世の中は交換で回っている。

私の専門は組織論、人材マネジメント論、国際経営論なわけですが、その中でも博士論文の研究は組織論の領域でやっています。

組織論というのは、正確に言うと組織行動論、英語で書くとOrganisational Behaviourでして、主に個人やチームの組織内における振る舞いについて研究する領域です。

その中でも私が特に研究しているテーマは、ざっくり言うと「なぜ組織において人は他の人を助けるのか」ということです。特に、「これまで関わったことのない、あまり良く知らない相手であっても助ける」という行為がなぜ、どういう条件があれば生じるのか、ということについて研究をしています。

で、この問いについて、「社会的交換理論 (social exchange theory)」という考え方を使ってアプローチをしてます。これは、組織論のみならず、経営学の中で非常に広く使われている理論の枠組みでして、単純に言うと、「人と人との関わりを、資源の交換、というふうに捉えて分析をする」というものです。これは実にパワフルな枠組みでして、個人と個人の間、あるいは個人と組織の間で起きる、幅広い事象がこの理論で説明できます。

と、いうわけで、この「交換」という枠組みについて、何回かブログを書いていこうと思います。そのうち、私の研究の中身についてもご紹介すると思います。

 


世の中は「交換」で回っている


 

さて、いきなり交換と言われてもわけがわかりませんから、いくつか例を挙げます。まずは、上司と部下の関係で考えてみましょう。基本になるのは、上司が面倒を見てくれたら、部下は上司のために頑張ろうと思う、という関係です。

上司が部下のためにできることは様々にあります。例えば、信頼し、期待をかける、チャレンジングな課題を設定する、部下の志向を踏まえて業務をアサインする、部下が業務に行き詰まったら手を差し伸べる、あえて厳しく向き合うことで壁を乗り越えるように促す、明確に方針を示す、部下が自分の考えを述べる機会を作る、などです。

過去の研究からは、

「上司は自分のことを理解してくれていて、自分に必要な機会を与えてくれる。また、必要な場面では助けてくれる」

と感じている部下は、総じて、上司のために一肌脱ごうとする、ということがわかっています。担当業務のパフォーマンスが上がるだけでなく、職場の仲間に情報共有をしたり、仲間が困っていたら助けるなど、上司が責任を持っているチームに貢献する行動をとるようになるのです。この傾向は様々な国で見つかっており、ほぼ世界共通ではないか、と考えられています。

同様の傾向は、組織と個人の間でも見られます。

「自分の組織は、自分が力を発揮できるよう、様々な支援を提供してくれている。また、組織は、必要に応じて自分のことを助けてくれる。」

と思っている人は、組織へのコミットメントが高く、離職意向が低下する傾向が低い傾向があります。また、担当業務のパフォーマンスが高いだけでなく、組織のために自分の仕事の範囲を超えて一歩踏み出した行動をとる、ということが知られています。例えば、「組織の社会からの評判に影響を与えそうな問題があったらそれを指摘する」とか、「組織について否定的な発言をする人を諌める」などですね。

興味深いのは、「上司との関係性」は上司に対する行動や、職場でのパフォーマンスに影響する一方で、「組織との関係性」は、組織のための貢献や、離職意向(の低下)に影響する、ということです。つまり、人間は「上司」「組織」というふうに相手を識別して、それぞれから受け取った恩に対して、相手にとってメリットがある行動をとることで報いる、という傾向がある、ということです。

さらに言えば、こうした関係は日常の同僚の間や、営業担当と顧客との間でもよく見られることです。

日常的に、自分にとって役立つ情報を共有してくれる人材は、同僚から信頼され、いざとなった時には、周りから助けが得られたりします。

また、営業担当と顧客の間の関係で考えると、顧客からの問いあわせに、いつも期待以上の答えを迅速に返している営業担当者や、顧客から言われたままの提案をするのではなく、顧客企業の状況を考えて、一歩先を行く提案を考えるようにしている営業担当者は、得てして顧客から支持され、結果的に大きなビジネスの機会を得やすくなったりします。

このように、世の中のさまざまな人と人、人と組織のつながりは、「交換」という枠組みで捉えると、非常によく説明がつくのです。

ここで重要な点は、交換しているのは必ずしも、経済的に価値のあるモノに限らない、ということです。また、何らかの具体的な行動だけでなく、態度や姿勢、配慮、敬意といったものも交換の対象になります。「人と人との社会的なつながりの中で価値がある」モノやコトが、幅ひろく交換の対象になるのです。そのため、この理論は「社会的交換理論」と呼ばれているのです。

もちろん、組織の例をあげましたが、交換が成り立つのは組織内の関係に限りません。恋人や夫婦、家族、地域での関わりなど、幅広い人間関係が交換で説明がつく、という研究が存在します。

次回は、この交換が破綻すると何が起きるか、について紹介します。

 

トランプ政権の減税案を国際ビジネスの観点で考えると、実はすごいのでは。

トランプ政権からかなり大胆な減税策が出ましたね。

米大統領は「レパトリ税」10%提案へ、パススルー減税も-当局者

Newspicksでもそれなりにコメントが盛り上がってます。173pickですからそこそこ注目を集めたニュースと言っていいかと思います。

もちろん、詳細がどうなるか、これが議会を通過するか、については未知数なわけで、現状で実際にどうなるか、確たることはなかなか言えません。ただ、これがなんなのか、ということを考えておくことは重要です。Newspicksのコメントでも書いたんですが、これは国際ビジネスの観点から意味を捉えると、かなりのインパクトがある政策であるように思われるのです。単に企業の税負担が減る、と言う話ではないのです。

国際経営のファイナンス面は僕は専門ではありませんが、僕の目から見て考えられることをこの機会にまとめておこうと思います。

端的に言えば、アメリカのグローバル企業(と、アメリカに金融面での統括拠点を持つ企業)にとっては経営上の自由度が大幅に上がる、と言うことだと考えられます。

いろいろ興味深い内容があるのですが、特に興味深いのはリパトリエーション税(他国で企業が上げた利益をアメリカに持ち込む際にかかる税金)の大幅減税(35%→10%)です。

多国籍企業の経営者の視点から見て、これが何を意味するのかというと、利益をグローバルに再投資しやすくなる、ということです。海外拠点で上がった利益をアメリカに持っていく際にとられる税金が大幅に減ることで、これまでだったら課税を避けるために海外拠点に留保していた利益を本社に移して、他の拠点に再投資したり、本社での活動に投資したりできるわけです。いわゆる、事業ポートフォリオ管理の観点から考えると、機動的に、アメリカをハブにして現在利益が上がっている拠点からこれから投資が必要な拠点に資源を移転できるのは、国際経営上、明らかにメリットがあると思われます。

Newspicksのコメントでは10%も取られるんだったら借金したほうが安いという話がありましたが、資金を有効に使っているか、と言う点で株主の厳しい評価を受けるアメリカの経営者はそういう発想はしにくいのではないでしょうか。手元現金を余らせていると、あっという間に自社株買いで株主に還元しろ、と言うプレッシャーが上がってくる環境のようですし。

さらに、財政という観点で見ると、世界各国で上がった利益をアメリカをハブにして他国に再投資する、という動きが増えれば、アメリカは自国内で創出されたのではない利益が自国を通り抜けることに対して課税できることになるわけで、税率は下がっても、実質的に税収はそれほど減らないかもしれないですね。

これを、大幅に税率を下げる→税収が減る、と言うふうに考えるのは短絡過ぎます。

これまではアメリカをハブに使ってこなかった他国の多国籍企業もアメリカをハブにするかもしれないわけで。お金の流れ自体が変わりうることまで想定して評価する必要がある、それくらいのインパクトのある政策ではないかと思います。

また、記事にもある通りアメリカに動かした利益の一部は、アメリカ国内での研究開発投資とかにも使われるでしょう。結果、グローバルの財務を統括するためだったり、研究開発のための知識労働者の雇用にもプラスの影響があるかもしれないですね。

と、いうことで、グローバル化した企業活動を念頭に考えればとても賢い税制のように見えます。

逆に、他の国の観点からいえば、アメリカに本社(や統括拠点)をおく企業が利益を持ち出してしまう(ことで、自国の税収が減る)わけで、それを防ぐために、他の国も税制を変えるプレッシャーにさらされることになるかもしれませんね。

また、これまで金融のハブとして得をしてきた国も動かざるをえないでしょう。実際、シンガポールを拠点に国際経営のアドバイザリーをやっている友人によると、シンガポールは間違いなく対抗して動くでしょう、とのことですので、当面、国際的な資金の流れをめぐる税制は要注目、になりそうです。

テクノロジーと教育の未来

先日から気になっていた、日本でのエドテック(Education + Tech)の取り組みの事例を友人がFacebookで共有していたので見たのですが。
これマジで面白いです。今の学生が羨ましい。
要するに、集合教育で教えても結局は個人ごとに引っかかるポイントは違い、そこを解決しないと学びにならないわけで。だとすれば、そこを把握した上で個別にフォローできるAIを使って、個人ごとに学べば、学習速度を加速できるんじゃないか、という話です。
1学年分の学習が32時間で終わるとすると、結構すごいですよね。数学の授業が一体、中高の時に何分あったのかはわかりませんが、記事上だと7倍の学習スピードって書いてありますから、200時間くらい使ってたってことになりますね。確かに授業と宿題を全部合わせたらそれくらいやってたかもしれません。
 
77ab7b84-f4b7-4e6d-ac54-21faec152356
(出典:ホウドウキョク https://www.houdoukyoku.jp/posts/9628)
じゃあ、全部AI任せでいいのか、というともちろんそうではないわけで。神野氏は「なぜ勉強をするのかなど子どもたちの悩みをケアすることは、いまのテクノロジーはできません。」と語っており、記事中でも「ティーチングはAI、心のケアは先生」というふうにキャッチが入ってます。
確かに、「意味形成」は、先日のポスト(データとサイエンスの話)で書いた「仮説形成」と並んで、AIが進化しても当面は人間に残される重要な役割になりそうです。意味は、感情や記憶と複雑に関連していて、対話や内省などを通じて作り上げられることが多いものなので、(今のAIのやれることを考えると)人間が関わった方がうまくいくことが多そうです。
ところで少し脱線しますが、HRテックの文脈で、組織のマネジメントについて「人間のマネジャーの判断はバイアスや思い込みに左右されて精度が悪いので、AIの判断を活用すべきだ」と言う議論がありますよね。確かにそうだな、と思う部分もある一方で、「仕事の価値」や「仕事の意味」を作り出す、という面でのマネジメントの仕事はなくなるどころか、ますます重要になるのは間違いないと思います。もちろんそういうことをやってないマネジャーが世の中に結構いる、というのは否定しませんが・・・(完全に余談ですが、上記のようなことを言う人は、きちんと意味や価値を語りあえる管理職に会ったことがない残念な社会人人生を送ってきたのでは?と邪推してしまったりします。ま、いらないお世話ですね)
さて本題に戻ります。この、心のケアは先生が、というくだりを読んでて、昔新卒で某アクセンチュア社(いや、当時はアンダーセンコンサルティングでしたね)を受けた時のことを思い出しました。グループディスカッションで、
ITが進化して個人がバーチャルで学べるようになった時に学校は必要か
みたいなお題が出たのです。1997年、20年近く前の話ですから、今考えてもいいお題です。
当時の僕は、「知育・徳育・体育」というフレームワークを提案して、「知育はITで結構できるけど、徳育は集団で過ごすこと、体育は実際に体を動かすことが必要だから、学校はそれでも必要なんじゃないか」みたいな意見を言った記憶があります。自分でも「これはいいアイデアだ」と思った記憶があるので、さぞかし感じ悪いドヤ顔をしてたことでしょう。
ただ、今考えてみると結構浅いです。
もちろん徳育と体育は重要です。特に上記のような「意味」を見出すための対話は、とても重要でしょう。が、「知育」の観点でそれと並んで大事なのは、学んだ知識を使って身の回りで起きている現象を理解したり、問題を解決をする方法を学ぶこと、つまり知識の活用方法を学ぶことではなかろうかと思います。結局のところ、生きていく上で重要なのは、学校で成績がいいことではなくて、そこで得た知識を使って、世界や社会を理解し、問題を解決していくことなので。そして、こういう応用とか解釈と言った部分は、複数の観点をぶつけ合うことが役に立つこともあるので(もちろん個人で考え抜くことも大事ですが)、学校のような、集団で学ぶ場の肝はこっちにあるのではないかと思うわけです。
この点はLSEの授業でも感じている問題点でして。正直言って、大学のレクチャーで知識を教える部分の価値は非常に低いです。というのも、結局のところ、リーディングの課題に指定されている論文を読んで、先生のスライドを後からみれば追いつけるからです。そういう意味で、生徒がパソコンでfacebookとかを見て授業をあんまり真面目に聞いていないのは全く責められません。むしろ、そういう受け身の授業携帯よりもはるかに価値が高いのは、
  • 結局この論文で行っていることを現実にあてはめるとどういうことなのか
  • この論文とこの論文のアイデアを組み合わせると何が言えるのか
  • ビジネスの現場でおきるXXX という現象を理解するにはどの理論が使えるか
  • この理論の前提にしていることは何で、どういう状況ではこの理論は通用するけど、
    どういう状況では通用しないのか

みたいな議論を同級生とガチでやることです。なので、できれば知識を学ぶ部分は個人が事前にやって、僕たちが生徒とかかわる時間は、議論を通じた「知識の活用」を演出することに時間を使うべきだと思ってます。そういう意味で、ケース学習やエッセー、グループワークみたいな、アウトプットをさせる課題の設計こそが、ティーチングデザインの本丸です。言い換えると、クラッシックな大部屋でのレクチャーという形態は、もはや終了しつつあるパラダイム、と言えるかもしれません。

ただ悩ましいのは、学生自体が大部屋での授業で教わるのに慣れてる(しかも、それで優秀だった学生がLSEに来る)ので、こういうスタイルに適応してもらうには、学生の期待値を調整して、訓練することが必要だ、ということでしょうか。実際、上記のような議論中心のスタイルが、マスターの生徒から散々な評価を受けていた(一部のビジネス経験の長い生徒からは好評だったのですが)という事例を目の当たりにしたこともありますし。

が、これは過渡期ゆえの問題であり、変化に取り組むか取り組まないか、でいうと後者のオプションはないでしょう。もうそうやって取り組んでる教員もたくさんいますしね。

HRテックがダイバーシティ促進にもたらす可能性

今週、Vodafoneのイギリス本社が「出産をきっかけにキャリアを中断した女性を積極的に採用する」というニュースがイギリスでは話題になりました。下のFTの記事によれば、世界中で1000人の女性を管理職、一般従業員で採用する計画、とのことです。

Vodafone to recruit women on career breaks (BBC)
Vodafone launches programme to recruit career-break women (Financial Times)

この施策自体、男女格差を解消する試みとして興味深いですが、私が気になったのは、BBCの記事の中にある、「The company will also give hiring managers “unconscious bias training”(同社は、採用マネジャーに対して、「無意識のバイアスに関するトレーニング」も実施する)」という下りです。ここからは、最近はやりのHRテック(HRアナリティクスとか、人事におけるデータサイエンスとか、いろんな呼び方がありますが)が、職場におけるダイバーシティを高めることに貢献する可能性が見て取れる、と考えます。

ダイバーシティとHRテックがどうつながるのか。まずは、ダイバーシティ、特に女性活躍の文脈から整理してみましょう。

男女格差は世界的に見られる現象

日本でも、安倍政権の熱心な旗振りも影響してか、女性の活躍促進の取り組みがここ数年は話題になり続けてますね。日本では「世界と比べて日本はダメだ」という文脈で男女格差の問題が語られることが多いです。

男女平等ランキング、日本は過去最低111位  (日経新聞)

が、しかし、上記のVodafoneの取り組みからは、この現象が世界的に生じているものだ、ということがよくわかります。イギリスでも、男女の給与格差やキャリア機会の差は、ニュースで非常によく話題になります。上記の日経の記事のベースになっている世界経済フォーラムのgender gap指数に関するプレスリリースでも、この問題を明確に世界的な課題として取り扱ってます。

2095年職場が男女均等になると予想される年 (WEF News Release)

私自身は男女の格差について、経済的な観点から勿体無い、と思うのと同時に、倫理道徳的な観点からも不公平だと思っています。男女に限らず、LGBTや人種など属性をベースにした差別(構造的なものも含めて)は総じて、解消されていくべきだと思っています。

ですが一方で、この現象は日本だけに見られることではなく、世界中に普遍的に見られる現象なので、この現象について「世界と比べて日本はダメだ」という論調で議論することには批判的です。日本独自の問題に目を向けることが重要なのと同じくらい、世界的に普遍的に存在する男女格差の要因に目を向けることも重要だと思うからです。

さて、日本だけで起きているのではないとすれば、どのような普遍的要因がこの問題の背景にあるのか、が気になるところです。ここで、問題になるのが洋の東西を問わず存在する、性別に関する無意識のバイアス(偏見)です。

 

無意識のバイアスが男女格差に与える影響

心理学の研究からは、多くの社会に共通して「男らしさ」「女らしさ」に関するステレオタイプ(固定観念)があることがわかっています。男らしさは、「支配・コントロールへの関心」「積極的」「強い」「決断力がある」といった要素と関連付けられる傾向があり、女らしさは、「他者の幸せへの関心」「親切」「温かい」「思いやりがある」といった要素と関連付けられる傾向があります。

一方、経営学におけるリーダーシップの研究からは、私たちが、「リーダー」に対する「無意識の期待」を持っていることがわかっています。

ここで考えて欲しいのですが、みなさんは、良いリーダーと言われて何を想像するでしょうか

ひょっとして、「カリスマ」「決断力」「知性」「公正さ」「高い成果を追求する」などを思い浮かべたのではないでしょうか? 実はこれらは、経営学におけるリーダーシップ研究において、人々が「良いリーダー」として思い浮かべる共通要素として浮かび上がってきたものです。 興味深いことに、これらは文化や職種を超えてある程度の共通性があることが知られています(もちろん、文化による違いもかなり存在するのですが)。言い換えれば、世界中の人が、「良いリーダー」と言われると、ある程度、同じようなことを頭に思い浮かべる傾向がある、ということです。

ここから浮かび上がるのは、「リーダーへの無意識の期待」は、「男らしさ」とある程度の共通性がある一方で、「女らしさ」とは必ずしもうまく一致しない、ということです。例えば、「決断力」は男性のステレオタイプの一要素ですが、同時に、リーダーに一般的に期待される特徴にも含まれます。そして、他のいわゆる「男らしさ」と関連付けられる要素も、一般的なリーダーへの期待と一貫性がかなり高いのです。一方で、「親切さ」や「思いやり」を「リーダーらしさ」と関連づける人はあまりいません。

実は、このギャップが、女性が管理職やプロフェッショナルとして活躍する上で障害になっているのではないか、と考えられています(リーダーシップは管理職に限らず、プロフェッショナルとして影響力を発揮する上でも重要なため、影響力を持つ役割を担う、という点では、このギャップは普遍的に効いてくる、と考えられます)。女性がリーダーとして「強さ」や「決断力」を発揮しようとすると、「女らしくない」という風に周りの目には写ってしまう傾向があります。また、逆に、女性が「女らしさ」のステレオタイプに合致するような他者への配慮や、思いやりを見せると、「リーダーとしては強さに欠ける」と見られてしまったりします(ちなみに、この傾向は男女かかわらず存在するようです)。

また、男性が上のポジションに上がりたい、と上司に主張すると、「意欲的だ」「やる気がある」と見られる傾向があるのに対して、女性は「でしゃばり」「生意気」というふうに評価されてしまう傾向が高い、という調査結果もあったりします(Women in the Workplace 2016, LEAN IN財団 及び McKinsey & Companyによる調査) 。

私がコンサルティングをしていても、「男性部下についてはちょっとイマイチな成績の部下でも『こいつももうそろそろ上げてやらないと・・・』と昇進推薦が上がってくるのに、女性だとずば抜けた成績じゃない限り『彼女はまだちょっと・・・』となりがち」といった声を、企業を問わず耳にしました。しかし、そういうことを言う管理職に個別に話を聞くと「女性活躍は大事だ」と口を揃えて言うのです。もちろん、腹の底でどう思っているかはわかりません(笑)が、仮に本気でそう思っていたとしても、無意識のバイアスが日々の意思決定に影響を与えてしまう、というのが一連の研究から分かっていることです。

 

バイアスが意思決定に与える影響を排除する

さて、このようなバイアスが意思決定に与える影響を排除するための有効な手段としては、「ブラインド・リクルーティング」が知られています。70年代以降、クラッシック音楽のオーケストラのオーディションで使われるようになって、有名になった手法です。具体的には何をしたかというと、オーディションの際にカーテンをかけて、演奏している本人が評価側から見えないようにするのです。これだけで、女性が最終選考に残る確率が50%以上高まり、結果としてオーケストラに占める女性比率が大幅に上昇したことが知られています。

How blind auditions help orchestras to eliminate gender bias

上記のVodafoneによる「無意識のバイアスに関するトレーニング」も、こうした問題意識に根ざしたものでしょう。採用に関わる現場の管理職や、人事の管理職が、女性に対して自分が潜在的に偏見を持っているかもしれない、というふうに自覚しているだけで、多少なりともバイアスを取り除ける可能性があるからです。

ここからが本稿の冒頭の話に戻るのですが、昨今話題になっているHRテックは、この点で、女性活躍促進(や、より広い意味でのダイバーシティの促進)に貢献する可能性が高いのではないか、と思っています。

リクルートキャリアと日本マイクロソフトが HRテック新ソリューションの開発に向けて連携

この記事にあるように、客観的なevidenceをベースに人事上の意思決定の参考になる情報を提供することができれば、無意識のバイアスの影響をどうしても受けてしまう人間の意思決定に対して、多少なりともバランスをとることができるのではないか、ということです。

実際、私がクリエイティビティに関する共同研究を行っている、ある大手メーカーでは、人事が個人の性格特性をはじめとした様々な情報と、研究開発における個人、チームレベルでのパフォーマンスの関連性を分析して、データをもとに人材の最適配置をR&D部門のマネジャーたちと議論する、といったエビデンスに基づくマネジメントに取り組んでおられます。これによって「あいつはこうだから」といった、管理職の直感や印象を超えた組織運営を目指しているのです。同社では、いわゆるHRテックという文脈で云々されるような機械学習やデータサイエンスといった格好いい言葉は使っていませんが、実際に目指しているのはエビデンスに基づく人事に他なりません。

私は、あくまでもデータの分析は人間の意思決定のサポートでしかない、と考えています。機械学習の進化のスピードを侮る気はありませんが、組織運営という分野で、完全に人間を代替してしまうようなことが起きるのは当分先だろうと思います。なぜならば、組織を動かすうえでは、人間の「納得」とか「共感」といった要素を除いて考えることができないからです。このことは、先日のエントリーでも書きました。

データとサイエンスの話(2017/2/24の投稿)

一方で、意思決定に積極的にテクノロジーとそれがもたらすデータ分析能力を生かしていく、ということは、どんどん進めば良いと思っています。そして、それによって多様な人材が、バイアスと関係なく評価され、活躍の場が提供されることは、組織パフォーマンスを高めることにつながるし、社会正義の実現にもつながると思っています。もしかすると、データによって、男女のバイアスに影響を強く受けている管理職と、そうでない管理職が診断されてしまう、そんな未来は以外と近いかもしれません。

※ 本稿は、某IT系企業の社内広報サイト用に寄稿した内容を、アレンジ、再編集して書きました。

過酷なアカポス(アカデミックポスト)市場の現状と、そこでの就職活動の実態

昨年来、博士課程の研究のかたわら、卒業後の進路を決めるための就職活動をしてきたのですが、先日、上海交通大学の安泰経管学院でAssistant Professorとしての採用が決まりました。この過程で、いろいろアカポス(アカデミックポスト=大学の教員)の採用市場について調べたこと、また、自分の応募活動でうまくいった要因として考えられることををまとめておこうかと思います。これは、アカデミック系のキャリアを目指してらっしゃる方以外には、「へー」以上の知識にはならないと思いますので、それをご理解いただいたご覧ください。

アカポス労働市場の残酷

博士課程はアカデミックポスト(いわゆる、教授とか准教授、講師など)への登竜門ではありますが、博士を取ればアカデミックポジションに就職できるわけではありません。世界的に、博士課程学生の数は激増しておりまして、Economistの2010年の記事によると、OECD各国での博士卒業者数は、1998年から2006年にかけて40%増加したとのこと。

日本の場合は、1998年に1万1千人程度が博士を卒業していますが、2012年には1万6千人を超えたようです(博士が100人いる村(平成24年ver))。ただし、それ以降はあまり変化がなく、だいたい1万6千人くらいで推移していますね(学校基本調査)アメリカの場合、増え続けてまして、2004年に4万2千人くらいだったものが、2014年には5万4千人が博士課程を卒業しています。

世界的な博士数については、こんなデータがありました(日本の数字は含まれませんが)。ほとんど指数関数的な勢いで増えてるのがわかります。中国が爆速で増加しているのが驚異的です。2000年くらいからの10年間で5倍くらいになってますね。

phds-granted

(Future of Life Instituteウェブサイトより)

一方、博士課程の卒業生が増えたことで、その主な進路であるアカデミックポストの就職先が増えたかといえば、そんなことはありません。はるかに遅いスピードでしか、ポスト数は増えてないわけです。その結果として起きるのは博士の就職難です。日本でも「博士が100人いる村」など、博士取得者を待ち受ける厳しい現実が数年前から知られるようになりましたが(特に、100人のうち6名が死亡・行方不明というのは、実際どうなのか、というのはさておき、衝撃的でした)、世界的に見ても状況は大きく変わりません。

例えば、2013年のThe Atralnticによるアメリカのデータの分析によると、社会科学(Social science、経済学、社会学、心理学、政治学、経営学などが含まれる)分野では、博士課程卒業までにアカポスへの就職が決まっている学生の比率は26.5%しかいません(ただし、このデータは、ポスドクを含まない数字だと思われます。*ポスドクについては後述)。学問分野によってこの比率はぜんぜん違う、というのも興味深い話でして、下のグラフを見れば、工学(Engineering)、物理( Physical Science)、生命科学(Life Science)分野は相当な狭き門です。まあ、これらの分野は実験に人手が必要なので、どうしても博士過程やポスドクという形で人手を確保したいという欲求が教授陣にあるのではないかと推測します。

もちろん、分野によって民間への就職の需要があるかなど、状況は大きく違うので、一概には言えません。例えば、日本のポスドク問題は主にバイオ分野が問題の焦点で、工学系は企業就職の道が広いため、状況が違うという話もあります。

nsf_phds_academic_jobs-thumb-615x414-114239

(出典;The Atlantic, JORDAN WEISSMANN による記事より)

このように博士卒業生の数がアカデミックポジションよりも多い状況は、若手研究者の労働市場での厳しい状況に直結します。大学側からすれば、大学で働きたい博士号所有者は大量に世の中に存在するわけで、完全に買い手有利の市場になるからです。給与、労働条件、安定性のいずれの観点でも、大学側は若手研究者を酷使できる立場にあります。

実際、博士学生およびポスドクは、授業および研究を安価にやってくれる人材として活用されており、大学としては博士課程の定数を増やす動機があるとともに、人件費のかかる正規の教員ポジションを抑制できる、という構造になっている、という指摘があります。私の身近でも、LSEの労使関係を専門にしている某教授が、私の部門のteaching fellow(授業を中心にやるポスドクポジション)について「あれは搾取だ」、と言っていた、という笑えないエピソードがありました。彼らが頑張れば頑張るほど、正規の教員を増やす必要がなくなる、その結果、博士課程学生およびポスドクの先のキャリアがなくなっていく、というかなり残酷な構造になっております。

ちなみに、ポスドクというのは、Post doctorの略でして、博士を取得済みの人がある程度の給与をもらいつつ、大学での教育や研究に従事し、その間に論文の実績を積み上げてアカポス就職(まずはassistant professorですね)を目指す、と言うポジションです。Postdocというふうに呼ぶ場合もあれば、research fellow, teaching fellowみたいな呼び方の場合もあります。総じて、1年とか2年とかの期間月契約が多いですね。給与は安く、数百万円の下の方、”建設労働者と同じくらい”の給与水準という指摘があります。研究者としてアカポスへの就職を目指す場合、後でも出てきますが学術誌での論文実績が非常に重要なため、この期間に博士論文を基に(あるいは他の研究でもいいのですが)学術誌での論文発表にこぎつけて、ポスドクを脱出して次のキャリアに進む、というのが大事なステップになります。実際、LSEの若手Assistant professor陣の経歴をみても、たいていの場合は博士過程→ポスドク1〜2年→Assistant professorとして就職、と言うパターンです。

*2017/03/01 追記)日本の場合はポスドクとは別に、「専業非常勤講師」と呼ばれる方々がいる、という指摘がありましたので追記します。この言葉は、博士取得後フルタイムの教員ポジションに就職できず、パートタイムで時給で授業を請け負う仕事で生計を立てておられる方々を指すそうです。一つの大学に雇用されるのではなく、複数の大学の授業を請け負う方が多く、移動時間には給与は出ない上、それによって研究実績を積む時間も無くなってしまう、というかなり厳しい環境である、という指摘が多くあります(詳しくはこちらをご覧ください)。

ちなみに、Assistant Professorで就職してもそれでレースは終わりではなく、それすら3年とか4年の有期契約(僕の場合は4年です)で、論文で実績を出せなければ契約が更新されない、というのが現実です。そのため、Assistant Professorたちも、サバイバルのために論文執筆に必死です。

就職活動の実態

で、実際就職活動って何やるの?という話です。

経営学におけるアカポスの就職はグローバル化しておりまして、世界中に英語で教えるMBAコースを持っている大学があるため、どこにでも仕事があります。一方で、上記の通り世界中に博士は余っているわけで、何が起きるかというと世界中の仕事の争奪戦になります。もちろん、この地域で働きたい、という好みもありますし、自分の専門分野が募集要項と合うかというのもありますから、1つのポジションにせいぜい多くて100〜150人くらいの応募がある、というのが現実ではないかと思います(実際、私が応募した先をいろいろ探ってみると、最大100位でした)。

で、世界中から応募があるということは、どうやって面接をやるか、という問題につながります。スカイプなどでもできますが、やはり最終的には会って決めたいのが人情ですし、採用される側だって、学校の様子を見て決めたいわけです。そのため、交通費は大学負担で面接に呼ばれる、というのが最終選考になります。ですが、これはめちゃくちゃお金がかかりますから(国内の新幹線代とはわけが違いますので)、厳選したうえで、大抵3名とか4名くらいを呼べるくらいです。

そのため、最終選考で大学に呼ばれれば、かなりの確率で仕事にありつける、ということになります。僕の場合はイギリス1校、イギリスの某大学の中国キャンパス1校、そして上海交通大学の3校に呼ばれまして、3校ともオファーをもらいました。まあ、これはかなり上出来な方ですが、3校呼ばれれば1つくらい決まる、という感覚が相場かな、と思います。逆に言えば、なかなか呼んでもらえません。私も、応募すれどもちっとも返信もなく、お呼びがかからなかった時期が去年の9月から10月ごろに続きまして、本気で凹んだ時期がありました。

そして、「選考に呼べるのはごく少数だけ」というのが選考フローを決める決定的な要因になっています。

今年(2017年)の秋から始まるポジションへの募集は、経営学の場合は去年の5〜6月ごろにスタートして、まだ続いています。学校により、どのタイミングで募集をかけるかが様々なのは、日本の新卒採用と似ています。早くから採用活動を行う学校の場合、夏に行われる世界的な学会で最初の面接をやってしまおう、と考えている場合が多く、5〜6月に求人広告が出て、学生が書類を応募、書類選考の上で7〜8月の学会の会場での面接に呼ばれる、という流れです。学会には大学側からは教員が出席しており、博士課程の学生たちも来ますから、お互いに追加の交通費はかかりません。なので、3〜4人といわず、もっとたくさんの応募者に大学側も会える、というメリットがあるわけです。

そのため、早くから採用を決めている大学は5〜6月くらいから応募をスタートし、夏の学会で最初の面接を行うケースが多いようです。そして、そうでない大学(予算上とかいろいろ都合があるようですが)からも、夏から秋にかけて五月雨式に募集広告が出てきます。9月末とか、10月の頭に応募の締め切りが設けられているケースが多かった印象ですね。そこに一つの大きな山があって、そのあとは出遅れた大学たちがさらにちょこちょこと募集広告がでてくる、という感じです。

で、学会で会わなかった場合は完全に書類一発の選考になります。Cover letter(自分がいかにそのポジションに適してるかを書いたお手紙)、CV(履歴書ですが、学会発表とか論文掲載の実績が肝)、主要論文(これまでに発表した論文や博士論文の一部)、Research statement(これまでの研究実績と今後の研究方針を書く)、Teaching statement(教育に関する実績とか、自分の考え方を書く)、Reference(推薦状。自分の指導教官などに書いてもらう)などを送るパターンが多いです。

はっきり言って、これはとても負担です。どうせ論文の発表実績(メジャーな学術誌に掲載があるか)と、Reference(有力な教授の推薦があるか、どんな内容か)くらいしか実際には見てないんじゃないの?という疑惑は応募側の脳裏を常によぎるわけで、各校向けに相当量の資料を準備するのは、なかなか徒労感があります。上記のように、面接へのお呼びがかからない中で、これをやり続けていた9月から10月は、真剣にへこたれました。研究も進みませんしね。

さて、次は面接です。面接に関して、企業との面接と違うのは、研究内容のプレゼンが含まれることです。私が面接に呼ばれた3校とも共通でしたが、教員が一揃い集まった場に対して、45分とか1時間とかを決めて、自分の研究をプレゼンして、質疑を行う、というものです。あとは通常の面接です。個別に何人かの先生たちに会って話をする、というパターンもあれば、会議室で何人かの面接官と面接をすると言うパターンもあります。

そして、それらを全て通過できれば、1週間から2週間後にオファーがでる、と言う流れでして、そこから1週間とか2週間の間に返事をしなければなりません。ここはお互いに真剣勝負でして、応募側からすると、他にも受けていて、結果が出ていない大学がある中で、「このオファーを受けるか断るか」を決めることを求められます。一方で、オファーを出す側も、面接に呼んだ3-4人の中で優先順位を決めてオファーを出しているわけで、断られてしまったら次の候補は限られるし、なおかつ、その候補たちも他の大学も受けているため、もし手持ちの駒が全滅したらまた面接に呼ぶところから始めなければならず、かなり困ります。

実際、僕は上海交通大学でいい感触だったので、他の2校は上海交通大学のオファーはまだでしたが止むを得ず断りましたが、万が一、これで交通大学がダメだったらどうだったかと思うとヒヤヒヤものであります。この辺り、私は全てダメならコンサルタントに戻ろう、そうすれば死ぬことはない、と腹をくくっておりましたので良いですが、アカデミック一本で人生を考えていると実につらいだろうなあ、と思います。

 

生き残るためのポイント

冒頭で説明した通り、アカポスの労働市場は過酷です。それを考えると私はかなりうまくいった方だと思います。ですので、簡単に自分なりに結果につながったと思われるポイントを振り返って、整理しておこうと思います。

結論から言いますと、「相手を知った上で、全てのチェックボックスにチェックが付くように材料を揃えておく」ことと、あとは、「自分の売りと弱点は何かを知っておく」ことに尽きるかと。いわゆる孫子の言う「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」です。

「チェックボックス」に関して言うと、採用側が応募者に求めているのは「(a) トップ学会誌に研究を発表して、大学の実績に貢献してくれる」「(b) 授業をちゃんとやって、学生満足度を保ってくれる」「(c) 組織の一員として、組織貢献してくれる」といったところです。学部ごと、ポジションごとに詳細はいろいろですが、結局この3つができるよ、と示せば良いわけです。まあ、教員が採用されて何をやるか、そして、大学が組織としてどういう社会的なプレッシャーにさらされているかを考えれば、当たり前の話です。

私の場合は、博士の早めの段階で学術誌に他の博士課程学生と共同でやった研究が掲載されたのと、私の分野では世界的に知られた教授から、かなり強力な推薦状を書いてもらえたことで(a)はクリアできました。もちろん、コンサルタントとしての経験や能力があったことで助かった部分も多くある一方、加えて、博士課程の早い段階から目にみえる成果を出すことを念頭に時間を使ってきたこと、学会等でベテラン研究者との対話に加われるよう積極的に発言し、場に貢献する、といった地味な努力をやって人脈を作ってきた結果でもあります。

(b)については、LSEでの授業を最低限のコマ数担当し(大学からはたくさん担当できないかと求められますが、心を鬼にして断ります)、学生からのアンケート評価をきちっと確保。また、授業の責任者だった教員にお願いして推薦状を書いてもらい、「彼は授業できるし、同僚としても働きやすい」ということをアピールしてもらいました(あ、推薦状の使い分け大事です。逆に言えば、そのための推薦者をどう確保するか、ということでもありますが)。また、イギリスでの大学での教員資格を取るためのコースをとり、資格取得を就職活動開始前に終わらせておきました(イギリスで大学教員として教えようとしたら必須資格なので)。

さらに、(c)は学部の博士学生の代表を2年やって、学部側のスタッフと一緒にいろいろ博士課程の内容や、研究環境の改善に努めてきた、という実績を作っておきました。あとは、細かい話ですが、面接の際には必ず事前に既存の教員の研究内容を一通りチェックしておき、また、どんな授業、コースがあって自分が教えられそうなのはどれかを固有名詞で覚えておく、といった基本的な準備を徹底しました。当たり前ですが、誰でも自分たちのことを詳しく理解してくれている応募者は好きなものです。

いろんな意味で運や巡り合わせも多分にあるわけで、これらの準備ができたことが自分一人の努力の成果だというつもりは毛頭ありません。ただ、言いたいことは、就職活動で必要な材料を、一通り揃えられるように博士課程の時間を使うことが大事なのではないか、ということです。先日、とある若手研究者が言っていたのですが、

博士課程の全ての時間が、就職活動のための準備の時間だと考えて行動しなさい

というアドバイスに私も100%共感します。周りの博士学生を見ていると、研究しかやってない人が結構多く、しかも、学会等での人脈作りもあんまりやっていないなど、本当に卒業後のことまで考えて時間を使ってる?と疑問に思うことは少なからずあります。

もう一つ「自分の売りと弱点を知っておく」に関しては、私の場合、「組織論と国際人事という、かなり異なる二つの分野の研究のパイプラインをもっている」ということと、「コンサルタントとしての10年以上経験がある」ということがポイントでした。前者は場合によっては決定的な弱点になりうる話でして、幅の狭い研究領域(例えば組織論だけ、とか)で学科を作っている大学から見ると、「焦点が定まってない」「うちにフィットしない」という感じで、完全にアウトです。逆に言えば色々な専門性のある研究者がいる学科を狙って受ければ効率的に就職活動ができる、と言うことでもあります(途中で気づいてそうしました)。

後者のコンサル経験は、完全に「売り」ですね。企業向けのエグゼクティブトレーニング(要するに、カスタマイズした研修の提供)は、ビジネススクールのいい収入源になっているケースが多いのと、ビジネスとのパイプがあれば研究上も有利なことが多いので、その辺りは一貫してアピールするようにしてました。まあ、私の場合は、社会人経験が長いのでかなり特殊かもしれませんが、相手に対して自分が持っている材料がどう見えるのか、どれを生かしてアピールすればいいか、というマーケティング的な感覚で自分のことを捉えて、就職活動に生かすのが重要だ、と言う点は、誰にでも参考になるのではないかと思います。

アカポスだけが人生ではない

最後に、アカポスを目指すことだけが人生ではない、と言うことを少し。上記のように就職活動を始める段階で、かなりの材料を揃えておかないと厳しいのが現状です。逆に言えば、その材料を自分が博士の4年なり6年、その後のポスドクまで入れたら6年から8年の間に揃えられない、と感じた時点で、アカポス以外の人生も視野に入れてキャリアを模索した方が、正直言ってよいと思います。逆に、アカポスにこだわるのであれば、それだけの準備をするために意識をして時間を使うべきです。厳しいマーケットであることは少し調べれば分かりきっているわけで、必要な準備に時間を使わないで、就職できない、と嘆くのは、僕にはあまり賢い選択肢だと思えません。

もちろん、人生は自分のものですから、他人があれこれ言うものではありませんが。

私自身は、博士課程で学んだ、科学的に思考する技術や、批判的に物事を捉える技術、様々な分析手法などは、活かせる仕事がたくさんある(特に、今はビッグデータとかアナリティクスで、データを分析して方策を考えることが重視されてますし)と確信してます。なので、広い世の中を見てキャリアを考えた方が、長期的には幸せなことが多いのではないかな、と個人的には思います。私自身、今はアカデミックポストに就職しましたが、一生それで行く、とは決めず、選択肢をオープンに考えていますし。

データとサイエンスの話。

先日、とある、機械学習に積極的に投資をしている、とある企業の知人から聞いた話が、昨今流行りのHRアナリティクスやデータサイエンスという観点で興味深かったかったので、書き起こしておこうと思います。

ポイントは「科学的思考」。データサイエンスが「サイエンス」を語るのであれば、科学的思考が必要なのでは?、というお話です。

知人から聞いた話を簡単にまとめると、以下のような感じです
(いろいろぼやかして書いてます)。

A社では、経営陣が、機械学習こそが次の重要な技術トレンドだ!と見定め、機械学習とそのビジネスへの適用に投資をしています。その一環として、機械学習を人事管理に生かせないか、というプロジェクトが始まりました。

チームは早速、人事にまつわる様々なデータを収集し、機械学習を生かして、データの分析を行いました。そこからは、様々な興味深い分析結果が得られたました。

「××なチームはパフォーマンスがいい」

「〇〇な人材は、成果が出ない傾向が高い」

といった形で、色々と、パフォーマンスにつながると考えられる要素が抽出されたのです。

しかし、このチームの方々は大きな問題に直面しました。

なぜ、〇〇や××がパフォーマンスにつながるのか、さっぱりわからなかったのです。データ上はパフォーマンスにつながる傾向があるのだけども、そこにどのような因果があるのか、納得できる説明ができなかったのです。

さあ、困りました。

「データ上は、これをやればパフォーマンスが上がると出ているんです」

と現場の管理職に伝えたところで、「なぜそれがパフォーマンスにつながるのか」がわからない限り、管理職が納得して動いてくれるわけがありません。

結果的に、チームはこの結果を組織運営に生かすことを断念し、別のアプローチを探ることになったのです。

なんとも、残念な、しょっぱいお話です。

まあ、後付けでこういう風に語ってしまうと、とても間抜けな話に見えてしまうのですが、プロジェクトに関わった当人たちは至極真面目に取り組んでいる人たちなわけです。その企業の機械学習への投資っぷりを考えると、かなり優秀な皆さんが関わっているんだろう、と思われます。

なのに、こうした間抜けな事故がおきてしまったのは、一体何なのか、ということを考えるのが本稿の目的です。

ここで、キーワードになるのが、「科学的思考」です。

科学的思考とは、自然界や社会で起きている現象を紐解き、新たな知識を獲得するための一連の手法のことを指します。近代から現代に至る自然科学や社会科学の発展を支えてきた、「知のお作法」と言ってもいいでしょう。

先ほどの事例で行われたことを簡単に要約すると、「データをたくさん集めて、高度な分析手法を使って、何らか興味深い示唆が得られないか探ってみること」ということになりますが、これは、科学的思考とは全く反しています。むしろ、真逆だと言ってもいいくらいです。

なぜこれに問題があるのか、を紐解くために、そもそもデータを分析する目的はなんなのか、というところから始めましょう。

HRアナリティクスのような形でヒトと組織にまつわるデータを分析する目的は、「ある組織現象(例えばハイパフォーマンスの発揮)が起きる要因は何なのか」を知ることであり、さらに言えば、「要因が現象を生む仕組み(言い換えれば、なぜ、どのようにしてその要因が現象の発生につながるのか)」や「どのような時にはその要因は有効なのか(逆に言えば、その要因が効かないような状況ってどんな場面なのか」といったことを理解することだ、と私は理解しています(もちろん、そこで得られた理解をもとに、打ち手を打つこと、がさらに上位の目的だということは言うまでもありません)。簡単にまとめると、以下の図のようになります。

%e7%8f%be%e8%b1%a1%e3%81%a8%e8%a6%81%e5%9b%a0

ちなみに、世の中には、データを分析するのだけれども、必ずしも「why」に対する答えが必要じゃない場面というのもあるのかもしれません。例えば、ウェブサイト上の消費者の動きから、「〇〇を買っている人は、××も買う可能性が高い」みたいな傾向を分析して、広告を表示する、みたいな場面が考えられます。ここでは、結果として売上が上がればいいので、なぜ〇〇の購入と××の購入がつながっているのか(=why)を知る必要はあまり無いかもしれません。

おそらく、アルファ碁のように、機械学習でゲームに勝つための能力を育てる、といった場合も同じでしょう。なぜその打ち手が優れているのかを説明できなくても、実際に勝つ可能性が高い打ち手が打てればいいからです。

しかし、HRアナリティクスのように、人事や組織運営に関わる場面では、whyが重要です。なぜならば、whyが分からないと人は納得できず、納得してもらえないと組織はなかなか動かないからです(ここが組織運営の悩ましいところです)。

そう考えると、やみくもにデータを分析して、何らかの関係性や法則性が見つかったとしても、それだけでは得るものがあまりありません。なぜならば、データは、何かと何かの間に関係があることは語ってくれても、なぜそこに関係があるのか(Why)は語ってくれないからです。

例えば、こういうことです(あえて、極端な例にしてます)。

「リクルーターとの会食で、食事を食べるのが早かった応募者の方が、入社後のパフォーマンスが高い」

ということがデータの分析から得られたとしましょう。でも、なぜ食事を食べるのが早かった学生の入社後のパフォーマンスが高いのかは、わかりません。このままでは、「食事を食べるスピードを選考基準にしましょう!」と主張しても「はあ?」と言われるだけでしょう。

ここから前に進むためには、「食事を食べるのが早い」ことが何を意味するのかを自分なりに紐解いて、それがパフォーマンス発揮にどのようにつながっているか、を仮においてみる(=仮説)必要があります。例えば、

(仮説1)食事を食べるのが早い人材は、総じて物事をやりきろうという意欲が高い。その結果、入社後のパフォーマンスも高いのだ。

とかですね。そして、それをさらなる分析で明らかにする必要があります。これを実際に検証しようとしたら、SPIのような適性テストのデータと突き合わせるとか、でしょうか。

ここで注目していただきたいのは、上記の仮説が筋がいいかどうかではありません(適当に考えた例ですからそこは勘弁してください)。仮説に、「why」に対する自分なりの仮の答え(=意欲が高いから)が含まれている、ということです。仮にこの仮説が非常に説得力あるデータで検証できたら、その説明が検証できたことになりますから、「食事を食べるのが早い応募者は、やりきる意欲が高い、そのため、パフォーマンスが上がるのである」という採用理論を構築することができます。そこまで出来れば、

対象者を絞り込んだ小規模な1Dayイベントを開いて、ランチにお弁当を出して、応募者がそのお弁当を食べるスピードを計測することで選考の判断材料にしましょう!

といった破壊的なイノベーションを提案し、周囲を説得することが可能になります。
(繰り返しになりますが、あくまでも例ですので、間に受けないでください笑)

ただし、議論はそれでは終わりではありません。

もちろん、自分が想定した仮説が、要因と現象の関係を説明する唯一のロジックだ、とは言えないかもしれませんから、他の説明方法はないかな?とさらにwhyを探求する、というのもありえます。例えば、こういう仮説も考えられます。

(仮説2)食事を食べるのが早いと、業務に費やせる時間の量が、食事を食べるのが遅い人材よりも多くなる。そのためにパフォーマンスに差がつくのだ。

これを検証するためには、自社の中堅社員の1日の時間の使い方をセンサーなどで把握して、そこで捉えた行動データと、評価データの関係を分析し、食事にかけている時間のパフォーマンスへの影響を見てみるといいでしょう。そして、仮にこれが検証できたら、さらにそれをもとに、

(仮説3) だとすると、「食事を食べるのが早い人材」がパフォーマンスを上げやすいのは、自社の様々な仕事の中でも「行動量が求められる仕事」に限られるのでは?

といった形で、理論にさらに磨きをかけていくことができます。

このようにして、一つの仮説に対して仮説に対して対立仮説をたてて検証をしてみたり、仮説が検証できた説明(=理論)をもとに次の仮説を立て、それを検証することで、現象に対する理解の厚みをましていくことができます。

これが、科学的思考の力です。

whyに関する論理的な説明を先に考えて(一般的にはこれをtheory =理論、と呼びます)、それを検証する、というアプローチをすることで、初めてwhyに対する答えに近づけるのです。さらに、仮説3で見たように、一つの仮説が検証されれば、その理論をもとに別の仮説を演繹的に積み上げ、さらに理論を発展させることができる、というのも重要です。

逆に、データを分析して何かの関係が見えたとしても、それ自体は、whyについて何も語ってくれません。whyへの答えを考えることができるのは、(私が知る限りではいまのところ)人間だけです。そもそも、whyへの答えを知りたがるのも人間だけかもしれませんが。そして、whyに対する答えがないと、次の理論の積み上げもできないのです。

もちろん、大量にデータを集めてとりあえず関係性を分析してみる、というのが全く意味がない、と言っているわけではありません。そこから、思いもしない関係性がみつかり、それをきっかけに上記の仮説検証サイクルが回り始めることもありえるからです。しかし、何度も言いますが、データを集めてとりあえず関係性を分析しただけでは、「why」に対する答えはまず手に入りません。

日立の以下の事例は、まさにいい例です。

ビッグデータで集客アップ:日立が見出した、イベント会場での「ヒトの行動パターン」とは?

①イベント会場の人の動きをセンサーで情報収集し、②そこから見えた意外な動きのパターンをもとに仮説を立て、③それをもとに会場の誘導方法を変えてみた、そうしたら、実際に効果が出たことで、仮説が検証できた、そして、次の年のイベントは、④得られた結果をもとに会場全体のレイアウトを見直し、それがうまくいくか検証する、というサイクルです。まさに、以下のくだりに、科学的思考の真髄が現れています。

もちろん、日立側が意図したとおりに来場客が動いてくれるかは分からない。今回も人の流れをセンサーで分析し、効果の検証を行う。しかし検証を行えること自体が大事だと、野宮氏は強調した。

結局のところ、本当にどうなっているか、は、自然科学にせよ社会科学にせよなかなか分からないわけで、「今までに分かっている理論から仮説を立てる」→「データを取り、検証してみる」→「その結果をもとに理論を進化させる」→「さらにそれをもとに次の仮説を立てる」というプロセスで、答えに接近していく、というのが大事なわけです。

逆に言えば、「とりあえず分析してみる」ときも、あくまでそれ自体がゴールではなく、この後の科学的思考のプロセスをスタートするきっかけなのだ、と考えて始めることが大事だ、ということです。冒頭の例に話を戻すと、そういう姿勢がチームで共有されていなかった、ということが最大の問題であると私は思います。

「うちの会社は・・・」の功罪

伝統的に日本経済の屋台骨と考えられてきた自動車、電気、精密などの業界でも、経営状況が芳しくない企業に関する報道を聞くことが、この10年くらい続いています。

去年は、三菱グループからの支援を受けて再生を図っていた三菱自動車がさらなる不祥事の結果、日産に救済されましたし、巨額の損失隠し、損失先送りが明らかになった東芝でも、さらなる不祥事が次々に明らかになり、債務超過も近いという報道も出ています。

こうしたニュースが報道されるたびに、「なぜ、会社は変われないのか」「なぜ、社会的に許されないとわかっているのに不正をしてしまうのか」ということが頭をよぎるのですが、本稿では、「組織アイデンティフィケーション(組織への自己同一化)」という観点から、この問題に切り込んでみようと思います。


「自分は何者か」という問いと、会社の関係


 

人間の心理の根幹にあるものの一つとして「自分は何者か」という概念があります。これをアイデンティティと呼びますが、心理学や組織行動論においては、人間がアイデンティティを定義するやりかたには、大きく3つがあると考えられています (Brewer & Gardner, 1996 参照)。

  1. 自分の持っている固有の特性で定義する(例えば、「自分は営業のプロだ」など)
  2. 自分にとって重要な他者との関係で定義する(例えば「自分は〇〇さんの弟子だ」
    「〇〇の妻・夫だ」など)
  3. 自分が所属している集団を元に定義する(例えば、「自分は〇〇社の一員だ」「自分は阪神ファンだ」など)

 

実際には、誰でも3つの方法のいずれのアイデンティティも持っており、なおかつ、それぞれのやり方のなかにも、複数のアイデンティティを併せ持っている、と考えられています。上の例のすべてが同じ人の中に混在しているわけです。

ただし、それらが常にすべて意識されているわけではなく、場面によって表面化する自己定義は変わる、と考えられています。例えば、営業担当者として顧客に訪問する際には、自社を代表して顧客を訪問している、というアイデンティティが強くなるかもしれません。また、仕事中に家族から子供が急に熱を出した、という連絡をうけた際は、子供の親としてのアイデンティティが表出しやすい場面と言えるでしょう。

もちろん、アイデンティティの中にも相対的な強さの違いはあり、「〇〇社の一員」としてのアイデンティティが非常に強く、自分の中で組織の一員であることが重要な位置を占めている人もいます。そして、このように、組織への帰属を元にアイデンティティを形成することを、「組織アデンティフィケーション」と呼びます。

組織アイデンティフィケーションの強い人の特徴には以下のようなものがあります。どうでしょうか?少なからず当てはまるところはないでしょうか?ちなみに、面白い点は、組織を去っても組織アイデンティフィケーションは必ずしもなくならない、ということです。会社を辞めたのに、会社の立場からものを語ってしまう、ついつい会社のいいところを自慢したくなる、というのは、その症状と言えるでしょう。

  • 組織が悪く言われると、自分が批判されたような気分になる
  • 組織が褒められると、自分のことのように嬉しい
  • 組織のことを「我々は」「自分たちは」「うちの会社は」という表現で語る
  • 他人が組織のことをどんな風に感じているか気になる

 


「組織アイデンティフィケーション」のメリット


組織にとって、従業員の組織アイデンティフィケーションを高めるメリットは無数と言っていいほど存在します (Ashforth et al. 2008参照)。

個人は、組織の成功を自分の成功だと感じるようになりますので、自分の仕事の範囲に限らず、主体的に組織のために行動したり、互いに支援し合う、という行動をとりやすくなります。また、顧客に対して組織を代表して行動したり、自分の所属するチームや部門の利害にこだわるよりも、組織全体にとっての利害を考えて行動する、といった影響も知られています。さらに、組織アイデンティフィケーションが強いと、離職意向が下がる傾向があります。

では、組織アイデンティフィケーションを促進する要因にはどのようなものがあるのでしょうか?

一つの大きな要因は、組織に際立った特徴があり、なんらか、優れている、と思えることです。人は誰も、自分について肯定的に感じたいという欲求がありますので、際立った特徴を持つ、優れた組織の一員だ、と感じることには非常に強い魅力があります。よく知られた、ブランド力のある会社であることも、アイデンティフィケーションを促します。また、厳しい採用をくぐり抜けて入社した、ということ自体も、特別感を通じてアイデンティフィケーションを促すのではないか、という指摘もあったりします。

高邁なビジョンを掲げることや、その実現に向けて組織や、そのメンバーが成し遂げたことを振り返り、称え合うことなども、同じような意味で、組織アイデンティフィケーションに寄与すると考えられます。

また、組織的に「その会社の人に染め上げる」ことも有効です。その会社のビジョンやゴールを理解し、その会社ならではの言葉遣い、ものの考え方、仕事の動きを学ぶこと、そうしたトレーニングを、他の部署のメンバーと一緒に受けることなどは、「組織の一員」という意識を醸成する上で有効であることが知られています。この意味で、日本の新卒一括採用と、その上での新入社員教育、また、定期的に行われる○年目研修といった仕組みがあること、さらには、長期雇用で、中途採用も限られるため、その会社固有の言い回しや言葉遣い、書類の作り方など、様々な「お作法」が存在することは、アイデンティフィケーションを促す仕組みになっている、と言えるでしょう。

 

 


「組織アイデンティフィケーション」の罪


さて、話が長くなってきましたので、もとのお題に戻りましょう。

組織アイデンティフィケーションには、上記のような様々なプラスの面がある一方で、組織の変革を阻み、不正を生みかねない、といった暗い副作用もあることが知られています。

たとえば、組織アイデンティフィケーションが強いことが、研究開発部門におけるクリエイティビティの低下につながる、失敗しつつあるプロジェクトを見直すことができなくなる、組織変革への抵抗を生む、といったマイナスの影響が報告されています。これは、組織への同一化が強すぎるがゆえに、組織内で主流の考え方とは異なるような外部の考えを取り入れたり、組織の現状を否定するような思考、判断ができなくなる、ということだと考えられます。

また、組織アイデンティフィケーションが強すぎる(over identificaiton)と、組織内における倫理的に問題がある行動について疑問を呈することができなくなったり、そういう行動に対して手を打つ行動に出られなくなる、といった悪影響が指摘されています。組織アイデンティフィケーションが強いと、組織を守ることは自分のアイデンティティを守ることに直結しますから、「組織(=自分)を守りたいがために」目の前の不正を見逃したりしてしまい、結果として、長期的な組織の繁栄のためにはマイナスな行動を取ってしまう、というわけです。

先ほど述べた通り、日本の伝統的な、よく名の知れた企業は、従業員の組織アイデンティフィケーションを促す仕組みが様々に整っています。そのことは、組織メンバーが一丸となって、互いに助け合い、組織のために行動する、といった意味でプラスに働いてきた時期も長かったと考えられます。が、一方で、そうそうたる大企業が自己改革に失敗したり、中からの不正でダメになっていく姿をみると、それが過ぎて、自己改革や、自浄作用が働かなる、といったことがおきているのではないか?とも思えるわけです。

 


まとめと考察


 

組織アイデンティフィケーションを強化することは悪いことではありません。むしろ、組織に個人を結びつけ、協働を促す上では欠かせないものだ、と言えるでしょう。ただし、過ぎたアイデンティフィケーションはむしろ害になりうるため、従業員には、「組織の一員」に完全に染め上げるのではなく、それ以外の様々なアイデンティティを育み、発揮する場面を作るのがいいのかもしれません。

最近良く聞く、プロボノや副業などの越境活動で会社以外の場で力を発揮し、人間関係を築くことは、間違いなくアイデンティティの多様化(個人の中でも、組織の中でも)につながると思われますし、男性が仕事に加えて、家族の一員として育児や家事に関わっていくことも、「組織への帰属」を基盤にしたアイデンティティだけではない自己意識につながると思われます。このように考えると、こうした活動は、組織への過度のアイデンティフィケーションを防ぐ、という面で、組織に好影響があるのかもしれません。

<参考文献>

Brewer, M. B. & Gardner, W. 1996. Who is This “We”? Levels of Collective Identity and Self Representations. Journal of Personality & Social Psychology, 71(1): 83-93.

Ashforth, B. E., Harrison, S. H., & Corley, K. G. 2008. Identification in Organizations: An Examination of Four Fundamental Questions. Journal of Management, 34(3): 325-374.