就労ビザの厳格化?イギリスと中国。

しばらく前に友人たちといったワインと串焼きのお店がありまして。

日本人の大将が経営していて、ワインの品揃えがなかなかよく、そして食事も総じて非常に美味しく、夫婦でとても気に入った店だったのですが、残念ながらもうすぐ閉店という噂が友人から流れてきました。

日本人ばかりではなく現地の人も含め、明らかに客の入りは良かったので、経営不振というのは想像しにくいなあ、と思ったら、閉店の原因は大将がビザの更新ができなかったから、ということらしいのです。

と、いうことで、今日の投稿は就労ビザをめぐって少々書こうと思います。


 

海外で働くのには一般的には就労ビザが必要です。もちろん、EU圏内のように労働者の移動の自由を互いに国の間で認め合っている場合はビザなしでどこでも働くことができますが、現在の世界においてはそれはあくまでも例外と言っていいと思います。

就労ビザに関わる政策は、様々なビジネスに直接影響を及ぼします。

例えば、Brexitをめぐる議論で、一つの焦点になったのが移民問題ですが、そこでは

「外国人がどんどんやってきて、自分たちのコミュニティがイギリスではなくなってしまう。最近は街を歩いていても、出会うのは英語じゃない言葉をしゃべる人ばっかりだ。一体全体、うちの街はどうなってしまうんだ」

というような、イギリス人・イギリス社会としてのアイデンティティや伝統を大切にしたい、それがEUからの無制限な移民で変質していくのが怖い・嫌だ、という見解と、

「イギリスの社会は大幅にEUからの移民に依存している。農業、食品製造、物流、小売などの産業の最前線で働く労働者の多くはポーランドなどのEUからの移民だ。更に言えば、医療関係者、具体的には医師や看護師の多くもEUから働きに来ている。国を閉ざしたら労働力が不足して、経済が停滞してしまうし、医療の質も低下する」

という、イギリス国内だけではスキルを十分に確保できない、という趣旨の見解がよく聞かれました(もちろん、この手の議論はBrexitをめぐる議論のごく一部でしかありません。また、人材・スキル不足を解決する方法は移民だけではありません。が、本稿では就労ビザに関する話が焦点なので、乱暴ですが省きます)。

イギリスの場合、Brexit以前から「流入する移民の数を制限しろ」というプレッシャーが有権者から保守党政権に対しては強くかかっていたようです。EUからの移民はEUの統一市場にの一員である限りは制限できませんから(労働者の移動の自由は基本原則の一つなので)、EU以外からの移民を制限するために、就労ビザのみならず、就学ビザも含めて、様々な政策が行われてます。例えば、僕が見聞きした範囲では、

  • イギリスで高等教育を受けた人材の、大学院卒業後の滞在期間の縮小。以前は卒業後1年間は労働ビザなしで滞在して職探しや働いたりできたが、今は、就職先の企業が就労ビザをサポートしてくれない限り、卒業後3ヶ月で退去。
  • 企業が外国人を採用する場合の制限。原則的に、募集広告を一定期間(3ヶ月だったかな?=>加筆: 28日でした!)公開して、その上でイギリス及びEUの人で要件に合う人が見つからなかった、という条件を満たさないと、外国人(EU以外)を採用できない。
  • 就労ビザの支給条件の厳密化。例えば、年収の条件を以前より厳しくして、高度スキル人材じゃない人たちが入ってきにくくする。産業・職種によりどうしても国内で人材が不足である、といった特殊な事情がある場合は、個別判断で緩和措置を設ける。

みたいなことが行われています。そして、これらの運用はかなり厳格です。

たとえば、僕は1つ目に影響を受けました。本来、僕の博士課程の就学ビザの有効期限は2018年の1月末まだったのですが、予定よりも2ヶ月早く博士修了が決まった結果、2ヶ月分ビザもカットされたのです。前倒しでの修了が決まったことが大学から内務省(Home Office)に報告され(大学は報告義務がある)、内務省が「これはビザの有効期限のカット対象」と判断した、というわけです。

おかげで2017年の12月に卒業式のために再渡英した際には、入国審査で2時間引き止めに会うという残念な目に会いました。日本のパスポートがあれば、短期の滞在であれば通常はほぼノーチェックで入国できるはずなのですが、「ビザがカットされてるのは怪しい、お前何かしたか、事情を説明しろ、データベースと照合する」というわけです(おそらく、この記録は一生残るので、今後はイギリスに行くたびに同じことをやるんだろうなあ、と今からうんざりしています)。

また、友人(日本人)が現地の企業に中途で就職した際には、採用は内定していたのに、就職先がそのポジションの募集広告を事前に公開しておくのを忘れていた結果、勤務開始が遅れた、というケースもありました。

そして、3つ目の結果生じているのが、インド料理店の大量閉店です。2016年のガーディアン(現地の左派よりの高級紙)の記事によれば、18ヶ月で600店舗のインド料理屋が閉店を余儀なくされ、最悪の場合、業界全体の1/3にあたる4000店舗の閉鎖もありうると書かれています(まあ、4000店舗は極端だと思いますが)。

と、いうのも、インド料理店の多くは、インドからの移民が創業しているわけですが、初代創業シェフの子供たちは親の仕事を継ぎたがらず、結果としてインドからシェフを連れてくる、というパターンが多いようなのです。が、上記の労働ビザの条件の厳密化でそれが難しくなり(需要があるといってもインド料理店のシェフの給与はそんなに良くないので)、シェフが確保できなくなり、廃業につながる、という展開です。

 


 

ちなみに、中国でも現在は就労ビザに関する発給条件をめぐって、新しい政策が昨年から導入されています。応募した人それぞれについて、中国で予定されている給与額、学位、職務経験年数、中国語スキル、年齢などで点数が付けて、合計点数に基づいてA, B, Cのランクわけをする(リンク先は日経新聞の解説)、というものです。考え方としては、色々サイトを見てみると、

  • A(ハイレベル人材) 中国としてぜひ招きたい人材
  • B(プロフェッショナル) 雇用側がちゃんと申請すれば就労ビザが普通に出る人材
  • C(一般人材):就労ビザの発給をコントロールする人材

ということのようですね。

Cに関しては、学歴(学部卒以上じゃないとダメ)年齢(60歳以上はダメ)に関する条件がかなり厳しく運用され、これまで就労ビザが取れた人も更新できなくなるのでは、いや、実際にもうなっている、といった情報も流れております(冒頭のワインのお店の大将の話は、直接伺ったわけではないのでなぜビザが取れなかったのか詳細は分かりません)。

この仕組みに関しては、「人間をランク付けするのか」みたいな反発も一部のメディアで流れてましたが、僕自身はそれほど極端な仕組みだとは思いません。例えば、イギリスの場合もA, B, Cみたいな明示的なランク付けはしていないものの、英語力や資産額など、条件を満たしているとポイントが加算されて、(簡略化して言えば)一定のポイント以上になればビザがでる、足りなければ出ない、といった考え方です。

こうした仕組みは、「目に見える基準で、すべての人を同じように扱う」という意味では、公平公正なビザ行政だとも言えるなあ、と思ってます。もちろん、個別に考えれば、大卒じゃなくてもスキルを持った人はいっぱいいるよね、というのは全く議論の余地がないのですが、それを一人づつ丁寧に審査するのが現実的に回らない、ということは理解できます。

今後、こうしたビザの条件が厳しくなるのかどうか、というのは、中国の経済の状況や、中国国内における高度スキルを持つ人材の育成に関する政策が関わってくると思われるので、正直僕にはなんともいえません。

世界の工場としてローコストの生産で稼ぐ、という時期を脱して、イノベーションを生み出していく、という方向に向かっているようなので、科学者・技術者・起業家など希少で高度なスキルを持つ人材を海外から引きつけるとともに、中長期的な視点で国内で育成にも取り組む、その一方で、ミドルクラスの仕事は国内人材にシフトして社会としての人材層を厚くしていく、という方に重点が置かれていくのかなあ、と思いますが、あくまで想像に過ぎません。

 

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上海交通大学の学部生の実態。

中国では春節の長期連休がおわりまして、徐々に街に人が戻ってきています。連休中は人も車も少なく、久しぶりの静けさを楽しめましたが、どこもかしこも人だらけの普段通りの上海に徐々に戻りつつあります。

本学でも新学期がスタートしました。

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今学期は、二つ授業を担当してまして、それぞれ月曜日、火曜日に最初の授業を行いました。いずれも多くの学生さんが出席してくれてありがたい限りです。

今回は僕にとっては新しいことが一つありまして、それは、「中国人の本科生(いわゆる日本でいう学部生)」がメインのコースを担当する、ということです。前の学期は交換留学生ばかりを集めたコースを担当してましたので、同じ学部生でもほとんどの学生は欧米からの生徒で、プラス、アジア圏からの生徒がごく少数、という塩梅でした。ですので、地元(といっても、中国全土から学生は来るので、出身地はいろいろですが)の学生に密に接するのは、今学期が初めてです。

ちょうど、前の期に留学生に教えた授業と全く同じコース(Cross-cultural Management)を今期は本科生たちに教えていますので、非常にわかりやすく反応の違いが見て取れるのが面白いところです。この投稿では、忘れないうちに第1回の感想を書いておこうと思います。

英語がうまい

僕は授業では生徒にポンポンと話を振って、生徒に発言させながら進めていくのが好みです。ですから、生徒との間で英語でコミュニケーションが成立しないと話になりません。

ほぼ中国人の学部生のクラスだ、とわかった時点で、その点についてちょっと心配をしていたのですが、完全に杞憂でした。かなりの割合(8割くらい?)で、なめらかに英語でコミュニケーションができるな、というのが実感です。正直言って、驚きました。もちろん、途中でうまく単語が出てこなくて口ごもってしまったりする学生も一部にいましたが、あくまで少数です。

ちなみに、僕の担当している授業はマネジメント専攻の学生では必修になっているので、英語が得意、あるいは英語で授業を受けたい、という学生だけが集まっているわけではありません。ですので、上海交通大学の学部生の英語のスピーキングのレベルは総じてかなりのものだ、と考えて良いと思われます。

中国は英語教育にここ数年かなり力を入れていると聞いてますし、街でも子供向けの英語教育に関する広告をとてもよく目にします。上海交通大学は中国でもトップクラスの大学の一つですから、うちの学生で中国の大学生全体を推し量ることはもちろんできませんが、少なくとも僕の教え子たちの英語力は、正直全く侮れません。中国のエリート候補たちは英語に本気だな、というのを垣間見た思いがします。

でも、クラスで発言を求められるのは苦手

一方で、じゃあ授業の間にポンポンと発言が出るかというと、全くそうではありません。むしろ、こちらから話をふっても、自分から手を上げて発言する学生はほとんどいません。LSEでの経験から東アジアからの学生は授業中にあんまり発言してくれないというのは知っていたのですが、それがクラスの大多数(留学生もいますが)となるとなかなか手強いです。発言がさっと出るのは、

  • まず、グループで周りの生徒とディスカッションさせた上で、個人を指名する
  • 明らかにこっちが正解だろう、とわかるシンプルな二択質問を全体に投げかける

というケースに限られます。ただし、二つ目のケースでも、「なぜそう思うの?」とさらに深掘りする質問を投げかけると、シーンと黙ってしまいます。

この辺りは欧米からの留学生が多いクラスとは非常に対照的です。欧米人、あるいは、アジア系でも欧米の教育を受けている学生たちは、ガンガン手を上げて自分から声を上げますし、深掘りの質問をしてもなんらか答えをひねり出してきます。

文化的に言えば、いわゆる「面子」の影響が大きいのだと思われます(先生や同級生の前で間違えるのが恥ずかしい、的な話です)。あとは、高校生までの教育が「正解」を出すことを重視してるからかもしれませんね。安心して発言できる環境じゃないと発言をためらう、ということではないかと思われます(追記:日本でも似たような特徴はある、という指摘を何人かの方からいただきました。確かに文化的にも教育的にも似たところがあるように思います)。

また、授業のやり方も、中国の先生たちは授業では一方的に話をして、生徒に発言を求めることは少ない、と聞きますので、その辺りの影響もありそうですね。

瞬発的な理解力は結構高そう(まだ印象レベル)

この点については予想通りです。中国の厳しい受験戦争を通り抜けてきた生徒たちなのであまり心配してませんでした。

グローバリゼーションってどういうこと?とか、文化って何?とか、大学2年性の段階ではあんまり考えたことがないであろうテーマの質問を投げかけても、断片的ではあっても筋は悪くない答えが返ってきますし、こちらの解説を聞いて、「なるほどね」という顔で飲み込んでいる学生が多い印象です。

もちろん、真面目に授業をじーっと聞いてふんふん、と頷いている学生もいれば、明らかに集中していない学生もいます。まあ、大人でも講演とかで人の話をじーっと聞くのが苦手な人もたくさんいますから、別に驚くような話ではありません。

ただ、同僚から聞くところによると、弊大学の学生たちの「試験で点数を取る」ということにかけての情熱と実力には凄いものがあるらしいので、これからが楽しみであります。

検索文化すごい。

中国の若者たち(に限らず大人もですが)は、ご他聞に洩れずソーシャルメディアにどっぷりでして、いつでもどこでもWechatでチャットをしています。僕の授業では、授業中のチャットやメールのやり取りは禁止、見つけたら端末没収、と最初に宣言してますので、さすがに第1回の授業から堂々とやっている学生はいません。

が、一方で、グループディスカッションを始めさせると、即座にパソコンやスマホで検索をしてるのには、ちょっと驚きました。生徒たちが喋ってる間にクラスを巡回してると、明らかに、「あ、質問の答え探したな」とわかる画面が表示されてたり。で、それを見ながら議論してるんですよね。

これについては、なかなか悩ましいなあ、というのが本音です。ふわふわした概念について、自分の頭で考えて定義をする、というのは、僕はとても大事な思考能力だと思うのですが、一方で、世の中に溢れている情報を取捨選択して使いこなす能力も、現代には重要なためです。まあ、後者は教室でやってもらう必要はないので、教室では前者に集中する、というのが一旦の僕の対応ですが、まあ、どうしたものかなあ、と思ってます。

この点については、おそらくうちの学生の特徴、あるいは中国の学生の特徴、というわけではなくて、今の世代の特徴、ということかもしれません。

 


 

と、いうわけで、上海交通大学の学部生についてまとめてみました。

海外拠点間の人事制度の統合をめぐるチャレンジ

先日、中国に拠点を構える日本企業で経営や人事にかかわる責任者の方々をお招きした小規模なディスカッションの機会を持ちました。その際に議論になったのが、中国に複数ある拠点にどのように世界共通の人事の枠組みを落とし込んでいくか、と言う問題です。

日本で働いていると、普通は社内で人事制度は統一されているものなので、海外赴任の経験がない方には、なぜこういう問題が生じるのか、よくわからないと思います。こうした現象が生じる経緯としてよくあるパターンはこういう感じです。

  1. 社内にある様々な事業がそれぞれに海外拠点を設立する。各事業ごとにそれぞれの事業運営上の思惑の中で立地や設立の形態、持たせる機能は様々。
  2. 拠点の設立にあたり、各事業から赴任者を送り込む。ただし、まずはオペレーションを立ち上げることが優先のため、多くの場合、生産や営業など実業部門の専門性を持つ人材と、財務の専門家が送り込まれる。
  3. この人たちが、自分たちの専門分野の仕事の傍ら、人事制度を整備する。現地で人事経験者(採用や給与計算、労務管理などができる人)を採用し、運用を任せる
  4. この結果、本社の人事制度や現地人事の意見をベースに、それぞれの拠点が自分たちの業務の特性に合わせた制度を設計し、実行するようになる。
  5. それらの拠点の運営が軌道に乗り、ある程度成熟してきたところで「地域統括会社を立ち上げる」という話が持ち上がる。中国であれば中国本土の拠点を統括する拠点、あるいは韓国や台湾の拠点も合わせた東アジア統括拠点、といった形が一般的。
  6. それに合わせて、人事の地域統括部門を設け、人事の専門家が送り込まれる。この方々は、各拠点に不足している人事の専門性を補いつつ、地域として共通の人事施策を実施していくのが役割になる。
  7. さらに、この頃になると、各拠点で、次世代幹部人材の育成が問題になる。日本人幹部だけで組織運営する段階から、現地の人材を登用し、戦略形成やイノベーションの核を任せていくことが狙い。

さあ、ここで問題が表面化します。というのも、各社の人事制度はバラバラで、しかも、人事のプロではない人たちが、日本人赴任者を中心に組織運営することを前提に設計、運用した制度だからです(もちろん、当事者である初期の赴任者たちが悪い、というわけではありません。その人たちが、与えられた状況の中で真面目に検討した結果であることがほとんどです。そもそもこういう状態にならないようにするにはどうするか、については最後に触れます)。

多くの場合、「各階層に求める要件」が明確に定義されていなかったり、仮に定義されているとしても「自ら主体的に動いて影響力を発揮する」ことが管理職にもとめられる役割に含まれていなかったりします。むしろ、「日本人の言うことを素直に聞いて動く」人たちが重用される人事運用になっていたりします。

また、日本でもままあることですが(というか、日本のあり方がそのまま移植されている、といったほうがいいかもしれません)、厳しいことも含めて率直に評価をフィードバックして評価を能力開発につなげる慣行が確立されていなかったり、パフォーマンスに応じて評価にメリハリをつけることも行われていなかったりします。

加えて、各社の人事制度がバラバラだと、各拠点横断の幹部研修を実施しようにも候補者選びの基準が設定しにくいです。また、リーダーシップ開発の定番である「未経験の職務を通じて視野や能力の幅を広げる」ことをやろうにも、拠点を超えた人の登用、異動も難しい。さらに、リーダーシップ育成の研修をやったとしても、人事制度とその運用が上記のような状態のままでは、研修で学んだ効果は一過性になってしまうことが目に見えています。

と、いうわけで、「自社としてのリーダーに期待する要件」をきちんと反映した世界共通、あるいは地域共通の人事制度の枠組みをつくり、各拠点に落とし込む、というのが本社人事、地域統括人事の大きなテーマになってきます。

これは、本社人事や地域統括人事の立場から見ると、かなり合理的な話です。

また、各拠点の人たちから見ても、登用されるべき人たちがきちんと登用され、現地の人材に中核的な仕事を任せていくための取り組みですから、長期的に見れば良い話、のはずです。

が、もちろん話はそう簡単にいきません。

そもそも、現在、各拠点の人事を担っている人たちは、今の仕組みを整備して運用してきた人たちですから、「今の仕組みで十分回っているのに、なぜ、わざわざ外から誰が作った仕組みを入れて、ゼロから運用を組み立て直さないといけないのか」と考えるのは(近視眼的ではありますが)自然な話です。

一方、現在、各拠点の管理職を担っている現地の人材は、脅威にさらされます。というのも、今までは日本人幹部の指示の元で受動的に動いていれば良かったのに、自ら主体的に動いてリーダーシップを発揮しろ、という、それまでに期待されてこなかったことをいきなり求められるからです。抵抗する人が出てもちっともおかしくありません。また、趣旨に賛同するとしても、今まで適当にこなしてきたフィードバックをきちんとやれ、と言われたりするわけで、面倒が増える、と感じる人もいるでしょう。

というわけで、これは結局のところ「変革プロジェクト」なのです。

組織において新しいことをやろうとすると、賛同する人も、反対する人もいて、どちら付かずの立場で批判的に見る人もいる、というのが一般的ですよね。

こうした問題に関わる人事の方々がこの活動を「人事制度の展開」として、トップダウンで順次落とし込んでいけばいい、と考えると現地の反発を買いがちです。押しつけに見えるからです。それよりも、これを「変革のプロセス」なのだ、というふうに捉えて推進するべきです。

新たな取り組みに対する(現地の人事や管理職も含めた)賛同者を集め、変革を正当化するロジックをつくり(=やらなければいけない理由、やることで幸せになれる未来像を明確化する)、全員にメッセージを発信し、賛同者を核に小さな成功事例を生み出し、その成功例をレバレッジして賛同者を増やしていく、そして、古い仕組みや考え方に固執する人を徐々に取り除いていき、新たな取り組みを定着させる、というのが変革の一般的なプロセスです。

こうした視点から取り組みを設計すれば、今、自分たちがどこにいて、次はどんなアクションを取るべきなのだろうか、というのが見えてくるはずです。

「古い仕組みや考え方に固執する人を徐々に取り除いていき」という部分が最大の難関でしょう。「考え方を丁寧に伝え、育成施策も行うことで生かしていく」という考え方もひとつですが、どうにもならない場合もあるので、最初から、「彼らをポストオフして、新しい考え方に会う人たちに登用の機会をつくることも辞さない」ということも前提にしたほうがむしろうまくいくケースが多い、というのが私の考えです。

あとは、「世界・地域共通の制度」といっても、何でもかんでも共通化する、というのはやめた方が良いですね。拠点のビジネス特性や現地の慣行を鑑みて、「譲れない部分は共通化した上で、現地適応すべき部分は現地適応する」という考え方のもと、各拠点の人々と作り込んでいく、というアプローチの方が、結果的に進みやすい、というのが先行研究からもわかっています。

 

もう一点、考えるべきは、そもそもなぜこうした問題が生じたのか?ということです。冒頭でご紹介した1〜7のプロセスに戻ってみましょう。

私が考えるに、ポイントは3と4にあります。「現地に戦略的な人事のプロ(本社から派遣するにせよ、現地で採用するにせよ)を置くのが遅い」上に、「そもそも標準がない」ので、現地で戦略的な人事のプロではない人が自己流で制度を設計せざるをえない、というのが全ての始まりです。

そう考えると、こうなる前に本社の人事がやるべきことがある、というのが浮かび上がってきますね。まあ、企業が多国籍化するプロセスではここまでのことは思いつかない、というのも当然なのですが、日本企業の多くはそれなりに国際展開の経験があるわけです。ですから、そうした取り組みを積極的に行わない理由はもはやない、はずです。

英語に関する人事施策は、果たして日本企業の国際経営に影響しているのか?

久しぶりの投稿です。上海に到着してから3ヶ月というもの、新しい職場での仕事の立ち上げに慌ただしかったのと、各種のインターネットサービスへの接続が制限されている(例えばフェースブックは中国では普通にしてると読めません)のを言い訳に、ブログ投稿をサボっておりました。すいません。今年は心を入れ替えて、もう少しこまめに投稿してこうと思ってます。

今回のネタは、英語です。以前にも書きましたが、英語は事実上のビジネス公用語となっています。非英語圏であっても英語でコミュニケーションができることが、グローバルでのビジネスを加速しているし、逆に、グローバルなビジネス機会の存在そのものが、英語を学習することの価値を高めている、とも言えますね。BBCやCGTN(China Global Television Network = 中国版のBBCやCNNのようなグローバルニュース局。日本ではあまり知られてないと思いますが、コンテンツのレベルは結構あなどれません)を見ていると、世界中のどこに行っても英語でインタビューに答えられるビジネスパーソンや市民がいることには驚かされます(もちろん、そういう人を探してインタビューしてるわけですし、ブロークンな英語であることが多いですが、それでも自分の言いたいことを表現して伝えられることが印象的なわけです)。

しかしながら、日本人ビジネスパーソンを全体として捉えると、その英語力はあまり芳しいものではありません。。例えば、EF English Firstがリリースしている世界のビジネスパーソンの英語力ランキングでは、日本は先進国の中ではフランスやイタリアと並んで英語が苦手な国の一つとして扱われています。もちろん、非常に流暢に英語を操る方々もいらっしゃるわけですが、平均すると、英語が苦手な人が多いのが現場です。

この現場への対策として、様々な企業で英語力を採用や昇進昇格時の条件に組み込む取り組みが行われています。経営のグローバル化に対応するためには、管理職が英語を扱える必要がある、というわけです。楽天のような、前者で英語を公用語化にする、といったアプローチから、TOEICなどで一定の点数が取れないと一定ランク以上のポジションに昇進昇格されない、といったアプローチまで幅があります。また、従業員向けに英語教育を充実させている企業もありますね。

さて、ここで疑問になるのは、果たしてこうした施策がどれくらい実際の経営活動に影響を与えているのだろうか?ということです。

仮に、こうした施策の結果、ビジネスで使えるレベルの英語力を持つ管理職が増えたとすれば、そこから生じそうな変化としては、(1)海外赴任者が減る、(2)海外拠点から本社への知識の還流が増える、の2つが考えられます。

(1)海外赴任者を派遣する理由は様々に存在しますが、その重要な要素が「本社と海外拠点の意思疎通の橋渡し役」です。本社と海外拠点の間に存在する地理的な距離や、文化や社会制度の違いは、「方針の伝達」や「現場の共有」などの意思疎通の壁になります。そこに、さらに「言語の違い」が加わります。本社と海外拠点の人たちが両方同じ言語を流暢に喋れれば、直接電話なり、テレビ会議なりで話し合えばいいわけです。しかし、「本社の多くの人が英語を苦手としており、海外拠点の人たちは現地の言語あるいは英語しか使えない」という状態では、意思疎通はかなり困難になります。その結果、「よくわからんから、やっぱり日本人を送って現地のことを把握させたい」し、「本社の意思がわかっている日本人が、現地を理解した上でマネジメントしたほうが効率がいい」という意思決定になるわけです。

ですから、本社側に「海外拠点の人たちと直接、言葉を尽くして英語でコミュニケーションするのが苦にならない」という人たちが増えることで、海外赴任者を送り続けるニーズは減少する、と考えられます。個人的な経験からすると、TOEICで高得点を取れることと、「海外拠点の人たちと直接、言葉を尽くして英語でコミュニケーションするのが苦にならない」ということの間にはかなりの壁があるので、果たしてTOEICを管理職登用の条件にすることがこれに寄与するのだろうか、という懸念はあります。とはいえ、組織自体のベースラインが上がることで、上記のような条件を満たす人の比率も増えて行く可能性はあるかと思われます(と、いうか、それが狙いなわけですしね)。

私自身は、赴任者を減らせばいい、と思っているわけではありません。むしろ、赴任者は重要な役割を担っているので、「欧米企業より日本企業は赴任者が多い、だから赴任者の数を減らすべきだ」という議論は単純で乱暴だと思ってます。が、一方で、赴任者にコストがかかるのは現実な訳で、語学力が高めることで赴任者の必要性が下がる、というのは、一つの経営の選択肢としてあっていい、と思っています。

次に(2)海外拠点から本社への知識の還流が増えることについても、同じようなロジックです。「海外拠点から本社への知識の還流」というのは、具体的に言えば、海外拠点が接している市場の状況が的確に本社で認識されたり、あるいは、海外拠点で生み出された新しいマネジメントのノウハウや技術などが本社に認識され取り入れられる(あるいはさらに他の拠点に横展開される)といったことが考えられます。

多国籍企業にとって、「本社から海外拠点に知識を移転する」ことは、ほとんど当たり前と言っていいことです。というのも、そもそもの海外展開の狙い自体が、「本国で生み出された様々な技術やノウハウをもとに、海外でも事業展開して稼ごう」というものであることが多いからです。また、経営意思決定をする本社の幹部が、本社での物事のやり方や、本社で生み出された技術やノウハウに詳しいから、でもあります。「あれを現地にも持っていけばいいじゃないか」と考えやすいわけです。一方、海外拠点から本社への知識の移転はそうではありません。まずは、海外拠点が成熟し、自分たちで市場をとらえ、新たな知を生み出す努力を自分たちでできる水準に到達する必要があります。その上で、海外拠点が獲得し、生み出した知識(=現地の市場に対する理解や、現地独自のノウハウや技術)の内容と価値を本社側が理解できないと、海外拠点から本社への知識の移転は生じません。そして、そこには、上述の通り、文化や社会制度が違う(=当たり前の前提条件が違う)ことが壁になるわけです。

過去の研究から、「本社から海外拠点への赴任者」や、「海外拠点から本社への逆赴任者」といった形で、人を赴任させることは、現地から本社への知識移転を促進することがわかっています。上記の(1)のロジックにそえば、本社に「海外拠点の人たちと直接、言葉を尽くして英語でコミュニケーションするのが苦にならない」人が増えることで、「人を赴任させる」ことに加えて、「共通の言語で話し合う」ことで、さらに知識の移転がされやすくなる、と考えられるわけです。さらには、赴任者が果たしてきた知識移転の役割を、遠隔での直接対話で代替できるかもしれません。

このように、「英語力を高める」ための人事施策には、確かに、国際ビジネス上の事業活動のあり方自体に変化を生む可能性があるわけです。

ここで気になるのは、そろそろ検証が行われてもいいころでは?ということです。英語はあくまでもコミュニケーションの手段ですから、「従業員の英語力を高める」ための施策の成果として、本来検証すべきなのは、こうしたビジネス上の成果が上がることだと思われます。企業単位ではなかなか検証が難しそうですから、多くの企業のデータを比較して、果たして影響があったのか、といったあたりについて検証をしてみたいところです。

イギリスにいた際にお知り合いになった日本企業の赴任者の方々とのコミュニケーションから受ける印象では、「あんまり変化してないのでは?」という気もするのですが、だとするとそれはなぜなのか、ということが気になりますよね。ビジネスにいい影響を与えるために「英語力を高める」施策を打ったわけですから、それがビジネスのあり方の変化に結びついていないとすれば「施策が不十分だった」「他の要因が障害になっている」「成果が出るのにもっと時間がかかる」あたりの要因を探る必要がある、と思うわけです。

中国と日本では「全てを語らない」コミュニケーションは共通だが、だからと言って、中国人と日本人の間でそれが通じるわけではない。

 

以前の書き込みで、日本企業における「全てを語らない」コミュニケーションの、海外展開における問題。という話を書きました。簡単に言うと、日本企業では、考えていることの「全てを語らない」コミュニケーションが一般的で、こういうコミュニケーションは、同じ組織で長い経験を積んだ、「当たり前」を共有した人たちが集まっている日本の職場では機能するものの、そうした共通の土台がない海外拠点の従業員には、それはほぼ通用しない、と言うお話でした。

その原稿でも軽く触れましたが、こうした「みなまで語らない」コミュニケーションは、日本人だけの特徴ではありません。私が現在、働いている中国にも似たようなところがあるようです。

実際、比較文化研究で、従来から東アジアの国々(日本や中国、韓国など)の特徴として、「全部を語らない」コミュニケーションスタイルはよく知られているのですが、改めて中国の大学に着任してみて、「本当にそうなんだ」と感じているところです。先週、中国に着任してから、勤務先の組織管理学部の教授たちと親睦を深めるために何回か個別にランチをとるなかで、「中国の組織の特徴」として異口同音に語られたのが、このポイントだったのです。

例えば、僕が所属する組織経営学部の学部長である周教授いわく、

「得てして中国人の間のコミュニケーションは、相手に配慮して、はっきり言わないのが良しとされがち。お互いに意図を探り合ってばかり、というのがよくある。」

ということです。この話は、

「だけど、うちの学部では、そんなことをしてたら研究の発展はないと思っている。なので、お互いに厳しい意見も含めて率直に言い合うことを重視してる。君も言いたいことがあったらストレートに言って欲しい」

という風に続くのですが、わざわざそれを口に出して説明する、ということは、普通にしていると「いいたいことがあってもはっきり言わない」コミュニケーションになりがちだ、ということでしょう。

この教授は50代の中盤ですが、もっと若手の中堅研究者たちに聞いても「はっきり言葉に出して要望されなくても、相手の言外の意図を察して行動しないといけない場面は、中国の組織ではよくある」という話が出てきましたので、年配者だけの傾向とは言えないようです。

そういえば、LSEで教えていた時も、中国人の学生はどちらかというとアメリカ、ヨーロッパの学生が授業の中でガンガン、ストレートに話す傾向があるのとは対照的に、遠慮がちで周りの雰囲気を見ながら発言をする傾向がありました。

 

ここからは、「中国人は、全部を語らないコミュニケーションへの適応力が高いのでは?」という仮説が成り立ちます。だとすれば、中国に赴任した日本人上司が「全部を語らない」日本流のマネジメントをしても、中国の現地従業員はそれをうまく理解して、対応してくれるのでは?ということです。

残念ながら、筆者が知る限り、全くそんなことはありません。むしろ、日本人が「全てを語らない」コミュニケーションをすることに対して、中国人部下はフラストレーションや不安を感じていて、そのことがマネジメント不全になっている、と言うケースは、そこかしこで耳にします。

日系企業の中国現地法人でインタビューをしてみると、

「日本人上司は、自分の考えていることを、全然はっきり口にしない。
そういう上司は信頼できない」

「何を期待されているのか、何をやれば評価されるのかが分からないので不安になる」

といったコメントが頻出するのです。逆に、日本人赴任者からも、

「日本と違って、あらゆることを言葉にして説明しないと、現地従業員に自分の意図が伝わらない。また、現地の従業員は、何でもかんでも言語化、数値化して、はっきり示して欲しい、と求めてくる。」

「日本のスタイルを変えられない赴任者は、たいてい成果が出ない。部下が付いてこないし、下手をすると辞めてしまう」

といったお話をよく伺います。

ここからは、中国人の間では「全てを語らない」コミュニケーションに慣れている人たちであっても、「日本人ー中国人」の間のコミュニケーションでは、その能力を発揮できない、ということがわかります。

前回の議論の通り、日本の組織での経験がない中国の現地従業員に、日本で共有されている「当たり前」を前提にした「全てを語らない」コミュニケーションは通じないのです。さらに言えば、育った社会環境や日々の生活の中で接してきた情報も異なっているわけで、様々な面で「日本人同士の間であれば言わなくても通じる」はずの共通認識が、「日本人と海外拠点の現地従業員」の間には成立しにくいのです。

逆に言えば、「全てを語らない」コミュニケーションが通用するのは、同じ社会、同じ組織、で過ごしたことが共通体験として存在し、「全てを語らない」でも「言外の意図」の推測が可能な特殊な環境だけだ、と考えるべきなのでしょう。