Googleのイギリスへの納税問題に見る、多国籍企業に対する国家主権のささやか(?)な勝利。

BBCでは、Googleがイギリスの国税当局(HMRC)に1億3000万ポンドを収めることに合意したというニュースが今日のトップニュースだった。

Google agrees £130m UK tax deal with HMRC

背景をご存じない方のために多少補足をすると、このアクションは数年前から起きている、多国籍企業の節税、あるいは脱税(論者によってどう呼ぶかは結構まちまち)行為に対する批判に端を発している。

AmazonやGoogle、Starbucks Coffeeなどが、世界各国の税制優遇制度をうまく組み合わせて、イギリスなどの進出先国で大量の売り上げを上げておきながら、実質的に、現地の税金をほとんど払っていない、ということに対する批判である。

イギリスでは、財務大臣(Chancellor of the Exchequer)のGeorge Osborneが議会でイギリスでの活動に見合った税金を納めさせる!と大見得を切るなど、かなり大きなニュースになっていた。

こうした社会問題化を受けて、税務当局によってGoogleに対する監査が行われ、それに対して、Googleは、自分たちが脱税をしたということは認めないものの、ルールの変更に対応する、という名目で1億3000万ポンドを支払うことに合意した、というわけだ。

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これを、少し引いた目で見ると、国家主権と多国籍企業の間の綱引き、というふうに見える。

国家の側からすると、企業は雇用を生み出してくれたり、技術などを持ち込んでくれる存在であり、多国籍企業には自国に進出してほしい、という欲求が存在する。特に失業率が社会問題になりやすいヨーロッパの政治においては、雇用の創造は重要である。結果として、税制優遇などいろいろな方法を用いた、国間の多国籍企業の誘致競争が行われている。

こうした状況は、多国籍企業の側からすれば有利な状況である。彼らは国境を越えて活動を行い、様々な国の制度を自分たちに都合がいいように活用することができるからだ。国々を比較して、相対的に有利な条件を提供している国に拠点を動かす、あるいは、各国の税制をうまく利用して納税額を抑えたりすることができる。

その結果が、「イギリスで何億円もの収益を上げているにもかかわらず、実質的にイギリスでほとんど税金を払わない」といった現象だ。

しかし、このことは国家からすれば問題である。企業が活動する上では、その国の様々なインフラ、社会制度を活用している。例えば、その国の高等教育のおかげで優秀な人材を採用できる、あるいは、国が法制度を維持、整備してくれているおかげで、自分たちのビジネスを守ることができる、といったことだ。こうした社会的なインフラ、制度は公共財であり、その国に入れば自然と活用できるものだが、その維持には税金が使われている。イギリスで活動し、利益を上げているのに税金を払わない、ということはすなわち、そうした社会インフラ、制度にただ乗りしている、ということなのだ。

しかし、上述のように企業は国境を越えて活動できる、そして、各国が企業を惹きつけたいがために制度を利用しているだけである。企業の側からすると、「真っ当にルールに従っているだけだ」という正当化が可能なのも、また事実だ。今回の件で、Googleが自分たちは脱税をしていたわけではない、という立場を崩さないのも、こうした従来の主張と一貫している。

今回に関して言えば、イギリスの当局が結果的にGoogleに税金をイギリスに対して収めることに同意させた、というわけで、国家主権の側が多国籍企業に一矢報いた、と言えるだろう。ルールに従っている、という名目のもとで、ただ乗りするのは許さない、というわけだ。

しかし、国の側に、企業を惹きつけたい一方で、きちんと税金を取りたいという欲求があり、企業の側に、国境を越えて活動できるという自分たちの強みを生かして、少しでも自分たちに有利な条件でビジネスを行いたい、という欲求がある限り、この綱引きの構造は大きくは変わらないだろう。つまり、このニュースは、おそらく、国家主権と多国籍企業とのパワーゲームの一幕に過ぎない、ということだ。

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しかし、それにしてもGoogleが国税当局に対して支払いに応じたのはなぜだろうか?。今回の例でいえば、2005年からの6年間の活動に対応する税額だ、ということなので、昔やったことに対して、後から決めたルールを遡って適応して税金を支払う、という話である。「ルールの変更に対応している」と声明では言っているが、通常はルールは決めたらその時点から後のことに対して適応されるものだ。だから、法的な面だけ考えれば、Googleがこの額を支払う義務はないように見える。

ここのキーワードは、Legitimacy(正当性)ではないか。経営学には、「企業が社会で活動を続ける上では、実は法律を満たすだけでは不十分である。社会から、存在を認められ、正当な社会の一員として認められている必要がある」という考え方がある。CSRなどにも関連する概念である。

特に、この考え方は国際経営においては重要だ。なぜなら、外国企業は自国の企業よりも正当性が認められにくい傾向があるからだ。その国で労働者を惹きつけ、政府から許認可を得て、取引先を開拓し、ビジネスを育てていく上では、正当性を確保し、まともな企業である、というふうに見られることは、基盤と言っていい。正当性が認められないと、一つ一つの活動で相手から信用を獲得することにいちいちコストがかかる。

Googleは世界的に有名であり、その先進性も含めて一流の企業だと広く認知されている、と言っていいだろう。しかし、そうした企業であっても、進出先の国の政府や大衆から、「現地の税金を払わずに『ただ乗り』している」というふうに見られてしまうことは、正当性を損ない、目に見えないコストとして、将来に禍根を残すことになる。そうした判断があったのではないか。

また、もう一つ重要なのは、Googleが、「正しいことをする」ことを会社としての理念として掲げていることだ。何が正しいことなのか、というのは議論の余地があるが、進出先の国から「ただ乗り」として指を指されることは「正しいこと」ではない、というふうに感じる幹部や社員がいたとしてもおかしくない。社員に対して、経営層が自分たちの経営判断の「正当性」を示す、ということも、今回の経営判断の背景にはあるのかもしれない。理念として掲げた以上は、約束を守らないと、進出先の国だけではなく本国も含めた各地の従業員からもそっぽを向かれてしまうかもしれない、ということだ。

そういう意味では、Googleの側にとっても、今の社会の情勢を捉えた時に、自分たちにとって結果的に得なのはどういう風に振る舞うことなのか、ということを冷静に考えた上での意思決定であったように見える。まさに彼らが声明で述べている通り、法律だけではない、社会的な認知のあり方も含めた「ルールの変化」を捉えて対応した、ということだろう。

日本マクドナルドについて国際経営の観点から考える。

米マクドナルドが日本マクドナルドの売却を考えているというニュースが出ております。

(日経新聞)
日本マクドナルド売却 米本社、ファンドなどに打診

業績もここ数年かなり厳しかったようですし、本国でも様々な新しい強豪や若者の食生活の志向の変化もあって厳しいようなので、なるほどそうきたか、という感もあります。

マクドナルドについては、色々とビジネス系のサイトなどで分析や解説記事が出ておりますが、総じて日本の市場の構造的な変化に着目したり、藤田氏時代の人材育成や日本ローカルの市場を重視した経営をポジティブに評価し、その後の本社主導の経営をどちらかというと批判的に見る記事が多い印象があります。

例えば、窪田真之の「時事深層」 16 日本マクドナルドはなぜ低迷しているのか?–外食業界の”二極化”鮮明に とか、マクドナルドと「ライバル外食」を分析する 「独り負け状態」に歯止めはかかるか? など検索すると出てきました。

いずれにしても、これらの記事の特徴はマクドナルド、というグローバルビジネスの進出先の一つである、日本、という市場の視点から見た記事な訳です。まあ、日本で上場もしている、ずいぶん歴史もある企業で、日本人の読者が読むことを想定して書くわけで、ある種、当然かもしれませんが。

しかし国際経営という観点から言うと、ローカルの視点も面白いのですが、逆にアメリカ本社から見るとどう見えていたのだろうか、という本社の視点でも考えてみるのも、なかなか面白いです(敢えて、本社=グローバル、とは言ってません。多分、アメリカの視点が多分に含まれているので)。特に、本社から海外拠点に対するガバナンスやコントロール、という観点ですね。

ここからは、私の妄想です。

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改めて歴史を少々紐解いてみると、最初から現地資本(=藤田氏の経営していた貿易会社)に対するフランチャイズとして始まっているのですね(今は49.9%はアメリカとカナダのマクドの法人が保有しているようですが)。

ただし、このフランチャイズ相手は、米本社のいうことをあまり聞きません。

まず、アメリカで成功してきた地方のロードサイド店という思想を拒否して、銀座に店を開きます。さらには、標準化&規模の経済、というチェーンビジネスの原則をこれまた拒否してローカルメニューを投入。さらには、フランチャイズモデルにも素直にのっからず、社員による直営店舗を主軸にした経営を実施。ことごとく、独自路線を突き進みます。

アメリカの成功体験が判断の基軸になっているだろう米本社の経営陣からすれば、「俺たちのいうことを聞かずにやりたい放題やっている、面倒な現地のフランチャイジー」以外の何物でもなかったであろうと思われます。もちろん、日本経済の成長の中で、どんどんビジネスは成長していましたので、うまくいっているうちはまあ、大目に見ておくか、といったところだったのではないでしょうか。日本企業でも、業績を上げている現地のマネジャーは(本国中心主義の傾向の強い)東京の本社に対して発言権を持てる、というのは、ままある話のようですし。まさに、「勝てば官軍」ですね。

また、メジャー投資をしているわけではありませんから、乱暴なことは米本社からもなかなかできませんし。

さて、この後、2002年に折しものデフレの中で、低価格戦略がうまくいかず、藤田氏が引責辞任します。

さあ、こうなると、本社の経営層としてはある種、しめたもの、だったのではないでしょうか?今までいうことを聞かなかった現地の先経営者がいなくなり、業績も残念な状態、となれば、自分たちの「ウェイ」を展開して、自分たち流でちゃんと経営をする絶好の機会、と映ったはずです。

しかし飲食は文化に根付いている部分も多く、外国人が乗り込んでいってもそうそううまく行きません。となれば、いきなり本社から直接人を送るのではなく、、米国流の経営とコミュニケーションがちゃんととれる「話の通じる」現地のプロに任せよう、ということになります。さらに言えば、傾いた企業の経営者として、株主の代表である取締役会が外から候補を探して送り込む、ということ自体がとてもアメリカ的なのも、面白いところです。逆に言えば、彼らからすれば、おそらく自然な判断だったのだろう、と思われます。

さらに、そのプロでもうまく行かなかったとなると、いよいよ本社から人を直接送り込んで、ダイレクトにコントロールしなければなりません。うまく行かなくなればなるほど、気心の知れた、判断基準や能力がはっきりわかっている人に、直接判断をさせたくなる、というわけです。もちろん、この場合の能力、というのは本社の文脈ですので、上記のように文化や市場が違う、という場合にどれくらい機能するか、というのは別の話なのですが。しかし、意思決定する側からすると、認知バイアスもあって、一番確実なのはこちらから送り込むことだ、と考えたのではないかと。

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個別の戦略の良し悪しなどについては、ここでは主題ではありませんから触れませんが、率直に言って、日本マクドナルドに起きたことは、本国を中心に世界戦略を考えている側からすると、結構普通の意思決定を積み重ねてきた、ということのように見えます。

結果的にそれはうまくいかなかったわけで、今から考えると良くない意思決定だった、という風になるわけですが。数年前から、批判的な見方の論考は結構あったような気もしますので、現地市場から見ると数年前からすでに、おかしく見えたということかもしれません。

ただ、ここで考えたいのは、上記にあるような風景って、日本企業でも(それ以外の国の企業でも)沢山あるのだろうなあ、ということです。現地流でやっている合弁先の経営者を煙たく思っている本社の人とか、傾いたのを機に、立て直しに本社から乗り込むとか、その結果として現地の市場を踏まえずに手を打ってしまう、とか。世界に自社のウェイを広めたい、といった話も、以前に書いた通り、私自身がコンサルタントとしてお手伝いしてきたこともありますし、本社の側からすれば、筋の通った話であることが多いとおもいます。もちろん、視点が本社に偏っている、というのはあるのですが、一方で現地化すればいい、というのも偏った見方ですしね。

僕が思うに、ここから学ぶべきことは、向こうの本社には本社なりの思考の枠組みと、ストーリーがあって、その中で彼らなりに意思決定をしている、ということ、そして、それが現地から見ると、実に残念な意思決定に見えてしまうことだってある、ということです。それだけの判断基準や市場の違いを踏まえて、どうすれば効果的な意思決定ができたのだろうか、というふうに考えるための肥やしにするのが、このケースはいいのではないかと感じます。

史上最大級の買収、それとも史上最大級の脱税策?

ファイザーがまた巨額M&Aをするそうである。

Pfizer seals $160bn Allergan deal to create drugs giant

ファイザーといえば、何年も前からM&Aをバンバン連発して、世界の製薬業界の再編と巨大化を引っ張ってきた企業の一つだが、さらにまた合併をするとのことだ。

“the biggest pharmaceuticals deal in history(製薬業界では史上最大の取引)”ってニュースのヘッドラインを何回も見た気がするので、正直、またか、という印象だ。製薬業界での合併の背景には、医薬品の開発コストが上がっていること、バイオテクノロジーによって過去にない研究開発が可能になったこと、また、新興国の医療ニーズが高まっていることなど、いろいろな構造的要因があるようだ。

ただ、このニュースで興味深いと思ったのは、この買収と同時にファイザーが登記上の本社をダブリンに移す、という点だ。買収先の企業の本社がダブリンにあるので、そちらを登記上の本社とするらしい。これによって、ファイザーは巨額の節税ができる。なぜならアイルランドの法人税は実質的にアメリカのそれの数分の一だから、ということである。

巨大企業の節税については、アマゾンやアップル、スターバックスなどが各国の税法の特例をうまいこと組み合わせて、ビジネスの規模に対して全然税金を支払っていない、といった報道が去年から行われ、各国で批判の的になっているのは記憶が新しい。

また、タックスヘイブン(租税回避地=税金がものすごく安い、あるいは実質的に無税の国)に対する規制がアメリカを中心に国際的に議論されているのも、ここ数年でおなじみになった動きだ。

そのため、このファイザーの合併話は、単純に企業の国際戦略という話ではなくて、租税回避、極端な言い方をすれば「脱税」だ、という風に捉えることもできる。実際に、早くも民主党の大統領候補のヒラリー・クリントンが、「大企業に適切な負担をさせる」ような政策が必要である、ということを主張している。

そのため、この話は、国際経営、という枠組みだけではなく、企業倫理や税制、国際政治など、多様な観点からとらえる必要があると思う。

①企業戦略、あるいは国際経営の観点

単純に考えれば、この話は、税制優遇で企業を誘致する、という話の延長線上の話である。日本でも、企業誘致のために地方自治体が優遇措置をしたり補助金を出す、という話は珍しい話ではないし、国際的な誘致合戦があるのも、古くて新しい話である。

なので、経営上からすれば、資本を最も効率よく使って株主に貢献するには、各国の制度的な枠組みをうまく活用するのは経営者の義務であって、税金逃れでもなんでもない、という理屈が成り立つ。

こうした各国のビジネス活動環境の違いを利用する、というのは国際経営では古くて新しい議論である。天然資源や市場、人的資源の充実だけではなく、制度の充実も、立地選択上の魅力になる、という話である。

②企業の社会責任の観点

一方で、企業が経営活動を行う上では、治安や司法、教育、交通や電力など、国家が提供する様々な公共インフラストラクチャーを利用している。先進国でビジネスが毎日安定的かつ快適に進んでいくのは、国家および地方自治体が提供するインフラが強固だからだ、という見方もできる。

だから、経営活動の規模に応じて、それなりの公共への負担をしないのは、社会的責任を果たしているとは言えない、とも考えられるだろう。

③税制、あるいは所得配分の観点

国家は税制や社会保障などの仕組みを通じて、所得配分を行っている。言い方を変えれば、稼げる人からは多くとって、稼げない人からは少なくとる、そして、さらに福祉を通じて稼げない人に医療や教育など、基本的な人間らしい生活を送れるように支援を行なっている。もちろん、格差の拡大などの議論はあるのだが、この機能を少なくとも国家はそれなりに担っている。

ここまでのロジックを踏まえて、結局のところこれで得をするのは誰か?ということを考えると、損をするのはアメリカの一般の国民(どれくらいの人が配分に預かるか、はともかくとして)であって、得をするのはおそらくアイルランドの国民、利益が増えてボーナスが増えるファイザーの経営者(と従業員?)、プラス、これが上記①の見方の正当性の源泉だが、ファイザーの株主だろう。

つまり、国家が所得配分を行う機能が、企業の国際的な行動によって妨げられ、所得配分の行き先が株主に向かっている、という風に捉えることができる。

④国際政治の観点

こうなってくると、近現代の国際秩序の主役であった国家主権と、そこから半ば独立して活動する多国籍企業、という構図の中で、富を奪い合っている、あるいは富の引き付け合いをしていると言う話に見えて来る。そうなると、次に考えないといけないのは政治である。

各国は自分の利益を考えれば企業を引き付けたいので、税制優遇をする誘惑が常にある。一方で、企業は活動している各国で相応の負担をすべきだ、という主張にも一定の理があるようにも思われる。これはまさに「囚人のジレンマ」ゲームに近い状態であり、しかも、多くの国が複雑な税制を使ったプレイをしているので、裏切ってもばれにくい。綱引きはそう簡単には決着しないように思われる。

果たして、こうした租税回避の動きを、各国の利益が相反する中で、どう解決していくのだろうか。研究者としては興味深い題材だし、ビジネス教育に関わる立場からすれば、非常に面白いケーススタディである。ただ、一人の市民、納税者としての立場からすると、面白がってもいられない話でもある。