研究においてもやはり「職場の雑談」は必要だ。

今週2本目の投稿だ。ここ数週間、根を詰めてやっていた論文がひと段落ついたので、なんとなく気が抜けている。ブログもさぼり気味だったので、ここらで書き溜めておこう、という魂胆である。

さて、今週は生徒のエッセーの採点をして、フィードバックを書いていた。要するに小論文だ。LSEは生徒の評価は多くの場合、エッセーと試験、あとはグループワーク(これも結局はグループでエッセーを書くのだが)で行われる。今回のものは、Formative Assessmentと言って、正式に評価には反映されない、練習として行うものだが、それだけ、真面目に出してきた学生には、ちゃんとフィードバックをしなければいけない。

と、いうわけで、PhD学生の研究室に詰めて、地道にエッセーを読んではコメントを書き、採点基準とかを参考にしつつ点数をつける、というのを週の中頃からずーっとやっていた。諸々他のミーティングなども結構あって、結果的に、久しぶりに研究室に1週間、ほぼ毎日通って、朝からずーっといる、という生活になった。

それで気づいたのが、職場の価値だ。やはり、職場にいると、雑談するのである。

基本的に、うちのPhD生は自分の研究テーマを抱えていて、それを仕上げることに向かっているので、あんまり共同で取り組むこと、というのはない(一人の研究者の指揮下で動いている理系の研究室と違って、全然違うことをやっているPhD生が部屋を共有しているだけ)。

なので、元気?くらいの声をかけるくらいが、通常は関の山である。うちの学部のカラーかもしれないが、しーん、としたオフィスで、皆んなが個人の作業をしている、というのが僕がPhDを始めてからの基本的な風景であった。

今週、研究室には、もう一人、カナダ人の4年生のPhDがずーっと詰めていた。他のメンバーもたまーに現れるが、基本は朝から夕方まで僕と彼女の二人である。そうすると、当たり前だが、ちょこちょこ、雑談する。テーマは授業のことや、それぞれの研究のこと、また、今後のキャリアのことなど、いろいろである。

そして、週の後半に向かうにつれて、僕と彼女の間で、それぞれの仕事をやりつつ、時々真面目に雑談するというのが普通になった。

そうすると、次は他の人にそれが波及する。

木曜日の午後のことだ。

後輩が指導教官とのミーティングから帰ってきて、明らかにへこたれている。どうやら、かなりやられたらしい。そこで、なんとなく「大丈夫かー?」と僕が声をかける、そして、そこからリサーチモデルについてのちょっとしたお悩み相談が始まり、その後輩の研究テーマと若干重なる領域をやっている4年生の彼女も絡んで、フリップチャートに図を描いてああでもないこうでもない、という会話がしばし続いた。

そして、金曜日の午後には、へこたれていた後輩がその議論をベースにリサーチモデルを作り直してリベンジした。そして、見事、指導教官から、「これはいいじゃない!」という絶賛のフィードバックを勝ち取ったのである。

その指導教官のキャラを考えると、これは滅多にないことで、僕も4年生の彼女と一緒にその後輩の成果を喜んで、実にご機嫌な金曜日になったのであった。

・・・・・

まあ、会社であれば当たり前の光景だが、やはり、ちょっとした雑談が出来る環境がやっぱり、知的生産性という観点では、大事だ。

個別のテーマを追っかけているとはいえ、一人で考えても思いつくことはたかが知れている。やっぱり他人に話してみて、キャッチボールをすることが大事な場面が結構あるのだと思う。

そして、その結果、生まれた成果を互いに喜ぶ、というのも大事なことだ。ポジティブな感情は、クリエイティビティに繋がりやすいし、精神衛生上もいい。孤独にトピックに向き合うPhDはストレスもたまりやすい。

残念ながら、こういう会話がうちの研究室には、殆どなかったのである。先輩たちに聞いても、何年も前からそうだったらしい。率直に言って、リサーチ環境としても、学びの場としても全然ダメである。

この辺り、学部の教授の皆さんと、先輩諸氏は、一体どうお考えなのか、多少疑問に感じるところである。組織論を勉強してたら、当たり前のことだと思うのだけど。やはり、わかるのと、出来るのは違う、ということか。

この辺り、なんとか変えたいとずっと思っていたのだが、今週はなんとなく、その糸口をつかんだような気がする。やはり、ある程度、まとめて職場にいることが、そうは言っても大事なのかもしれない。

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「国立競技場のドタバタを批判する」ことを批判的に考察する。

新国立競技場でまた問題が生じたようだ。

新国立競技場、聖火台の置き場なし 「要望聞いていない」とJSC (ハフィントンポスト日本版)

ここまでくると、ドタバタ劇として面白くなってきた。不謹慎って言われるかもしれないけども。

しかし、一歩引いて考えると、このことは大事な示唆があるようにも思う。

日本では一般的に「ものごとが細部まできっちり計算されて、漏れがないこと」が尊重される。それが高品質とか信頼性、といった評価につながっている。イギリスに住んでみて、様々な国から来た人と接する中で、相変わらず日本製品の品質や信頼性は尊敬されているし、自分の実感としても、日本のものは安心だ、と思う。

この背景には、文化論でよく知られているホフステッドの枠組みで考えると、「不確実性の回避」傾向が日本では強いことがあるのだろう。日本人は、相対的に見ると、不確実なこと、予期せぬことが起きることを許容できる程度が低く、見通しが立つことが好きなのだ。

しかし反面、こうした価値観の逆作用としては、意思決定に多くの人が関わり、慎重に検討が行われるため、逆にスピード感がないとか、大胆な変化が出来ないっといったことにもつながっている。このことを、海外や外資系企業で働いた経験のある人が、「だから日本企業はダメだ」的な論調で批判して語っていることも目にする。

本件、そのあたりを批判している人たちはどう見るのだろうか。

僕は、日本の高品質や信頼は素晴らしいと思う反面、意思決定に時間がすごくかかることや、大胆さにかけるところは変わった方がいいと思っている。

だから、個人的には、本件についても、みんなで不具合を見つけて、ドンドン機動的に修正して行って、結果的に上手くいけばいいんじゃないの?と思う。もちろん、想定外のお金が消費されてるとか、期日に間に合わないかも、みたいなことは全然ダメだけど。途中で変更すること、ミスが見つかること自体を批判するのはイマイチだと思う。

見落としがありました、変更します、を批判しすぎることは、意思決定をする人を萎縮させるし、結果的に、総花的で面白くない意思決定につながる仕組みを再生産するだけだ。

素早く、多くの要素をもれがないようにチェックして、その上で、大胆な意思決定をする、なんてことができるとすれば、それはスーパーマンだ。そして、社会に生きるほとんどの人はスーパーマンではない。

他人の意思決定に完璧を求めると、それはブーメランのように僕たち自身を縛ってしまう。そして、結果的に、みんなで慎重に判断する文化は変化しないだろう。

日本の社会を、機敏で、大胆に変化する社会になってほしい、と願うのであれば、本件のドタバタ(そのもの)を批判しすぎるのは止めたらどうか。繰り返しになるが、予算の超過や期日に間に合わない、ことは問題にしていいし、すべきだと思う。しかし、不具合が途中でてくること自体を批判するのとは、別の話だ。