組織理論を考える(1)組織アイデンティフィケーション

以前から、ぱらぱらといろんな経営理論をご紹介してきましたが、本格的に連載ものとして主要な理論をご紹介していくシリーズを始めようと思います。どれだけ続けられるかわかりませんが、地道に続けようと思います。

第1弾では、組織アイデンティフィケーション(organizational identification)についてご紹介します。これは実は単一の理論ではなくて、複数の理論をもとに提唱されている概念なのですが、非常に幅広く研究されており、重要な概念なので1回使ってご紹介します。

組織アイデンティフィケーションに関する議論のベースとなっている理論の一つは、Tajfelらによって構築された、社会的アイデンティティ理論(social identity theory)です。アイデンティティとは、個人が自分を何者だと捉えているか?ということを指しますが、個人のアイデンティティを構成する要素は多岐にわたります。

例えば、僕は現在は「上海交通大学の教員」ですが、「リクルートOB」でもあり「LSE卒業生」でもある、と自分を捉えています。また、「研究者」であり「教師」であり、「コンサルタント」でもあります。さらに言えば、僕は「男性」であり「(妻にとっての)夫」「(両親にとっての)息子」ですし、「分析好き」の「SF小説愛好家」でもあります。

このように、個人は様々な要素の掛け算としてアイデンティティを捉えているわけですが、これらは大きく「個人の属性」「他者との関係」「社会的集団への帰属」の3つに分類できます。上記で言えば「男性」とか「分析好き」は「個人の属性」、「夫」「息子」は「他者との関係」、「上海交通大学の教員」「リクルートOB」は「社会的集団への帰属」によって自己を捉えている、というわけです。

社会的アイデンティティとは、この「社会的集団への帰属」に基づく自己定義のことを指します。そして、組織アイデンティフィケーションとは、「自分がこの組織の一員である」と強く認識し、そのことに感情的な意味を感じている、ということを指します。

組織アイデンティフィケーションは、個人が組織に対してとる態度や行動、また、個人が他の人に対してみせる態度や行動に大きく影響します。

自己カテゴリー化理論(self-categorization theory)と、社会的比較理論(social categorization theory)という二つの理論が、組織アイデンティフィケーションが個人に与える影響を理解する上では重要になります。この分野の研究者としては、TurnerやBrewerが有名ですね。

これらの理論は、我々人間は、「自分を取り巻く複雑な環境を頭の中でカテゴリーに分類し、単純化して捉える傾向がある」、そして、「自分が属するカテゴリーを他のカテゴリーと比て、自分についてポジティブに感じようとする傾向がある」と提唱します。

日本人が日本と外国を比べて、「日本人は〇〇なのがすごい」のように語るのは、このわかりやすい例ですね。日本を他と比較して褒めると、「自分=日本人」なので、(無意識に)自分についてもポジティブに感じられて気持ちが良いわけです(ところで、過去10年くらいでこの手の言説はとても増えたとと感じていまして、その社会的背景も実に興味深いのですが、ここではスペースの問題もあるので省きます)。

実際には、日本人にもいろんな人がいるし、外国人をひとくくりにするのも乱暴なわけですが、社会は複雑すぎて一人一人の人をありのままに捉えると我々の頭では処理しきれない、そのため、周囲をカテゴリーに分類することによって思考を単純化するわけです。これは、進化の結果そのように脳が発達したと考えられています。

心理学では、人間は「自分についてポジティブに感じたい」「集団に帰属したい」という根源的な欲求(need)を持つ、と考えられていますが、社会アイデンティティはそれを満たしてくれるわけです。

これらの理論から得られる重要な示唆は、人間には、「身内(=自分が属する集団のメンバー)」を好意的に評価する認知バイアスがある、ということです。海外を一人で旅していて自国民に会うと、なんとなく信用してしまう、仲良くなってしまう、とか、同じ大学のOBと会うと、在学中になんの接点があったわけでもないのになんとなく親近感を感じる、といった現象の一つの要因はここにあります。

これを組織に当てはめると、組織アイデンティフィケーションが強い人は、「自分の属する組織のメンバー」と「よその人」を区別し、前者をポジティブに評価する傾向がある、ということになります。

このことは、必ずしも悪いことではありません。例えば、同じ組織の人に対しては「信頼できる」と感じやすいので、組織メンバー間では互いに個人的な面識がなくても協働が起こりやすいといったメリットがあります。日本の場合は、会社だけでなくて、系列企業とかでもそういう心理が働く傾向がありそうです。一方、悪い影響としては、身内ではない、外部からのアイデアやアドバイスを軽視しやすくなり、内向きな行動や判断につながりうることも知られています。

さらにこの考えを推し進めると、「自分の組織が良くなること=自分にとっても嬉しいこと」になります。組織アイデンティフィケーションは、個人が「組織のために役割を超えて行動する」「自分の知見やノウハウを積極的に周囲に共有する」といった行動につながることが知られています。

さて、このことが現代の組織において持つ意味はなんでしょうか?

副業が自由になったり、組織の壁を超えた協業が促進されたり、社員だけではなくフリーランスや派遣社員など、様々な人が同じ職場、あるいは同じプロジェクトで働くようになったりと、「組織に属すること」と「働く」ということのつながりがどんどん緩やかになっています。

この結果、個人が自由な働き方を手にし、組織はフレキシビリティや多様な能力・情報へのアクセスを手にする、という議論がありますね。これはこれでそうだな、と思うのですが、組織アイデンティフィケーションという側面からこの現象を捉えてみると、いくつか重要なテーマが浮き上がってきます。

まず、従来「組織の一員」という意識によって、マネジメントする人たちが意識しなくても「みんなが互いに協力し合う」ということが担保されていたわけですが、それが前提とならない状況で、どのように協働や情報共有を促進していくのか、ということが課題になります。

おそらく、組織の仲間、というアイデンティティの代わりに、「プロジェクトの仲間」というアイデンティティを形成することが重要になるでしょう。個々のプロジェクトのリーダーの役割が大きくなると考えられます。

これを個人に置き換えてみれば、複数の組織アイデンティフィケーションを持っていることは個人の行動にどのように影響を与えるか?という問題でもあります。例えば、大手企業A社の社員でありながら、ソーシャルベンチャー企業B社にプロボノワークとしてアドバイスを提供している個人は、A社とB社の両方に組織アイデンティフィケーションを持ちそうです。はたして、この個人はどのように自分のエネルギーを両社に注ぎ分けるのでしょうか?そして、心理的に両社の一員であることに矛盾が生じたとき、個人はどう振る舞うのか?

さらに、人間は誰しもアイデンティティを必要としているわけで、組織が個人のアイデンティの対象を提供してくれなくなった時に、個人はどこに変わりを求めれば良いのか、という論点もありますね。

「組織に縛られない個人としてのアイデンティティ」を強く持っていくのが良いことなのだ、という論調の議論をよく目にするわけですが、世の中には集団にアイデンティティを求める傾向が強い人も沢山いるわけです。そうした「集団的アイデンティティ傾向(collective identity orientation)」が強い人たちにとっては、組織の境界のゆらいだ社会は、生きにくい社会なのかもしれません。

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あれもこれも言ってはダメ。

昔の職場の先輩が、日本から中国に3週間ほど滞在する、というので食事に行きました。

以前から中国語を勉強してて、中国に時々来ているのはなんとなく知っていたのですが、今回はなんと「案件が落ち着いたタイミングをつかって(彼女は会社勤めではなく、独立してコンサルタントをやってます)以前から興味があった中国のネットベンチャーで3週間くらいインターンをしようと思って」とのこと。また面白いことをやってますねえ、ということで、旧交を温めに近所のうまい上海料理の店に一緒に行ったのでした。

今日の本題はそこで出た彼女のこの発言。

「ホテルの部屋でテレビつけると、中国の経済成長とか、中央の今後の政策とかを紹介する、半分プロパガンダみたいな番組をずーっとやってるのよ。中国語の勉強にもなると思って見てたんだけど。

それでふと思ったのが、習近平とかの演説ってポイントが明確ですごくわかりやすいのね。これからの3つの重点政策は『貧困の撲滅』『環境の改善』と、なんだっけ、ああ、『金融の安定化』だったかな。

これからみんなの国をよくしていきますよ、そのためにこれに集中して取り組むんですよっていうのがはっきりしてて、あと、2025年までに貧困をゼロにする、とか、もちろん貧困の定義にもよるんだけど、目標もわかりやすいのよね。

日本ってこういう政策的なテーマって設定されてるんだっけ、って改めて考えたんだけど、多分ないよね」

 

この話を聞いて僕が思い出したのが、僕の研究のに協力いただいている企業のことです。

その企業では、過去3年間、連続してサーベイを取らせてもらっているのですが、僕の研究上の成果とは別に、毎年、サーベイの結果に明確に改善が見られるのです。データを分析していても、これは明らかに組織の状態が改善しているな、というのが浮かび上がって見えてくるような変化ぶりで、過去にあまり経験のないスピード感で改善が行われているのです。

この企業は何が違うのでしょうか?

それは、「一度にひとつのことを改善するのに集中している」ということです。僕からは、毎年の報告会で、データから読み取れる様々な懸念点や、改善の方向性などのアイデアを報告しているのですが、それを受けた経営者が「今年はこれだ」と明確にテーマを設定し、それを他の幹部や人事を通じて、徹底してその一年、改善に取り組んでいたのです。

そして、次の年にはそこが改善しているので、また、次のテーマを設定し、3年目のサーベイではそれが改善している、という次第です。逆に、改善していないポイントは3年経っても大きな変化は起きておらず、それもとてもわかりやすいのです。これには、コンサルタントを何年もやっていた僕が言うのも何ですが、唸らされました。

これは、なかなかできないことです。ついつい「あれもこれも」になってしまうからです。

「何かを優先して、他のものは後回し」と明確に集中をすることは、決断が伴います。というのも、それが正しいかどうかわからないし、後回しにされたテーマに関わっている人たちから不満が出たりするからです。

しかし、プレゼンテーションでもなんでもそうですが、一度の話で人が覚えていられるのは、たかだかポイント数個です。「あれもこれも」話されると、「なんだかいろいろあったけど、結局何だっけ?」になってしまう。人間の認知能力、情報処理能力には限界があるのです。

冒頭の習近平の例は、この好例ではないかと思います。冒頭の僕の先輩のように、よその国の政策で、勉強途中の外国語ですら、頭にポイントが残ってしまう。リーダーのコミュニケーション(あるいは国としてのプロパガンダ)としては理想的な成果ですよね(もちろん、キャッチアップ経済だから目標が設定しやすいとか、いろんなツッコミがあることは承知していますが、そうした点を引いてみても、習近平の国民に対する演説、例えば年末メッセージとかは、非常によく考えられてていて、非常に興味深いですよ)。

はっきりと優先順位をつけて、何かを捨てることは不安なのだけれども、そこで決断せずに「あれもこれも」を総花的にリーダーが話していると、結局、何も伝わらないし、組織に何も変化が起きないことになってしまいがち。逆に、色々弊害があるかもしれないけど、それをぐっと飲み込んで「これだ」と決めた方が、少なくともそこには変化が起きるわけで、むしろ組織は前に進む、ということではないかと思うのです。

「あれもこれも」は、色々拾おうとしているのに、結局「何も拾えない」ことにつながりがちなのかもしれませんね。

育休を取ると損をする、という話についての考察。

今日のBBCのニュースに「『働く父親たちは職場で損をしている』と議員が報告」といううタイトルの記事が出てました。

Working dads lose out in workplace, say MPs (BBC News, 20 March 2018)

趣旨を簡単に要約すると

  • 様々な調査によれば、女性のキャリア発展に伴い、男性の育児への関与度が高まっている。そして、育児に時間を割くために仕事へのコミットの度合いを減らしたい、というニーズを持つ男性が多くいる、ということも最近の調査からわかっている
  • しかし、職場の現実はそうしたニーズに追いついていない。伝統的な男女の役割認識が根強く残っているため、育児休暇をとった男性が職場で不利な扱いを受けたり、育児のために労働時間を抑えて働きたいというニーズにあった職場が見つかりにくかったりする

ということです。

実際、記事の中で出てきた興味深いケースとしては、「子供の送り迎えがあるので、決まった時間に退社する形で働きたい」と就職活動で雇用主に伝えたところ、「君の奥さんは何をしているの?奥さんは送り迎えはできないの?」と言われた、と言うケースがあるようです。まあ、そういうことを言う採用担当者がいるというのは残念な話ですが、率直に言って、想像に難くはありませんね。

この背景には大きく2つの要因がありそうです。(1)「会社としては、100%コミットしてくれる人材の方が嬉しい」という身も蓋もない話と、記事の中でも触れられていますが、(2)「男は仕事、女は家庭」という男女の役割認識が根強く社会に存在する、という話です。

(1)に関しては、男性でも女性でも変わらない話です。

以前、東京大学の大湾先生がある研究会で発表されていた研究によると、何社かの日本企業の人事データを分析した結果、「女性が出産後、育児休暇を長くとってから復帰すると、その後の給与の伸びにマイナスの効果がある」「一方で、出産後、非常に短い期間で復帰すると、給与の伸びにむしろプラスの効果がある」という結果が得られた、ということでした。

この研究が示唆していることは「育児休暇をどれくらいとったか」が、単に「仕事経験を積む機会のロスになる」というだけではなくて、何らかのシグナリング効果を持っているのではないか、ということです。「育児休暇を長く取ること」は人事や上司からは「仕事・会社よりも家庭の事情を重視した」というシグナルとして受け取られ、逆に、「出産後すぐに復帰する」ことは「仕事・会社の事情を重視した」というシグナルとして受け取られるのではないか。そしてそれがその後の給与の伸びに影響するのでは、という解釈です。もちろん、「もともと勤務意欲が高い人のほうが早く復帰する可能性が高く、そういう人はその後の評価が高くて給与が上がりやすいのでは?」という因果の可能性を考慮すべきですが、そこは出産前の人事評価データを考慮して統計分析を行えばよいわけですし、上記の研究ではそうした基本的なコントロールはされていたと記憶しています。

で、上記のBBCのニュースの話も、多かれ少なかれこうしたことが絡んでいるのではないかと思われます。女性だけでなく男性も、育児休暇を取る、あるいは育児のために労働時間を抑えたいという人は、「望ましくない」人材だ、と思われがちだ、ということです。仮に、男女ともにそうなのであれば、それは差別ではなくて、企業としての人事ポリシー上の選択の話だ、ということになります。これについての是非の議論はありますが、社会の変化に伴って、「人材市場においてそういう企業に人が集まりにくくなる」あるいは「制度・文化的に、そういうポリシーを持つ企業が容認されなくなる」といった変化が生じれば、企業にとってはなにが得なのか、という判断が変化し、ポリシー選択も変わる、という類の話でしょう。

一方で、(2)は性別が絡む話です。

男性と女性にことなる役割期待をもつ(=男性は外で稼ぎ頭として働くことが当然で、女性は家事や育児を頑張るのが自然、とする)ことは、程度の差こそあれ、多くの社会で見られる傾向です。このことは、様々なところで女性のリーダーが社会に増えにくい理由の一つとして指摘されていますね(例えば、シェリル・サンドバーグによるTEDの講演:翻訳付き)。

が、一方で、このことは男性の生き方を苦しくしている、という点もあるわけです。具体的に言えば、「稼ぎ頭はない選択」をした男性が、マイノリティとして厳しい扱いを受ける、ということです。これは、男性、女性の両方がやりますよね。前者で言えば、上記の「君の奥さんは・・・」のくだりは、多分男性から男性にむけたセリフでしょうし、日本でも、地域限定社員という働き方が出てきたときに、「ああいうポジションに男子学生が応募してくるのはちょっと驚きますね(笑)」というトーンで話されていた男性の人事の方の記憶があります。後者の、女性から男性に対してで言えば、例えば上のシェリル・サンドバーグの講演に、「平日の昼間に公園で男性(=父親)が子供に付き添っていると、周りにいる母親たちはその男性を遠巻きにして近寄ろうとしない」みたいな話が出てきます。これらの反応に通底するのは、「(稼ぎ頭である)男のくせに、なにしてるの?」という感覚でしょう。

僕は、この点に関しては、性別で役割を期待するのはいい加減にやめたらどうですか?という立場です。統計的に見れば男女で様々な違いがあるということは確かに様々な研究で示されているのですが、それと同様か、それ以上に、男性の中、女性の中での個人差もあるからです。考えてみれば当たり前のことですが。

一部では「これは古くからの日本の伝統なのだ」みたいなことを言ってたりする方もいらっしゃるようですが、社会学の研究によると必ずしもそうとは言えないのではないか、という説があるようです。例えば、橋爪大三郎氏編の「社会学講義(筑摩書房)」には、こうした男女の役割分担は農村社会にはあまり存在せず、工業化にともなって経済活動の現場(=例えば工場)が家庭から遠く離れたことによって生じたという説が紹介されています。だとすると日本の場合、工業化といえば明治以降の話ですから、たかだか150年程度の歴史しかない、ということになります。

一方で、東アジアにおける男女の役割区別の源流は儒教にあって長い歴史があるのだ、みたいな話もあります。ただ、儒教の本家本元たる中国はといえば、女性もかなりばりばり働く社会です。最近発表された、自ら富を築き上げた女性億万長者(female self-made billionaire)のリストの上位には中国の女性が多数ランクインしてる、といったあたりにも、女性の活躍度合いが明確に見て取れますね(男性の同様のリストと比べても、女性のリストにおける中国の突出ぶりは目立つようです)。そして、こうした女性の活躍については、毛沢東が中国は男女が平等に貢献する社会になるべきだ、と主張したことが、きっかけとして大きく寄与している、ということを、私の大学の同僚たちを始め、各方面から聞きます。

ここから言えるのは、仮に伝統と言っても、その歴史は意外と短いかもしれない、ということ、そして、仮にそれがもっと長い伝統に根ざしているとしても、だからと言って変えられないものでもない、ということです。仮に工業化によって役割区別が強化されたのであれば、現代は脱工業化の時代である、と考えれば前提が崩れつつあるし、儒教の伝統があったとしても、政治的な意図を持って社会にメッセージを発することでそれすらかなり変わりうるからです。

就労ビザの厳格化?イギリスと中国。

しばらく前に友人たちといったワインと串焼きのお店がありまして。

日本人の大将が経営していて、ワインの品揃えがなかなかよく、そして食事も総じて非常に美味しく、夫婦でとても気に入った店だったのですが、残念ながらもうすぐ閉店という噂が友人から流れてきました。

日本人ばかりではなく現地の人も含め、明らかに客の入りは良かったので、経営不振というのは想像しにくいなあ、と思ったら、閉店の原因は大将がビザの更新ができなかったから、ということらしいのです。

と、いうことで、今日の投稿は就労ビザをめぐって少々書こうと思います。


 

海外で働くのには一般的には就労ビザが必要です。もちろん、EU圏内のように労働者の移動の自由を互いに国の間で認め合っている場合はビザなしでどこでも働くことができますが、現在の世界においてはそれはあくまでも例外と言っていいと思います。

就労ビザに関わる政策は、様々なビジネスに直接影響を及ぼします。

例えば、Brexitをめぐる議論で、一つの焦点になったのが移民問題ですが、そこでは

「外国人がどんどんやってきて、自分たちのコミュニティがイギリスではなくなってしまう。最近は街を歩いていても、出会うのは英語じゃない言葉をしゃべる人ばっかりだ。一体全体、うちの街はどうなってしまうんだ」

というような、イギリス人・イギリス社会としてのアイデンティティや伝統を大切にしたい、それがEUからの無制限な移民で変質していくのが怖い・嫌だ、という見解と、

「イギリスの社会は大幅にEUからの移民に依存している。農業、食品製造、物流、小売などの産業の最前線で働く労働者の多くはポーランドなどのEUからの移民だ。更に言えば、医療関係者、具体的には医師や看護師の多くもEUから働きに来ている。国を閉ざしたら労働力が不足して、経済が停滞してしまうし、医療の質も低下する」

という、イギリス国内だけではスキルを十分に確保できない、という趣旨の見解がよく聞かれました(もちろん、この手の議論はBrexitをめぐる議論のごく一部でしかありません。また、人材・スキル不足を解決する方法は移民だけではありません。が、本稿では就労ビザに関する話が焦点なので、乱暴ですが省きます)。

イギリスの場合、Brexit以前から「流入する移民の数を制限しろ」というプレッシャーが有権者から保守党政権に対しては強くかかっていたようです。EUからの移民はEUの統一市場にの一員である限りは制限できませんから(労働者の移動の自由は基本原則の一つなので)、EU以外からの移民を制限するために、就労ビザのみならず、就学ビザも含めて、様々な政策が行われてます。例えば、僕が見聞きした範囲では、

  • イギリスで高等教育を受けた人材の、大学院卒業後の滞在期間の縮小。以前は卒業後1年間は労働ビザなしで滞在して職探しや働いたりできたが、今は、就職先の企業が就労ビザをサポートしてくれない限り、卒業後3ヶ月で退去。
  • 企業が外国人を採用する場合の制限。原則的に、募集広告を一定期間(3ヶ月だったかな?=>加筆: 28日でした!)公開して、その上でイギリス及びEUの人で要件に合う人が見つからなかった、という条件を満たさないと、外国人(EU以外)を採用できない。
  • 就労ビザの支給条件の厳密化。例えば、年収の条件を以前より厳しくして、高度スキル人材じゃない人たちが入ってきにくくする。産業・職種によりどうしても国内で人材が不足である、といった特殊な事情がある場合は、個別判断で緩和措置を設ける。

みたいなことが行われています。そして、これらの運用はかなり厳格です。

たとえば、僕は1つ目に影響を受けました。本来、僕の博士課程の就学ビザの有効期限は2018年の1月末まだったのですが、予定よりも2ヶ月早く博士修了が決まった結果、2ヶ月分ビザもカットされたのです。前倒しでの修了が決まったことが大学から内務省(Home Office)に報告され(大学は報告義務がある)、内務省が「これはビザの有効期限のカット対象」と判断した、というわけです。

おかげで2017年の12月に卒業式のために再渡英した際には、入国審査で2時間引き止めに会うという残念な目に会いました。日本のパスポートがあれば、短期の滞在であれば通常はほぼノーチェックで入国できるはずなのですが、「ビザがカットされてるのは怪しい、お前何かしたか、事情を説明しろ、データベースと照合する」というわけです(おそらく、この記録は一生残るので、今後はイギリスに行くたびに同じことをやるんだろうなあ、と今からうんざりしています)。

また、友人(日本人)が現地の企業に中途で就職した際には、採用は内定していたのに、就職先がそのポジションの募集広告を事前に公開しておくのを忘れていた結果、勤務開始が遅れた、というケースもありました。

そして、3つ目の結果生じているのが、インド料理店の大量閉店です。2016年のガーディアン(現地の左派よりの高級紙)の記事によれば、18ヶ月で600店舗のインド料理屋が閉店を余儀なくされ、最悪の場合、業界全体の1/3にあたる4000店舗の閉鎖もありうると書かれています(まあ、4000店舗は極端だと思いますが)。

と、いうのも、インド料理店の多くは、インドからの移民が創業しているわけですが、初代創業シェフの子供たちは親の仕事を継ぎたがらず、結果としてインドからシェフを連れてくる、というパターンが多いようなのです。が、上記の労働ビザの条件の厳密化でそれが難しくなり(需要があるといってもインド料理店のシェフの給与はそんなに良くないので)、シェフが確保できなくなり、廃業につながる、という展開です。

 


 

ちなみに、中国でも現在は就労ビザに関する発給条件をめぐって、新しい政策が昨年から導入されています。応募した人それぞれについて、中国で予定されている給与額、学位、職務経験年数、中国語スキル、年齢などで点数が付けて、合計点数に基づいてA, B, Cのランクわけをする(リンク先は日経新聞の解説)、というものです。考え方としては、色々サイトを見てみると、

  • A(ハイレベル人材) 中国としてぜひ招きたい人材
  • B(プロフェッショナル) 雇用側がちゃんと申請すれば就労ビザが普通に出る人材
  • C(一般人材):就労ビザの発給をコントロールする人材

ということのようですね。

Cに関しては、学歴(学部卒以上じゃないとダメ)年齢(60歳以上はダメ)に関する条件がかなり厳しく運用され、これまで就労ビザが取れた人も更新できなくなるのでは、いや、実際にもうなっている、といった情報も流れております(冒頭のワインのお店の大将の話は、直接伺ったわけではないのでなぜビザが取れなかったのか詳細は分かりません)。

この仕組みに関しては、「人間をランク付けするのか」みたいな反発も一部のメディアで流れてましたが、僕自身はそれほど極端な仕組みだとは思いません。例えば、イギリスの場合もA, B, Cみたいな明示的なランク付けはしていないものの、英語力や資産額など、条件を満たしているとポイントが加算されて、(簡略化して言えば)一定のポイント以上になればビザがでる、足りなければ出ない、といった考え方です。

こうした仕組みは、「目に見える基準で、すべての人を同じように扱う」という意味では、公平公正なビザ行政だとも言えるなあ、と思ってます。もちろん、個別に考えれば、大卒じゃなくてもスキルを持った人はいっぱいいるよね、というのは全く議論の余地がないのですが、それを一人づつ丁寧に審査するのが現実的に回らない、ということは理解できます。

今後、こうしたビザの条件が厳しくなるのかどうか、というのは、中国の経済の状況や、中国国内における高度スキルを持つ人材の育成に関する政策が関わってくると思われるので、正直僕にはなんともいえません。

世界の工場としてローコストの生産で稼ぐ、という時期を脱して、イノベーションを生み出していく、という方向に向かっているようなので、科学者・技術者・起業家など希少で高度なスキルを持つ人材を海外から引きつけるとともに、中長期的な視点で国内で育成にも取り組む、その一方で、ミドルクラスの仕事は国内人材にシフトして社会としての人材層を厚くしていく、という方に重点が置かれていくのかなあ、と思いますが、あくまで想像に過ぎません。

 

上海交通大学の学部生の実態。

中国では春節の長期連休がおわりまして、徐々に街に人が戻ってきています。連休中は人も車も少なく、久しぶりの静けさを楽しめましたが、どこもかしこも人だらけの普段通りの上海に徐々に戻りつつあります。

本学でも新学期がスタートしました。

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今学期は、二つ授業を担当してまして、それぞれ月曜日、火曜日に最初の授業を行いました。いずれも多くの学生さんが出席してくれてありがたい限りです。

今回は僕にとっては新しいことが一つありまして、それは、「中国人の本科生(いわゆる日本でいう学部生)」がメインのコースを担当する、ということです。前の学期は交換留学生ばかりを集めたコースを担当してましたので、同じ学部生でもほとんどの学生は欧米からの生徒で、プラス、アジア圏からの生徒がごく少数、という塩梅でした。ですので、地元(といっても、中国全土から学生は来るので、出身地はいろいろですが)の学生に密に接するのは、今学期が初めてです。

ちょうど、前の期に留学生に教えた授業と全く同じコース(Cross-cultural Management)を今期は本科生たちに教えていますので、非常にわかりやすく反応の違いが見て取れるのが面白いところです。この投稿では、忘れないうちに第1回の感想を書いておこうと思います。

英語がうまい

僕は授業では生徒にポンポンと話を振って、生徒に発言させながら進めていくのが好みです。ですから、生徒との間で英語でコミュニケーションが成立しないと話になりません。

ほぼ中国人の学部生のクラスだ、とわかった時点で、その点についてちょっと心配をしていたのですが、完全に杞憂でした。かなりの割合(8割くらい?)で、なめらかに英語でコミュニケーションができるな、というのが実感です。正直言って、驚きました。もちろん、途中でうまく単語が出てこなくて口ごもってしまったりする学生も一部にいましたが、あくまで少数です。

ちなみに、僕の担当している授業はマネジメント専攻の学生では必修になっているので、英語が得意、あるいは英語で授業を受けたい、という学生だけが集まっているわけではありません。ですので、上海交通大学の学部生の英語のスピーキングのレベルは総じてかなりのものだ、と考えて良いと思われます。

中国は英語教育にここ数年かなり力を入れていると聞いてますし、街でも子供向けの英語教育に関する広告をとてもよく目にします。上海交通大学は中国でもトップクラスの大学の一つですから、うちの学生で中国の大学生全体を推し量ることはもちろんできませんが、少なくとも僕の教え子たちの英語力は、正直全く侮れません。中国のエリート候補たちは英語に本気だな、というのを垣間見た思いがします。

でも、クラスで発言を求められるのは苦手

一方で、じゃあ授業の間にポンポンと発言が出るかというと、全くそうではありません。むしろ、こちらから話をふっても、自分から手を上げて発言する学生はほとんどいません。LSEでの経験から東アジアからの学生は授業中にあんまり発言してくれないというのは知っていたのですが、それがクラスの大多数(留学生もいますが)となるとなかなか手強いです。発言がさっと出るのは、

  • まず、グループで周りの生徒とディスカッションさせた上で、個人を指名する
  • 明らかにこっちが正解だろう、とわかるシンプルな二択質問を全体に投げかける

というケースに限られます。ただし、二つ目のケースでも、「なぜそう思うの?」とさらに深掘りする質問を投げかけると、シーンと黙ってしまいます。

この辺りは欧米からの留学生が多いクラスとは非常に対照的です。欧米人、あるいは、アジア系でも欧米の教育を受けている学生たちは、ガンガン手を上げて自分から声を上げますし、深掘りの質問をしてもなんらか答えをひねり出してきます。

文化的に言えば、いわゆる「面子」の影響が大きいのだと思われます(先生や同級生の前で間違えるのが恥ずかしい、的な話です)。あとは、高校生までの教育が「正解」を出すことを重視してるからかもしれませんね。安心して発言できる環境じゃないと発言をためらう、ということではないかと思われます(追記:日本でも似たような特徴はある、という指摘を何人かの方からいただきました。確かに文化的にも教育的にも似たところがあるように思います)。

また、授業のやり方も、中国の先生たちは授業では一方的に話をして、生徒に発言を求めることは少ない、と聞きますので、その辺りの影響もありそうですね。

瞬発的な理解力は結構高そう(まだ印象レベル)

この点については予想通りです。中国の厳しい受験戦争を通り抜けてきた生徒たちなのであまり心配してませんでした。

グローバリゼーションってどういうこと?とか、文化って何?とか、大学2年性の段階ではあんまり考えたことがないであろうテーマの質問を投げかけても、断片的ではあっても筋は悪くない答えが返ってきますし、こちらの解説を聞いて、「なるほどね」という顔で飲み込んでいる学生が多い印象です。

もちろん、真面目に授業をじーっと聞いてふんふん、と頷いている学生もいれば、明らかに集中していない学生もいます。まあ、大人でも講演とかで人の話をじーっと聞くのが苦手な人もたくさんいますから、別に驚くような話ではありません。

ただ、同僚から聞くところによると、弊大学の学生たちの「試験で点数を取る」ということにかけての情熱と実力には凄いものがあるらしいので、これからが楽しみであります。

検索文化すごい。

中国の若者たち(に限らず大人もですが)は、ご他聞に洩れずソーシャルメディアにどっぷりでして、いつでもどこでもWechatでチャットをしています。僕の授業では、授業中のチャットやメールのやり取りは禁止、見つけたら端末没収、と最初に宣言してますので、さすがに第1回の授業から堂々とやっている学生はいません。

が、一方で、グループディスカッションを始めさせると、即座にパソコンやスマホで検索をしてるのには、ちょっと驚きました。生徒たちが喋ってる間にクラスを巡回してると、明らかに、「あ、質問の答え探したな」とわかる画面が表示されてたり。で、それを見ながら議論してるんですよね。

これについては、なかなか悩ましいなあ、というのが本音です。ふわふわした概念について、自分の頭で考えて定義をする、というのは、僕はとても大事な思考能力だと思うのですが、一方で、世の中に溢れている情報を取捨選択して使いこなす能力も、現代には重要なためです。まあ、後者は教室でやってもらう必要はないので、教室では前者に集中する、というのが一旦の僕の対応ですが、まあ、どうしたものかなあ、と思ってます。

この点については、おそらくうちの学生の特徴、あるいは中国の学生の特徴、というわけではなくて、今の世代の特徴、ということかもしれません。

 


 

と、いうわけで、上海交通大学の学部生についてまとめてみました。