コロナウィルスが世界的に猛威を奮っており、日本でも緊急事態宣言が全国に拡大された昨今ですが、数ヶ月前、中国から武漢の様子を告げるニュースが出始めた頃、皆さんはどう考えていたでしょうか?

「こんなに大変なことになるとは思わなかった」

「対岸の火事だと捉えていた」

「そのうち収まるだろうと思っていた」

2月頃を振り返って、そんな風に思う人も多いのではないでしょうか。

今、僕はFacebook上で、日本中の大学教員が「コロナウィルスによる休講と、オンラインでの授業開始」にどう挑むかを議論しているグループに参加しているのですが、そこから受ける印象は、「多くの大学で圧倒的に対応が遅れている」ということです。中国で起きていたこと、また、国内においても早期に感染者がおきた場所で何が起きたかを客観的に考察し、最悪の事態に何が起こりうるかを考えていれば、2月、遅くとも3月頭の段階で「大学に学生や教職員が通えなくなる状態が起こりうる」ことは想定できたはずなのにもかかわらず、です(実際、僕が勤めている大学院大学では2月下旬からオンライン移行を検討し、3月2日からすべての講義とゼミをオンラインに完全に移行して、そのまま今も授業をやり続けています)。

このことは、もちろん大学だけに限った話ではありません。

「リモートワークはただのアピール」「感染者が出たら在宅」
新型ウイルスでも通常業務の日本社会 (Business Insider 2020/2/18)

例えば、上の記事では2月18日の段階ですでに社会的に「不要不急の外出は控えて」と言うメッセージが広く流布しており、会社としてリモートワークの推奨がなされていたにもかかわらず、現場レベルでは積極的にリモートワークに向けた動きが生じていなかった、という事例としてNTT他の従業員の声を紹介しています。

あくまでもこれは一部の声を取り上げた情報しかありませんが、首都圏他で緊急事態宣言が出るまではオフィスエリアの人の移動がそこそこ行われ続けていたというデータ(内閣官房のコロナウィルス対策ページより)を見ると、それなりの数の企業や人が「最悪の事態に備えて行動変化に取り組む」というよりも、「なんとかなるだろう」と思って従来どおりの行動を続けていたことが示唆されます。

正常性バイアスの罠

なぜ、我々はこのような対応をしてしまうのでしょうか?

世界の多くの国で「対策が遅れた」という声が上がっていることを見れば、それが日本に固有の問題ではないことは明らかです。一方で、企業により、また、国によって対応の速さに違いがあることからは、完全に普遍的な問題、言い換えれば、すべての組織が同じように影響を受ける問題ではない、ということも言えます。

僕がこの現象の大きな原因の一つとして考えているのが、「正常性バイアス」です。

「正常性バイアス」は、心理学や行動経済学の分野で認知的バイアス(cognitive bias)の一つとして知られている概念で、「災害時に人々が逃げ遅れる」現象の説明によく用いられます。

これは何かというと、人間は自分たちの平穏な日常や、当たり前だと思っている正常な世界から逸脱した現象を目にしたときに、「自分には影響がないはずだ」「こんなことはすぐ収まるはずだ」「まだまだ大したことがない」といった風に、目の前で起きている現象の潜在的なインパクトを過小評価をしてしまいがちだ、というものです。

写真はistockphotoより

この「正常性バイアス」を示す例としてよく知られているのが、災害時に逃げ遅れる人たちの存在です。2014年の御嶽山の噴火の際に、登山中の人たちが明らかに噴火の兆候が見られる、あるいは既に噴火が発生しているのに、急いで下山するよりもまずカメラや携帯で写真を撮っていて逃げ遅れて亡くなった、というケースが報告されています。海外においても、火山の噴火や台風による洪水の際に、十分な警告が行われているにも関わらず逃げ遅れる原因として「自分たちは大丈夫」と思ってしまう、正常性バイアスの影響が指摘されています。

冒頭で触れたコロナウィルスに関する初期の反応にも、少なからず正常性バイアスの影響がある、と僕は確信しています。もちろん、最初期の段階では中国が情報を世界的に発信していなかったなど様々な事象が有りました。しかし、そのあと問題の深刻さが見えてきてなお、様々な組織で迅速な対応が行われなかったことは、正常性バイアスによる過小評価の影響を示唆しています。

人間がこういう反応をしてしまう理由として、様々な仮説が脳や心理の働きをベースに行われています。一つの説明は僕たちの脳は想定外の出来事に対して「鈍感」にできているというものです。進化生物学の観点からは、ほとんどの状況で想定外の事態はあまり長く続かないので(だからこそ異常なので)、いちいち全ての異常な情報に機敏に反応しすぎるよりも、むしろある程度鈍感な方が生存に有利だったのではないか、という説明があるようです。

もう一つの説明は、僕たちの脳は「一貫性」を求める傾向がある、ということです。自分の慣れ親しんでいる世界や、自分にとって当たり前の日常と「一貫」しない情報を認めてしまうと、頭の中でどう折り合いをつければいいかわからず、認知的な不協和が生じてしまう。そのため、そうした気持ち悪い状態を回避するために、その不都合な情報に頭の中で蓋をして、そして、自分の慣れ親しんだ世界と「一貫した」選択をしてしまうというわけです。

どうやって避ければよいのか

こうした認知的なバイアスは、人間の進化のプロセスで生物的に脳に備わった仕組みだと言われており、ある意味、「避けられない人間の性」とでも言うべきものです。もちろん個人差はあるものの、基本的には誰もがこの罠に引っかかり得る、ということです。

ですが、事前に知識として「自分が正常性バイアスのせいで非合理な判断をしてしまうことがあり得る」と知っているといないとでは、大きな違いがあります。知識があれば、「もしかして、自分は正常性バイアスの罠にかかって自体を過小評価しているのでは?」と疑うことができ、それによってバイアスの影響を最低限に抑えることができるからです。

僕は、こうした認知的バイアスは、リーダーシップ教育においては不可欠の要素だと考えています。なぜならば、リーダーが正常性バイアスの罠にかかっていると、仮に部下が「迫りくる危機に対して先回りして対策を打たないといけないんじゃないですか」と提案しても、それを無視してしまい、組織的な対応が遅れてしまうからです。危機においてはリーダーこそが、みんなが過小評価している現象に着目し、対応を率先する必要がある。だからこそ、リーダーは「自分も正常性バイアスに陥る可能性がある」ということを自覚している必要があります。

コロナウィルスの流行に対して、最悪の事態を想定して素早く、徹底的な対策が打てた組織とそうでない組織があるのは、もちろん元々の業界特性、業務特性や、組織の重さなどが関わっているものの、それらの要因に加えて、経営者や管理職が「これは、のんびり見ていては駄目な問題だ」と早期にジャッジができていたかどうか、が影響しているはずです。

今後も、温暖化やグローバリゼーション、都市化と言ったマクロのトレンドを踏まえると、様々な「想定していなかった」問題が、社会を揺るがすことは十分に考えられます。この教訓を踏まえると、正常性バイアスを教育に組み込むこと、組織の意思決定における正常性バイアスの影響を意図的に問う仕掛けを埋め込むことは、大きな重要性を持つと思われます。

また、コロナウィルスに関して、今からでもできることがあります。それは、「あと数週間、長くても数ヶ月、我慢すれば、普通の日常が帰ってくるはずだ」という考えに注意することです。手に入る様々な情報から考えれば、今の移動制限の状態では数週間では収まらない可能性があること、また、一度収束してもまた数ヶ月すると流行が起きるかもしれないことが示唆されています。それらを考慮すると、上記の考えはおそらく正常性バイアスの罠にかかっているのです。

さらに言えば、コロナウィルス流行の結果として不可逆的に変化したこともありますよね。

例えば、多くのホワイトカラーの職場で「リモートワークって、本当に必要に迫られたら、意外とできちゃうね」という認識が生まれているはずです。僕の働く大学でも、当初は「オンラインで教育のクオリティが保てるのか」と心配していましたが、実際に1ヶ月半やってみて、「(もちろん工夫は必要だけど)結構できるよね」という認識に変わりました。これらは極めて卑近な例ですが、こうした認識が完全に逆に戻ることは多分有りえません。リモートワークやリモート教育は否応なく、多くの人達の日常の一分になるはずです。こうした点から考えても、「コロナウィルス前」の日常が戻ってくる、という期待は正常性バイアスに駆られた幻想なのではないか、と疑われます。

むしろ考えるべきなのは、「最悪の場合、何年かコロナウィルスの影響が続くだろう」「そして、世の中はこれで変わる可能性が高い」という前提に立って、次のアクションを考えることなのです。多分。

と、いうわけで、結論は、

だれでも正常性バイアスの罠にかかりうる。だから、それを自覚して影響を抑えよう。

ということだと考えます。

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