「国立競技場のドタバタを批判する」ことを批判的に考察する。

新国立競技場でまた問題が生じたようだ。

新国立競技場、聖火台の置き場なし 「要望聞いていない」とJSC (ハフィントンポスト日本版)

ここまでくると、ドタバタ劇として面白くなってきた。不謹慎って言われるかもしれないけども。

しかし、一歩引いて考えると、このことは大事な示唆があるようにも思う。

日本では一般的に「ものごとが細部まできっちり計算されて、漏れがないこと」が尊重される。それが高品質とか信頼性、といった評価につながっている。イギリスに住んでみて、様々な国から来た人と接する中で、相変わらず日本製品の品質や信頼性は尊敬されているし、自分の実感としても、日本のものは安心だ、と思う。

この背景には、文化論でよく知られているホフステッドの枠組みで考えると、「不確実性の回避」傾向が日本では強いことがあるのだろう。日本人は、相対的に見ると、不確実なこと、予期せぬことが起きることを許容できる程度が低く、見通しが立つことが好きなのだ。

しかし反面、こうした価値観の逆作用としては、意思決定に多くの人が関わり、慎重に検討が行われるため、逆にスピード感がないとか、大胆な変化が出来ないっといったことにもつながっている。このことを、海外や外資系企業で働いた経験のある人が、「だから日本企業はダメだ」的な論調で批判して語っていることも目にする。

本件、そのあたりを批判している人たちはどう見るのだろうか。

僕は、日本の高品質や信頼は素晴らしいと思う反面、意思決定に時間がすごくかかることや、大胆さにかけるところは変わった方がいいと思っている。

だから、個人的には、本件についても、みんなで不具合を見つけて、ドンドン機動的に修正して行って、結果的に上手くいけばいいんじゃないの?と思う。もちろん、想定外のお金が消費されてるとか、期日に間に合わないかも、みたいなことは全然ダメだけど。途中で変更すること、ミスが見つかること自体を批判するのはイマイチだと思う。

見落としがありました、変更します、を批判しすぎることは、意思決定をする人を萎縮させるし、結果的に、総花的で面白くない意思決定につながる仕組みを再生産するだけだ。

素早く、多くの要素をもれがないようにチェックして、その上で、大胆な意思決定をする、なんてことができるとすれば、それはスーパーマンだ。そして、社会に生きるほとんどの人はスーパーマンではない。

他人の意思決定に完璧を求めると、それはブーメランのように僕たち自身を縛ってしまう。そして、結果的に、みんなで慎重に判断する文化は変化しないだろう。

日本の社会を、機敏で、大胆に変化する社会になってほしい、と願うのであれば、本件のドタバタ(そのもの)を批判しすぎるのは止めたらどうか。繰り返しになるが、予算の超過や期日に間に合わない、ことは問題にしていいし、すべきだと思う。しかし、不具合が途中でてくること自体を批判するのとは、別の話だ。

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グローバル経営における、意思決定の現地化を促すもの。

グローバル経営において、意思決定をどのように本社と現地拠点のあいだで行うのが良いのか、というのは、古くて新しい問いだ。国際経営論においても、何十年も議論が続いているテーマである。

先日、このテーマに関して、日本企業のロンドンの拠点に赴任している方々とパネルディスカッションをする機会があった。イギリスにおいてもおそらく誰もが知っている日本を代表する製造業で、ヨーロッパ/イギリスにおけるマーケティング、営業活動に関わっている皆さんだ。私は、交通整理役として最初にフレームワークを提示し、問いを投げかける役割をやらせていただいた。

各社において、本社と海外拠点とのあいだでどのように意思決定を行っているのか、今後、グローバル経営における意思決定のあり方をどのようにして行こうとしているのか、を伺いつつ、何がその背景にあるのか、について議論した。議論からの示唆は大きく4つだ。

  1. 対法人向けビジネスでは、現地で意思決定をする必要性が高い。個別の顧客への対応や、個別市場にどのようにアプローチするのか、といった戦術的なレベルを超えて、中期的な製品やソリューションの開発方針といった事業戦略に近いレベルまで、現地に近いところに意思決定を分散する、あるいはその企業にとってのメイン市場(例えば欧州)に意思決定拠点を日本から移すことが必要となっている。顧客課題に地域性があり、その情報を効果的に集め、それに対する製品・ソリューションをスピーディに提供する、現地に根づいて長期的ビジネスをやっていく覚悟がある、という姿勢を現地の企業から認められないと、現地の競合に勝てないためだ。
  2. この傾向は、製品・ソリューションににおけるソフトウェアのウェイトが高まることで加速している。アジャイル開発、スクラム開発などの手法の発展によって、新たな仕様を実装、提供するサイクルが短期化したためだ。この結果、ヨーロッパから日本本社に諮り、意思決定をして、というスピードでは追いつかなくなっている。特に、日本本社の意思決定に時間がかかることが障害となっている。ハードウェアのウェイトが高い時代は、開発サイクルが長かったため、本社の意思決定スピードが制約になることが相対的に少なかったが、ソフトウェア比重が高くなることで、日本本社の意思決定は遅すぎる、という問題意識が(海外拠点においては)高まっている。
  3. 一方逆に、消費者向けの家電ビジネスでは、グローバルに統括管理をする重要性が相対的に高い。今回の議論で語られた最大の懸念は価格政策である(これは恐らくパネルメンバーがマーケティング畑の業務に現在関わっておられるということも一因かと思う)。世界のどこからでも商品が流通するため、どこかで安安く売ると、それが他の地域に流入してしまう。販売拠点間、代理店間の価格の統制は、本社がグローバルで統括する必要がある。
  4. また、日本に技術的な強みの基盤が集中している場合、海外拠点に意思決定を大胆に移すことには躊躇が発生する。製品仕様など、意思決定にマーケティング上の見解だけでなく、技術的な知識、ノウハウの蓄積が必要となるからだ。より表層的な部分については意思決定を海外に移管、あるいは分散できても、製品、ソリューションのコア機能を担う部分については(当面は)日本で担う、あるいは関わる必要があるという見解が各社から聞かれた。ただし、逆に、海外で買収した企業が持っていた技術、ノウハウをコアに事業展開をする領域については、逆に海外に意思決定の機能を持っていくという判断が進みやすい。

1と3は市場特性、という観点でコインの裏表、と言っていいだろう。3で価格政策をグローバルに統括する必要があるのは、グローバルに共通の製品が通用する、という市場特性があるからだ。1は逆に、グローバルに共通の商品が通用しにくい、という特性が、意思決定の現地化を促している。

4は、自社のコア知識の源泉の立地と、事業戦略上の意思決定の立地を切り離しにくい、という話である。1や3における市場特性への注目とは異なり、ここでは自社内の強み(Firm Specific Advantage = FSA)に注目した議論だ。

ここで大事なのは、市場特性上、意思決定の分散化、あるいは日本から他の地域への移転が有効と考えらる場合であっても、知識はそれほど簡単に移転できない、という点だ。暗黙知も含めた深い知識の蓄積には、粘着性(stickiness)があり、蓄積された「場」から簡単には流れないという特性がある。インターネットで情報がやりとりされる時代になっても、シリコンバレーがイノベーションの源泉として機能し続けていること、物理的にそこに「いる」ことが、シリコンバレーに蓄積され、作り出される知識にアクセスする上で重要なことを見ても、物理的な場所に(広い意味での)知識が粘っこく蓄積されることは見て取れる。この例は企業や大学などをまたぐ、産業クラスターの話だが、企業内においても、知識には粘着性がある。

ここから考えると、海外拠点にそうした知識蓄積を行うには時間をかけて自社で行うか、既にある知識蓄積を買収するのが早い、という話になる。これは私見だが、そうした粘着性は恐らく日本企業においては特に高いかもしれない。日本人のコミュニケーションが一般的にハイコンテキストで、言葉で知識を明示的に伝える習慣が相対的に弱いからだ(逆に、空気を察する、という力が強いわけだが、それは文脈を共有していない人には通じない)。

個人的に最も面白いかったのは2だ。どんなビジネスにおいても意思決定のスピードは重要だが、扱っている商品、サービスによって自ずと「会社が持っている時計」のサイクルは違う。ハードウェアの開発のスピードと、日本企業の意思決定サイクル、スピードはそれなりに噛み合っていたのだろう。しかし、ソフトウェア依存の要素が増えた(逆に言えば、ソフトウェアを改めることで、ハードウェアはそのままでも提供価値を高めることができるようになった)ことで、これまで慣れ親しみ組織に根づいている「時計」よりも早いスピードで開発サイクルをまわすことが可能になり、その結果、海外拠点側の本社中心の意思決定に対するフラストレーションが生まれている。果たして、この「時計」のミスマッチの問題に、日本企業はどのように対応するのだろう。

Googleのイギリスへの納税問題に見る、多国籍企業に対する国家主権のささやか(?)な勝利。

BBCでは、Googleがイギリスの国税当局(HMRC)に1億3000万ポンドを収めることに合意したというニュースが今日のトップニュースだった。

Google agrees £130m UK tax deal with HMRC

背景をご存じない方のために多少補足をすると、このアクションは数年前から起きている、多国籍企業の節税、あるいは脱税(論者によってどう呼ぶかは結構まちまち)行為に対する批判に端を発している。

AmazonやGoogle、Starbucks Coffeeなどが、世界各国の税制優遇制度をうまく組み合わせて、イギリスなどの進出先国で大量の売り上げを上げておきながら、実質的に、現地の税金をほとんど払っていない、ということに対する批判である。

イギリスでは、財務大臣(Chancellor of the Exchequer)のGeorge Osborneが議会でイギリスでの活動に見合った税金を納めさせる!と大見得を切るなど、かなり大きなニュースになっていた。

こうした社会問題化を受けて、税務当局によってGoogleに対する監査が行われ、それに対して、Googleは、自分たちが脱税をしたということは認めないものの、ルールの変更に対応する、という名目で1億3000万ポンドを支払うことに合意した、というわけだ。

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これを、少し引いた目で見ると、国家主権と多国籍企業の間の綱引き、というふうに見える。

国家の側からすると、企業は雇用を生み出してくれたり、技術などを持ち込んでくれる存在であり、多国籍企業には自国に進出してほしい、という欲求が存在する。特に失業率が社会問題になりやすいヨーロッパの政治においては、雇用の創造は重要である。結果として、税制優遇などいろいろな方法を用いた、国間の多国籍企業の誘致競争が行われている。

こうした状況は、多国籍企業の側からすれば有利な状況である。彼らは国境を越えて活動を行い、様々な国の制度を自分たちに都合がいいように活用することができるからだ。国々を比較して、相対的に有利な条件を提供している国に拠点を動かす、あるいは、各国の税制をうまく利用して納税額を抑えたりすることができる。

その結果が、「イギリスで何億円もの収益を上げているにもかかわらず、実質的にイギリスでほとんど税金を払わない」といった現象だ。

しかし、このことは国家からすれば問題である。企業が活動する上では、その国の様々なインフラ、社会制度を活用している。例えば、その国の高等教育のおかげで優秀な人材を採用できる、あるいは、国が法制度を維持、整備してくれているおかげで、自分たちのビジネスを守ることができる、といったことだ。こうした社会的なインフラ、制度は公共財であり、その国に入れば自然と活用できるものだが、その維持には税金が使われている。イギリスで活動し、利益を上げているのに税金を払わない、ということはすなわち、そうした社会インフラ、制度にただ乗りしている、ということなのだ。

しかし、上述のように企業は国境を越えて活動できる、そして、各国が企業を惹きつけたいがために制度を利用しているだけである。企業の側からすると、「真っ当にルールに従っているだけだ」という正当化が可能なのも、また事実だ。今回の件で、Googleが自分たちは脱税をしていたわけではない、という立場を崩さないのも、こうした従来の主張と一貫している。

今回に関して言えば、イギリスの当局が結果的にGoogleに税金をイギリスに対して収めることに同意させた、というわけで、国家主権の側が多国籍企業に一矢報いた、と言えるだろう。ルールに従っている、という名目のもとで、ただ乗りするのは許さない、というわけだ。

しかし、国の側に、企業を惹きつけたい一方で、きちんと税金を取りたいという欲求があり、企業の側に、国境を越えて活動できるという自分たちの強みを生かして、少しでも自分たちに有利な条件でビジネスを行いたい、という欲求がある限り、この綱引きの構造は大きくは変わらないだろう。つまり、このニュースは、おそらく、国家主権と多国籍企業とのパワーゲームの一幕に過ぎない、ということだ。

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しかし、それにしてもGoogleが国税当局に対して支払いに応じたのはなぜだろうか?。今回の例でいえば、2005年からの6年間の活動に対応する税額だ、ということなので、昔やったことに対して、後から決めたルールを遡って適応して税金を支払う、という話である。「ルールの変更に対応している」と声明では言っているが、通常はルールは決めたらその時点から後のことに対して適応されるものだ。だから、法的な面だけ考えれば、Googleがこの額を支払う義務はないように見える。

ここのキーワードは、Legitimacy(正当性)ではないか。経営学には、「企業が社会で活動を続ける上では、実は法律を満たすだけでは不十分である。社会から、存在を認められ、正当な社会の一員として認められている必要がある」という考え方がある。CSRなどにも関連する概念である。

特に、この考え方は国際経営においては重要だ。なぜなら、外国企業は自国の企業よりも正当性が認められにくい傾向があるからだ。その国で労働者を惹きつけ、政府から許認可を得て、取引先を開拓し、ビジネスを育てていく上では、正当性を確保し、まともな企業である、というふうに見られることは、基盤と言っていい。正当性が認められないと、一つ一つの活動で相手から信用を獲得することにいちいちコストがかかる。

Googleは世界的に有名であり、その先進性も含めて一流の企業だと広く認知されている、と言っていいだろう。しかし、そうした企業であっても、進出先の国の政府や大衆から、「現地の税金を払わずに『ただ乗り』している」というふうに見られてしまうことは、正当性を損ない、目に見えないコストとして、将来に禍根を残すことになる。そうした判断があったのではないか。

また、もう一つ重要なのは、Googleが、「正しいことをする」ことを会社としての理念として掲げていることだ。何が正しいことなのか、というのは議論の余地があるが、進出先の国から「ただ乗り」として指を指されることは「正しいこと」ではない、というふうに感じる幹部や社員がいたとしてもおかしくない。社員に対して、経営層が自分たちの経営判断の「正当性」を示す、ということも、今回の経営判断の背景にはあるのかもしれない。理念として掲げた以上は、約束を守らないと、進出先の国だけではなく本国も含めた各地の従業員からもそっぽを向かれてしまうかもしれない、ということだ。

そういう意味では、Googleの側にとっても、今の社会の情勢を捉えた時に、自分たちにとって結果的に得なのはどういう風に振る舞うことなのか、ということを冷静に考えた上での意思決定であったように見える。まさに彼らが声明で述べている通り、法律だけではない、社会的な認知のあり方も含めた「ルールの変化」を捉えて対応した、ということだろう。

伝統は創造される。

先日、British Museum(大英博物館)でやっていた、Celt – Art and Identityという企画展に行ってきた。

皆さんは、”ケルト”についてどれくらいご存知だろうか?
展示によれば、最初はギリシャ人が自分たちの文化圏の外側の人々をΚελτοίと読んだのが、歴史上の初の記録らしい。フランスからドナウ川流域まで、かなり幅広い範囲の人たちがこの呼び名で呼ばれていた記録が残っており、明確に特定の民族集団を示す単語ではなかったようである。

ただし、文化の面で、ギリシャやローマに代表される地中海系の工芸品とは異なる系統の美意識を共通して持っていたようで、上の写真にもあるように、螺旋や円を強調した抽象性の強い様式が特徴的な工芸品が多数展示されていた。

この文化は、ローマ帝国の拡大による地中海文化のヨーロッパ全域への展開、また、その後のローマ帝国の崩壊などをへて、いろいろな文化と融合したりしていくのだが、ケルトという言葉自体は、一度完全に忘れられてしまう。

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しかし、面白いのはここからである。現代のイギリス周辺には、自分たちを「ケルト文化の継承者」として認識している人たちが一定数存在するのだ。アイルランド、スコットランド、マン島、(イングランド東部の)コーンウォール、(フランス北西部)のブリタニーなどに住んでいる人たちだ。

この人たちは、どうやって自分たちを「ケルト」だと認識するようになったのだろうか?

実は、この人たちは、遺伝的には共通の集団に属しているわけではなく、かなりバラバラな出自の遺伝集団であることがわかっている。そして、近代にある出来事が起きるまでは、それらの人たちを「ケルト文化群」と考える人もいなかったという。

しかし、これらの地域には、英語やフランス語とは違う、独自の言語が存在し、今でもかなりの人たちがその言語を使っている。そして、それらの言語の間にかなり共通性があることが近代になって言語学的に明らかになったのだ。

そして、それを明らかにした研究者が、ルネッサンス以降に再発見されたギリシャの文献をもとに、「ケルト語群」とこれらの言語を読んだことから、「ケルト」という民族意識の創造が始まる。

自分たちは、イングランド、フランスとは違う、独自の歴史を持つ集団なのだ、という自意識である。

心理学的に言えば、人は誰しも、自分について肯定的に考えたい、という欲求を持っている。そして、自分が属している集団が特別なのだ、価値があるのだ、と思うことは、そうした自己肯定感の礎になる。

ちょうどそれにタイミングを合わせるように、上述のような独自の美意識を持った工芸品がイングランドも含めた様々な場所で発掘され、その様式を模倣したアクセサリーなどが流行することで、「独自の文化を持っていた過去の民族集団がここにいたのだ」というロマンティックなイメージが「ケルト」という言葉に付加されていく。

そして、現在は、Celtic Nationsという言葉が存在する。

Wikipedia – Celtic Nations

ここでさすNationsという言葉は、実際に独立した国を必ずしも指すわけではなく(アイルランドはもちろん独立国だが)、上述の自分たちを「ケルト文化の継承者」と考えている人たちの住む地域を指している。

そして、それらの地域の人たちが集まって、「ケルトの文化」を祝うお祭りが様々に作り出され、実施されている。また、それらの地域間のラグビーリーグのような、スポーツのイベントも実施されている。それらの祭りに参加した人たちは、おそらく、ケルトの伝統を感じ、アイデンティティの一部として抱くようになるだろう。こうして、伝統は再創造され、継承されていく。

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この話は、民族集団としての自意識や、それを支える伝統は、実はかなり流動的なもので、社会的に創造され、維持されるものなのだ、ということを、実に分かりやすく示してくれる。

そういう意味で、今回の展示会は非常に良い機会だった。

我が身を振り返って考えれば、日本人、という自意識が本格的に確立されたのはおそらく明治維新前後だろう。もちろん、日本という国号自体は遥か昔に成立していたようだが、明治に入って標準語が作られ、新聞が広まり、共通の教育が行われるようになるまで、ほとんどの人は、「XX藩の人」あるいは「XX村の人」という自意識がアイデンティティの中核だったのではなかろうか。

日本という国自体は、世界で最も古い国として認識されているようだが、だからと言って、自分たちが今、伝統だと思っていることが、ずっと続いてきたとは限らない。また、人々がずっと、自分のことを日本人だと思って生きてきたわけでは、おそらくない。これからについても同じである。

国際比較調査にはご用心。

データを読み込み、理解する力は現代のビジネスにおいて重要な能力の一つと言っていいだろう。ビッグデータの様々なビジネス分野における活用や、データサイエンティストの活躍に見られるように、データドリブンのビジネス意思決定が広まっている。

昨日ちょうど出ていたニュース記事に、人事領域でのデータ活用についての記事があった。

TechCrunch – HR Technology Conferenceに見る人材領域イノベーションと日米温度差

表題の通り、日米での人事領域におけるデータ活用の違いについて語っているもので、内容自体は非常に興味深く読んだ。筆者が日本における人事領域でのテクノロジー活用の展開の遅さに警鐘を鳴らしていることは、筆者がまさに人事領域でのアプリケーションの提供をしていることを割り引いても、納得できる話だ。

新しいテクノロジーの導入に日本企業が慎重なことはこれまでにも様々な場で指摘されてきているので(例えば、ITメディア ー 日本人の生真面目さが企業をダメにする)、ここでもか、という印象である。

さて、しかしここで議論したいのはそこではない。筆者が記事の中で引用している日本企業におけるエンゲージメントの低さについての調査データだ。

エンゲージメントの高い社員は、比例してパフォーマンスが高くなると証明されているにも関わらず、アメリカ全体でエンゲージメントが高い社員は全体の三分の一以下に留まっているという。ちなみに日本はどうかというと、2013年のGallupの調査では7%とアメリカを大幅に下回る数字が出ている。調査会社により数字の違いはあるものの、Aon Hewittの調査でもダントツで世界最低水準となっている。

この手のデータはよく引用されており、日本の職場慣行について批判的に議論する上では使いやすいのだが、重大な落とし穴がある。実は、この手のサーベイ調査への回答の平均値を元に国際比較することには、かなり大きなハードルがある。

それは「項目の解釈」と「回答パターン」に関する問題だ。

事実を聞く質問(例えば、「あなたは通勤に何時間かけますか」)の場合は、世界中のどこで質問をしても、回答は比較的安定している。翻訳をしたとしても、質問が指し示す現象が劇的に変わることは無いし、事実を聞いているので、単純に事実を答えればいいからだ。この場合は、国際比較もしやすい。

それに対して、主観的な心理について聞く質問は、まったく違う問題を抱えている。まず、どんなに頑張って翻訳をしても、国、言語によって解釈に違いが生まれやすい。翻訳先の言語に、元の言葉の意味にちょうどぴったり対応する概念がない場合は特にそうだ。ここでいう、エンゲージメントはまさにそうだ。だからこそ、漢字やひらがなで表現できる日本語に翻訳がなされずに、そのままカタカナとして使われ続けている。もちろん、Gallupにせよ、 Aon Hewittにせよ、この問題は理解しており、慎重に翻訳をして、同じような意味の項目であることを担保していると思うが、それなりのチャレンジである、ということは改めて述べておきたい。

次に、よりこちらの方が大きな問題だが、国によってサーベイの回答パターンに違いがある。簡単に言えば、以下のような5段階の選択肢から、どれを選びやすいか、ということだ。

1. 全くそう思わない
2. あまりそう思わない
3. どちらとも言えない
4. そう思う
5. 全くそう思わない

日本人は相対的に見て、調査に回答する際に控えめに選択することが知られている。つまり、肯定的な回答をあまり選ばないのである。また、中庸な選択肢(この場合は3)を選びやすい傾向がある、と指摘する研究もある。

例えば、Anne-Wil Harzingは、様々な調査項目を含む、26カ国の調査データをもとにした分析で、各国の回答パターンについて報告している。肯定的な回答の選択率から否定的な回答の選択率を引いた値(相対的に肯定的に答えやすい度合いを示す)は、26か国中で日本が圧倒的に低い。

こうした、回答パターンの違いがあるため、エンゲージメントに関する調査回答の平均値に国間で差があったとしても、、果たしてその差違が、回答パターンの違いによるものなのか、それとも実際に感じていることが違うことによるものなのか、切り分けが難しいのである。データとして、日本人のエンゲージメントに対する回答が低いことは事実だとしても、それをすなわち「日本人はエンゲージしていない」と解釈するのは間違いかもしれない、ということだ。

まさに、冒頭の記事の筆者が書いている通り、データがReliable(信頼できる)かどうか、慎重に考える必要がある。特に、主観的な心理について聞く調査の回答についてはそうだ。そのまま文字通り国際比較をしても解釈をしてもいいのか、そうではないのか、用心した方が良い。

日本マクドナルドについて国際経営の観点から考える。

米マクドナルドが日本マクドナルドの売却を考えているというニュースが出ております。

(日経新聞)
日本マクドナルド売却 米本社、ファンドなどに打診

業績もここ数年かなり厳しかったようですし、本国でも様々な新しい強豪や若者の食生活の志向の変化もあって厳しいようなので、なるほどそうきたか、という感もあります。

マクドナルドについては、色々とビジネス系のサイトなどで分析や解説記事が出ておりますが、総じて日本の市場の構造的な変化に着目したり、藤田氏時代の人材育成や日本ローカルの市場を重視した経営をポジティブに評価し、その後の本社主導の経営をどちらかというと批判的に見る記事が多い印象があります。

例えば、窪田真之の「時事深層」 16 日本マクドナルドはなぜ低迷しているのか?–外食業界の”二極化”鮮明に とか、マクドナルドと「ライバル外食」を分析する 「独り負け状態」に歯止めはかかるか? など検索すると出てきました。

いずれにしても、これらの記事の特徴はマクドナルド、というグローバルビジネスの進出先の一つである、日本、という市場の視点から見た記事な訳です。まあ、日本で上場もしている、ずいぶん歴史もある企業で、日本人の読者が読むことを想定して書くわけで、ある種、当然かもしれませんが。

しかし国際経営という観点から言うと、ローカルの視点も面白いのですが、逆にアメリカ本社から見るとどう見えていたのだろうか、という本社の視点でも考えてみるのも、なかなか面白いです(敢えて、本社=グローバル、とは言ってません。多分、アメリカの視点が多分に含まれているので)。特に、本社から海外拠点に対するガバナンスやコントロール、という観点ですね。

ここからは、私の妄想です。

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改めて歴史を少々紐解いてみると、最初から現地資本(=藤田氏の経営していた貿易会社)に対するフランチャイズとして始まっているのですね(今は49.9%はアメリカとカナダのマクドの法人が保有しているようですが)。

ただし、このフランチャイズ相手は、米本社のいうことをあまり聞きません。

まず、アメリカで成功してきた地方のロードサイド店という思想を拒否して、銀座に店を開きます。さらには、標準化&規模の経済、というチェーンビジネスの原則をこれまた拒否してローカルメニューを投入。さらには、フランチャイズモデルにも素直にのっからず、社員による直営店舗を主軸にした経営を実施。ことごとく、独自路線を突き進みます。

アメリカの成功体験が判断の基軸になっているだろう米本社の経営陣からすれば、「俺たちのいうことを聞かずにやりたい放題やっている、面倒な現地のフランチャイジー」以外の何物でもなかったであろうと思われます。もちろん、日本経済の成長の中で、どんどんビジネスは成長していましたので、うまくいっているうちはまあ、大目に見ておくか、といったところだったのではないでしょうか。日本企業でも、業績を上げている現地のマネジャーは(本国中心主義の傾向の強い)東京の本社に対して発言権を持てる、というのは、ままある話のようですし。まさに、「勝てば官軍」ですね。

また、メジャー投資をしているわけではありませんから、乱暴なことは米本社からもなかなかできませんし。

さて、この後、2002年に折しものデフレの中で、低価格戦略がうまくいかず、藤田氏が引責辞任します。

さあ、こうなると、本社の経営層としてはある種、しめたもの、だったのではないでしょうか?今までいうことを聞かなかった現地の先経営者がいなくなり、業績も残念な状態、となれば、自分たちの「ウェイ」を展開して、自分たち流でちゃんと経営をする絶好の機会、と映ったはずです。

しかし飲食は文化に根付いている部分も多く、外国人が乗り込んでいってもそうそううまく行きません。となれば、いきなり本社から直接人を送るのではなく、、米国流の経営とコミュニケーションがちゃんととれる「話の通じる」現地のプロに任せよう、ということになります。さらに言えば、傾いた企業の経営者として、株主の代表である取締役会が外から候補を探して送り込む、ということ自体がとてもアメリカ的なのも、面白いところです。逆に言えば、彼らからすれば、おそらく自然な判断だったのだろう、と思われます。

さらに、そのプロでもうまく行かなかったとなると、いよいよ本社から人を直接送り込んで、ダイレクトにコントロールしなければなりません。うまく行かなくなればなるほど、気心の知れた、判断基準や能力がはっきりわかっている人に、直接判断をさせたくなる、というわけです。もちろん、この場合の能力、というのは本社の文脈ですので、上記のように文化や市場が違う、という場合にどれくらい機能するか、というのは別の話なのですが。しかし、意思決定する側からすると、認知バイアスもあって、一番確実なのはこちらから送り込むことだ、と考えたのではないかと。

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個別の戦略の良し悪しなどについては、ここでは主題ではありませんから触れませんが、率直に言って、日本マクドナルドに起きたことは、本国を中心に世界戦略を考えている側からすると、結構普通の意思決定を積み重ねてきた、ということのように見えます。

結果的にそれはうまくいかなかったわけで、今から考えると良くない意思決定だった、という風になるわけですが。数年前から、批判的な見方の論考は結構あったような気もしますので、現地市場から見ると数年前からすでに、おかしく見えたということかもしれません。

ただ、ここで考えたいのは、上記にあるような風景って、日本企業でも(それ以外の国の企業でも)沢山あるのだろうなあ、ということです。現地流でやっている合弁先の経営者を煙たく思っている本社の人とか、傾いたのを機に、立て直しに本社から乗り込むとか、その結果として現地の市場を踏まえずに手を打ってしまう、とか。世界に自社のウェイを広めたい、といった話も、以前に書いた通り、私自身がコンサルタントとしてお手伝いしてきたこともありますし、本社の側からすれば、筋の通った話であることが多いとおもいます。もちろん、視点が本社に偏っている、というのはあるのですが、一方で現地化すればいい、というのも偏った見方ですしね。

僕が思うに、ここから学ぶべきことは、向こうの本社には本社なりの思考の枠組みと、ストーリーがあって、その中で彼らなりに意思決定をしている、ということ、そして、それが現地から見ると、実に残念な意思決定に見えてしまうことだってある、ということです。それだけの判断基準や市場の違いを踏まえて、どうすれば効果的な意思決定ができたのだろうか、というふうに考えるための肥やしにするのが、このケースはいいのではないかと感じます。

日本は本当に集団主義なのかという問い。

日本は、集団主義であって、欧米の個人主義とは違う、という論考は
よく耳にする主張だが(そして、自分自身もそれを前提に幾つかの記事を書き、発表してきたが)、今日はこのことについて改めて考えてみたい。

まず、個人主義と集団主義の定義だが、HofstedeやTriandisによれば、個人主義は、個人が独立した主体であり、個人の利害が集団の利害に優先する、という価値観や考え方のことであり、集団主義は、逆に、個人は他の人々とのつながりの中で生きる存在であり、集団の利害が個人の利害に優先する、という価値観や考え方のことを指す。

これは、「自己」を何に依拠して定義するか、という問題であり、人のあり方の根本に関わるものだ。

しかし、ここでいう「集団」はかなり曖昧な議論である。

いわゆる「家族」や「親族集団」のことを指すこともあれば「会社組織」のことを指すこともある。個人主義の立場から見れば、どちらも個人ではない集団である、という点では共通だが、生活を共にする家族と、社会における経済活動の主体である「会社」は、どう考えても帰属の対象としては別のものだ。

現代の日本の文脈で考えれば、ワークライフバランスは、ほぼすなわち、「家族」をとるか、「会社」をとるか、という話だ(どうも、日本では、ワークライフバランスの話はほぼ常に、家族持ちの家族に対する責任と、会社に対する責任の対立軸で語られ、家族とも会社とも切り離された、「個人」という文脈で語られることは、僕が知る限り全くない。まあ、これは欧米でも程度の差はあれ、似たようなものかもしれないが)。

「中国化する日本」で一躍有名になった歴史学者、与那覇氏によれば、日本はどちらかといえば血縁関係で繋がる「家族」よりもむしろ、「藩」や「お家」のような、バーチャルな、仕組みとして成り立った集団を重きに置くのに対し、中国は血縁および同じ姓でつながる縁戚関係(実際に血縁があるかどうかはともかくとして)や、個人的な信頼関係を重視する、ということだ。実際、日本に関して言えば「遠くの親戚よりも遠くの他人」という象徴的なことわざが存在する。

Brewerは、このあたりの個人主義ー集団主義の二項対立の枠組みを批判して、「個人主義」「人間関係主義」「集団主義」の3つからなる枠組みを提示している。人間関係主義は、個人同士のつながり、すなわち「人脈」「コネ」を重視する考え方であり、集団主義は集団に対する帰属、すなわち「メンバーシップ」を重視する考え方だ。

個人主義者は自分の能力や実績、何をしているかで自己を定義し、人間関係主義者は、誰とつながっているのか、誰と親しいか、どのような人間関係の網の中にいるか、で自己を定義する。集団主義者は、どのような集団に属しているか、で自己を定義するのである。人間関係はあくまでも顔の見える個人の網であるのに対し、集団は抽象的な存在である。国家や企業がそれにあたるだろう。

改めて考えてみると、日本の文化はどの形なのだろうか?僕には今のところ、答えがない。なんというか、従来の集団的なものが、徐々に変わってきているような感じもするし、そうでもない感じもする。もやもやな感じである。

僕の友人は、個人主義的な要素が強い人たちが多い。「会社に縛られるのではなく、自分で決めるのが大事だし、その上で会社が自分のやりたいこととあっていれば、会社で働けばいいじゃない」というような考え方の人間が多い。彼らの家族・親族との関係はよくわからないが、家族・親族のために自分を犠牲にする、という雰囲気はあまり感じない。

一方で、極端な例だが、今年前半に結構物議を醸していた、満員電車でのベビーカーに対する批判が、「満員電車で会社に行かないといけない人たちに対して迷惑」というあたりには、ある意味、自分勝手なように見えつつ、結局は意思決定の基準は他者であるあたりが、個人主義とは言い難い。

加えて、組織や集団内における行動において、自分の主張よりも、周りの人たちの主張や利害を考慮して、明確な対立にならないように探っていくというのも、広く一般的な行動のように思われる(残念ながら電車で出くわした人たちは気を使うべき他人の範疇にも入らない人もいるわけだが)。

さらに違う話をすれば、都市部に出て働く人たちとは別に、地元で昔からの友人たちとつるんで、その輪の中で生きて行くことを志向する人たちも昔から存在する。

散漫な例だが、それだけ、多様な行動のパターンが存在する、というわけだ。日本の中にも、個人を優先している集団もいれば、組織を優先している人たちもいて、関係を中心に生きている人たちもいるのが現実である。そうなると、「日本」という括りで考えることに非常に疑問が出てくるわけである。

国際経営論の世界では、文化や制度を総じて国単位で議論することが伝統的だが、もはや「国」という単位の議論は、文脈によってはあまり意味がないのかもしれない。日本初の企業といえば、長期雇用の製造業だというわけでも、もはやないし。そうした「伝統的」企業の中の従業員の行動は、上述の通り、制度的な要因の影響を受けているわけで、それを「日本の文化」と言い切るのも、疑問を感じる昨今である。