伝統は創造される。

先日、British Museum(大英博物館)でやっていた、Celt – Art and Identityという企画展に行ってきた。

皆さんは、”ケルト”についてどれくらいご存知だろうか?
展示によれば、最初はギリシャ人が自分たちの文化圏の外側の人々をΚελτοίと読んだのが、歴史上の初の記録らしい。フランスからドナウ川流域まで、かなり幅広い範囲の人たちがこの呼び名で呼ばれていた記録が残っており、明確に特定の民族集団を示す単語ではなかったようである。

ただし、文化の面で、ギリシャやローマに代表される地中海系の工芸品とは異なる系統の美意識を共通して持っていたようで、上の写真にもあるように、螺旋や円を強調した抽象性の強い様式が特徴的な工芸品が多数展示されていた。

この文化は、ローマ帝国の拡大による地中海文化のヨーロッパ全域への展開、また、その後のローマ帝国の崩壊などをへて、いろいろな文化と融合したりしていくのだが、ケルトという言葉自体は、一度完全に忘れられてしまう。

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しかし、面白いのはここからである。現代のイギリス周辺には、自分たちを「ケルト文化の継承者」として認識している人たちが一定数存在するのだ。アイルランド、スコットランド、マン島、(イングランド東部の)コーンウォール、(フランス北西部)のブリタニーなどに住んでいる人たちだ。

この人たちは、どうやって自分たちを「ケルト」だと認識するようになったのだろうか?

実は、この人たちは、遺伝的には共通の集団に属しているわけではなく、かなりバラバラな出自の遺伝集団であることがわかっている。そして、近代にある出来事が起きるまでは、それらの人たちを「ケルト文化群」と考える人もいなかったという。

しかし、これらの地域には、英語やフランス語とは違う、独自の言語が存在し、今でもかなりの人たちがその言語を使っている。そして、それらの言語の間にかなり共通性があることが近代になって言語学的に明らかになったのだ。

そして、それを明らかにした研究者が、ルネッサンス以降に再発見されたギリシャの文献をもとに、「ケルト語群」とこれらの言語を読んだことから、「ケルト」という民族意識の創造が始まる。

自分たちは、イングランド、フランスとは違う、独自の歴史を持つ集団なのだ、という自意識である。

心理学的に言えば、人は誰しも、自分について肯定的に考えたい、という欲求を持っている。そして、自分が属している集団が特別なのだ、価値があるのだ、と思うことは、そうした自己肯定感の礎になる。

ちょうどそれにタイミングを合わせるように、上述のような独自の美意識を持った工芸品がイングランドも含めた様々な場所で発掘され、その様式を模倣したアクセサリーなどが流行することで、「独自の文化を持っていた過去の民族集団がここにいたのだ」というロマンティックなイメージが「ケルト」という言葉に付加されていく。

そして、現在は、Celtic Nationsという言葉が存在する。

Wikipedia – Celtic Nations

ここでさすNationsという言葉は、実際に独立した国を必ずしも指すわけではなく(アイルランドはもちろん独立国だが)、上述の自分たちを「ケルト文化の継承者」と考えている人たちの住む地域を指している。

そして、それらの地域の人たちが集まって、「ケルトの文化」を祝うお祭りが様々に作り出され、実施されている。また、それらの地域間のラグビーリーグのような、スポーツのイベントも実施されている。それらの祭りに参加した人たちは、おそらく、ケルトの伝統を感じ、アイデンティティの一部として抱くようになるだろう。こうして、伝統は再創造され、継承されていく。

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この話は、民族集団としての自意識や、それを支える伝統は、実はかなり流動的なもので、社会的に創造され、維持されるものなのだ、ということを、実に分かりやすく示してくれる。

そういう意味で、今回の展示会は非常に良い機会だった。

我が身を振り返って考えれば、日本人、という自意識が本格的に確立されたのはおそらく明治維新前後だろう。もちろん、日本という国号自体は遥か昔に成立していたようだが、明治に入って標準語が作られ、新聞が広まり、共通の教育が行われるようになるまで、ほとんどの人は、「XX藩の人」あるいは「XX村の人」という自意識がアイデンティティの中核だったのではなかろうか。

日本という国自体は、世界で最も古い国として認識されているようだが、だからと言って、自分たちが今、伝統だと思っていることが、ずっと続いてきたとは限らない。また、人々がずっと、自分のことを日本人だと思って生きてきたわけでは、おそらくない。これからについても同じである。

国際比較調査にはご用心。

データを読み込み、理解する力は現代のビジネスにおいて重要な能力の一つと言っていいだろう。ビッグデータの様々なビジネス分野における活用や、データサイエンティストの活躍に見られるように、データドリブンのビジネス意思決定が広まっている。

昨日ちょうど出ていたニュース記事に、人事領域でのデータ活用についての記事があった。

TechCrunch – HR Technology Conferenceに見る人材領域イノベーションと日米温度差

表題の通り、日米での人事領域におけるデータ活用の違いについて語っているもので、内容自体は非常に興味深く読んだ。筆者が日本における人事領域でのテクノロジー活用の展開の遅さに警鐘を鳴らしていることは、筆者がまさに人事領域でのアプリケーションの提供をしていることを割り引いても、納得できる話だ。

新しいテクノロジーの導入に日本企業が慎重なことはこれまでにも様々な場で指摘されてきているので(例えば、ITメディア ー 日本人の生真面目さが企業をダメにする)、ここでもか、という印象である。

さて、しかしここで議論したいのはそこではない。筆者が記事の中で引用している日本企業におけるエンゲージメントの低さについての調査データだ。

エンゲージメントの高い社員は、比例してパフォーマンスが高くなると証明されているにも関わらず、アメリカ全体でエンゲージメントが高い社員は全体の三分の一以下に留まっているという。ちなみに日本はどうかというと、2013年のGallupの調査では7%とアメリカを大幅に下回る数字が出ている。調査会社により数字の違いはあるものの、Aon Hewittの調査でもダントツで世界最低水準となっている。

この手のデータはよく引用されており、日本の職場慣行について批判的に議論する上では使いやすいのだが、重大な落とし穴がある。実は、この手のサーベイ調査への回答の平均値を元に国際比較することには、かなり大きなハードルがある。

それは「項目の解釈」と「回答パターン」に関する問題だ。

事実を聞く質問(例えば、「あなたは通勤に何時間かけますか」)の場合は、世界中のどこで質問をしても、回答は比較的安定している。翻訳をしたとしても、質問が指し示す現象が劇的に変わることは無いし、事実を聞いているので、単純に事実を答えればいいからだ。この場合は、国際比較もしやすい。

それに対して、主観的な心理について聞く質問は、まったく違う問題を抱えている。まず、どんなに頑張って翻訳をしても、国、言語によって解釈に違いが生まれやすい。翻訳先の言語に、元の言葉の意味にちょうどぴったり対応する概念がない場合は特にそうだ。ここでいう、エンゲージメントはまさにそうだ。だからこそ、漢字やひらがなで表現できる日本語に翻訳がなされずに、そのままカタカナとして使われ続けている。もちろん、Gallupにせよ、 Aon Hewittにせよ、この問題は理解しており、慎重に翻訳をして、同じような意味の項目であることを担保していると思うが、それなりのチャレンジである、ということは改めて述べておきたい。

次に、よりこちらの方が大きな問題だが、国によってサーベイの回答パターンに違いがある。簡単に言えば、以下のような5段階の選択肢から、どれを選びやすいか、ということだ。

1. 全くそう思わない
2. あまりそう思わない
3. どちらとも言えない
4. そう思う
5. 全くそう思わない

日本人は相対的に見て、調査に回答する際に控えめに選択することが知られている。つまり、肯定的な回答をあまり選ばないのである。また、中庸な選択肢(この場合は3)を選びやすい傾向がある、と指摘する研究もある。

例えば、Anne-Wil Harzingは、様々な調査項目を含む、26カ国の調査データをもとにした分析で、各国の回答パターンについて報告している。肯定的な回答の選択率から否定的な回答の選択率を引いた値(相対的に肯定的に答えやすい度合いを示す)は、26か国中で日本が圧倒的に低い。

こうした、回答パターンの違いがあるため、エンゲージメントに関する調査回答の平均値に国間で差があったとしても、、果たしてその差違が、回答パターンの違いによるものなのか、それとも実際に感じていることが違うことによるものなのか、切り分けが難しいのである。データとして、日本人のエンゲージメントに対する回答が低いことは事実だとしても、それをすなわち「日本人はエンゲージしていない」と解釈するのは間違いかもしれない、ということだ。

まさに、冒頭の記事の筆者が書いている通り、データがReliable(信頼できる)かどうか、慎重に考える必要がある。特に、主観的な心理について聞く調査の回答についてはそうだ。そのまま文字通り国際比較をしても解釈をしてもいいのか、そうではないのか、用心した方が良い。

日本は本当に集団主義なのかという問い。

日本は、集団主義であって、欧米の個人主義とは違う、という論考は
よく耳にする主張だが(そして、自分自身もそれを前提に幾つかの記事を書き、発表してきたが)、今日はこのことについて改めて考えてみたい。

まず、個人主義と集団主義の定義だが、HofstedeやTriandisによれば、個人主義は、個人が独立した主体であり、個人の利害が集団の利害に優先する、という価値観や考え方のことであり、集団主義は、逆に、個人は他の人々とのつながりの中で生きる存在であり、集団の利害が個人の利害に優先する、という価値観や考え方のことを指す。

これは、「自己」を何に依拠して定義するか、という問題であり、人のあり方の根本に関わるものだ。

しかし、ここでいう「集団」はかなり曖昧な議論である。

いわゆる「家族」や「親族集団」のことを指すこともあれば「会社組織」のことを指すこともある。個人主義の立場から見れば、どちらも個人ではない集団である、という点では共通だが、生活を共にする家族と、社会における経済活動の主体である「会社」は、どう考えても帰属の対象としては別のものだ。

現代の日本の文脈で考えれば、ワークライフバランスは、ほぼすなわち、「家族」をとるか、「会社」をとるか、という話だ(どうも、日本では、ワークライフバランスの話はほぼ常に、家族持ちの家族に対する責任と、会社に対する責任の対立軸で語られ、家族とも会社とも切り離された、「個人」という文脈で語られることは、僕が知る限り全くない。まあ、これは欧米でも程度の差はあれ、似たようなものかもしれないが)。

「中国化する日本」で一躍有名になった歴史学者、与那覇氏によれば、日本はどちらかといえば血縁関係で繋がる「家族」よりもむしろ、「藩」や「お家」のような、バーチャルな、仕組みとして成り立った集団を重きに置くのに対し、中国は血縁および同じ姓でつながる縁戚関係(実際に血縁があるかどうかはともかくとして)や、個人的な信頼関係を重視する、ということだ。実際、日本に関して言えば「遠くの親戚よりも遠くの他人」という象徴的なことわざが存在する。

Brewerは、このあたりの個人主義ー集団主義の二項対立の枠組みを批判して、「個人主義」「人間関係主義」「集団主義」の3つからなる枠組みを提示している。人間関係主義は、個人同士のつながり、すなわち「人脈」「コネ」を重視する考え方であり、集団主義は集団に対する帰属、すなわち「メンバーシップ」を重視する考え方だ。

個人主義者は自分の能力や実績、何をしているかで自己を定義し、人間関係主義者は、誰とつながっているのか、誰と親しいか、どのような人間関係の網の中にいるか、で自己を定義する。集団主義者は、どのような集団に属しているか、で自己を定義するのである。人間関係はあくまでも顔の見える個人の網であるのに対し、集団は抽象的な存在である。国家や企業がそれにあたるだろう。

改めて考えてみると、日本の文化はどの形なのだろうか?僕には今のところ、答えがない。なんというか、従来の集団的なものが、徐々に変わってきているような感じもするし、そうでもない感じもする。もやもやな感じである。

僕の友人は、個人主義的な要素が強い人たちが多い。「会社に縛られるのではなく、自分で決めるのが大事だし、その上で会社が自分のやりたいこととあっていれば、会社で働けばいいじゃない」というような考え方の人間が多い。彼らの家族・親族との関係はよくわからないが、家族・親族のために自分を犠牲にする、という雰囲気はあまり感じない。

一方で、極端な例だが、今年前半に結構物議を醸していた、満員電車でのベビーカーに対する批判が、「満員電車で会社に行かないといけない人たちに対して迷惑」というあたりには、ある意味、自分勝手なように見えつつ、結局は意思決定の基準は他者であるあたりが、個人主義とは言い難い。

加えて、組織や集団内における行動において、自分の主張よりも、周りの人たちの主張や利害を考慮して、明確な対立にならないように探っていくというのも、広く一般的な行動のように思われる(残念ながら電車で出くわした人たちは気を使うべき他人の範疇にも入らない人もいるわけだが)。

さらに違う話をすれば、都市部に出て働く人たちとは別に、地元で昔からの友人たちとつるんで、その輪の中で生きて行くことを志向する人たちも昔から存在する。

散漫な例だが、それだけ、多様な行動のパターンが存在する、というわけだ。日本の中にも、個人を優先している集団もいれば、組織を優先している人たちもいて、関係を中心に生きている人たちもいるのが現実である。そうなると、「日本」という括りで考えることに非常に疑問が出てくるわけである。

国際経営論の世界では、文化や制度を総じて国単位で議論することが伝統的だが、もはや「国」という単位の議論は、文脈によってはあまり意味がないのかもしれない。日本初の企業といえば、長期雇用の製造業だというわけでも、もはやないし。そうした「伝統的」企業の中の従業員の行動は、上述の通り、制度的な要因の影響を受けているわけで、それを「日本の文化」と言い切るのも、疑問を感じる昨今である。

世界の英語力はこの10年でどれくらい変わったのか。

最近の国際研究の世界では、「言語」が非常にホットなトピックになっています。

その中でも特に、英語が世界の事実上の標準語になっていること、多くの企業が英語を企業の公式言語としていることが、組織や人々の関わり合いにどのような影響があるのか、という問いは、中核的な問いの一つです。

それに多少絡んで、TOEFL(R)のデータを用いて、世界の各国の英語の点数がどのように変化したのか、を最近分析したので、今日はそれについて書こうかと。

1995年と2014年のデータを使って、世界のいろいろな地域の得点を比較したのがこちら。アフリカ、中南米、中東については1995年の時点で比較的受験者数が多かった国を各地域からピックアップしました。ちなみに、TOEFLはReading, Listening, Speaking, Writingの4科目が各30点づつで、満点が120となっています。MBAや修士のコースへの出願は100点、あるいは105点くらいが求められることが多いです。

English Score 20151122

TOEFLは大学などへの出願に使われることが多いテストなので、あくまでも若い学生が母集団の多くを占めるため、必ずしも各国の人口を代表しているとは言えませんが、受けている人数が多く、世界中で使われていること、点数が長期間にわたって安定的に公表されていることから、長期で英語力を国際比較する上では、まあまあ適切な指標だと考えられます。

ちなみに、社会人の英語の国際比較の指標としては、English Firstが出しているEPI-cがあるのですが、データが比較的最近のものしかないのが残念です。

さて、このTOEFLのデータから最初に注目したいのは、世界中のTOEFLを受けている人の平均点は11点上がっているということです。これは英語への関心が世界中で高まり、英語教育、英語学習に労力が払われたことの結果、と考えていいのかな、と思います。

次に、地域別にみると、ヨーロッパでは、オランダや北欧をはじめとして平均が90点台の国が目白押しなのですが、ドイツはその中の一国です。この10年間、高どまりしていると言っていいでしょう。さすがに120点満点のテストで、国全体の平均点が8割を超えるのはかなり難しそうです。一方、フランスは比較的英語が通じにくい国として知られていますが、この10年で随分点数が上がっていますね。

アジアの中で比較すると、日本は世界の平均並みに点数が上がっています(10年で12点アップ)が、韓国はそれをはるかに上回る点数、なんと20点、高めてきています。日本の上昇も、世界的に見ればまずまずなのですが、1995年の時点での点数がかなり低いことと相まって、ここでピックアップした国々の中では残念ながら最低の平均点になっています。中国は若干下がっていますが、もともとの点数が高いことを考えると、受験者層が比較的限られていたのが、拡大した結果かもしれません。

中南米や中東においても、メキシコ、ブラジル、エジプト、レバノンのいずれにおいても10点前後の増加がみられます。一方、アフリカは点数が低下していますが、こちらも中国同様、10年前の値が限られた高度教育を受けた限られた層の点数だったのでは?ということが考えられますね。今は母集団自体が広がっているのではないか、ということです(残念ながら、2014年のデータでは母集団数がわからないので、確認できませんが・・・)。

絶対値の水準を見ると、ここで抽出した国々の平均点は、80点台の中盤あたりに収束してきていますね。もちろん、世界の平均がそれくらいですので、なんとなくそういうものかもしれませんが。その中での日本の得点は残念な水準と言っていいでしょうね。

ちなみに、Tannenbaum & Wiley (2008)によると、ヨーロッパの語学力に関する基準であるCEFRでB2、すなわち「実務に対応できる者・準上級者」に相当する水準に対応するTOEFLの最低点が87点だそうですから、世界の様々な国の平均点がそのレベルに近づいているのに対して、日本の平均点はまだまだそこからは乖離がある、と考えるとわかりやすいかもしれません。

結論としては、それなりに英語教育には公的にも私的にも力を入れてきた成果として、世界平均と同じくらいには英語力は上がっているものの、それ以上に劇的な成果が上がっているわけではない、ということ、また、絶対値としても相対的に見ると低めの値にとどまっている、ということが言えそうです。

もちろん、人口当たりの受験者数の比率など、一律の条件で比較しているわけではありませんから、完全にこれだけで何かを言うのは国際比較の観点では無理があります。上述の通り、たくさんの人が受けているのと、高度な教育を受けた一握りの人が受けているのでは、わけが違いますから。そこは割り引いて考える必要があるのですが。

僕の研究としては、こうした英語力の違いが、企業としての国際展開のやり方の違いや、人事政策の違いにどのように影響しているか、を考えていくのが面白いところです。企業レベルでも、楽天、ホンダなどでの英語の公用語化が国際経営に与える影響は研究として面白いのですが、国レベルでも英語力の影響は色々とありそうですから。

国の繁栄度を測定する。

先日の信頼感に関する国際比較にちょっと関連する調査を見つけました。

The Legatham Prosperity Index 2015

この調査は、ロンドンにあるLegatham Prosperity Instituteというところが毎年出している調査だということです。

ちなみに、日本は19位で、アジアではシンガポールが17位。そこに香港(20位)、台湾(21位)、韓国(28位)が続きます。

上位にはノルウェー、スイス、デンマーク、ニュージーランド、スウェーデンなど、いわゆる欧米の比較的人口規模の小さな国が並びます(ニュージーランドは地理的には欧米ではないですが)。人口が小さい方が国民の合意形成がしやすくて、多くの国民の意思を繁栄した政治が行われやすいとか、機動性がいいとか、そういうことがあるんでしょうかね?

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この調査はまさにIndexと言う名前が示している通り、8項目の性格の異なるサブカテゴリーの得点を総合して総合得点を算出するタイプの尺度(=ものさし)なわけですが(*詳しくは後ほど)、サブカテゴリーの中で上位のものはHealth(健康)が全体で7位、下位のものはPersonal Freedom(個人の自由)が全体で33位となっています。

で、実はこのPersonal Freedomの点数を引っ張っているのは、どうやら先日の投稿で書いた、信頼感と、内輪びいきの話のようなのです。

信頼感の国際比較 ー 日本人は「よそもの」をどれくらい信頼するか

この項目は、さらに小さなカテゴリーに分かれておりまして、項目と内容を超訳してみると、以下のような感じになっています。

1. Composite of civil liberty and freedom of choice

(サーベイ形式で自由の度合いを国民に聞いたもの)

2. Civil liberty

(法の支配や表現・信条の自由、様々な権利などの制度的充実度)

3. Satisfaction with freedom of choice

(選択の自由に対する満足度をサーベイで聞いたもの)

4. Good place to live for ethnic minorities?

(民族的マイノリティにとって住みやすい場所か?をサーベイで聞いたもの)

5. Good place to live for immigrants?

(同じく移民にとっては?を聞いたもの)

日本の得点と調査全体の平均値を見ていくと、明らかに低いのが4と5。民族的マイノリティと移民にとって、それほど住みやすい場所ではない、というわけです。他の項目は平均点を(ものによってはかなり)上回っているので、この2項目が全体の足を引っ張った、と言えそうです。

これはまさに、日本の社会に根付いた「よそ者」に対する扱い方を反映した調査結果といえますね。メインストリームの日本人(ってなんなのか、ってのも議論の余地がありますが)には快適かもしれないが、それ以外の人にはあんまり快適じゃないかもしれない、それじゃあ本当に繁栄した国とは言えない、というふうにこの調査上では扱われているわけです。

まあ、もう少し考えると、みんな少しづつ違う、と考えると、誰でもマイノリティになり得るわけで。寛容さが低い、というのはなかなか誰にとっても実際には住みにくい部分があるのでは?とも思います。

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さて、そもそもは、先日の記事で書いたことが違う形で現れた調査に、ほんの数日の間に出くわした、ということがそれなりに面白い、と思ってこのポストを書き出したのですが、ここまで書いてみて、それよりもむしろ興味深いのは、

民族的マイノリティとか移民が住みやすいことが「国の繁栄度」の大事な要素だ、と言う風に真面目に考えている人たちがいる

ということかもしれない、と気付きました。
この項目がランキングに入っていること自体、そういう意味ですからね。

そういえば今年は、ミスユニバースをめぐるとても残念な出来事がありましたが、この辺りの、「違う」人たちをめぐる心の有り様と言うのは、日本の社会に深く根付いているもののようです。で、そこからさらに考えると、

多分、日本人が同じようなランキングを作ったら、これらの項目は入らないのではないかな?

と思うのです。まあ、この研究所があるロンドンには、電車の中で英語を聞く方が珍しいくらい外国人が沢山いる、という現実を反映している、というのもありそうですが、それとは別に、いわゆるリベラルな多様性に対して寛容でありたい、という価値観がこの調査設計の根底には流れているように思われます。

そう考えると、調査自体が文化というか社会の価値観を反映している、ということで、この手の社会科学の分野においては、何事も客観的ではいられない、ということを指し示しているようです。


<おまけの社会科学豆知識>

IndexとScaleという、二つの物差しについて。

このランキングは「Index」という種類の尺度なのですが、上にも書いた通り、性格の異なるサブカテゴリーの点数を総合してできています。つまり、「国の繁栄度」を、健康、個人の自由、統治、経済など様々な要素で測ってそれを足し合わせればいい、というふうに考えているわけです。大学ランキングなんかも、このパターンです。

それに対して、社会科学でよく使われるもう一つのタイプの物差しに、Scaleがあります。これは、似たような性格の要素を複数測って、それを総合することで測定する、というものです。意識調査とかではよく使われる方法ですね。一個一個の項目は回答のブレの誤差があるけど、複数の項目で同じようなことを少しづつ違う聴き方で聞くことで精度を上げる、というものです。

この二つは、尺度の設計における、「測りたいこと」に対する考え方が大きく異なりますし、当然、それを反映して、適切な統計的な扱い方も違います。まあ、そんなことはいいのですが、Indexといえば、複数の違う観点を組み合わせたものだ、ということは、知っておくと役に立つかもしれません。

日本人は「よそもの」をどれくらい信頼するか ー 信頼感の国際比較

World Values Survey という調査(以下、WVS)をご存知だろうか?

日本では世界価値観調査という名前でも知られているこの調査は、世界の何十各国で共通の項目で調査をするという大規模な研究プロジェクトで、5年ごとに新しいバージョンの調査が行われているものだ。

最新の調査データは2010-2014年の期間に取られたものが上記のサイトからダウンロードできる。このデータは研究目的であれば誰でもダウンロードして使うことができるため、社会学などの分野で比較的広く使われている。

最近、このデータを使って各国の信頼レベルについて分析する機会があったので、ここではそのことについて書こうと思う。

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WVSには、信頼について幾つかの質問が含まれているのだが、主要なものに以下の6問がある。

1. あなたは、近所に住む人たちをどれくらい信頼していますか?

2. あなたは、個人的な知り合いをどれくらい信頼していますか?

3. あなたは、家族をどれくらい信頼していますか?

4. あなたは、初めて会った人をどれくらい信頼しますか?

5. あなたは、異なる宗教の人をどれくらい信頼しますか?

6. あなたは、異なる国籍の人をどれくらい信頼しますか?

この6問のうち前半3問は身近な人たちをどれくらい信頼するか、を聞く設問であり、後半3問は、見知らぬ人たちをどれくらい信頼するか、を聞く質問だ。

これらをそれぞれ集計したものは、「in-group trust(身内への信頼)」「out-group trust(よそ者への信頼)」という指標として知られている(例えば、van Hoorn, 2014を参照)。

これをいくつかの国をピックアップして集計してみたのが以下の結果である。ちなみに、元の調査では1〜6の6段階で、数字が少ないほど信頼が強い、という形で聞いているのだが、直感的にわかりにくいので0〜100の範囲で大きいほど信頼が強い、という物差しに変換してある。

20151105 wvs1

「身内への信頼」については、率直に言ってあまり面白くない。簡単にいってしまえば、身内への信頼は国が違ってもそれほど変わらないということだ。

一方、「よそ者への信頼」についてはかなり値にばらつきがある。スウェーデンは高く、日本と中国は低い。つまり、スウェーデン人に比べて、日本人や中国人は「よそ者」をあんまり信頼しない、ということだ。ちなみに同じアジアでも、シンガポールは日本や中国と比べるとかなり高い。

ちなみに、この差を取ってみると違いはより明らかになる。この差は、簡単に言ってみれば「身内びいきの強さ」と考えてもいいだろう。

20151105 wvs2

私は、このあたりの外部の人に対する信頼感のなさが、国際経営をとりまく様々な企業内外の行動に影響するのでは?と最近考えている。例えば、武田製薬においてフランス人のクリストフ・ウェーバー氏が社長に就任するなど、色々な企業における外国人経営者の登用のニュースが時折話題になるが、

武田薬品、壮大な実験?前代未聞の事態が進行 外国人幹部主導の「根こそぎ国際化」

こうした取り組みに、ともすると否定的、あるいは懐疑的な声が出てくる(この記事はどちらかというと好意的なトーンだが)背景には、上記のような「よそ者への信頼」の低さが影響しているのでは?と感じられるのだ。

(もちろん、日本語と英語の間の壁、日本特有の市場慣行や雇用慣行などもこれらの背景には考えられるので、一概に信頼だけを議論するのはイマイチだ、というのは当然のことである。本稿は、信頼の部分だけを切り取って書いている。)

また、ヨーロッパなどのように国際統合が進むことは、こうした信頼のありかたに影響するのか?というのも興味深い。残念ながらWVSのこの項目は最近の2回の調査から導入されたものなので、長期の変化を分析するにはまだ蓄積が足りない状況のように思われる。

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ちなみに、余談だが、日本は今回挙げた国々の中で、「身内への信頼」も「よそ者への信頼」もともに、最も低いことに気づかれただろうか?

このことは以前から社会心理学者の山岸俊男氏(現在は一橋大学の国際企業戦略研究科の特任教授)が指摘されていることで、日本はデータからみれば、「低信頼社会」なのである。このことが何を意味するのか?については、またいずれ考えてみたい。

参考文献
van Hoorn, A. 2014. Trust Radius versus Trust Level: Radius of Trust as a Distinct Trust Construct. American Sociological Review, 70(6) pp.1256-1259.

WORLD VALUES SURVEY Wave 6 2010-2014 OFFICIAL AGGREGATE v.20150418. World Values Survey Association (www.worldvaluessurvey.org). Aggregate File Producer: Asep/JDS, Madrid SPAIN.