経営/組織理論を考える(1)組織アイデンティフィケーション

以前から、ぱらぱらといろんな経営理論をご紹介してきましたが、本格的に連載ものとして主要な理論をご紹介していくシリーズを始めようと思います。どれだけ続けられるかわかりませんが、地道に続けようと思います。

第1弾では、組織アイデンティフィケーション(organizational identification)についてご紹介します。これは実は単一の理論ではなくて、複数の理論をもとに提唱されている概念なのですが、非常に幅広く研究されており、重要な概念なので1回使ってご紹介します。

組織アイデンティフィケーションに関する議論のベースとなっている理論の一つは、Tajfelらによって構築された、社会的アイデンティティ理論(social identity theory)です。アイデンティティとは、個人が自分を何者だと捉えているか?ということを指しますが、個人のアイデンティティを構成する要素は多岐にわたります。

例えば、僕は現在は「上海交通大学の教員」ですが、「リクルートOB」でもあり「LSE卒業生」でもある、と自分を捉えています。また、「研究者」であり「教師」であり、「コンサルタント」でもあります。さらに言えば、僕は「男性」であり「(妻にとっての)夫」「(両親にとっての)息子」ですし、「分析好き」の「SF小説愛好家」でもあります。

このように、個人は様々な要素の掛け算としてアイデンティティを捉えているわけですが、これらは大きく「個人の属性」「他者との関係」「社会的集団への帰属」の3つに分類できます。上記で言えば「男性」とか「分析好き」は「個人の属性」、「夫」「息子」は「他者との関係」、「上海交通大学の教員」「リクルートOB」は「社会的集団への帰属」によって自己を捉えている、というわけです。

社会的アイデンティティとは、この「社会的集団への帰属」に基づく自己定義のことを指します。そして、組織アイデンティフィケーションとは、「自分がこの組織の一員である」と強く認識し、そのことに感情的な意味を感じている、ということを指します。

組織アイデンティフィケーションは、個人が組織に対してとる態度や行動、また、個人が他の人に対してみせる態度や行動に大きく影響します。

自己カテゴリー化理論(self-categorization theory)と、社会的比較理論(social categorization theory)という二つの理論が、組織アイデンティフィケーションが個人に与える影響を理解する上では重要になります。この分野の研究者としては、TurnerやBrewerが有名ですね。

これらの理論は、我々人間は、「自分を取り巻く複雑な環境を頭の中でカテゴリーに分類し、単純化して捉える傾向がある」、そして、「自分が属するカテゴリーを他のカテゴリーと比て、自分についてポジティブに感じようとする傾向がある」と提唱します。

日本人が日本と外国を比べて、「日本人は〇〇なのがすごい」のように語るのは、このわかりやすい例ですね。日本を他と比較して褒めると、「自分=日本人」なので、(無意識に)自分についてもポジティブに感じられて気持ちが良いわけです(ところで、過去10年くらいでこの手の言説はとても増えたとと感じていまして、その社会的背景も実に興味深いのですが、ここではスペースの問題もあるので省きます)。

実際には、日本人にもいろんな人がいるし、外国人をひとくくりにするのも乱暴なわけですが、社会は複雑すぎて一人一人の人をありのままに捉えると我々の頭では処理しきれない、そのため、周囲をカテゴリーに分類することによって思考を単純化するわけです。これは、進化の結果そのように脳が発達したと考えられています。

心理学では、人間は「自分についてポジティブに感じたい」「集団に帰属したい」という根源的な欲求(need)を持つ、と考えられていますが、社会アイデンティティはそれを満たしてくれるわけです。

これらの理論から得られる重要な示唆は、人間には、「身内(=自分が属する集団のメンバー)」を好意的に評価する認知バイアスがある、ということです。海外を一人で旅していて自国民に会うと、なんとなく信用してしまう、仲良くなってしまう、とか、同じ大学のOBと会うと、在学中になんの接点があったわけでもないのになんとなく親近感を感じる、といった現象の一つの要因はここにあります。

これを組織に当てはめると、組織アイデンティフィケーションが強い人は、「自分の属する組織のメンバー」と「よその人」を区別し、前者をポジティブに評価する傾向がある、ということになります。

このことは、必ずしも悪いことではありません。例えば、同じ組織の人に対しては「信頼できる」と感じやすいので、組織メンバー間では互いに個人的な面識がなくても協働が起こりやすいといったメリットがあります。日本の場合は、会社だけでなくて、系列企業とかでもそういう心理が働く傾向がありそうです。一方、悪い影響としては、身内ではない、外部からのアイデアやアドバイスを軽視しやすくなり、内向きな行動や判断につながりうることも知られています。

さらにこの考えを推し進めると、「自分の組織が良くなること=自分にとっても嬉しいこと」になります。組織アイデンティフィケーションは、個人が「組織のために役割を超えて行動する」「自分の知見やノウハウを積極的に周囲に共有する」といった行動につながることが知られています。

さて、このことが現代の組織において持つ意味はなんでしょうか?

副業が自由になったり、組織の壁を超えた協業が促進されたり、社員だけではなくフリーランスや派遣社員など、様々な人が同じ職場、あるいは同じプロジェクトで働くようになったりと、「組織に属すること」と「働く」ということのつながりがどんどん緩やかになっています。

この結果、個人が自由な働き方を手にし、組織はフレキシビリティや多様な能力・情報へのアクセスを手にする、という議論がありますね。これはこれでそうだな、と思うのですが、組織アイデンティフィケーションという側面からこの現象を捉えてみると、いくつか重要なテーマが浮き上がってきます。

まず、従来「組織の一員」という意識によって、マネジメントする人たちが意識しなくても「みんなが互いに協力し合う」ということが担保されていたわけですが、それが前提とならない状況で、どのように協働や情報共有を促進していくのか、ということが課題になります。

おそらく、組織の仲間、というアイデンティティの代わりに、「プロジェクトの仲間」というアイデンティティを形成することが重要になるでしょう。個々のプロジェクトのリーダーの役割が大きくなると考えられます。

これを個人に置き換えてみれば、複数の組織アイデンティフィケーションを持っていることは個人の行動にどのように影響を与えるか?という問題でもあります。例えば、大手企業A社の社員でありながら、ソーシャルベンチャー企業B社にプロボノワークとしてアドバイスを提供している個人は、A社とB社の両方に組織アイデンティフィケーションを持ちそうです。はたして、この個人はどのように自分のエネルギーを両社に注ぎ分けるのでしょうか?そして、心理的に両社の一員であることに矛盾が生じたとき、個人はどう振る舞うのか?

さらに、人間は誰しもアイデンティティを必要としているわけで、組織が個人のアイデンティの対象を提供してくれなくなった時に、個人はどこに変わりを求めれば良いのか、という論点もありますね。

「組織に縛られない個人としてのアイデンティティ」を強く持っていくのが良いことなのだ、という論調の議論をよく目にするわけですが、世の中には集団にアイデンティティを求める傾向が強い人も沢山いるわけです。そうした「集団的アイデンティティ傾向(collective identity orientation)」が強い人たちにとっては、組織の境界のゆらいだ社会は、生きにくい社会なのかもしれません。

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あれもこれも言ってはダメ。

昔の職場の先輩が、日本から中国に3週間ほど滞在する、というので食事に行きました。

以前から中国語を勉強してて、中国に時々来ているのはなんとなく知っていたのですが、今回はなんと「案件が落ち着いたタイミングをつかって(彼女は会社勤めではなく、独立してコンサルタントをやってます)以前から興味があった中国のネットベンチャーで3週間くらいインターンをしようと思って」とのこと。また面白いことをやってますねえ、ということで、旧交を温めに近所のうまい上海料理の店に一緒に行ったのでした。

今日の本題はそこで出た彼女のこの発言。

「ホテルの部屋でテレビつけると、中国の経済成長とか、中央の今後の政策とかを紹介する、半分プロパガンダみたいな番組をずーっとやってるのよ。中国語の勉強にもなると思って見てたんだけど。

それでふと思ったのが、習近平とかの演説ってポイントが明確ですごくわかりやすいのね。これからの3つの重点政策は『貧困の撲滅』『環境の改善』と、なんだっけ、ああ、『金融の安定化』だったかな。

これからみんなの国をよくしていきますよ、そのためにこれに集中して取り組むんですよっていうのがはっきりしてて、あと、2025年までに貧困をゼロにする、とか、もちろん貧困の定義にもよるんだけど、目標もわかりやすいのよね。

日本ってこういう政策的なテーマって設定されてるんだっけ、って改めて考えたんだけど、多分ないよね」

 

この話を聞いて僕が思い出したのが、僕の研究のに協力いただいている企業のことです。

その企業では、過去3年間、連続してサーベイを取らせてもらっているのですが、僕の研究上の成果とは別に、毎年、サーベイの結果に明確に改善が見られるのです。データを分析していても、これは明らかに組織の状態が改善しているな、というのが浮かび上がって見えてくるような変化ぶりで、過去にあまり経験のないスピード感で改善が行われているのです。

この企業は何が違うのでしょうか?

それは、「一度にひとつのことを改善するのに集中している」ということです。僕からは、毎年の報告会で、データから読み取れる様々な懸念点や、改善の方向性などのアイデアを報告しているのですが、それを受けた経営者が「今年はこれだ」と明確にテーマを設定し、それを他の幹部や人事を通じて、徹底してその一年、改善に取り組んでいたのです。

そして、次の年にはそこが改善しているので、また、次のテーマを設定し、3年目のサーベイではそれが改善している、という次第です。逆に、改善していないポイントは3年経っても大きな変化は起きておらず、それもとてもわかりやすいのです。これには、コンサルタントを何年もやっていた僕が言うのも何ですが、唸らされました。

これは、なかなかできないことです。ついつい「あれもこれも」になってしまうからです。

「何かを優先して、他のものは後回し」と明確に集中をすることは、決断が伴います。というのも、それが正しいかどうかわからないし、後回しにされたテーマに関わっている人たちから不満が出たりするからです。

しかし、プレゼンテーションでもなんでもそうですが、一度の話で人が覚えていられるのは、たかだかポイント数個です。「あれもこれも」話されると、「なんだかいろいろあったけど、結局何だっけ?」になってしまう。人間の認知能力、情報処理能力には限界があるのです。

冒頭の習近平の例は、この好例ではないかと思います。冒頭の僕の先輩のように、よその国の政策で、勉強途中の外国語ですら、頭にポイントが残ってしまう。リーダーのコミュニケーション(あるいは国としてのプロパガンダ)としては理想的な成果ですよね(もちろん、キャッチアップ経済だから目標が設定しやすいとか、いろんなツッコミがあることは承知していますが、そうした点を引いてみても、習近平の国民に対する演説、例えば年末メッセージとかは、非常によく考えられてていて、非常に興味深いですよ)。

はっきりと優先順位をつけて、何かを捨てることは不安なのだけれども、そこで決断せずに「あれもこれも」を総花的にリーダーが話していると、結局、何も伝わらないし、組織に何も変化が起きないことになってしまいがち。逆に、色々弊害があるかもしれないけど、それをぐっと飲み込んで「これだ」と決めた方が、少なくともそこには変化が起きるわけで、むしろ組織は前に進む、ということではないかと思うのです。

「あれもこれも」は、色々拾おうとしているのに、結局「何も拾えない」ことにつながりがちなのかもしれませんね。