海外拠点間の人事制度の統合をめぐるチャレンジ

先日、中国に拠点を構える日本企業で経営や人事にかかわる責任者の方々をお招きした小規模なディスカッションの機会を持ちました。その際に議論になったのが、中国に複数ある拠点にどのように世界共通の人事の枠組みを落とし込んでいくか、と言う問題です。

日本で働いていると、普通は社内で人事制度は統一されているものなので、海外赴任の経験がない方には、なぜこういう問題が生じるのか、よくわからないと思います。こうした現象が生じる経緯としてよくあるパターンはこういう感じです。

  1. 社内にある様々な事業がそれぞれに海外拠点を設立する。各事業ごとにそれぞれの事業運営上の思惑の中で立地や設立の形態、持たせる機能は様々。
  2. 拠点の設立にあたり、各事業から赴任者を送り込む。ただし、まずはオペレーションを立ち上げることが優先のため、多くの場合、生産や営業など実業部門の専門性を持つ人材と、財務の専門家が送り込まれる。
  3. この人たちが、自分たちの専門分野の仕事の傍ら、人事制度を整備する。現地で人事経験者(採用や給与計算、労務管理などができる人)を採用し、運用を任せる
  4. この結果、本社の人事制度や現地人事の意見をベースに、それぞれの拠点が自分たちの業務の特性に合わせた制度を設計し、実行するようになる。
  5. それらの拠点の運営が軌道に乗り、ある程度成熟してきたところで「地域統括会社を立ち上げる」という話が持ち上がる。中国であれば中国本土の拠点を統括する拠点、あるいは韓国や台湾の拠点も合わせた東アジア統括拠点、といった形が一般的。
  6. それに合わせて、人事の地域統括部門を設け、人事の専門家が送り込まれる。この方々は、各拠点に不足している人事の専門性を補いつつ、地域として共通の人事施策を実施していくのが役割になる。
  7. さらに、この頃になると、各拠点で、次世代幹部人材の育成が問題になる。日本人幹部だけで組織運営する段階から、現地の人材を登用し、戦略形成やイノベーションの核を任せていくことが狙い。

さあ、ここで問題が表面化します。というのも、各社の人事制度はバラバラで、しかも、人事のプロではない人たちが、日本人赴任者を中心に組織運営することを前提に設計、運用した制度だからです(もちろん、当事者である初期の赴任者たちが悪い、というわけではありません。その人たちが、与えられた状況の中で真面目に検討した結果であることがほとんどです。そもそもこういう状態にならないようにするにはどうするか、については最後に触れます)。

多くの場合、「各階層に求める要件」が明確に定義されていなかったり、仮に定義されているとしても「自ら主体的に動いて影響力を発揮する」ことが管理職にもとめられる役割に含まれていなかったりします。むしろ、「日本人の言うことを素直に聞いて動く」人たちが重用される人事運用になっていたりします。

また、日本でもままあることですが(というか、日本のあり方がそのまま移植されている、といったほうがいいかもしれません)、厳しいことも含めて率直に評価をフィードバックして評価を能力開発につなげる慣行が確立されていなかったり、パフォーマンスに応じて評価にメリハリをつけることも行われていなかったりします。

加えて、各社の人事制度がバラバラだと、各拠点横断の幹部研修を実施しようにも候補者選びの基準が設定しにくいです。また、リーダーシップ開発の定番である「未経験の職務を通じて視野や能力の幅を広げる」ことをやろうにも、拠点を超えた人の登用、異動も難しい。さらに、リーダーシップ育成の研修をやったとしても、人事制度とその運用が上記のような状態のままでは、研修で学んだ効果は一過性になってしまうことが目に見えています。

と、いうわけで、「自社としてのリーダーに期待する要件」をきちんと反映した世界共通、あるいは地域共通の人事制度の枠組みをつくり、各拠点に落とし込む、というのが本社人事、地域統括人事の大きなテーマになってきます。

これは、本社人事や地域統括人事の立場から見ると、かなり合理的な話です。

また、各拠点の人たちから見ても、登用されるべき人たちがきちんと登用され、現地の人材に中核的な仕事を任せていくための取り組みですから、長期的に見れば良い話、のはずです。

が、もちろん話はそう簡単にいきません。

そもそも、現在、各拠点の人事を担っている人たちは、今の仕組みを整備して運用してきた人たちですから、「今の仕組みで十分回っているのに、なぜ、わざわざ外から誰が作った仕組みを入れて、ゼロから運用を組み立て直さないといけないのか」と考えるのは(近視眼的ではありますが)自然な話です。

一方、現在、各拠点の管理職を担っている現地の人材は、脅威にさらされます。というのも、今までは日本人幹部の指示の元で受動的に動いていれば良かったのに、自ら主体的に動いてリーダーシップを発揮しろ、という、それまでに期待されてこなかったことをいきなり求められるからです。抵抗する人が出てもちっともおかしくありません。また、趣旨に賛同するとしても、今まで適当にこなしてきたフィードバックをきちんとやれ、と言われたりするわけで、面倒が増える、と感じる人もいるでしょう。

というわけで、これは結局のところ「変革プロジェクト」なのです。

組織において新しいことをやろうとすると、賛同する人も、反対する人もいて、どちら付かずの立場で批判的に見る人もいる、というのが一般的ですよね。

こうした問題に関わる人事の方々がこの活動を「人事制度の展開」として、トップダウンで順次落とし込んでいけばいい、と考えると現地の反発を買いがちです。押しつけに見えるからです。それよりも、これを「変革のプロセス」なのだ、というふうに捉えて推進するべきです。

新たな取り組みに対する(現地の人事や管理職も含めた)賛同者を集め、変革を正当化するロジックをつくり(=やらなければいけない理由、やることで幸せになれる未来像を明確化する)、全員にメッセージを発信し、賛同者を核に小さな成功事例を生み出し、その成功例をレバレッジして賛同者を増やしていく、そして、古い仕組みや考え方に固執する人を徐々に取り除いていき、新たな取り組みを定着させる、というのが変革の一般的なプロセスです。

こうした視点から取り組みを設計すれば、今、自分たちがどこにいて、次はどんなアクションを取るべきなのだろうか、というのが見えてくるはずです。

「古い仕組みや考え方に固執する人を徐々に取り除いていき」という部分が最大の難関でしょう。「考え方を丁寧に伝え、育成施策も行うことで生かしていく」という考え方もひとつですが、どうにもならない場合もあるので、最初から、「彼らをポストオフして、新しい考え方に会う人たちに登用の機会をつくることも辞さない」ということも前提にしたほうがむしろうまくいくケースが多い、というのが私の考えです。

あとは、「世界・地域共通の制度」といっても、何でもかんでも共通化する、というのはやめた方が良いですね。拠点のビジネス特性や現地の慣行を鑑みて、「譲れない部分は共通化した上で、現地適応すべき部分は現地適応する」という考え方のもと、各拠点の人々と作り込んでいく、というアプローチの方が、結果的に進みやすい、というのが先行研究からもわかっています。

 

もう一点、考えるべきは、そもそもなぜこうした問題が生じたのか?ということです。冒頭でご紹介した1〜7のプロセスに戻ってみましょう。

私が考えるに、ポイントは3と4にあります。「現地に戦略的な人事のプロ(本社から派遣するにせよ、現地で採用するにせよ)を置くのが遅い」上に、「そもそも標準がない」ので、現地で戦略的な人事のプロではない人が自己流で制度を設計せざるをえない、というのが全ての始まりです。

そう考えると、こうなる前に本社の人事がやるべきことがある、というのが浮かび上がってきますね。まあ、企業が多国籍化するプロセスではここまでのことは思いつかない、というのも当然なのですが、日本企業の多くはそれなりに国際展開の経験があるわけです。ですから、そうした取り組みを積極的に行わない理由はもはやない、はずです。

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英語に関する人事施策は、果たして日本企業の国際経営に影響しているのか?

久しぶりの投稿です。上海に到着してから3ヶ月というもの、新しい職場での仕事の立ち上げに慌ただしかったのと、各種のインターネットサービスへの接続が制限されている(例えばフェースブックは中国では普通にしてると読めません)のを言い訳に、ブログ投稿をサボっておりました。すいません。今年は心を入れ替えて、もう少しこまめに投稿してこうと思ってます。

今回のネタは、英語です。以前にも書きましたが、英語は事実上のビジネス公用語となっています。非英語圏であっても英語でコミュニケーションができることが、グローバルでのビジネスを加速しているし、逆に、グローバルなビジネス機会の存在そのものが、英語を学習することの価値を高めている、とも言えますね。BBCやCGTN(China Global Television Network = 中国版のBBCやCNNのようなグローバルニュース局。日本ではあまり知られてないと思いますが、コンテンツのレベルは結構あなどれません)を見ていると、世界中のどこに行っても英語でインタビューに答えられるビジネスパーソンや市民がいることには驚かされます(もちろん、そういう人を探してインタビューしてるわけですし、ブロークンな英語であることが多いですが、それでも自分の言いたいことを表現して伝えられることが印象的なわけです)。

しかしながら、日本人ビジネスパーソンを全体として捉えると、その英語力はあまり芳しいものではありません。。例えば、EF English Firstがリリースしている世界のビジネスパーソンの英語力ランキングでは、日本は先進国の中ではフランスやイタリアと並んで英語が苦手な国の一つとして扱われています。もちろん、非常に流暢に英語を操る方々もいらっしゃるわけですが、平均すると、英語が苦手な人が多いのが現場です。

この現場への対策として、様々な企業で英語力を採用や昇進昇格時の条件に組み込む取り組みが行われています。経営のグローバル化に対応するためには、管理職が英語を扱える必要がある、というわけです。楽天のような、前者で英語を公用語化にする、といったアプローチから、TOEICなどで一定の点数が取れないと一定ランク以上のポジションに昇進昇格されない、といったアプローチまで幅があります。また、従業員向けに英語教育を充実させている企業もありますね。

さて、ここで疑問になるのは、果たしてこうした施策がどれくらい実際の経営活動に影響を与えているのだろうか?ということです。

仮に、こうした施策の結果、ビジネスで使えるレベルの英語力を持つ管理職が増えたとすれば、そこから生じそうな変化としては、(1)海外赴任者が減る、(2)海外拠点から本社への知識の還流が増える、の2つが考えられます。

(1)海外赴任者を派遣する理由は様々に存在しますが、その重要な要素が「本社と海外拠点の意思疎通の橋渡し役」です。本社と海外拠点の間に存在する地理的な距離や、文化や社会制度の違いは、「方針の伝達」や「現場の共有」などの意思疎通の壁になります。そこに、さらに「言語の違い」が加わります。本社と海外拠点の人たちが両方同じ言語を流暢に喋れれば、直接電話なり、テレビ会議なりで話し合えばいいわけです。しかし、「本社の多くの人が英語を苦手としており、海外拠点の人たちは現地の言語あるいは英語しか使えない」という状態では、意思疎通はかなり困難になります。その結果、「よくわからんから、やっぱり日本人を送って現地のことを把握させたい」し、「本社の意思がわかっている日本人が、現地を理解した上でマネジメントしたほうが効率がいい」という意思決定になるわけです。

ですから、本社側に「海外拠点の人たちと直接、言葉を尽くして英語でコミュニケーションするのが苦にならない」という人たちが増えることで、海外赴任者を送り続けるニーズは減少する、と考えられます。個人的な経験からすると、TOEICで高得点を取れることと、「海外拠点の人たちと直接、言葉を尽くして英語でコミュニケーションするのが苦にならない」ということの間にはかなりの壁があるので、果たしてTOEICを管理職登用の条件にすることがこれに寄与するのだろうか、という懸念はあります。とはいえ、組織自体のベースラインが上がることで、上記のような条件を満たす人の比率も増えて行く可能性はあるかと思われます(と、いうか、それが狙いなわけですしね)。

私自身は、赴任者を減らせばいい、と思っているわけではありません。むしろ、赴任者は重要な役割を担っているので、「欧米企業より日本企業は赴任者が多い、だから赴任者の数を減らすべきだ」という議論は単純で乱暴だと思ってます。が、一方で、赴任者にコストがかかるのは現実な訳で、語学力が高めることで赴任者の必要性が下がる、というのは、一つの経営の選択肢としてあっていい、と思っています。

次に(2)海外拠点から本社への知識の還流が増えることについても、同じようなロジックです。「海外拠点から本社への知識の還流」というのは、具体的に言えば、海外拠点が接している市場の状況が的確に本社で認識されたり、あるいは、海外拠点で生み出された新しいマネジメントのノウハウや技術などが本社に認識され取り入れられる(あるいはさらに他の拠点に横展開される)といったことが考えられます。

多国籍企業にとって、「本社から海外拠点に知識を移転する」ことは、ほとんど当たり前と言っていいことです。というのも、そもそもの海外展開の狙い自体が、「本国で生み出された様々な技術やノウハウをもとに、海外でも事業展開して稼ごう」というものであることが多いからです。また、経営意思決定をする本社の幹部が、本社での物事のやり方や、本社で生み出された技術やノウハウに詳しいから、でもあります。「あれを現地にも持っていけばいいじゃないか」と考えやすいわけです。一方、海外拠点から本社への知識の移転はそうではありません。まずは、海外拠点が成熟し、自分たちで市場をとらえ、新たな知を生み出す努力を自分たちでできる水準に到達する必要があります。その上で、海外拠点が獲得し、生み出した知識(=現地の市場に対する理解や、現地独自のノウハウや技術)の内容と価値を本社側が理解できないと、海外拠点から本社への知識の移転は生じません。そして、そこには、上述の通り、文化や社会制度が違う(=当たり前の前提条件が違う)ことが壁になるわけです。

過去の研究から、「本社から海外拠点への赴任者」や、「海外拠点から本社への逆赴任者」といった形で、人を赴任させることは、現地から本社への知識移転を促進することがわかっています。上記の(1)のロジックにそえば、本社に「海外拠点の人たちと直接、言葉を尽くして英語でコミュニケーションするのが苦にならない」人が増えることで、「人を赴任させる」ことに加えて、「共通の言語で話し合う」ことで、さらに知識の移転がされやすくなる、と考えられるわけです。さらには、赴任者が果たしてきた知識移転の役割を、遠隔での直接対話で代替できるかもしれません。

このように、「英語力を高める」ための人事施策には、確かに、国際ビジネス上の事業活動のあり方自体に変化を生む可能性があるわけです。

ここで気になるのは、そろそろ検証が行われてもいいころでは?ということです。英語はあくまでもコミュニケーションの手段ですから、「従業員の英語力を高める」ための施策の成果として、本来検証すべきなのは、こうしたビジネス上の成果が上がることだと思われます。企業単位ではなかなか検証が難しそうですから、多くの企業のデータを比較して、果たして影響があったのか、といったあたりについて検証をしてみたいところです。

イギリスにいた際にお知り合いになった日本企業の赴任者の方々とのコミュニケーションから受ける印象では、「あんまり変化してないのでは?」という気もするのですが、だとするとそれはなぜなのか、ということが気になりますよね。ビジネスにいい影響を与えるために「英語力を高める」施策を打ったわけですから、それがビジネスのあり方の変化に結びついていないとすれば「施策が不十分だった」「他の要因が障害になっている」「成果が出るのにもっと時間がかかる」あたりの要因を探る必要がある、と思うわけです。

「国立競技場のドタバタを批判する」ことを批判的に考察する。

新国立競技場でまた問題が生じたようだ。

新国立競技場、聖火台の置き場なし 「要望聞いていない」とJSC (ハフィントンポスト日本版)

ここまでくると、ドタバタ劇として面白くなってきた。不謹慎って言われるかもしれないけども。

しかし、一歩引いて考えると、このことは大事な示唆があるようにも思う。

日本では一般的に「ものごとが細部まできっちり計算されて、漏れがないこと」が尊重される。それが高品質とか信頼性、といった評価につながっている。イギリスに住んでみて、様々な国から来た人と接する中で、相変わらず日本製品の品質や信頼性は尊敬されているし、自分の実感としても、日本のものは安心だ、と思う。

この背景には、文化論でよく知られているホフステッドの枠組みで考えると、「不確実性の回避」傾向が日本では強いことがあるのだろう。日本人は、相対的に見ると、不確実なこと、予期せぬことが起きることを許容できる程度が低く、見通しが立つことが好きなのだ。

しかし反面、こうした価値観の逆作用としては、意思決定に多くの人が関わり、慎重に検討が行われるため、逆にスピード感がないとか、大胆な変化が出来ないっといったことにもつながっている。このことを、海外や外資系企業で働いた経験のある人が、「だから日本企業はダメだ」的な論調で批判して語っていることも目にする。

本件、そのあたりを批判している人たちはどう見るのだろうか。

僕は、日本の高品質や信頼は素晴らしいと思う反面、意思決定に時間がすごくかかることや、大胆さにかけるところは変わった方がいいと思っている。

だから、個人的には、本件についても、みんなで不具合を見つけて、ドンドン機動的に修正して行って、結果的に上手くいけばいいんじゃないの?と思う。もちろん、想定外のお金が消費されてるとか、期日に間に合わないかも、みたいなことは全然ダメだけど。途中で変更すること、ミスが見つかること自体を批判するのはイマイチだと思う。

見落としがありました、変更します、を批判しすぎることは、意思決定をする人を萎縮させるし、結果的に、総花的で面白くない意思決定につながる仕組みを再生産するだけだ。

素早く、多くの要素をもれがないようにチェックして、その上で、大胆な意思決定をする、なんてことができるとすれば、それはスーパーマンだ。そして、社会に生きるほとんどの人はスーパーマンではない。

他人の意思決定に完璧を求めると、それはブーメランのように僕たち自身を縛ってしまう。そして、結果的に、みんなで慎重に判断する文化は変化しないだろう。

日本の社会を、機敏で、大胆に変化する社会になってほしい、と願うのであれば、本件のドタバタ(そのもの)を批判しすぎるのは止めたらどうか。繰り返しになるが、予算の超過や期日に間に合わない、ことは問題にしていいし、すべきだと思う。しかし、不具合が途中でてくること自体を批判するのとは、別の話だ。

世界の英語力はこの10年でどれくらい変わったのか。

最近の国際研究の世界では、「言語」が非常にホットなトピックになっています。

その中でも特に、英語が世界の事実上の標準語になっていること、多くの企業が英語を企業の公式言語としていることが、組織や人々の関わり合いにどのような影響があるのか、という問いは、中核的な問いの一つです。

それに多少絡んで、TOEFL(R)のデータを用いて、世界の各国の英語の点数がどのように変化したのか、を最近分析したので、今日はそれについて書こうかと。

1995年と2014年のデータを使って、世界のいろいろな地域の得点を比較したのがこちら。アフリカ、中南米、中東については1995年の時点で比較的受験者数が多かった国を各地域からピックアップしました。ちなみに、TOEFLはReading, Listening, Speaking, Writingの4科目が各30点づつで、満点が120となっています。MBAや修士のコースへの出願は100点、あるいは105点くらいが求められることが多いです。

English Score 20151122

TOEFLは大学などへの出願に使われることが多いテストなので、あくまでも若い学生が母集団の多くを占めるため、必ずしも各国の人口を代表しているとは言えませんが、受けている人数が多く、世界中で使われていること、点数が長期間にわたって安定的に公表されていることから、長期で英語力を国際比較する上では、まあまあ適切な指標だと考えられます。

ちなみに、社会人の英語の国際比較の指標としては、English Firstが出しているEPI-cがあるのですが、データが比較的最近のものしかないのが残念です。

さて、このTOEFLのデータから最初に注目したいのは、世界中のTOEFLを受けている人の平均点は11点上がっているということです。これは英語への関心が世界中で高まり、英語教育、英語学習に労力が払われたことの結果、と考えていいのかな、と思います。

次に、地域別にみると、ヨーロッパでは、オランダや北欧をはじめとして平均が90点台の国が目白押しなのですが、ドイツはその中の一国です。この10年間、高どまりしていると言っていいでしょう。さすがに120点満点のテストで、国全体の平均点が8割を超えるのはかなり難しそうです。一方、フランスは比較的英語が通じにくい国として知られていますが、この10年で随分点数が上がっていますね。

アジアの中で比較すると、日本は世界の平均並みに点数が上がっています(10年で12点アップ)が、韓国はそれをはるかに上回る点数、なんと20点、高めてきています。日本の上昇も、世界的に見ればまずまずなのですが、1995年の時点での点数がかなり低いことと相まって、ここでピックアップした国々の中では残念ながら最低の平均点になっています。中国は若干下がっていますが、もともとの点数が高いことを考えると、受験者層が比較的限られていたのが、拡大した結果かもしれません。

中南米や中東においても、メキシコ、ブラジル、エジプト、レバノンのいずれにおいても10点前後の増加がみられます。一方、アフリカは点数が低下していますが、こちらも中国同様、10年前の値が限られた高度教育を受けた限られた層の点数だったのでは?ということが考えられますね。今は母集団自体が広がっているのではないか、ということです(残念ながら、2014年のデータでは母集団数がわからないので、確認できませんが・・・)。

絶対値の水準を見ると、ここで抽出した国々の平均点は、80点台の中盤あたりに収束してきていますね。もちろん、世界の平均がそれくらいですので、なんとなくそういうものかもしれませんが。その中での日本の得点は残念な水準と言っていいでしょうね。

ちなみに、Tannenbaum & Wiley (2008)によると、ヨーロッパの語学力に関する基準であるCEFRでB2、すなわち「実務に対応できる者・準上級者」に相当する水準に対応するTOEFLの最低点が87点だそうですから、世界の様々な国の平均点がそのレベルに近づいているのに対して、日本の平均点はまだまだそこからは乖離がある、と考えるとわかりやすいかもしれません。

結論としては、それなりに英語教育には公的にも私的にも力を入れてきた成果として、世界平均と同じくらいには英語力は上がっているものの、それ以上に劇的な成果が上がっているわけではない、ということ、また、絶対値としても相対的に見ると低めの値にとどまっている、ということが言えそうです。

もちろん、人口当たりの受験者数の比率など、一律の条件で比較しているわけではありませんから、完全にこれだけで何かを言うのは国際比較の観点では無理があります。上述の通り、たくさんの人が受けているのと、高度な教育を受けた一握りの人が受けているのでは、わけが違いますから。そこは割り引いて考える必要があるのですが。

僕の研究としては、こうした英語力の違いが、企業としての国際展開のやり方の違いや、人事政策の違いにどのように影響しているか、を考えていくのが面白いところです。企業レベルでも、楽天、ホンダなどでの英語の公用語化が国際経営に与える影響は研究として面白いのですが、国レベルでも英語力の影響は色々とありそうですから。

日本人は「よそもの」をどれくらい信頼するか ー 信頼感の国際比較

World Values Survey という調査(以下、WVS)をご存知だろうか?

日本では世界価値観調査という名前でも知られているこの調査は、世界の何十各国で共通の項目で調査をするという大規模な研究プロジェクトで、5年ごとに新しいバージョンの調査が行われているものだ。

最新の調査データは2010-2014年の期間に取られたものが上記のサイトからダウンロードできる。このデータは研究目的であれば誰でもダウンロードして使うことができるため、社会学などの分野で比較的広く使われている。

最近、このデータを使って各国の信頼レベルについて分析する機会があったので、ここではそのことについて書こうと思う。

・・・・・

WVSには、信頼について幾つかの質問が含まれているのだが、主要なものに以下の6問がある。

1. あなたは、近所に住む人たちをどれくらい信頼していますか?

2. あなたは、個人的な知り合いをどれくらい信頼していますか?

3. あなたは、家族をどれくらい信頼していますか?

4. あなたは、初めて会った人をどれくらい信頼しますか?

5. あなたは、異なる宗教の人をどれくらい信頼しますか?

6. あなたは、異なる国籍の人をどれくらい信頼しますか?

この6問のうち前半3問は身近な人たちをどれくらい信頼するか、を聞く設問であり、後半3問は、見知らぬ人たちをどれくらい信頼するか、を聞く質問だ。

これらをそれぞれ集計したものは、「in-group trust(身内への信頼)」「out-group trust(よそ者への信頼)」という指標として知られている(例えば、van Hoorn, 2014を参照)。

これをいくつかの国をピックアップして集計してみたのが以下の結果である。ちなみに、元の調査では1〜6の6段階で、数字が少ないほど信頼が強い、という形で聞いているのだが、直感的にわかりにくいので0〜100の範囲で大きいほど信頼が強い、という物差しに変換してある。

20151105 wvs1

「身内への信頼」については、率直に言ってあまり面白くない。簡単にいってしまえば、身内への信頼は国が違ってもそれほど変わらないということだ。

一方、「よそ者への信頼」についてはかなり値にばらつきがある。スウェーデンは高く、日本と中国は低い。つまり、スウェーデン人に比べて、日本人や中国人は「よそ者」をあんまり信頼しない、ということだ。ちなみに同じアジアでも、シンガポールは日本や中国と比べるとかなり高い。

ちなみに、この差を取ってみると違いはより明らかになる。この差は、簡単に言ってみれば「身内びいきの強さ」と考えてもいいだろう。

20151105 wvs2

私は、このあたりの外部の人に対する信頼感のなさが、国際経営をとりまく様々な企業内外の行動に影響するのでは?と最近考えている。例えば、武田製薬においてフランス人のクリストフ・ウェーバー氏が社長に就任するなど、色々な企業における外国人経営者の登用のニュースが時折話題になるが、

武田薬品、壮大な実験?前代未聞の事態が進行 外国人幹部主導の「根こそぎ国際化」

こうした取り組みに、ともすると否定的、あるいは懐疑的な声が出てくる(この記事はどちらかというと好意的なトーンだが)背景には、上記のような「よそ者への信頼」の低さが影響しているのでは?と感じられるのだ。

(もちろん、日本語と英語の間の壁、日本特有の市場慣行や雇用慣行などもこれらの背景には考えられるので、一概に信頼だけを議論するのはイマイチだ、というのは当然のことである。本稿は、信頼の部分だけを切り取って書いている。)

また、ヨーロッパなどのように国際統合が進むことは、こうした信頼のありかたに影響するのか?というのも興味深い。残念ながらWVSのこの項目は最近の2回の調査から導入されたものなので、長期の変化を分析するにはまだ蓄積が足りない状況のように思われる。

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ちなみに、余談だが、日本は今回挙げた国々の中で、「身内への信頼」も「よそ者への信頼」もともに、最も低いことに気づかれただろうか?

このことは以前から社会心理学者の山岸俊男氏(現在は一橋大学の国際企業戦略研究科の特任教授)が指摘されていることで、日本はデータからみれば、「低信頼社会」なのである。このことが何を意味するのか?については、またいずれ考えてみたい。

参考文献
van Hoorn, A. 2014. Trust Radius versus Trust Level: Radius of Trust as a Distinct Trust Construct. American Sociological Review, 70(6) pp.1256-1259.

WORLD VALUES SURVEY Wave 6 2010-2014 OFFICIAL AGGREGATE v.20150418. World Values Survey Association (www.worldvaluessurvey.org). Aggregate File Producer: Asep/JDS, Madrid SPAIN.