国ごとの「英語力」を比較する。

こんにちわ。今日は、現在やっている論文執筆の一環で「各国の英語のスコアが時系列でどれくらい変化しているか」について確認したので、その際に見えたことをいくつか書いておこうと思います。

結論から言うと、日本は学生、ビジネスパーソンのいずれの群においてもあまり英語が得意な国とはいえない(あ、これはみんな知ってますね)、加えて経年での改善の程度も少ないということになります。一方で、日本と同じような「英語が得意ではない国」でも、経年で大きく改善している国がある点が注目すべきところです。

 

英語力の国際比較に使えるデータ

英語のスコアを国際的、時系列で分析するための指標として使えるデータというのは意外と限られています。世界中で同じテストで大規模かつ、継続的に行われているものというのは限られているからです。

TOEFLの国別スコア

タイトルに書いたTOEFLはその代表ですね。世界中で実施されていて、参加者数も多い。ただし、このテストの限界は参加者の多くが学生である、ということです。特にアメリカやイギリスなどの英語圏の国への留学応募の際に使われるため、留学希望の学生がかなり含まれていると思われます。留学熱が高い国もあればそうでもない国もあるわけで、TOEFLの成績を使って国どうしの「一般的な英語力のレベル」を比較することの妥当性には疑問が残ります。実際、TOEFLを運営しているEduation Testing Service (ETS)も、毎年出している国別平均点レポートの中で、「この点数を使って国同士を比較するのは適切ではない 」と明記しています(ちなみに年のはこちら2017年の国別平均スコアはこちら)。

更に言えば、僕のやっている研究は経営論・組織論ですから、「ビジネスパーソンの英語力」を知りたいわけです。現代のグローバル化を考えれば、企業に入ってから英語を改めて勉強する人は、日本に限らず多いはず。そう考えると、ビジネスパーソンの英語力を直接調べられるdデータはないものだろうか?と言うことになります。

TOEICの国別スコア

ビジネスパーソンを対象にしたテストとしては、日本でも企業でよく使われているTOEICがあります。TOEFLと同じくETSが実施しているもので、160カ国以上で実施されているとのこと。

このテストの難点は、Reading とListeningだけのテストが一般的に広く実施されていることです。コミュニケーション力として欠かせないSpeakingとWritingは別テストになっています。日本の場合、僕が観察する限りでは前者が圧倒的に多くの人が受験しており(昔、何回か受けました)、後者の受験生はかなり限られるのではないかと思われます(受けたことないです)。さらに、ReadingとListeningの国別のスコアの平均値のレポートによれば(例えば2017年のデータはこちら)、レポート内によればデータはアジアに偏っているとのこと。日本ではTOEICは様々な企業の昇進昇格基準に組み込まれるなど、かなり幅広く使われているので、日本の平均点は「多くのサンプルを元に日本のビジネスパーソンの英語力を捉えている」と言えるように思いますが、他の国だとそうでもない可能性もありますね。

EF Education FirstのEPI-c

もうひとつ僕が知っているビジネスパーソンの英語のデータとしては、EF Education FirstがリリースしているEPI-c (English Proficiency Index for companies)があります。同社は世界中で英語教育を中心に教育ビジネスを展開している企業ですが、同社が世界中で実施した英語テストのデータを元に国別のスコアを出したものです。

こちらは、テストの中身が明確に説明されていないのですが、レポートの記述を見る限り、Speakingの能力も考慮されているようです。サンプル数に関しては、2014年のレポートによれば、世界各国の企業及び政府の従業員10万人以上のデータを元にしている、とありますので(ちなみに、TOEICの規模は上述のレポートからはわかりません)、かなり大規模なのサンプルに基づいた調査だと言えます。また、サンプルの地理的なバランスは、40%がヨーロッパ、35%がアジア、20%がアメリカ(中南米が中心)となっており、TOEICよりも良いですね。

ただ、最近のデータがどうなってるか気になってサイトをのぞいてみたのですが、現在のEF社のウェブサイトにはEPI-cに関する記載が見つからないのですよね。新しい点数が更新されてないのはデータとしては残念であります。

と、いうわけで、いずれも帯に短し襷に長し、という感じでばっちり国別・時系列比較できるデータがないわけですが、とはいえ見える傾向を書いておこうと思います。

国別の比較

国別似比較ができるのはTOEIC、EPI-cになるわけですが、日本のポジションはいずれにおいてももあまり芳しくないです。

TOEICでは2017年のReadingとListeningの平均点リストでは大体47の国・地域のうち38位。ただし、これは上述の通り、受験者の層に国による違いがありえる(日本だとかなり幅広い層が受けているが、他の国ではそうでもないかもしれない)ため、額面通り受け止めるのは危険ではあります。

ただ、EPI-cの2014年のデータでも傾向は似てまして、日本は「Low proficiency(=英語力が低位)」に分類されてます。内訳を見てみると、

  • High proficiency(=英語力が上位):デンマーク、オランダ、スウェーデン、フィンランド、ベルギー、ポーランド、スイス、アルゼンチン
  • Moderate proficiency(=中位):ウルグアイ、スペイン、ドイツ、チェコ
  • Low proficiency :フランス、イタリア、インドネシア、日本、中国本土、台湾、コロンビア、パナマ、ベトナム、韓国、トルコ、メキシコ、ロシア、ブラジル、チリ、ベネズエラ、コスタリカ、アルジェリア、サウジアラビア

という感じですね。国の順序はスコア順ですので、日本は低位ではあるものの、まだ「まし」な方だと言う風に解釈もできると思います。

これらを総合すると、日本のビジネスパーソンの英語力は、「世界的に見ると上位でも中位でもなく、低位に入る」と捉えるのが妥当なところといえそうです。ただし、「ダントツに悪い」と言い切れるわけでもありません。

時系列で見てみると。

さて、TOEFLについては国ごとの比較はだめ、と言われているわけですが、とはいえ国別平均を眺めてみると上記と同じ傾向が見られます。世界的にみて成績がいいのは北欧からオランダ、ドイツ語圏(ドイツ、オーストリア、スイス)です。120点が満点のテストで95点から100点近い平均点が2000年代以降、継続的に続いてます。フランスはそれよりも若干落ちて90点を割るくらい。日本は70点程度が続いています。

TOEFLに関しては、毎年定期的に集計が出ておりまして(TOEICも同様のようですが、手元にデータがないので割愛します)、時系列で変化を見ることができます。

面白いのは、年を経て、点数が上がっている国がそこかしこにみられることと、そのペースに国による違いがあることです。例えば、上記の北ヨーロッパ諸国の成績は2000年代以降で見る限りあまり変わりません(おそらく、上限近いということでしょう)。一方、日本、韓国、イタリアで比べると結構変化しています。

日本   (2006年)65点 → (2012年)70点 →(2017年)71点

韓国   (2006年)72点 →(2012年)84点 →(2018年)83点

イタリア (2006年)71点 →(2012年)90点 →(2018年)91点

いずれも2006年から2010年代にかけて一定の上昇が起こり、その後はそこで止まっているのですが、上昇幅の違いが要注目です。日本は5点程度しか上がっておらず、「もしかしたら誤差?」とも見えるわけですが、韓国では10点以上、イタリアに至っては20点も上がっており、明らかに「何かが起きた」と思われます。

こう考えると、日本にもおそらく「伸びしろ」はかなりあるのではないかと思われます。「日本人には英語は難しい」と言いますが、2006年の段階で日本と大差がなかったこれらの国が、大きな改善をしていることを考えると、諦めるのはまだ早い、と言う感じがします。

早期からの英語教育についての議論や施策も様々に行われていると聞きますが、僕はそちらは専門ではないのでここでは触れません。ただ、「学習のインセンティブ」と言う面について少し触れたいと思います。

イタリアの場合は金融危機以降、国内の若者失業率が半端ないため、イタリア人のPhD仲間曰く「海外に出ないと職が見つからない」というくらいの切迫感があるようです。そうした状況下だと、英語学習は将来のキャリアに直結します(ホワイトカラーに限らず、例えばサービスの現場でもイタリアをでてイギリスで働く、みたいなことはふつうにありますし)。韓国の場合も、受験競争→就職競争の過酷さと、「財閥系に就職できないと、安定な職を得るのは難しい」という現実(97年の経済危機以降、雇用の流動化が激しく進んでいるので)が、英語学習熱に少なからず影響しているのではなかろうかと推察します。

この点から考えると、日本に関しても、企業への就職や、その後のキャリア発展の中で「英語が使える」ことが機会につながるのだと言う認識が若い層とその親の間に広まっていくと、点数にも変化が出てくるのかもしれませんね。

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「ダイバーシティマネジメント」の意味は国によって違う。

先日、縁があってダイバーシティマネジメントに関するワークショップにお招きいただきました。ドイツのゲッティンゲン大学にて開催されたもので、ドイツと日本の様々な分野の研究者を招き、両国における様々な分野でのダイバーシティマネジメントの現状について共有するとともに、今後の研究についての新しい視野を得ることを目的としたものです。

ワークショップの様子はこちら

そこで非常に興味深かったのが、ダイバーシティマネジメントの焦点が国によって大きく異なる、という点です。そもそも、ダイバーシティマネジメントという概念は、非常に多義的なものです。ダイバーシティ=多様性には、様々な観点が含まれ、代表的な要素だけでもジェンダー(男女)、性的志向、年齢、民族、文化、宗教、学歴、職歴などなどが含まれます。今回のワークショップでの発見は、国によって「こうした様々な要素のうち何が注目を集めるか」には大きな違いがあるということです。


 

まずは日本。日本においては、ダイバーシティマネジメントの主たる焦点は「女性」である、といういのが、ワークショップに参加した様々な研究分野の研究者に共通する見方でした。

多くの企業で「ダイバーシティマネジメント推進室」や「ダイバーシティマネジメント担当」といった部署、役職が設置されていますが、その方々の中核的な職務は女性の活躍推進であり、それ以外の「ダイバーシティ=多様性」の軸に大きな焦点が当てられている、というケースは少ない、というのが私の印象です。コンサルタントとして、様々な企業でダイバーシティマネジメントの推進のお手伝いをしてきましたが、多くの企業での議論は、様々なダイバーシティの観点が存在することを認識しつつも、「まずは女性から」というものでした。もやは5年から10年前のことですが、状況は大きく変わらないようです。

こうした状況を反映し、「ダイバーシティマネジメント」と銘打った書籍においても、中心は「女性」あるいは「ジェンダー」に置かれていますね。僕が以前にリクルートの同僚と出版した書籍、「実践ダイバーシティマネジメント-何を目指し何をすべきか」でも、内容はほぼ女性の活躍促進に焦点を当てたものでした。

こうした状況の背景には、(1)高齢化が進む中で労働人口の急激な減少が起こりつつあり、人材確保が多くの企業において急務となっていること、そして、(2)そうした人材確保の手段として、女性の労働参加が政治的にハイライトされ(安倍政権の中核政策の一つですし)、様々な促進策が打たれていること、さらに、(3)日本国内の組織を見る限りにおいては、圧倒的なジョリティーは日本出身の人材であり、結果、民族や文化、宗教における多様性に注目が集まりにくい、ということが挙げられるでしょう。

(3)については、コンビニや居酒屋などのサービス業の現場や、国際展開の激しい一部の多国籍企業では状況は変化しつつありますね。言語(日本人が英語を苦手とすることが多い)、日本独特の雇用システム(長期雇用、社内労働市場、緩やかなキャリア形成など)、文化(ハイコンテキストなコミュニケーションなど)などの様々なチャレンジがありつつも、徐々に状況は変化しつつある。とはいえ、「ダイバーシティマネジメント」という言葉と、こうした動きが関連付けて語られることはまだまだ限られるようです。

 


 

それに対して、ドイツの場合、もちろんジェンダーは重要なテーマなのですが、視点はかなり幅広く、特に、「文化的多様性」という点が大きなテーマに挙げられていました。この背景には歴史的な移民政策と、その結果としての国内の多様性が影響しているようです(以下の記述については大和総研のレポートを参考にしました)。

まず、ドイツが属しているEUのシングルマーケットの重要な原則の一つとして「移動・就業の自由」があります。これは、EUに属している国の市民であれば、EU内のどこの国でも労働ビザなしに働き、暮らすことができる、というものです。企業の観点から見れば、労働市場が国の壁を超えて統合されている、ということですね。ドイツは経済が強く、所得水準が高いので、東ヨーロッパ諸国や、特に世界金融危機以降はイタリアやスペインなどの南欧諸国(若者の失業率が非常に高い)から多くの人が流入しています(これは、僕が2013-2017年に住んでいたイギリスでも同じでした)。

加えて、ドイツは歴史的に労働力不足に対応するために、EUの市場統合のかなり以前(1950年代末)から移民を積極的に受け入れてきた歴史があります。代表的なのがトルコ人のコミュニティです。昨今のヨーロッパに向けた大規模な移民の動きの中でも、ドイツはかなり積極的に移民を受け入れる姿勢を示しましたが、そうした動きははるか昔からあったわけですね。

全体として、ドイツの人口は日本と同様、高齢化、縮小傾向にあるものの、若い移民が様々な国から流入している結果、ゆるやかな変化にとどまっている、というのが現状です。人口構成上のインパクトも大きく、ドイツ人口における外国国籍保持者の比率は9%、加えて、ドイツ国籍を持っていても本人、あるいは親が移民であるなどの形で移民にルーツを持つ人たちの比率は20%になります。言い換えれば、人口の1/4以上が何らかの形で外国にルーツを持っている、ということになります。

こうしたことの結果、「ダイバーシティ」といって第一に頭に浮かぶのは、ジェンダーということもありながらも、文化や宗教の多様性、というふうになるようです(一方で、こうした現状に問題意識を持つ人たちが反移民的な政党への支持を高めている、という話もあるのですが、ここでは割愛します)。


 

と、いうわけで、同じように「ダイバーシティマネジメント」という言葉を使っても、国によって「歴史的、社会的文脈の違い」があるために、頭の中で行われる解釈は国によって大きく異なるようです。

私が今働いている中国で考えると、「ジェネレーションギャップ」が大きな多様性の源泉、と言えるかもしれません。過去の改革開放の中で急激に社会が変化したために、生まれ育った時期によって、人生や働くことに関する価値観が大きく違うからです。こうしたことを反映して、「70后、80后、90后(それぞれ、70年代、80年代、90年代生まれのこと)」という言葉が中国ではよく使われます。中国人の中間管理職層に聞くと、「最近の若い人たちは・・・」みたいな話がよく出てきます。

こうしたことから言えるのは、多国籍にビジネスを展開されている企業の人事では、「ダイバーシティマネジメント」というような基本的な人事用語ですら、注意して使う必要がある、ということです。日本の人事がいう「ダイバーシティマネジメント」と、他の国の人事がいう「ダイバーシティマネジメント」では意味することが違う、ということが簡単に起こりえるからです。自分、あるいは相手が、どういう意味でその言葉を使っているか、を確認せずに会話を続けると、変な掛け違いが起きないとも限らない、というわけです。

もちろん、こうしたことは他の概念にも当てはまるわけですが、特に「ダイバーシティ」という言葉の解釈は、組織を取り巻く歴史的、社会的現実に大きく影響を受けやすい。ですから、それだけ注意が必要だ、ということでしょうね。

中国で急遽、メガネを買う

お久しぶりです。夏休みの後半から、いくつか集中的にやらないといけない論文の手直しが連発しており、ブロク怠っておりました。新学期も始まって、気温もすっかり下がり、秋になってしまいました。

さて。今日はいつもの研究絡みの話を外れて、メガネが急ぎで中国で必要になったときにどうすればいいか、というお話です。まあ、たいした話じゃないんですが、中国旅行・出張中に急にメガネを破損しちゃって、緊急対応が必要、みたいな人もいるだろう、という想定で記録に残しておこうかと。

昨日は午後に外出の用事があったので午前中は自宅で研究をしていたのですが、ふと、論文の手直し中にメガネの汚れが気になり、メガネクリーナーでふいていたところ

パチン

と嫌な音が。手元を見てみるとメガネのフレーム(レンズを囲んでいる部分)の細いところが折れちゃって、レンズが外れてます。かなり細いフレームで、なおかつそこそこの年数使ってきたメガネだったので金属疲労でしょう。ネジが外れたとかそういう話ではなく、完全にフレームが折れちゃってるので、これは修復不能であります。

僕は非常に強い近視なのでメガネがないと日常生活もままなりません。

なので、とりあえず、折れたフレームと外れたレンズを手で押さえてメガネを顔の上に維持しつつ、キッチンに移動です。そして、

輪ゴムをぐるぐる巻いて一旦フレームとレンズを固定

するという応急処置を行います。視界に輪ゴムが入ってきて邪魔といえば邪魔ですが、一旦これで目が見えます。しかし、これで授業をするわけにはいきませんし、街を歩くわけにもいきませんので、何らかの対応が必要。幸い、度付きのサングラスがあるので、それで外出はできますが。

というわけで、メガネ屋はないかと調べてみたところ、案の定、日本人がやっているメガネ屋が古北(日本人がたくさんいるエリア)にありました。

http://shanghai-zine.com/members/2491/evaluate/2447

僕はかなりの近視で乱視も入っており、さらに最近は老眼もきてます。度が合わないメガネは疲れるので、(日本語のサービスに海外で頼るのは個人的にはあまり好きではないのですが)そうはいっても日本語でやれると安心だと思い、地下鉄に乗って急ぎ向かうことに。どのみち、いいレンズで作ると大抵在庫がなくて取り寄せになるので1週間から2週間くらいかかるわけですが、今の壊れたメガネの応急処置も含め、何らか対応を相談できるだろうとも期待したわけです。

しかし、店に到着してみると、

店主一時帰国のため来週末まで閉店・・・

万事休すであります。

もうこうなったらしょうがないので、代替案を考えます。よく考えると、半年くらい前にJ!NSのショップが自宅近くの駅(徐家汇)の地下街にオープンしていたのでした。さらに、同社の経営幹部の方にもとある会合でお会いしていて、原則、日本と同じオペレーションで回している、とおっしゃっていた記憶が。

だとすれば、言葉が喋れなくても、やり方は結局同じだろうからなんとかなるのでは?そして、店舗在庫にある(だろう)安いレンズなら即日できあがるはず。それで当面はしのいで、ゆくゆく別のメガネを作っても予備に置いておけばいい。そう考えたわけです。こういう時は、安価にスピーディにやってくれるJ!NSのようなビジネスモデルは非常にありがたい。

で、急ぎ、地下鉄で自宅最寄駅に逆戻りです。その間、メガネを注文するのに必要であろう会話を考えては翻訳アプリで翻訳し、履歴にストックしていく作業を黙々実行します(僕が片言でしゃべってもどうせ通じないと想定して、筆談を覚悟)。そして、

J!NS到着の1時間後にはメガネが完成。

店頭にいたスタッフが非常に我慢強く言葉の通じない客に対応してくださり、全く問題ないメガネができました。検眼も日本で慣れ親しんでいるものと全く同じ設備、同じ手順だったので、何がおこるのか推測できますしね。残念ながら、スタッフさんが何言ってるのかさっぱり聞き取れないため、iPhoneを渡して翻訳アプリにタイプしてもらう対応をかなりしてもらいましたが、気持ちよくやってくれました。まあ、平日の昼間の誰も客が来ない時間帯だったのも幸いでありました。J!NS素晴らしい!!

在庫があるのは球面レンズのみで非球面は在庫なしとのことだったので、若干視界の端っこの方は見え方が不自然ですが、緊急対応・予備メガネとしては十分です。

メガネは言葉が喋れなくても作れる、ということが確認できた貴重な体験でした。ちなみに、J!NSは上海、北京、天津、重慶、広州などなど中国の20都市以上に展開されているので、上海でなくてもお世話になれます。

http://www.jins-cn.com/index.html

ちなみに、お世話になった翻訳アプリはこちら。英語⇆中国語の方が翻訳の精度が高いので、僕は英語で使ってますが、日本語も対応してます。音声聞き取りで訳す機能もあるのですが、どうやら僕の英語の発音ではうまく聞き取れないようです。

http://www.youdao.com

「情けは人のためならず」はビジネスにも当てはまるのか。

「情けは人のためならず」ということわざの趣旨は、

「人の手助けをしておけば、めぐりめぐって、いずれ自分にその善行が帰ってくる」

ということです。

これは処世訓として古くから語られていることです。が、果たしてこうした現象はビジネスにおいても当てはまるのでしょうか?それとも、逆に、人を手助けするような甘ちゃんは、周りに食い物にされてしまうのでしょうか?

今回は、「情けは人のためならず」が実際にビジネスの世界でも機能しうることを示した研究をいくつかご紹介した上で、「ただしそれは人による」ということを示す、僕自身の研究をご紹介します。

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Westphalらは2012年の研究で、以下のような傾向を報告しています。Westphalは企業のCEOやボードメンバーの心理や行動に注目した研究を行っている研究者なのですが、この研究では、CEO間の横の助け合い、に注目しています。

企業業績が悪化すると、CEOはどうしてもマスコミから叩かれる傾向があるわけです。が、あるCEO(仮にAさんと呼びましょう)が叩かれている際に、その企業の業績について記者からコメントを求められた他社のCEO(Bさんとします)が、「いや、今回は厳しい業績になったけど、経営自体に問題があるとは限らないよ。環境面での逆風が強いんだ」とフォローを入れることがあるのです。こうしたいわゆる「口先介入」によるイメージ支援は、当のCEO(この場合Aさん)にとっては心理的に実にありがたいものだそうです。

Westphalらはニュース等で報道されたCEOのコメントについて過去のアーカイブを遡って膨大なデータベースを作り、さらには自分たちでCEOを対象にサーベイも行い、統計的な分析を通じて、こうした行動がどういう仕組みで生じているのか、を研究したのです。

そこからは、二つの「助け合いの連鎖」が生じていることが明らかになりました。一つ目は、

  • 他のCEOが叩かれている際に「フォローコメント」を行うCEOは、自分が同じように叩かれた際に、他のCEOから助けてもらえる傾向が高い。彼、彼女から助けてもらった、いわば、直接的に恩のあるCEOが恩返しをしているだけではなくて、関係のない第三者の立場にあるCEOたちからも援護射撃が飛んでくる傾向が高まる

ということです。これに関連して、あるCEOはこのように語っています。

「なぜ彼を助けるような発言をしたかって?彼は、過去に他のCEOが叩かれていた際に、助けるコメントをしていたのさ。その彼が窮地に陥っているのを見て、今度は僕の番だと思ったんだよ。」

これは非常に興味深いですよね。「彼が他の人を助けた」ことに対して「僕が彼を助けることで報いよう」という心理がこのCEOの心の中で働いている。自分自身が何か恩を受けたわけでもないのに、です。

筆者らが発見した二つ目の傾向は、

  • 他のCEOから、フォローコメントを受け取ったCEOは、フォローをしてくれたCEOに対してだけではなく、他のCEOに対してもフォローコメントをする傾向が高まる。

ということです。これは「ペイ・フォワード(Pay it forward)」といわれる現象です。過去に同タイトルの映画にもなりましたのでご存知の方もいると思いますが、人からもらった親切を、別の人に対する親切でつなぐ、という行動です。恩を受けた相手に報いるのではなく、誰か他の人に親切にすることでその恩を社会に返す行動と言ってもいいでしょう。

これらの発見から示されていることは、社会における交換は厳密に「1対1」に止まっているわけではない、ということとです。「AさんがBさんを助けて、その恩返しにBさんがAさんを助ける」。これはわかりやすい。こうした行動が上司と部下の関係などで様々に研究されてきたことはこれまでにもご紹介しました(例えばこちら)。

しかし、それに加えて、もっと多くの人を巻き込んだ、善意の連鎖のようなものが社会には存在しており、善意は人に伝わっていくし、他の人を助けると、他の人からも助けてもらいやすくなる、ということが存在するわけです。これが、アメリカの大企業のCEO、というビジネス社会の権化のような人たちの間に生じていることを示した点が、この研究の興味深い点と言えます。

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こうした傾向は、2014年に発表されたBakerとBulkleyによる、MBA学生をサンプルに用いた研究でも発見されています。彼らはMBA学生を対象に、学生が他の学生に質問したり、回答したりできるオンライン掲示板を設置し、学生たちの行動パターンを分析しました。

この研究からも、「多くの回答をしている学生は、自分が質問をした際に、他の学生から回答が得られやすくなる」「他の学生から回答してもらった学生は、その後、他の学生の質問に対しても回答しやすくなる」ということを示しています。

やはり、「情けは人の為ならず」は機能しているのです。

他の人のために行動すると、めぐりめぐってそうした善意は他の人に伝わっていくし、助けた相手以外の人からも助けてもらいやすくなるのです。

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僕が博士過程で行った研究は、こうした研究をさらに一歩推し進めるものです。こうした行動における「個人差」に注目しました。言い換えれば、

「誰もが善意の連鎖に喜んで加わるわけじゃないだろう」

というのが根本的な発想です。世の中には、「そのうちめぐりめぐって帰ってくるだろう」と考え、「今すぐ自分にメリットがなくても人を手助けするのは、最終的に自分にとって得なのだ」と考える人もいれば、「自分に得があるとはっきり分かっているのでない限り、人を助けるのは嫌だ」と考える人もいるはず、そう考えたのです。

結論としては、その通りでした。日本とアメリカで調査を行い、今回紹介したような行動をとろうとする心理的傾向に個人差があること、そして、そういう傾向が強い人は実際に他の人のために行動する傾向が強いことが確認できました。「めぐりめぐって帰ってくるだろう」という、いわば「利己的」な心理で、他の人を助けるという「利他的」な行動をとる人たちが、日本にもアメリカにも一定の割合で存在するのです(社会的に見てどちらが多いか、についてはサンプル数も少ないので、今回の研究ではなんとも言えませんが)。

ここからの重要な示唆は、

「情けは人の為ならず」が機能するかどうかは、人による。

ということだと僕は考えています。みんなが「善意はめぐりめぐって帰ってくる」と思ってるようなタイプの人たちだったら、自分もそういうふうに行動した方が得ですね。多分、報われる可能性が高い。

でも、周りが「自分にメリットがはっきりしてない限り、人を助けるのは嫌だ」と思うような人たちばかりだったら、自分が周りの人を助けても、それがめぐりめぐって帰ってくることは想像しにくい。自分の手助けは、周りの人たちに吸収されて消えてしまうでしょう。

そう考えると、おそらく上述のアメリカのCEOたちにせよ、MBA学生たちにせよ、一定比率、「長期的には自分のためになる」派の人たちが含まれていたのではないか、と思われます。

現在、この研究を発表に向けて執筆中ですが、今後究はさらに、「個人差」に加えて「どんな状況」だったら、こうした現象が起こりやすいのか、を掘り下げていきたいと思っています。

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参考文献:

Westphal, J. D., Park, S. H., McDonald, M. L., & Hayward, M. L. A. (2012). Helping Other CEOs Avoid Bad Press: Social Exchange and Impression Management Support among CEOs in Communications with Journalists. Administrative Science Quarterly, 57(2), 217-268.

Baker, W. E., & Bulkley, N. (2014). Paying It Forward vs. Rewarding Reputation: Mechanisms of Generalized Reciprocity. Organization Science, 25(5), 1493-1510.

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過去の関連するポスト:

世の中は交換で回っている。

職場における「恩に報いる」を科学する。

「交換」に関する考え方は世界共通?

経営/組織理論を考える(2)社会的交換理論 (social exchange theory

 

経営・組織理論を考える(5)なぜ組織はお互いに似ているのか?

戦略論を勉強した方には、「企業は、他の企業と違うことをやらないといけない」というのはほ、おなじみの考え方だと思います。

マイケル・ポーターの3つの基本戦略で議論されているのは

  • 差別化 - 他社よりも高い価値の商品・サービスをプレミアム価格で提供する
  • コスト優位 - 他社よりも低いコストのオペレーションを行い、低価格で勝負する
  • 集中 - 独自の市場セグメントに集中する

の3つですが、これらはいずれも、「他社と同じことをやっていても儲からない」という発想が基礎になっています。

また、ジェイ・バーニーが発展させた資源ベースの戦略論の立場からは、ビジネス活動を通じて利益を得るためには、企業は

  • 独自の価値があり、
  • 希少で(=他社が持っていない)
  • 模倣困難な(他社がコピーできない)資源を、
  • 組織的に活用する

・・・ことが必要であると言うことになります。いずれも、「異なることをやる」のが戦略の基礎である、と言うことになります。

しかし、現実に存在する企業の組織のあり方を眺めてみると、まったく異なる光景が浮かび上がってきます。

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どの組織も実に「似ている」

組織構造は基本的に「ピラミッド構造」になっており、その分け方も機能別、事業別、地域別部門のいずれか、あるいはその合わせ技(マトリックス組織)くらいでありまして、この原則に合わない構造の企業を見ることはほとんどありません(コンサルティングなどの問題解決の専門家からなる組織はプロジェクト制なので少し例外ですが、それでもたいていの場合インダストリー×プラクティス、というマトリックス構造になっており、組織は階層化されています)

こうした公式の構造に加えて、組織の中で行われている活動の様子を見ても、頻繁に行う活動をルーティン化した業務プロセスが決まっており、それに伴うフォーマットやルールがあり、業務用の情報システムに落とし込まれている、というところは多くの企業で類似です。

もっとソフトな部分だと、例えば多くの企業にミッション、ビジョン、バリューのような理念的なものが定められていて、人事制度も等級制度、評価制度、報酬制度があって、研修を含む各種育成の仕組みがある、と言った部分もそっくりです

もちろん、中身を見ると企業の独自性があるのですが、一歩引いてみると、皆、似ているのです。世界中のビジネスパーソンが「異なることをやるのが大事だ」という戦略論の考え方を学んでいるはずなのに、組織同士はある意味、とてもよく似ている。

これは何故でしょうか?

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回答(1):「そういう構造が効率的だから」

この回答の理論的基盤は、ドイツ人社会学者マックス・ウェーバーによって提唱された「官僚制(bureaucracy)」の考え方にあります。

「官僚制」と言うと、どうもあまりいいイメージがありませんが、マックス・ウェーバーが主張したのは、「国王や有力貴族の恣意的な判断」や「身分」によって政府が運営されていた貴族制のシステムに比べると、「身分やコネクションにかかわらず登用された官僚がルールに基づいて政府を取り仕切る」官僚制は非常に効率が良い、と言うことです。ウェーバーが考える官僚制の条件は以下のようなものです。

  • 階層化構造
  • 公式な意思決定ライン
  • 組織的な分業 → 部門ごとの担当業務の明確化
  • 意思決定の権限をルールによる定義する(誰が何を決めていいか、を明文化)
  • 業務のルーティン化
  • 専門的なトレーニングの実施
  • 組織的な個人の能力の評価と、能力に応じた登用

こうした仕組みは大規模で複雑な業務を効率的、安定的に運営する上では非常に有効です。ルールによって個人の恣意が入る余地を制限し、なおかつ、専門分化によって専門性を高めることができます。また、下位階層で処理できない問題のみを順次上の階層に繰り上げていく、というルールによってそれぞれの階層が自分の取り扱うべき問題に集中できる、と言うわけです。

ですから、多くの企業がこういった考え方で組織を作っているのは合理的だ、と言えます。言い換えれば、組織づくりには原理原則があり、合理的に考える経営者はそれに基づいて組織づくりをする、それゆえに組織はお互いに似通っていく、というわけです。

一方、官僚制を徹底しすぎると、ルールと構造がどんどん重たくなっていき、環境がどんどん変化したり、自ら環境に働きかけて変化を起こしていく、といったダイナミックな組織活動には向かなくなります。「大企業病」というのはまさにこの問題を指した言葉ですね。

とはいえ、ある程度、組織が大きくなってくると、程度の差こそあれ官僚制的な仕組みを取り入れないと効率が悪くてしょうがない、と言うのも現実であります。そのため、官僚制をベースに起きつつ、その問題を解決するための様々な打ち手が探求されている、というのが、組織論の発展の歴史、とも言えるでしょう。

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回答(2):「効果的でない企業は淘汰されるから」

2つ目の回答は、マイケル・ハノンとジョン・フリーマンが生物学の進化論に刺激を受けて提唱した「組織生態系理論(organizational ecology)」に基づくものです。

彼らは、組織がお互いに似ている理由は、市場における淘汰が起きているからだ、と主張します。

  • 企業が、様々な構造を試したり、制度を導入したりすることによって、組織形態は多様化していく
  • それらの企業は、市場での競争を通じて淘汰のプレッシャーにさらされる。言いかえれば、相対的に効率的、効果的な企業が生き残り、そうではない企業は退場する(廃業したり、吸収合併されたり)
  • 多様な構造や制度のうち、もっとも効率的、効果的なものを備えた企業が生き残るので、結果的に生き残った企業を観察すると、似通っているように見える

というロジックです。

生物学には「収斂進化」という考え方があります。

  • イルカは哺乳類、サメは魚類で、生物学的には全く別々の経路をたどって進化したのにお互いに形がとても似ている。
  • コウモリは哺乳類、中生代の翼竜は爬虫類の仲間(ジュラシックパークとかで空を飛んでるあれです)なのに、骨の構造だけ見れば鳥と似てる。

こうした現象を、「生物は、生きている環境での生き残りに向いた形に進化していくので、同じような環境で生活している生物はお互いに形態が似ていく」というロジックで説明する考え方です。イルカとサメであれば、水の中で効果的に魚を食べて生きていこうとしたら体は流線型なのが効率的だし、コウモリ、翼竜、鳥であれば、空を飛び回ろうとしたら、軽い体で翼を大きく面がとれるようになっているほうが良い、ということになります。

マイケル・ハノンとジョン・フリーマンが提唱した上記のロジックは、これと非常に似ていますね。特定のビジネス環境で有利な組織のあり方はある程度決まっていて、それに当てはまる組織が生き残る、というわけです。

さらに、この理論の面白いところは、グローバル化や技術の変化によって産業構造が変化する際に、新たなプレイヤーが急激に勢力を伸ばす一方、その変化に適応できない企業が退場を余儀なくされるといった現象も説明できる点にあります。環境が変われば、それに適した企業のあり方も変わる、というわけですね。

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回答(3):「社会的プレッシャーがあるから」

 

この「淘汰」に基づく説明は、非常に面白いのですが、一つ弱点があります。それは、企業が自らを改革する(滅びる前に自らを作り変える)ということを、否定している点です。「組織には慣性があり、多くの改革努力が失敗する」ということを考えると、あながち否定できないところもあるわけですが、とはいえ、多少無理のある前提だと言わざるをえません。

一方で、1つ目の「官僚制」を基にした説明は、企業経営者が主体的に合理的な意思決定をする存在だ、ということが暗黙的な前提になっています。「効率的、効果的な構造や仕組みを経営者が導入する結果、企業がお互いに似ていく」というわけですから。

しかし、この前提は必ずしも正しくありません。多くの企業が「右へ倣え」で同じような仕組みを(本当にそれが効率的、効果的かどうか分からないのに)一斉に導入する、といった現象が存在するからです。

例えば、2000年代には多くの日本企業がいわゆる「成果主義」人事を導入しましたが、その時点では成果主義人事が日本でうまく効果的に機能するかについての評価は固まっておらず、様々な批判もありました。そんな中で、「これからは成果主義だ」と唱えた経営者を駆り立てたものはなんだったのでしょうか?

こうした点について、ウェーバーとはまったく異なる観点から説明を行ったのが、ポール・ディマジオと、ウォルター・パウエルらによる、「新制度主義(new institutionalism)」です。

制度と言うと、一般的には企業の中の人事制度などの仕組みを想定しますが、ここでいう「制度」とは、「社会で広く受け入れられ、当然のことだと考えられている慣行、ルール」のことを指しています。ディマジオ&パウエルの主張のポイントは、「こうした制度によって生じる社会的プレッシャーによって組織はお互いに似ていくのである」と主張しました。

  1. 成功している(高業績をあげている)企業で用いられている構造や制度は、それだけで「正しいものだ」と認知されやすくなる。そのため、他の企業がそうした企業の構造や制度を模倣するようになる
  2. ある慣行やルールが、一度、社会で広く受けいられると、「それは正当なものだ」という風に受け止められるようになる。それによって、「それを導入する」ことに対してお墨付きが得られ、逆に、「それを導入しない」ことを組織内で説明するのが難しくなる
  3. さらに、ある慣行やルールが、法律や業界標準などの形で公式なルールになると、企業はそれに応じた社内の構造や制度を整備せざるをえなくなる

1つ目の例としては、古くはGE、今で言えばGoogleで行われている人事の仕組みを事例として取り上げて、「わが社でも導入すべきだ」ということがあげられます。「すごい会社がやってる」→「うちもやろう」と考える、という訳です。

2つ目は、1つ目と似ていますが、社会的に広く受け入れられている、と言う点に違いがあります。一昔前のエントリーシートは、これに当たりますね。最初にソニーが導入した時には、全く過去に例がない新しい取り組みだったのですが、その後「当たり前」の仕組みになった結果、「その後の採用工程でどう使うかをあんまり考えずにとにかくエントリーシートを課す」企業が登場し、「面接に行ったら、明らかに面接官がエントリーシートを読んでない質問をしてくる」といった不満が応募者から出るようになりました。まさに、「ある仕組みが社会的な正当性を得ると、効果的かどうかを考えずに導入されるようになってしまう」というわかりやすい例と言えるでしょう。

こうした正当化のプロセスには、コンサルタントやビジネススクールのスター教授など、様々な「識者」が「これがベストプラクティスだ」「これからはこうだ」みたいな主張をすることが重要な役割を負っています(エントリーシートの流行には、リクルートを始めとした採用サービス各社が一役買いました)。流行を作り出すことによって、企業内の担当者がそれに乗っかるお墨付きを与える、というわけです(必ずしも、そういう意図があってやっているとは限らないのですが、結果的にそうなる、というわけです)

3つ目の例としては、コンプライアンスや個人情報保護などが当たりますね。日本でJ-SOX(内部統制に関する規制)が導入されて各社に内部統制の部門ができた、みたいなのは典型的な例です。これも、そもそも法律になるのは「世の中で受け入れられたこと」であることが多い、また、法案が作られるプロセスで、様々な「識者」が政治家に働きかけている、ということを考えれば、2つ目の延長線上にある現象だ、と考えることもできるでしょう。

僕は、1990年代に成果主義が流行った背景には少なからず1つ目と2つ目が関わっていると思います。当時は日本はバブル崩壊後で企業業績が非常に悪く、経営者の間に「日本的なやり方」への自信が失われていた時代です。その結果、アメリカ企業のやり方のほうが「正しい」のではないか、という思いが生まれ、そこに「先進的」な日本企業数社が成果主義導入に踏み切った、と言うニュースが流れたことで、「我が社も」と言う流れができた、と言う訳です。その過程で多くのビジネス機会を得たコンサルファームがたくさんあったことは言うまでもありません。

この、ディマジオとパウエルの主張の面白いところは、そもそも企業による合理的な判断には限界がある、ということを前提にしている点です。そもそも、経営者の手に入る情報は限られるし、世界は様々な存在が互いに影響を与え合う複雑な場である、それゆえに、「手に入る情報」をもとに最大限考えて判断するしかない。そんな中では、「高業績を上げている企業」がやっていることや、権威ある識者が薦めることが意思決定に影響を与えるのは自然なことだ、ともいえるわけです。

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ここから何を学ぶべきか。

1と2が示唆することは「広く見られる組織の構造や仕組みには、一定の合理性がある」ということです。それゆえに(1)多くの企業経営者がそれらを採用している、あるいは、(2)それらを採用した企業が生き残っている、というわけです。

一方、3が示唆することは、「広く見られる、みんなが受け入れている組織の構造や仕組みは、社会的に作り出されたものである」ということになります。本当にそれがどれくらい効果的、効率的かに関わらず、「みんながそれを受け入れる」ことで正当性が生まれ、それを受け入れるプレッシャーが生じるからです。

現実はおそらくこれらの理論の中間にあります。いずれもある程度正しいし、いずれも完全には世界を説明しきっていない、というわけです(社会科学の理論はたいていそんな感じです)。

変化が続く現代の社会において組織運営を行っている経営者や管理職の方々にとってのこれらの理論からの示唆は、「多くの企業が採用している組織のあり方には一定の合理性がある(1)」一方で、「環境が変化したら、それに合った組織のあり方や運営の仕方も変わる(2)」。しかし、「世の中で喧伝されている『これからはこれだ』が本当に自社にとって効果的、効率的かどうかはわからない(3)」ということですね。

「だからどうしろって言うのよ」というツッコミが聞こえてきますが、上でも述べたように、社会科学の理論はあくまでも社会の一側面を切り取って説明するもので、あらゆる場面に当てはまる普遍の法則ではありません。なので、自社の置かれた状況を分析し、判断をするための「思考の道具」として「今この場面に当てはまるのはどれなのか」という風に使っていただくのが良いかと思います。