「心理的契約違反が繰り返し続くと、行動に影響が出ることはあるのか」「どんな心理的契約違反だったら、行動に影響が出やすいのか」「人によって心理的契約違反が行動に影響するつながりやすいさの違いはあるのか」といった様々な問いが考えられ、それを世界中の研究者が色々と掘り下げているわけですが、そこについては、本稿では割愛します。

次が、そもそも、心理的契約違反は組織と個人の間での互いの期待値調整のプロセスなのだ、という考え方です。この考え方に則ると、「こんなはずじゃなかった」が起きるのは当然のことで、個人の側はそれを受けて、「そうか、この会社はこういう会社なのね」と期待値を調整するものだ、ということになります。

上で述べた通り、心理的契約は採用や最初の上司や同僚とのコミュニケーションで形成するものですし、あくまでも個人が勝手に心の中で作り上げるものです。ですから、経営者が本当に約束しようと思っていることとズレが生じるのは自然なこと、と言えます。また、上記のリストラの例のように、経営状況の変化から約束を作り直さなければならなくなる、というのも普通のことです。例えば、

  • 日本企業に入社して、日本で働いてくつもりだったのに、海外企業と合併して、外国人が自分の上司になった。英語で外国人と働くなんて、自分は期待してなかったのに・・・

みたいなケースは、個人が何を期待していようが、期待値調整をせざるをえない状況です。

この立場にたつと、心理的契約違反は必ずしもネガティブなものではなく、個人に適応の機会を提供する学びのチャンス、という風に捉えることもできます。もちろん、求められる程度が大きい場合には適応しきれない、ということも起こるはずですし、個人差もあるでしょう。

「心理的契約違反」という風に呼ぶと、人事、組織運営上、避けるべきもの、という風に考えてしまいがちです。しかし、これらの議論からの重要な示唆は、「心理的契約違反」は必ずしも「避けるべきもの」ではない、ということです。

当然、採用時点で嘘をついて、結果的に「裏切られた」と思わせることには百害あって一利なしです。

しかし、コミュニケーションには限界があること、また、組織が変化しなければならない場面があることを考えると、従業員が心理的に「裏切られた」と感じることはある程度、避けられない。だとすれば、そのあとの適応をどうやってうまく促すか、こそが問題だ、ということになります。

日本の経営学のPhD(博士) 課程が中国の中核大学のそれに国際化で置いてけぼりにされつつあるということについて。

最近、中国と日本の大学における博士課程(PhDコース)について色々と知ったり考える機会がありました。昨日まで出席していた国際学会(Academy of International Business)に来られていた日本の若手研究者と日本の研究環境や博士課程の学生の活動について色々話をしたのですが、それと、僕が所属する学部(安泰経済与管理学院の組織管理学部)や、北京大学のビジネススクール(光華管理学院)についての僕の知識を比較すると、一つの観測が浮き上がってきます。

それは、中国の中核大学の博士課程は急速に国際化しつつあるのに対して、日本の経営学部・ビジネススクールの博士課程は、国際化に関しては完全に周回遅れになっているのでは?ということです。ニュースメディアで「中国の大学に国際競争力で抜かれる」と言うトーンの議論を見ますが、経営学に関しては残念ながら「どうやって追いつくか」という話であります。そして、かなり学べることがあるとも思いますので、本稿ではそれをまとめようかと。

<2018-07-03追記>結果的にかなり長くなりましたので、結論の日本の大学への示唆をコピペしときます。

国際的に発信できる教員を集めて、後進を育成する体制が整えるには、次の二つが肝ではないか、と言う提言です。

  • 何はともあれ安定的な資金の確保が必要(それがないと国際的に発信できる研究者を雇用できないし、博士課程の学生が国際学会に出るのを支援するための予算もない)
  • 国際的に活動できる研究者を確保、育成する組織環境を作り出すには、制度面、風土面での改革が必須(大学教員の人事複線化など)

国際化すればいいってものじゃない、と言う意見もあろうかと思いますので、研究の国際化についての僕の意見を最初に述べておくと、「各国においてそれぞれの独自の研究がおこなわれていることには価値がある。でも、それを互いに発信しあい、学び合うことで知が深まることにも価値がある。」ということです。日本には日本の独自の社会環境があり、ビジネスのあり方があるのでそれに関する知見を深めることはとても重要です。ただ、それを世界の他の人が知らなかったら、日本で行われている研究の、世界の「経営の知」に対する影響力は小さい。海外の文献から学ぶだけじゃなくて、海外の研究者に「日本あるいは日本企業という、ある種得意なサンプル」あるいは「日本的なものの考え方」から得られた知見を学ぶ機会を提供してあげないのは勿体無い、と思うわけです。

なので、博士課程において「国際的な学術的な会話に参加できる研究者を育てられているか」というのは、日本の大学について語る上で重要な観点だと僕は考えます。

ここで言っている「国際的な学術的な会話に参加できる」というのはつまり、北米を中心にした研究の世界のお作法にそって発信する、と言うことにです。北米の研究のヘゲモニー(覇権)は社会的現実として存在するので、まずは相手のルールで会話をしないとそもそも土俵に登れない。なので、まずはそこでの土俵に立って、相手がわかるような言い方で「いやいや、北米じゃないものの見方だって研究的に面白いのよ」と言えばいいんじゃない、というのが僕のスタンスです。

で、これまでにいろいろな国の研究者と話した中から僕が見るところ、博士過程の国際化を考える上での大きくポイントは2つ。

  1. 博士課程に在籍している学生の研究アウトプット
  2. 博士過程を終えた学生がどこに就職するか

1つ目は要するに、博士課程の学生が有力な国際学術誌に論文を発表してるか、ということです。個人で書くというよりも、指導教官や他の大学の研究者との協業で行うのが一般的ですが。「論文を発表している」ということは、一定の研究や協業のスキル、また、研究者としてのネットワークを構築できているということを間接的に示しています。

論文を発表するには数年かかることも珍しくないので、博士課程の4年間なり6年間に成果をあげるというのはかなり厳しい目標です。特にトップランクの学術誌に掲載されるというのは、かなりな狭き門であります。ですから、「所属学生がそれを実現できる」=「所属学生を難しい成果の達成に向けて組織的に後押しする環境が整っている」ということで、博士課程の国際的な競争力の指標になるわけです。

ちなみに、日本の大学の経営学の博士課程の学生が国際的な有力学術誌に論文を発表した、と言う話はついぞ聞きませんが、中国の大学(特に北京大学ですね)の博士課程からは、そうした例が出始めています。

2つ目は、卒業生がどんな大学に就職するか、という話です。以前にも書きましたが博士過程を終えた後のアカデミックポストの就職は世界的に大変な激戦でありまして、そこで卒業生が「国際的に研究競争力の高い大学に就職できるかどうか」というのは、博士課程の質を見る上で重要な観点になります。

この話が1つ目と密接に関わるのは、結局、1の成果を上げている人材は、採用市場でも競争力があるからです。研究に強い大学は、研究で成果を上げられる研究者を採用したいので、当たり前です。

この分野では、北米(アメリカおよびカナダ)の研究大学の競争力がかなり強力です。北米でトレーニングを受けた博士がいろんなところに就職している(日本でも、アメリカなどで博士をとって日本の大学に戻られている研究者は結構いますよね)反面、それ以外の地域、例えばヨーロッパやアジアで博士過程を卒業して、北米に就職したというケースは限られている。

僕は、これは好ましい状況ではないと思っています。なぜならば、北米でトレーニングされた研究者が世界中に就職する、ということはつまり、北米の研究のスタイル、物の見方を世界中に輸出している、ということに他ならないからです。そう考えると、アジア圏の大学が上記の二つ(アウトプットと就職)の点で、国際的な競争力をつけた方が、世界の知は前進するはずです。

中国のトップ大学の最近の状況

こうした中で、中国は北京大学を中心に成果を上げつつあります。上述の通り、博士課程在籍中に世界的な学術誌に論文を発表する学生が出てきており、その結果として、彼らが北米やイギリスのリサーチ大学から採用されるようになってきているのです。(とはいえ、北京大学の光華ビジネススクールがやはり一歩抜けていて、上海交通大学や他の中核大学はそれに追いつこうと努力している、という状況のようですが・・・)

こうした成果を上げるに向けて中国の中核大学がやっている努力を整理すると、

  • トップ学術誌にガンガン論文を発表できるベテラン、中堅、若手研究者を揃えている。そういう人から、指導を受けることで、博士課程の学生に国際的に通用する技術や構えが身につく。
  • 国内外から優秀な研究者や、学術誌のエディター(投稿された論文の審査プロセスを管理し、掲載の判断をする人たち)を招いて、博士学生が彼らから学べる機会を作る。
  • 早い段階から、世界的な学術誌に論文を発表することを目標にした意識付けをし、国際学会に出て行く機会を作り、英語で発表する訓練をする

1つ目に関しては、過去10年ほどの間に、中国の中核大学の経営学部・ビジネススクールが、すでに活躍しているベテラン中国人研究者を引っ張ってくる、あるいは、新たに博士課程を卒業した有力な中国からの留学生を採用するということに取り組んできた成果と言えるでしょう(中国人に限って採用しているわけではないと思いますが、言葉のことと、採用のしやすさを考えると、中国人に偏りがち、という話)。

もちろん、成果をあげている(あるいはあげそうな)人材を引っ張ってくるにはそれに見合う処遇が必要ですから、給与水準をかなり引き上げています(北米やシンガポールの水準にはかないませんが)。そしてさらに、彼らに国際的な学術誌での論文発表に向けた強力な動機付けを行う仕組みを設けています(ボーナスや昇進への反映、成果が出ないと大学に残れないなど)。

ただし、「国際的な学術誌に論文を発表する」ことと、「社会にとって意義がある研究成果をあげること」は同じではありません。が、国際的な論文の発表、というところに徹底的に振り切る、思い切りの良さが、中国の中核大学の特徴です(僕の同僚の間でも、そこまでやるのはどうなの?という疑問の声も聞きます。それだけ徹底してる、ということです)。

そして、こうした激しいことをやると、変革が始まる前の時代に採用された教授陣にとってはたまったものではありません。また、全員が研究ばかりをやっていたら大学における教育は回りません。そこで行われているのが人事の複線化です。人材を「研究トラック」と「教育トラック」という二つのトラックに分けて、過去の仕組みで採用されて、国際的に研究をやっていくのは厳しい、という人には「教育トラック」で授業を質的・量的に担っていくことを期待し、新たに採用した国際研究人材には「研究トラック」として研究に集中してもらう(=授業の担当数を減らす)、というような管理が行われています。

僕は研究トラックにあたるわけですが、教育トラックの人たちはすごい量の授業を担当しておられ、「いやこりゃありがたいわ」と正直感服するわけです。色々あると思いますが、この辺りの「両方に厳しく求めることで、納得感を醸成する」バランス感は、人事的には好きですね。

2つ目に関しては、中国人の研究者が北米を始め、様々な大学で一線級で活躍していたり、トップクラスの学術誌のエディターをやっていたりするので、彼らを盛んに招いて博士課程向けのセミナーを実施しています。うちの学部でも、結構お招きしてますね。来ている研究者に聞くと、帰国((里帰り?)に合わせて複数の大学を訪問して回る、というパターンが多いようです。

3つ目は、北京大学が中国の大学のビジネススクールの中でも一歩抜きん出ているようです。先日、大きな中国国内の経営学会があったのですが、北京大学の学生は多くがそこでも英語で発表しており、普段からの意識付け、トレーニングが徹底しているようです。

これに関しては、正直言って上海交通大学はまだまだです。組織管理学部のリサーチセミナーではこれまでは中国語で発表するのが普通で、中国の国内学会では発表をするものの、国際学会まではなかなか手が出ない、という学生が多い様子。対策として博士課程のうちに半年とか1年、海外の大学に留学させて意識付けをしたりしてますね。また、昨年、僕(=中国語のわからない外人)が加入したことで、僕が参加している限り、研究セミナーは強制的に英語でやることになり、多少は雰囲気が変わってきつつあるようです。(我がことながら)外人効果ですね。

日本の大学への示唆

以上から得られる示唆は、

  • 何はともあれ安定的な資金の確保が必要(それがないと国際的に発信できる研究者を雇用できないし、博士課程の学生が国際学会に出るのを支援するための予算もない)
  • 国際的に活動できる研究者を確保、育成する組織環境を作り出すには、制度面、風土面での改革が必須(大学教員の人事複線化など)

ということではなかろうかと。

最近学会でお会いした日本の研究者によれば、グローバルCOEなどの資金を使って博士学生を海外の学会などに送る取り組みが過去に一部の大学で行われていた、とか、研究者が持っている研究資金を使って個人的に博士学生に資金提供している、といった取り組みが散発的に行われているようですが、安定的に資金な資金の確保とは程遠いようです。ちなみに、LSEの場合は、学会で発表する論文があることを前提に、博士学生から旅費の補助を出す仕組みがあり、このおかげであんまりお金を気にせずに、在籍していた4年間、毎年、複数の国際学会に出席することができました(もちろん、論文を書いて、審査を突破することは必要ですが、それが通ればいける、というのは動機付けになりますよね)。

文科省などからの資金を得る、あるいは大学として寄付を募る、という話もありますが、それとは別に、「MBAやExecutive MBA、企業向けの研修などを通じて収入を確保 → 研究者に投資 → 国際的なランキングがアップ → MBAや研修での収入が得やすくなる → さらなる投資」というポジティブサイクルを回すのが、北米や中国のビジネススクールの基本的な勝ちパターンであり、このサイクルを作り出す動きができるかどうかが重要だと思われます(ただし、日本の場合、MBAに対する期待値が企業で低いのが悩ましいところですが)。

日本の場合、海外で活躍している一線級の教授陣を引っ張ってこようという動きもあるようですが、大幅に給与が安く、複線化なども行われていない日本の大学の現状を考えると、給与の向上やインセンティブシステムの再構築、既存の教員の処遇などにドラスティックな動きができない限り、大きな成果には繋がりにくそうです。

また、こうした人事面の改革に加えて、教員および博士課程学生の間に「国際学会や学術誌で世界に向けて発表することが当たり前だ」という風土を作ることが決定的に重要だと思われます。そういう雰囲気がない限り、博士課程の学生がわざわざ海外に行って、慣れない英語で発表して、ということに尻込みするのは当たり前かと。これまた、私の所属先の例を見てもなかなかハードルが高そうでありますが・・・・まずは先立つものはお金と、その雰囲気を引っ張る人の確保、と言うことかもしれませんね。

経営/組織理論を考える(3)パーソナリティ理論(性格理論)

第1回(組織アイデンティフィケーション)第2回(社会的交換)では、個人と組織、あるいは他の個人との関係に関する理論をご紹介しましたが、今回は組織心理研究(と言うよりも、心理学全般)の古典テーマである、パーソナリティ理論(性格理論)について取り上げます。

パーソナリティ理論は、非常に幅が広い研究分野で、歴史も古いので、それをひとくくりにして紹介するのはここではとても無理です。なので、以下の3つのテーマに絞ります。

  1. 基本的な考え方
  2. 性格を図る代表的な尺度Big Fiveと、その職務パフォーマンスとの関連
  3. パーソナリティは生まれつきなのか、それとも環境で形成されるのか

基本的な考え方

性格理論では、個人には状況に関わらず一定の行動・判断のパターンを示す傾向があると考え、それを「性格」と呼んでいます。

つまり、「昨日は雨で暗い気分だったけど、今日は天気がいいから明るい気分」とか、「仕事の場面では几帳面だけど、オフでは大雑把」という風な、タイミングや状況による変動に注目するのではなく、それらを貫いて「一貫して見られる個人の普遍的な傾向」に着目するのです。

このことにはメリットとデメリットの両方があります。

メリットは、個人のパーソナリティを捉えておけば、様々な場面でその人が概してどのように行動・判断するかが予測できる、すなわち、適応範囲が広い、ということです。

日本の新卒採用でパーソナリティを測定するツール(例えばリクルートのSPIなど)が広く活用されているのはこのためですね。入社後にどんな仕事をしてもらうかはっきり決まっているのであれば、その仕事に密接に関わるスキルを測定すればいい(最近は、データサイエンスなどで職種を絞った採用も新卒でもやるようになっているので、こういうことも増えてますが)わけです。しかし、一般的な日本の新卒採用の場合は、入社後の仕事を特定しません。だからこそ、幅広い職務でどのように行動しそうか、広く予測できることが重要になるわけです。

デメリットは、予測精度に限界がある、ということです。当たり前のことですが、個人の行動はパーソナリティだけで決まるわけではありません。状況によって人の行動は左右されますし、その時の気分によっても変わります(この辺りについては、「状況」の影響を議論する回に別途詳しく議論します)。言い換えれば、普遍的にどのような状況においても通用するモノサシ(尺度、と言います)で個人を捉える、ということは同時に、「状況や場面による個人の変動」を無視する、ということでもあるのです。

Big Fiveと職務パフォーマンス

パーソナリティ研究の勃興期には、様々な研究者がたくさんの質問を作って、個人の性格を図る尺度を開発していました。それらを比較統合していく中で浮かび上がってきたのがBig Fiveと言われる5つの尺度です。

  • Extraversion (外向性)
  • Conscientiousness (誠実性)
  • Openness (開放性)→ Opnennes to Change (変化への開放性)と言う場合も
  • Emotional stability (情緒安定性)→逆転してneuroticism (神経症傾向)とも
  • Agreeableness (協調性)

Costa & McRaeやGoldberg, Saucierなど様々な学者が性格尺度の統合に向けて行った論考は今となっては古典となっています。それらを受けた現状のコンセンサスとしては、この5つは、国や文化を超えて普遍的に人々の性格の違いを捉えられる、また、職場での個人の振る舞いを予測する上でも(ある程度)有効である、ということになっています。

まあ、それぞれが何を意味するかは、様々なところで紹介されていますのでググっていただければと思います。ここでは、これらの性格尺度が職場における行動とどのようにつながっているかを、Chiaburuらによる2011年のメタアナリシス論文(複数の研究をひとまとめにして再分析し、大きな傾向を抽出する手法)を基に簡単にご紹介します。

組織研究では、職場における個人の行動を、大きく「与えられたタスクをちゃんと遂行する」ということと、「与えられたタスクの範囲を超えて、職場の同僚や組織に貢献する行動をとる」ということの、大きく2つに分類してます。それぞれタスク遂行、組織市民行動などと呼ばれます(後者はさらにいろいろ分けて研究があるのですが、それについてはまた今後)。

少し脇道に逸れますが、この分け方自体が、組織研究が発展したアメリカの職場の状況を反映してます。ジョブディスクリプションがはっきり定義されているので、「与えられたタスクの遂行」と、それ以外の行動(=ここでいう組織市民行動)をを切り分けて捉えやすいわけです。日本の場合、特に正社員の場合には、組織市民行動もひっくるめて「職務の範囲」と捉えられているケースが多いと思われます(最近やった調査でも、そういう結果になりました)。

さて、性格の影響に戻りましょう。タスク遂行については、過去のメタアナリシスから、ConscientiousnessとEmotional stabilityの影響が相対的に強いことが知られています。誠実で情緒が安定している人は、与えられたタスクをちゃんと遂行する、ということですね。

一方、Chiaburuらの研究は、ConscientiousnessとEmotional stabilityが組織市民行動にも強く影響することに加えて、AgreeablenessやOpnenness の影響もかなり強いことを示しています。特に、Agreeablenessは周囲の同僚に対する支援、Opnennessは新しいアイデアを提言したりして変化を生み出すことに影響が強いようです。

ここから考えると、「明確に定義された行動をしっかりやってほしい」場合には、誠実性が高くて情緒が安定した人が適しており、さらに、「周囲の同僚や組織の状況を見て、場に貢献する行動をとってほしい」場合には、協調性があり開放的であることも望ましい、という話になりますね。

日本の新卒採用では伝統的に協調性に重点が置かれがちですが、これは、上述の通り組織市民行動が職務の一部だと考えられている、ということの結果なのでしょう。一方、開放性がそれほど語られないのは、新卒には「自分からどんどん意見するよりもまずは組織に馴染むことを優先してほしい」という期待があるからなのかもしれません。

ちなみに、Extraversionについては、特に人と接する仕事、営業や販売などでのパフォーマンスには関連が強いものの、さまざまな仕事全般に関係があるかというとそれほどでもない、ということが知られています。

結論としては、Big Fiveはいずれも職務パフォーマンスにプラスに働く一方で、個別の性格尺度によって、さまざまな職務パフォーマンスへの影響しかたは異なる、ということですね。まあ、そりゃそうだろう、という話なんですが、これがちゃんと数多くのデータで実証された、ということからは、それだけBig Fiveが安定して使えるモノサシである、ということを示している、とも言えます。

ちなみに、これらとは逆に、破壊的なパーソナリティ、Dark Triadというのも知られています。これについてもいずれ紹介します。

性格は生まれつき?それとも環境?

このテーマに関しては、組織理論の範囲を超えて、まずは心理学における「双子の研究」をご紹介しましょう。一卵性双生児の双子を赤ん坊の時から追跡して、大人になっていく過程でどのように性格が形成されていくかを調べる、という非常に気の長い研究分野です。一蘭双生児は遺伝子が同じですから、遺伝と環境の影響を見るには最適な研究対象と言えます。アメリカでは結構広く行われているようです(日本についてはすいません、知りません)。

ここからの結論は、「生まれつき半分、環境半分」というものです。一卵性双生児は、(例えば養子に行くなどの結果)かなり違う環境で育ったとしても、それなりに性格の類似性がある、一方で、完全に同じになるわけではない。つまり、遺伝子の影響もあるし、環境の影響もある、総じてほぼ同じくらい影響しているようだ、ということです。

当然、皆さんが次に気になる質問は、「じゃあ、仕事によって性格は変わるのか?」ということだと思います。答えは「変わる」です。

従来、性格は青年期までに形成されるもので、大人になったらあまり変わらない、と考えられてきました。

しかし、近年の研究でこの見方はほぼ否定されています。特定の行動や判断を求めるような仕事について2-3年くらいすると、それに対応する性格が高くなるのです。例えば、「個人が自律的に動くことが必要な職場」で過ごすとproactive personality (主体的性格)が高まることが、最近のLi らによる研究(2014)によって示されています。また、失業して一定年数過ごすと、それによっても性格が変化する、というデータを報告している研究もあったりします (Boyce, et al, 2015)。

ただ、実際には、職務から性格が一方的に影響をうけるわけではなくて、性格によって職務選択が左右される、という逆の影響もありますよね。研究からは、「自分の性格に合う職を選択する傾向がある」(個人による選択=self-selection)と、「性格に合う職の方が採用されやすいし、クビになりにくい」(組織による選別=selection)との、両方のメカニズムが働いていることが知られています。

これと上記の研究を組み合わせると、世の中全般的には「もともと強い性格が、その性格にあった仕事に携わることで、さらに強くなる」という傾向が働きやすい、ということになります。そして、実証研究からもそれを支持する結果が出ているようです。

ちなみに、この話については以前にも書きましたので、こちらも併せてどうぞ。

人の性格は環境で変わる(こともある)。

 

参考文献:Chiaburu, D. S., Oh, I. S., Berry, C. M., Li, N., & Gardner, R. G. (2011). The Five-Factor Model of Personality Traits and Organizational Citizenship Behaviors: A Meta-Analysis. Journal of Applied Psychology, 96(6), 1140-1166.

Li, W.-D., Fay, D., Frese, M., Harms, P. D., & Gao, X. Y. (2014). Reciprocal relationship between proactive personality and work characteristics: A latent change score approach. Journal of Applied Psychology, 99(5), 948.

Boyce, C. J., Wood, A. M., Daly, M., & Sedikides, C. (2015). Personality change following unemployment. Journal of Applied Psychology, 100(4), 991.

経営/組織理論を考える(2)社会的交換理論 (social exchange theory

前回、組織アイデンティフィケーションでスタートした経営理論をご紹介するシリーズですが、第2回は社会交換理論。

僕の博士論文はこの理論の流れを組む研究でして、これまでにもいろいろと社会的交換理論については書いてきました。

世の中は交換で回っている。

職場における「恩に報いる」を科学する。

「交換」に関する考え方は世界共通?

組織の「約束破り」に対して、個人はどう対処するのか

この理論は、世の中の人と人、あるいは組織と人、組織と組織などの間の関わりを「交換」という概念で分析するものです。古くはMauss, Lévi-Strauss, Marinowskiら人類学者による研究に源流があり、1970年代頃にHomans, Emerson, Ekeh, Blauなどの社会学系の理論家によって発展したのち、それ以降、上司-部下、組織-従業員、同僚同士、組織同士など、組織内外における様々な関係に当てはめて活用され、経営学研究の中でも最も幅広く言及されている理論の一つです。

この理論の基本的な考え方は、「アクター(個人・集団)は互いに資源を交換し合っており、互いに貸借のバランスをとるように行動する」というものです。ここでいう資源にはお金やモノのように有形のものもあれば、敬意、好意、感謝、支援など、無形のものもあります。

例えば、「上司が部下の面倒を見る → 部下は恩に感じて上司に報いようとする」というのも交換ですし、「組織が個人に様々な支援を提供する → 社員が組織に(通常の仕事の範囲を超えて)貢献しようとする」といったことも交換です。

ここで前提となっている人間観は、アクターは合理的に判断をする存在であり、自分の利益を追求する存在である、ということです。上記のように貸借のバランスをとる、というのは非常に計算的な思考・行動です。そして、どちらかが一方的に損をする交換は長期的には成り立ちませんから、バランスをとることが合理的なわけです(のちに、Lawlerなどが社会交換理論に情緒的(affective)な動機を導入する試みを行っていますが、そこについては話がややこしくなるのでここでは割愛します)。

この点が、他者を利する行動をとる、といっても、「他者の幸せを喜びとみなして、他者のために行動する」といった、純粋に利他的な行動(purely altruistic behavior)とは、全く異なります。言い換えれば、社会交換理論は、利他的な動機以外にも、他者を利する動機が人間には存在する、ということを示している点が面白い、とも言えます。

社会的交換には幾つかのタイプがある、ということは以前にも書きましたが、代表的なタイプに「交渉型 (negotiated exchange)」と「報恩型 (reciprocal exchange)」交換があります(reciprocal exchangeについては互恵型、返報型とも訳すようです)。

交渉型は、互いに取り決めをして、その上で交換を行うものです。例えば、上司と部下の間での「部の目標達成のため、この半期はXXXX万円の目標に取り組んでほしい。それが達成できたら、君の昇進に向けて僕は支援を惜しまない」「わかりました。約束ですよ」みたいな会話は交渉型の交換の例と言えます。一方で、報恩型は、そうした事前の取り決めを行わないのが特徴です。上記の例を報恩型の交換に置き換えると、「上司の掲げた部の目標の達成に向けて部下が自ら頑張り、上司は成果を上げた部下の意気を組んで、部下の昇進のために社内に働きかける」といったことです。

交渉型の交換は、Xに対してY、というふうに何を交換しているのが明確ですから、単発で完結する交換になる傾向があります。それに対して、報恩型は、何に何が対応しているのかが曖昧です。そのため、うまくいっている報恩型交換は長期的に関係が育っていくことにつながります。例えば、上の例であれば、上司が自分の昇進のために頑張ってくれた、と感じた部下が、さらに上司に恩を返そうとする、みたいな話ですね。

過去の研究からは、交渉型の交換よりも、報恩型の交換を行う方が、アクター同士(この場合は上司と部下)の互いの信頼関係が深まることを示唆する結果が報告されています。ですから、上司部下関係にせよ、同僚同士の関係にせよ、報恩型のメリットは大きい。

ただし、報恩型の交換にはリスクが伴います。というのも、自分が相手のために良かれと思ってやっても、相手からいつ、どのようにリターンが返ってくるかわからないからです。時には、肩透かしになってしまうケースもあるでしょう。

それでも社会から報恩型の交換がなくならないのはなぜでしょうか?

この問いに対する社会科学系の多くの分野に共通する答えが、「人間社会には、報恩に関する規範(the norm of reciprocity)があるからだ」というものです。規範とは、社会に幅広く受け入れられている「何が正しいことなのか」に関するルールのことを指します。つまり、人間社会には、「何かをしてもらったら、恩に報いるのが正しい」、さらに「それをちゃんとやらない人は罰せられるべきだ」と言う考え方が広く共有されている、ということです。

もちろん、個人差はあります。交換にあたって「相手にもらったよりも少なくしか返さない方が良い」と思っている人もいれば、「相手にたくさん与えておけば、より大きくなって帰ってくる」と考えている人もいて、そのことが職場での行動の個人差に影響を与えている、と言うことも知られています(この辺りは、アダム・グラントが「Give & Take」で詳しく議論しています)。

上司と部下、と言う観点にこれを当てはめてみると、「上司が同じように部下の世話をしても、努力として跳ね返ってくる部下もいれば、特に行動が変わらない部下もいる」というのは、当たり前のことなのだ、と言えますね。

ちなみに、これらの議論は基本的に「自分と相手」という1対1の交換モデルを前提に行われています。が、「多対多」の交換を想定した研究の流れも存在します(これまた、Lévi-Strauss, Marinowskiまで遡る歴史あるものです)。

経営研究の世界でこの「多対多」のモデルは全くと言っていいほど注目されていなかったのですが、バーチャルなプラットフォームの発展に伴って、不特定多数がチームを超えて関わり合うことが当たり前になってきた結果、徐々に研究が出てきている、というのが現状です(僕の博士論文はまさに、「多対多」のモデルを使って、企業内の社内インフラにおける情報共有活動について分析したものなのですが、ここでは長くなりすぎるので、またいずれ書きます)。