史上最大級の買収、それとも史上最大級の脱税策?

ファイザーがまた巨額M&Aをするそうである。

Pfizer seals $160bn Allergan deal to create drugs giant

ファイザーといえば、何年も前からM&Aをバンバン連発して、世界の製薬業界の再編と巨大化を引っ張ってきた企業の一つだが、さらにまた合併をするとのことだ。

“the biggest pharmaceuticals deal in history(製薬業界では史上最大の取引)”ってニュースのヘッドラインを何回も見た気がするので、正直、またか、という印象だ。製薬業界での合併の背景には、医薬品の開発コストが上がっていること、バイオテクノロジーによって過去にない研究開発が可能になったこと、また、新興国の医療ニーズが高まっていることなど、いろいろな構造的要因があるようだ。

ただ、このニュースで興味深いと思ったのは、この買収と同時にファイザーが登記上の本社をダブリンに移す、という点だ。買収先の企業の本社がダブリンにあるので、そちらを登記上の本社とするらしい。これによって、ファイザーは巨額の節税ができる。なぜならアイルランドの法人税は実質的にアメリカのそれの数分の一だから、ということである。

巨大企業の節税については、アマゾンやアップル、スターバックスなどが各国の税法の特例をうまいこと組み合わせて、ビジネスの規模に対して全然税金を支払っていない、といった報道が去年から行われ、各国で批判の的になっているのは記憶が新しい。

また、タックスヘイブン(租税回避地=税金がものすごく安い、あるいは実質的に無税の国)に対する規制がアメリカを中心に国際的に議論されているのも、ここ数年でおなじみになった動きだ。

そのため、このファイザーの合併話は、単純に企業の国際戦略という話ではなくて、租税回避、極端な言い方をすれば「脱税」だ、という風に捉えることもできる。実際に、早くも民主党の大統領候補のヒラリー・クリントンが、「大企業に適切な負担をさせる」ような政策が必要である、ということを主張している。

そのため、この話は、国際経営、という枠組みだけではなく、企業倫理や税制、国際政治など、多様な観点からとらえる必要があると思う。

①企業戦略、あるいは国際経営の観点

単純に考えれば、この話は、税制優遇で企業を誘致する、という話の延長線上の話である。日本でも、企業誘致のために地方自治体が優遇措置をしたり補助金を出す、という話は珍しい話ではないし、国際的な誘致合戦があるのも、古くて新しい話である。

なので、経営上からすれば、資本を最も効率よく使って株主に貢献するには、各国の制度的な枠組みをうまく活用するのは経営者の義務であって、税金逃れでもなんでもない、という理屈が成り立つ。

こうした各国のビジネス活動環境の違いを利用する、というのは国際経営では古くて新しい議論である。天然資源や市場、人的資源の充実だけではなく、制度の充実も、立地選択上の魅力になる、という話である。

②企業の社会責任の観点

一方で、企業が経営活動を行う上では、治安や司法、教育、交通や電力など、国家が提供する様々な公共インフラストラクチャーを利用している。先進国でビジネスが毎日安定的かつ快適に進んでいくのは、国家および地方自治体が提供するインフラが強固だからだ、という見方もできる。

だから、経営活動の規模に応じて、それなりの公共への負担をしないのは、社会的責任を果たしているとは言えない、とも考えられるだろう。

③税制、あるいは所得配分の観点

国家は税制や社会保障などの仕組みを通じて、所得配分を行っている。言い方を変えれば、稼げる人からは多くとって、稼げない人からは少なくとる、そして、さらに福祉を通じて稼げない人に医療や教育など、基本的な人間らしい生活を送れるように支援を行なっている。もちろん、格差の拡大などの議論はあるのだが、この機能を少なくとも国家はそれなりに担っている。

ここまでのロジックを踏まえて、結局のところこれで得をするのは誰か?ということを考えると、損をするのはアメリカの一般の国民(どれくらいの人が配分に預かるか、はともかくとして)であって、得をするのはおそらくアイルランドの国民、利益が増えてボーナスが増えるファイザーの経営者(と従業員?)、プラス、これが上記①の見方の正当性の源泉だが、ファイザーの株主だろう。

つまり、国家が所得配分を行う機能が、企業の国際的な行動によって妨げられ、所得配分の行き先が株主に向かっている、という風に捉えることができる。

④国際政治の観点

こうなってくると、近現代の国際秩序の主役であった国家主権と、そこから半ば独立して活動する多国籍企業、という構図の中で、富を奪い合っている、あるいは富の引き付け合いをしていると言う話に見えて来る。そうなると、次に考えないといけないのは政治である。

各国は自分の利益を考えれば企業を引き付けたいので、税制優遇をする誘惑が常にある。一方で、企業は活動している各国で相応の負担をすべきだ、という主張にも一定の理があるようにも思われる。これはまさに「囚人のジレンマ」ゲームに近い状態であり、しかも、多くの国が複雑な税制を使ったプレイをしているので、裏切ってもばれにくい。綱引きはそう簡単には決着しないように思われる。

果たして、こうした租税回避の動きを、各国の利益が相反する中で、どう解決していくのだろうか。研究者としては興味深い題材だし、ビジネス教育に関わる立場からすれば、非常に面白いケーススタディである。ただ、一人の市民、納税者としての立場からすると、面白がってもいられない話でもある。

世界の英語力はこの10年でどれくらい変わったのか。

最近の国際研究の世界では、「言語」が非常にホットなトピックになっています。

その中でも特に、英語が世界の事実上の標準語になっていること、多くの企業が英語を企業の公式言語としていることが、組織や人々の関わり合いにどのような影響があるのか、という問いは、中核的な問いの一つです。

それに多少絡んで、TOEFL(R)のデータを用いて、世界の各国の英語の点数がどのように変化したのか、を最近分析したので、今日はそれについて書こうかと。

1995年と2014年のデータを使って、世界のいろいろな地域の得点を比較したのがこちら。アフリカ、中南米、中東については1995年の時点で比較的受験者数が多かった国を各地域からピックアップしました。ちなみに、TOEFLはReading, Listening, Speaking, Writingの4科目が各30点づつで、満点が120となっています。MBAや修士のコースへの出願は100点、あるいは105点くらいが求められることが多いです。

English Score 20151122

TOEFLは大学などへの出願に使われることが多いテストなので、あくまでも若い学生が母集団の多くを占めるため、必ずしも各国の人口を代表しているとは言えませんが、受けている人数が多く、世界中で使われていること、点数が長期間にわたって安定的に公表されていることから、長期で英語力を国際比較する上では、まあまあ適切な指標だと考えられます。

ちなみに、社会人の英語の国際比較の指標としては、English Firstが出しているEPI-cがあるのですが、データが比較的最近のものしかないのが残念です。

さて、このTOEFLのデータから最初に注目したいのは、世界中のTOEFLを受けている人の平均点は11点上がっているということです。これは英語への関心が世界中で高まり、英語教育、英語学習に労力が払われたことの結果、と考えていいのかな、と思います。

次に、地域別にみると、ヨーロッパでは、オランダや北欧をはじめとして平均が90点台の国が目白押しなのですが、ドイツはその中の一国です。この10年間、高どまりしていると言っていいでしょう。さすがに120点満点のテストで、国全体の平均点が8割を超えるのはかなり難しそうです。一方、フランスは比較的英語が通じにくい国として知られていますが、この10年で随分点数が上がっていますね。

アジアの中で比較すると、日本は世界の平均並みに点数が上がっています(10年で12点アップ)が、韓国はそれをはるかに上回る点数、なんと20点、高めてきています。日本の上昇も、世界的に見ればまずまずなのですが、1995年の時点での点数がかなり低いことと相まって、ここでピックアップした国々の中では残念ながら最低の平均点になっています。中国は若干下がっていますが、もともとの点数が高いことを考えると、受験者層が比較的限られていたのが、拡大した結果かもしれません。

中南米や中東においても、メキシコ、ブラジル、エジプト、レバノンのいずれにおいても10点前後の増加がみられます。一方、アフリカは点数が低下していますが、こちらも中国同様、10年前の値が限られた高度教育を受けた限られた層の点数だったのでは?ということが考えられますね。今は母集団自体が広がっているのではないか、ということです(残念ながら、2014年のデータでは母集団数がわからないので、確認できませんが・・・)。

絶対値の水準を見ると、ここで抽出した国々の平均点は、80点台の中盤あたりに収束してきていますね。もちろん、世界の平均がそれくらいですので、なんとなくそういうものかもしれませんが。その中での日本の得点は残念な水準と言っていいでしょうね。

ちなみに、Tannenbaum & Wiley (2008)によると、ヨーロッパの語学力に関する基準であるCEFRでB2、すなわち「実務に対応できる者・準上級者」に相当する水準に対応するTOEFLの最低点が87点だそうですから、世界の様々な国の平均点がそのレベルに近づいているのに対して、日本の平均点はまだまだそこからは乖離がある、と考えるとわかりやすいかもしれません。

結論としては、それなりに英語教育には公的にも私的にも力を入れてきた成果として、世界平均と同じくらいには英語力は上がっているものの、それ以上に劇的な成果が上がっているわけではない、ということ、また、絶対値としても相対的に見ると低めの値にとどまっている、ということが言えそうです。

もちろん、人口当たりの受験者数の比率など、一律の条件で比較しているわけではありませんから、完全にこれだけで何かを言うのは国際比較の観点では無理があります。上述の通り、たくさんの人が受けているのと、高度な教育を受けた一握りの人が受けているのでは、わけが違いますから。そこは割り引いて考える必要があるのですが。

僕の研究としては、こうした英語力の違いが、企業としての国際展開のやり方の違いや、人事政策の違いにどのように影響しているか、を考えていくのが面白いところです。企業レベルでも、楽天、ホンダなどでの英語の公用語化が国際経営に与える影響は研究として面白いのですが、国レベルでも英語力の影響は色々とありそうですから。

調査データはどれくらい信頼できるか?

先日、朝日新聞デジタルにこんなニュースが出ておりまして、

ネット調査、「手抜き」回答横行か 質問文読まずに…

これはこれで若干煽り気味なタイトルの記事なのですが、さらに、それに反論する形で書いた、マクロミルの研究員によるブログ

ネット調査は「手抜き回答」が横行しているのは本当か?

が、これまたなかなか手前味噌というか、自分たちの商品を守りたい意図が見事に透けて見える内容で、率直に申し上げて、なかなか面白い論争気味なのです。

まあ、とはいえ面白がっていてもしょうがないので、最近僕が自分で行った調査のことにも触れながら、この、ネット調査の信頼性の問題、そして取りうる対策について書いておこうと思います。

結論から言うと、

ちゃんと自衛策を取った方がいい

と僕は思っております。

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この記事の元になったのは、「社会心理学研究」という学会誌に発表された三浦&小林 (2015)による研究なのですが、なかなか面白い内容です。 

オンライン調査モニタのSatisficeに関する実験的研究

内容としては、ネット調査で回答者が設問をちゃんと読んでいるかチェックするための項目(いわゆる「アテンションフィルター」と呼ばれるもの)をサーベイに挿入してみたところ、驚くほどたくさんの人が、ちゃんと読まずに回答していたことがわかった、と言うものです。アテンションフィルターとは、例えば以下のようなものです。


以下のそれぞれの設問について、あなたの考えに当てはまる程度として、「そう思う」から「そう思わない」から最も当てはまるものを一つ選択してください。

そう思う ややそう思う あまりそう思わない そう思わない

昼ごはんといえばうどんだ   ⚪︎      ⚪︎        ⚪︎      ⚪︎

昼ごはんといえばカレーだ   ⚪︎      ⚪︎        ⚪︎      ⚪︎

「そう思う」を選んでください ⚪︎      ⚪︎        ⚪︎      ⚪︎

餃子といえばビールだ     ⚪︎      ⚪︎        ⚪︎      ⚪︎


はい、3つ目の設問ですね。あんまりよく読まずに回答している人は、うっかり「そう思う」ではないものを選んでしまうわけです。

他にも長文の設問の最後に「何も選ばずに次のページに進んでください」と書くものもあるのですが、いずれにせよ、きちんと一つ一つの設問に注意していない人を引っ掛けるように考えられた設問が、「アテンションフィルター」です。

上記の論文では、これらを調査票の中に組み込んでみたところ、実に数十パーセントの人が引っかかったと言うことを述べています。それで、「手抜き」回答横行か、という冒頭の記事タイトルになったわけですね。

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ちなみに、僕も同じような項目を自分の調査に組み込んで、アメリカ、日本、中国で実施してみたのですが、なんと、日本が最も引っかかる率が高かったです。誤答率を比べてみると、以下のような感じです。

アメリカ 10%〜15%
日本   30%強
中国   20%弱

おそらく、この違いは、アメリカでつかったプラットフォーム(Amazon Mechanical Turk)の場合、発注側が回答をチェックして、きちんと完了していないと謝礼を支払わない、ということができる、なおかつ、ミスが多い人は評価が下がっていって調査に参加できなくなる、という風に、きちんと答えるインセンティブが組み込まれているからではないかと思います。

一方、日本のネット調査会社は、僕が利用した中で見聞きした限りでは、こういう形で途中でフィルターにひっかかったからといって謝礼を支払わない、というのはできないようです。このあたりは、不注意な参加者が出やすい構造なのかもしれないですね。

あとは、上記に加えて、アテンションフィルター自体が、アメリカの方がより一般的に使われている、ということもあるかもしれません。僕自身、調査の仕事をして長いですが、アテンションフィルターについて知ったのはここ最近のことなので。それだけ、日本では知られておらず、調査回答者も知らない、ということがあるのではないかと。

ま、それですら、アメリカでも10%以上が引っかかるわけですが。

マクロミルの研究員の記事では、いろいろと現状を擁護する説を展開されていますが、僕は率直に言って、あまり説得力がないと思います。項目を読まずに回答したデータに、価値があるわけがないからです。

もちろん、項目を読みたくなくなるような長い項目を設計する側の問題もあるので、一概に調査会社を批判するのは私の意図ではありません。が、信頼できるデータを欲しいのであれば、「項目設計」と同時に、「回答態度」にも気を配る必要がある、ということは明らかでしょう。

ちゃんと読んでない回答者の回答は除いて分析することができるように、回答者側が設計する必要があります。

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ちなみに、アテンションフィルターのような、あからさまなやり方以外にも、いくつか怪しい回答者をピックアップする方法は存在します。

① 回答に要した時間を見る

調査会社によっては、回答にどれだけの時間がかかったか、納品データに入れてくれる会社がありますが、これは一つの参考になります。あまりにも短い時間で答えている人は、問題を読んでないのでは?ということですね。十分にサンプル数が取れている場合は、こういうデータは除いて集計してもいいでしょう。

② 広く知られた事実を聞く質問を入れる

項目の中に、比較的よく知られた事実を聞く質問を加えておくことで、そもそも質問を読んでいない人をピックアップすることが可能です。もちろん、その事実を知らなかった人がはじかれてしまうリスクはあるのですが。アテンションフィルターは、あまりにも回答者を疑っているのがあからさまなので、それがやりにくい場合にはは、このパターンが有効かもしれません。

特に、Amazon Mechanical Turkの場合は、人間の代わりにコンピュータープログラムで調査に適当に回答させてお金を稼ぐという、えぐい活動も行われているようで(日本はどうだかわかりませんが)、人間がちゃんと内容を考えて答えれば間違えないような質問を入れておくことを自衛策として推奨している論文を見たことがあります。

ちなみに、ここまでの話はほぼ、ネット調査の話なのですが、①は企業内で実施する意識調査でも使える方法ですね。今ちょうど、企業での調査もやっているので、この辺も分析の際には確認してみようかな、と思っています(流石にアテンションフィルターを入れるのは企業調査では少々はばかられますね)

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と、いうわけで、ネット調査をやる機会はいろいろとあると思いますが、データで何かを語る際にはそもそもデータが信頼できるのか、という点も考えた方がいい、というお話でした。

「立ったままデスクワーク」を本格導入(その1)。

博士課程も本格的に後半に突入し、連日家で調査を設計・実施したり、データを分析したり、論文を書いたりと、本格的にデスクワーク漬けの日々がスタートしております。

これまでも、多かれすくなかれ似たようなものだったわけですが、やはり根を詰めていろんな作業を同時並行でやり始めると、どうしても長時間、下手をすると朝の8時半から夜の11時くらいまで食事を作って食べる時間以外はデスクに座っている、みたいな日が出てきます。

コンサルタントとして働いていた頃も、相当デスクワークは多かった方だと思いますが、そうは言ってもミーティングやらお客様のアポやらで、それなりに立ち上がったり、出歩いたりする機会があったわけですが、それが激減しております。

これでは、さすがに

健康に悪い!

というわけで、最近話題のスタンディングワークを導入することにしました。

といってもいきなり流行りに乗っかって決めたわけではなく、幾つかの布石がありまして。

まずは、大学のうちの学部の先生にひとり、このスタイルで研究室で仕事をしている先生がいるのです。彼女の場合、完全に高い位置のデスクで固定にしているので、ほんとにあれで仕事できるの?と多少疑問の目で見ていたのですが、1年くらいたってもずーっとそれで仕事をし続けており、もしかするといいのか?と思い始めたのでした。

そしてさらに、PhD学生用の研究室にも数ヶ月前に一つ、なぜだかデスクが高いスタンディング用のデスクが導入されまして。誰からも特に事情は聞いてないので背景はわからないのですが、どこかで余ったデスクを放り込んだというのが実情ではないかと疑ってます。

が、理由はさておき、上記の先生のことがあったので、早速何回かそれで作業をしてみたのですが、なかなか快適でして。もちろん足は多少疲れますが、1時間やそこらで疲れて座りたくなる、というほどでもない、ということがわかりました。

という実験の上で、いよいよ自宅にも導入を決定しました。まあ、350ポンド(7万円)ですのでそこそこの出費ですが、将来のことを考えると悪い投資ではないか、と判断しました。

長時間座ったままなのは、明らかに健康に悪いというのは、昔から言われていることですし、今後もデスクワークが多いのは明らかですからね。そしてどうも、カロリー消費が増えて痩せるし、筋肉もつく、と言う情報もあり、プラスは十分に多いかと。

ということで、今日お昼に物が届いたので、早速設置して使っている(現在も)のですが、5時間くらい使ってみたところでは、かなり快適です。いくつかの初日の感想ですが、

・素足でやるとカカトが痛くなる

・集中力が明らかに続く

・足腰には多少くるが、背中や肩は楽

といったところですね。最初のに関しては、もちろん靴下くらいは履いているわけですが、それだけだとカカトに全体重がかかるので痛くなってきます。多少カカトにクッションがある室内履きを履くなどした方がよさそうです。

集中力に関しては驚きましたが、意図して休憩を取る以外は、ほとんど休憩したり、いらないウェブサイトを見たりせずに、がっつり集中して仕事ができました。普段よりもだいぶいい印象です。

最後の点については、明日、眠りから覚めたときに、足腰がどうなってるかですね。

また、レポートしますので続編をお楽しみに〜。

儀式とアイデンティティ

ロンドンに住んでトータル3年が過ぎましたが、イギリスで驚くのは過去の戦争を振り返るイベントを年中やっていることです。イベントといっても、戦勝記念の賑々しいものばかりではなくて、戦争で「国家のために戦い、命を落とした人」を悼むものも多いです。つい先日もRemembrance Sundayという、二回の世界大戦及びその他の戦争で命を落としたイギリスおよびコモンウェルス圏の兵士を弔うイベントが行われてました。

そして、日本とは比較にならないレベルで報道が行われます。例えば、BBCでは一日中このイベントについてのニュースが流れてます。

近代の歴史を通じて、基本的には戦勝国であり続けていることを考えると、戦没者について国家を守った、あるいは、正義を守った(特に第二次世界大戦ですね)英雄である、と言うふうにストレートに考えやすいのかな、と、日本との比較で感じます。

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これらのイベントを見ていて感じるのは、このようなイベントが国民としての自意識、ナショナルアイデンティティにとってどんな意味を持つのか、ということです。戦争そのものについて云々するのはここでの私の狙いではありません。それよりも、このような振り返りを儀式として繰り返すこのが何の意味を持つのか、ということに本稿は絞って書きますね。

僕は、このような儀式の一つの機能は「国家」の存在および、「国家の一員としての国民」というアイデンティティを強調するということにあると思います。

一般論で言えば、アイデンティティ(自分は何者か)は、人間の心理の有り様における中核的な要素だと考えられています。そして、アイデンティティの一部は、「何かの一員である」という意識(アイデンティフィケーション)で構成されています。

例えば、僕を例にとれば、僕は「元リクルート社員」であり、「LSEの学生」であり、「LSEの教師」でもあり、「コンサルタント」であり、「吉川家の一員」だと自分のことを認識しています。そして、これらに加えて自分のことを「日本人」であり「関西人」だと認識しています。いずれも僕にとっては意味のあるもので、それなりの感情的な思い入れが伴うものです。

これらのアイデンティティは、場面によってどれが表出するかが変わりますし、場合によっては、複数のアイデンティティが衝突を起こすこともあり得ます。たとえば、「ビジネスパーソン」としてのアイデンティティと、「子供の父・母」というアイデンティティが衝突する、というのは、仕事と育児の両立に悩む人の心の中では、少なからず起きているのではないでしょうか。

イギリスの場合は、結構アイデンティティは複雑で、移民が多いこと、そして、連合王国という国の成り立ちから、単純に自分のことを”British”だというふうに捉えている人は結構少ないのではないかな?と思います。スコットランドの人たちの間では、”British”というアイデンティティよりも、”Scots”というアイデンティティの方が強い、という人が多いかもしれません。

両親の代でロンドンに引っ越してきてイギリス生まれのアイルランド系の知人は、自分のことは”British”でも”Irish”と言われても違和感がある、と話していました。どちらかといえば”Londoner”って言われたらシックリくるね、ということでした。

戦争での死者を悼む儀式は、このような文脈で捉えると、国民としてのアイデンティティ強化の機会、と捉えることができるのではないかな、と思うわけです。戦争は国と国が行うことで、「どの地域の出身の人であろうと、国に貢献した人はイギリスという国家のために戦った人たちであり、国家は彼らのことを忘れない」というメッセージがこのようなイベントの根底に流れていると思われます。それを、儀式として重みをきちんと持たせ、記憶に残るように行う、ということは、おそらく国民としてのアイデンティティを強化するように働くのではないかと。

言い換えれば、こうした儀式のばでは、国という単位で、「内」と「外」の境界を強調するメッセージが発信されるわけです。そして、その結果として「内」のメンバーは一つの集団なのである、というイメージ形成(誘導?)が行われる、といえると思います。

国に対するアイデンティフィケーションは、国家の安定の基礎だと思われます(みんなが自分はイギリス人だと思っていないと、イギリスという国家は安定的に存続しにくいですよね。スコットランドの独立投票もありましたし)から、このこと自体は意味のあることですが、一方で、「内」と「外」が強調されるということはまた、「あいつらと俺たちは違う」といった意識につながり得る、もろ刃の剣、とも言えます。

少し話は変わりますが、ちょうど昨日の夜おきた、パリでの事件と、その後の報道を見ていると、アメリカやイギリスなどの欧米諸国が「自分たちはフランスと共にある」というメッセージを出しているのが目に付きます。こういうメッセージは「先進欧米諸国」という集団としてのアイデンティティを強調しているのだなあ、と感じます。もちろん、テロリズムは許し難いですし、被害にあった方を悼む気持ちはとてもあるわけですが、一方でこうやって「境界」が作られ、対立構造が意識の中に作られることが、この後の展開にどのようにつながるのだろうか、と思ったりもします。

実際、今まさに流れているニュース番組のインタビューで、あるフランス人が、フランスという社会の中で「ムスリム」になんらかのレッテルが貼られ、社会が分断されることを懸念している、と語っていました。

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最後に少し、この話を企業に置き換えて考えると、どのような示唆があるか、というのを考えてみます。企業の立場で考えると、従業員に対して「自分はこの企業の一員である」というアイデンティティをどのように形成し、強化するか、そのために儀式をどう使うか、という問いが立てられますね。一般的に、アイデンティフィケーションが強い人ほど、組織のために一歩踏み出した動きをする、離職しにくくなるなど、総じてポジティブな効果がある、と知られています(もちろん、内輪志向による逆効果を指摘する研究もありますが)。

そして、社員総会や、社員旅行、高業績者の表彰式といったイベントは、従業員のアイデンティティを強化するための儀式として使うことができる場と考えられます。が、必ずしもそのような意図を持って設計し、実施している例ばかりではないようにも思います。例えば、高業績者だけを集めて表彰会をしても、あまり招かれた人たち以外には影響がないでしょうし。

「儀式」というと、現代の企業活動にはあまり関係がない、古臭いもの、という風に思うかもしれませんが、儀式は今の社会にもたくさん存在しますし、それなりの影響を私たちに与えていると僕は考えます。企業の経営や人事に関わる方々は、むしろ、きちんと「儀式だ」という意図を持って設計し、実施することが結構大事なのではないかと思います。

また、果たして、「企業」全体の単位でアイデンティティを形成したいのか、それとも、「事業」という単位でアイデンティティを形成したいのか、というのも大きな問いですね。

国の繁栄度を測定する。

先日の信頼感に関する国際比較にちょっと関連する調査を見つけました。

The Legatham Prosperity Index 2015

この調査は、ロンドンにあるLegatham Prosperity Instituteというところが毎年出している調査だということです。

ちなみに、日本は19位で、アジアではシンガポールが17位。そこに香港(20位)、台湾(21位)、韓国(28位)が続きます。

上位にはノルウェー、スイス、デンマーク、ニュージーランド、スウェーデンなど、いわゆる欧米の比較的人口規模の小さな国が並びます(ニュージーランドは地理的には欧米ではないですが)。人口が小さい方が国民の合意形成がしやすくて、多くの国民の意思を繁栄した政治が行われやすいとか、機動性がいいとか、そういうことがあるんでしょうかね?

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この調査はまさにIndexと言う名前が示している通り、8項目の性格の異なるサブカテゴリーの得点を総合して総合得点を算出するタイプの尺度(=ものさし)なわけですが(*詳しくは後ほど)、サブカテゴリーの中で上位のものはHealth(健康)が全体で7位、下位のものはPersonal Freedom(個人の自由)が全体で33位となっています。

で、実はこのPersonal Freedomの点数を引っ張っているのは、どうやら先日の投稿で書いた、信頼感と、内輪びいきの話のようなのです。

信頼感の国際比較 ー 日本人は「よそもの」をどれくらい信頼するか

この項目は、さらに小さなカテゴリーに分かれておりまして、項目と内容を超訳してみると、以下のような感じになっています。

1. Composite of civil liberty and freedom of choice

(サーベイ形式で自由の度合いを国民に聞いたもの)

2. Civil liberty

(法の支配や表現・信条の自由、様々な権利などの制度的充実度)

3. Satisfaction with freedom of choice

(選択の自由に対する満足度をサーベイで聞いたもの)

4. Good place to live for ethnic minorities?

(民族的マイノリティにとって住みやすい場所か?をサーベイで聞いたもの)

5. Good place to live for immigrants?

(同じく移民にとっては?を聞いたもの)

日本の得点と調査全体の平均値を見ていくと、明らかに低いのが4と5。民族的マイノリティと移民にとって、それほど住みやすい場所ではない、というわけです。他の項目は平均点を(ものによってはかなり)上回っているので、この2項目が全体の足を引っ張った、と言えそうです。

これはまさに、日本の社会に根付いた「よそ者」に対する扱い方を反映した調査結果といえますね。メインストリームの日本人(ってなんなのか、ってのも議論の余地がありますが)には快適かもしれないが、それ以外の人にはあんまり快適じゃないかもしれない、それじゃあ本当に繁栄した国とは言えない、というふうにこの調査上では扱われているわけです。

まあ、もう少し考えると、みんな少しづつ違う、と考えると、誰でもマイノリティになり得るわけで。寛容さが低い、というのはなかなか誰にとっても実際には住みにくい部分があるのでは?とも思います。

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さて、そもそもは、先日の記事で書いたことが違う形で現れた調査に、ほんの数日の間に出くわした、ということがそれなりに面白い、と思ってこのポストを書き出したのですが、ここまで書いてみて、それよりもむしろ興味深いのは、

民族的マイノリティとか移民が住みやすいことが「国の繁栄度」の大事な要素だ、と言う風に真面目に考えている人たちがいる

ということかもしれない、と気付きました。
この項目がランキングに入っていること自体、そういう意味ですからね。

そういえば今年は、ミスユニバースをめぐるとても残念な出来事がありましたが、この辺りの、「違う」人たちをめぐる心の有り様と言うのは、日本の社会に深く根付いているもののようです。で、そこからさらに考えると、

多分、日本人が同じようなランキングを作ったら、これらの項目は入らないのではないかな?

と思うのです。まあ、この研究所があるロンドンには、電車の中で英語を聞く方が珍しいくらい外国人が沢山いる、という現実を反映している、というのもありそうですが、それとは別に、いわゆるリベラルな多様性に対して寛容でありたい、という価値観がこの調査設計の根底には流れているように思われます。

そう考えると、調査自体が文化というか社会の価値観を反映している、ということで、この手の社会科学の分野においては、何事も客観的ではいられない、ということを指し示しているようです。


<おまけの社会科学豆知識>

IndexとScaleという、二つの物差しについて。

このランキングは「Index」という種類の尺度なのですが、上にも書いた通り、性格の異なるサブカテゴリーの点数を総合してできています。つまり、「国の繁栄度」を、健康、個人の自由、統治、経済など様々な要素で測ってそれを足し合わせればいい、というふうに考えているわけです。大学ランキングなんかも、このパターンです。

それに対して、社会科学でよく使われるもう一つのタイプの物差しに、Scaleがあります。これは、似たような性格の要素を複数測って、それを総合することで測定する、というものです。意識調査とかではよく使われる方法ですね。一個一個の項目は回答のブレの誤差があるけど、複数の項目で同じようなことを少しづつ違う聴き方で聞くことで精度を上げる、というものです。

この二つは、尺度の設計における、「測りたいこと」に対する考え方が大きく異なりますし、当然、それを反映して、適切な統計的な扱い方も違います。まあ、そんなことはいいのですが、Indexといえば、複数の違う観点を組み合わせたものだ、ということは、知っておくと役に立つかもしれません。

大学の「ひどい授業」をどうするのか? イギリスの場合。

今日、こんなニュースが朝からBBCでもちきりに。

University fees linked to teaching quality

簡単に言うと「大学の学費を教育のクオリティに連携させる」ということです。

イギリスは学費の上限が年間9000ポンド(だいたい今のレートで170万円くらい?)と決まってます。それについて大学担当の大臣から、「教育のクオリティが一定以上の基準を満たしている場合に限って、インフレ率と同じ勢いで学費をあげて良い」ようにしよう、という政策を提案されているそうです。

現在の大臣は、大学が研究ばかりに力を入れて授業に重きを置いていない、ということに痛く問題を感じているようで、それに対する対策としての政策だ、と説明されてました。

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僕は大学の授業のクオリティについては、イギリスの場合はインセンティブ設計の問題が大きいと思ってます。正直言って、大学の教員に与えられているインセンティブの仕組みを考えれば、

「授業よりも研究」

となるのは、ある種、しょうがないんじゃないかなあ、と思う部分もあります。

大学の先生は教授になってしまえばTenure(終身在任権)が得られ、基本的には終身雇用になります。が、一方でそれまでは有期契約です。教授への昇進の可能性がある准教授へのポジションで一定の実績をあげて教授にならない限り、安定は得られません。

そして、そうしたポジションへの採用にせよ、そこから先の教授への昇進にせよ、「論文をどれだけ主要な学会誌に掲載しているか、それがどれくらい引用されているか」が大事で、授業がどれくらいうまいかはほとんど参考にされない、とまことしやかに研究者の間では語られてます。

まじめに自分の将来のことを考えれば考えるほど、理屈では授業をちゃんとやったほうがいいと思いつつ、実際には授業よりも研究が気になるはずです。そもそも研究がしたくて博士課程に進んで、そのまま研究者の道を選んでる人が多いはずですしね。

LSEでも准教授クラスの先生と話してると、

「正直言って、教育頑張っても評価されないからさ・・・残念だけど」

みたいな話はたまにボソッと出てきたりします。

で、こうなっている背景の一つには、大学がおかれている状況があります。

日本でも毎年話題になる世界の大学のランキングは、多くの場合、研究上の成果が大事な指標になっています。その他にも国際化度(留学生がどれくらいいるか、とかですね)も考慮されるのですが、まずは研究で成果を上げていることが重要です。研究成果についてはある程度、定量的に評価する仕組みが国際的にできあがっているのですが、逆に「授業の質」を横断的に比較評価するのは難しいので、僕が理解している限りでは、多くのランキングで関係がないはずです。

Times Higher Education World University Ranking

なので、この手のランキングで大学の評価を上げようとすると、

「まずは研究!」

と大学の幹部も言いたくなるなるわけですね。

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実際、授業のクオリティについてはLSEもかなり問題があるようで。就職状況や企業からの評価はいいんですが、満足度は有力大学の中ではかなり低くて、学内でも問題視されてます。

実際、先日、僕が去年担当した授業の生徒にヒアリングをしてみたところ、

「全く払った学費に見合ってない。一部に素敵な先生もいたけど、

全然授業にやる気がなくて、自分の研究にしか興味がない先生ばっかり。

ほんと最悪。」

的なコメントが何人かから帰ってきました。もちろん、学生のコメントを鵜呑みにするのは少々危険な訳ですが、こういう声が出てしまうこと自体が、かなり残念な話です。

まあ、もちろん放ったらかしにされているわけではなくて、いろいろな施策が打たれています。生徒からのフィードバックアンケートを各授業ごとに学期ごとにとる仕組みもきちんと運用されてますし、イギリスの国としての大学教員の資格もあって、それを取得するためのトレーニングを通過してないと、そもそも教えられないですしね。

ただまあ、どんなにトレーニングをしようと、上記のようなインセンティブの仕組みになっている限り、そもそもの問題は解決しないだろうなあ、と言う感じがします。正直言って、教育を頑張っても評価されないのであれば、個人の善意頼り、ってことですからね。

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てなわけで、イギリスの場合は、大学に対する金銭的なインセンティブを導入すること、さらに言えば、教育の質のランキングを公表することで、大学の、教員に対するインセンティブの与え方を変えようとしているわけです。

僕は、大学の教員にとっては、研究も教育も大事な仕事だと思っているので、趣旨としてはいいことだと思います。教育の質を評価するのは難しい、という声もあるでしょうが、それは研究の質だって同じですからね。それをいろんな無理はあっても定量化して評価する仕組みが出来上がっているから、研究成果に関心が向くわけで。無理してでも教育の質を定量評価することは、基本的には前進だと思います。

が、一方で、それを学費に連動させるってのがなんだかなあ、という感じもします。日本でもそうですが、学問にせよ教育にせよ、評価を金の配分に反映させて金で釣る、ってのには、なんとも釈然としない部分があります。まあ、それよりいい方法が思いつくわけではないのですが・・・うーむ。

ちなみに、日本の先生たちのインセンティブはどうなってるんでしょうね?一度、専任講師とか、准教授になってしまえば、正社員と同じで基本的にクビにはならないはずですから、イギリスとは少し違うはずですよね。どのようなインセンティブが働いているのか興味深いところです。誰か教えてください。