過酷なアカポス(アカデミックポスト)市場の現状と、そこでの就職活動の実態

昨年来、博士課程の研究のかたわら、卒業後の進路を決めるための就職活動をしてきたのですが、先日、上海交通大学の安泰経管学院でAssistant Professorとしての採用が決まりました。この過程で、いろいろアカポス(アカデミックポスト=大学の教員)の採用市場について調べたこと、また、自分の応募活動でうまくいった要因として考えられることををまとめておこうかと思います。これは、アカデミック系のキャリアを目指してらっしゃる方以外には、「へー」以上の知識にはならないと思いますので、それをご理解いただいたご覧ください。

アカポス労働市場の残酷

博士課程はアカデミックポスト(いわゆる、教授とか准教授、講師など)への登竜門ではありますが、博士を取ればアカデミックポジションに就職できるわけではありません。世界的に、博士課程学生の数は激増しておりまして、Economistの2010年の記事によると、OECD各国での博士卒業者数は、1998年から2006年にかけて40%増加したとのこと。

日本の場合は、1998年に1万1千人程度が博士を卒業していますが、2012年には1万6千人を超えたようです(博士が100人いる村(平成24年ver))。ただし、それ以降はあまり変化がなく、だいたい1万6千人くらいで推移していますね(学校基本調査)アメリカの場合、増え続けてまして、2004年に4万2千人くらいだったものが、2014年には5万4千人が博士課程を卒業しています。

世界的な博士数については、こんなデータがありました(日本の数字は含まれませんが)。ほとんど指数関数的な勢いで増えてるのがわかります。中国が爆速で増加しているのが驚異的です。2000年くらいからの10年間で5倍くらいになってますね。

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(Future of Life Instituteウェブサイトより)

一方、博士課程の卒業生が増えたことで、その主な進路であるアカデミックポストの就職先が増えたかといえば、そんなことはありません。はるかに遅いスピードでしか、ポスト数は増えてないわけです。その結果として起きるのは博士の就職難です。日本でも「博士が100人いる村」など、博士取得者を待ち受ける厳しい現実が数年前から知られるようになりましたが(特に、100人のうち6名が死亡・行方不明というのは、実際どうなのか、というのはさておき、衝撃的でした)、世界的に見ても状況は大きく変わりません。

例えば、2013年のThe Atralnticによるアメリカのデータの分析によると、社会科学(Social science、経済学、社会学、心理学、政治学、経営学などが含まれる)分野では、博士課程卒業までにアカポスへの就職が決まっている学生の比率は26.5%しかいません(ただし、このデータは、ポスドクを含まない数字だと思われます。*ポスドクについては後述)。学問分野によってこの比率はぜんぜん違う、というのも興味深い話でして、下のグラフを見れば、工学(Engineering)、物理( Physical Science)、生命科学(Life Science)分野は相当な狭き門です。まあ、これらの分野は実験に人手が必要なので、どうしても博士過程やポスドクという形で人手を確保したいという欲求が教授陣にあるのではないかと推測します。

もちろん、分野によって民間への就職の需要があるかなど、状況は大きく違うので、一概には言えません。例えば、日本のポスドク問題は主にバイオ分野が問題の焦点で、工学系は企業就職の道が広いため、状況が違うという話もあります。

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(出典;The Atlantic, JORDAN WEISSMANN による記事より)

このように博士卒業生の数がアカデミックポジションよりも多い状況は、若手研究者の労働市場での厳しい状況に直結します。大学側からすれば、大学で働きたい博士号所有者は大量に世の中に存在するわけで、完全に買い手有利の市場になるからです。給与、労働条件、安定性のいずれの観点でも、大学側は若手研究者を酷使できる立場にあります。

実際、博士学生およびポスドクは、授業および研究を安価にやってくれる人材として活用されており、大学としては博士課程の定数を増やす動機があるとともに、人件費のかかる正規の教員ポジションを抑制できる、という構造になっている、という指摘があります。私の身近でも、LSEの労使関係を専門にしている某教授が、私の部門のteaching fellow(授業を中心にやるポスドクポジション)について「あれは搾取だ」、と言っていた、という笑えないエピソードがありました。彼らが頑張れば頑張るほど、正規の教員を増やす必要がなくなる、その結果、博士課程学生およびポスドクの先のキャリアがなくなっていく、というかなり残酷な構造になっております。

ちなみに、ポスドクというのは、Post doctorの略でして、博士を取得済みの人がある程度の給与をもらいつつ、大学での教育や研究に従事し、その間に論文の実績を積み上げてアカポス就職(まずはassistant professorですね)を目指す、と言うポジションです。Postdocというふうに呼ぶ場合もあれば、research fellow, teaching fellowみたいな呼び方の場合もあります。総じて、1年とか2年とかの期間月契約が多いですね。給与は安く、数百万円の下の方、”建設労働者と同じくらい”の給与水準という指摘があります。研究者としてアカポスへの就職を目指す場合、後でも出てきますが学術誌での論文実績が非常に重要なため、この期間に博士論文を基に(あるいは他の研究でもいいのですが)学術誌での論文発表にこぎつけて、ポスドクを脱出して次のキャリアに進む、というのが大事なステップになります。実際、LSEの若手Assistant professor陣の経歴をみても、たいていの場合は博士過程→ポスドク1〜2年→Assistant professorとして就職、と言うパターンです。

*2017/03/01 追記)日本の場合はポスドクとは別に、「専業非常勤講師」と呼ばれる方々がいる、という指摘がありましたので追記します。この言葉は、博士取得後フルタイムの教員ポジションに就職できず、パートタイムで時給で授業を請け負う仕事で生計を立てておられる方々を指すそうです。一つの大学に雇用されるのではなく、複数の大学の授業を請け負う方が多く、移動時間には給与は出ない上、それによって研究実績を積む時間も無くなってしまう、というかなり厳しい環境である、という指摘が多くあります(詳しくはこちらをご覧ください)。

ちなみに、Assistant Professorで就職してもそれでレースは終わりではなく、それすら3年とか4年の有期契約(僕の場合は4年です)で、論文で実績を出せなければ契約が更新されない、というのが現実です。そのため、Assistant Professorたちも、サバイバルのために論文執筆に必死です。

就職活動の実態

で、実際就職活動って何やるの?という話です。

経営学におけるアカポスの就職はグローバル化しておりまして、世界中に英語で教えるMBAコースを持っている大学があるため、どこにでも仕事があります。一方で、上記の通り世界中に博士は余っているわけで、何が起きるかというと世界中の仕事の争奪戦になります。もちろん、この地域で働きたい、という好みもありますし、自分の専門分野が募集要項と合うかというのもありますから、1つのポジションにせいぜい多くて100〜150人くらいの応募がある、というのが現実ではないかと思います(実際、私が応募した先をいろいろ探ってみると、最大100位でした)。

で、世界中から応募があるということは、どうやって面接をやるか、という問題につながります。スカイプなどでもできますが、やはり最終的には会って決めたいのが人情ですし、採用される側だって、学校の様子を見て決めたいわけです。そのため、交通費は大学負担で面接に呼ばれる、というのが最終選考になります。ですが、これはめちゃくちゃお金がかかりますから(国内の新幹線代とはわけが違いますので)、厳選したうえで、大抵3名とか4名くらいを呼べるくらいです。

そのため、最終選考で大学に呼ばれれば、かなりの確率で仕事にありつける、ということになります。僕の場合はイギリス1校、イギリスの某大学の中国キャンパス1校、そして上海交通大学の3校に呼ばれまして、3校ともオファーをもらいました。まあ、これはかなり上出来な方ですが、3校呼ばれれば1つくらい決まる、という感覚が相場かな、と思います。逆に言えば、なかなか呼んでもらえません。私も、応募すれどもちっとも返信もなく、お呼びがかからなかった時期が去年の9月から10月ごろに続きまして、本気で凹んだ時期がありました。

そして、「選考に呼べるのはごく少数だけ」というのが選考フローを決める決定的な要因になっています。

今年(2017年)の秋から始まるポジションへの募集は、経営学の場合は去年の5〜6月ごろにスタートして、まだ続いています。学校により、どのタイミングで募集をかけるかが様々なのは、日本の新卒採用と似ています。早くから採用活動を行う学校の場合、夏に行われる世界的な学会で最初の面接をやってしまおう、と考えている場合が多く、5〜6月に求人広告が出て、学生が書類を応募、書類選考の上で7〜8月の学会の会場での面接に呼ばれる、という流れです。学会には大学側からは教員が出席しており、博士課程の学生たちも来ますから、お互いに追加の交通費はかかりません。なので、3〜4人といわず、もっとたくさんの応募者に大学側も会える、というメリットがあるわけです。

そのため、早くから採用を決めている大学は5〜6月くらいから応募をスタートし、夏の学会で最初の面接を行うケースが多いようです。そして、そうでない大学(予算上とかいろいろ都合があるようですが)からも、夏から秋にかけて五月雨式に募集広告が出てきます。9月末とか、10月の頭に応募の締め切りが設けられているケースが多かった印象ですね。そこに一つの大きな山があって、そのあとは出遅れた大学たちがさらにちょこちょこと募集広告がでてくる、という感じです。

で、学会で会わなかった場合は完全に書類一発の選考になります。Cover letter(自分がいかにそのポジションに適してるかを書いたお手紙)、CV(履歴書ですが、学会発表とか論文掲載の実績が肝)、主要論文(これまでに発表した論文や博士論文の一部)、Research statement(これまでの研究実績と今後の研究方針を書く)、Teaching statement(教育に関する実績とか、自分の考え方を書く)、Reference(推薦状。自分の指導教官などに書いてもらう)などを送るパターンが多いです。

はっきり言って、これはとても負担です。どうせ論文の発表実績(メジャーな学術誌に掲載があるか)と、Reference(有力な教授の推薦があるか、どんな内容か)くらいしか実際には見てないんじゃないの?という疑惑は応募側の脳裏を常によぎるわけで、各校向けに相当量の資料を準備するのは、なかなか徒労感があります。上記のように、面接へのお呼びがかからない中で、これをやり続けていた9月から10月は、真剣にへこたれました。研究も進みませんしね。

さて、次は面接です。面接に関して、企業との面接と違うのは、研究内容のプレゼンが含まれることです。私が面接に呼ばれた3校とも共通でしたが、教員が一揃い集まった場に対して、45分とか1時間とかを決めて、自分の研究をプレゼンして、質疑を行う、というものです。あとは通常の面接です。個別に何人かの先生たちに会って話をする、というパターンもあれば、会議室で何人かの面接官と面接をすると言うパターンもあります。

そして、それらを全て通過できれば、1週間から2週間後にオファーがでる、と言う流れでして、そこから1週間とか2週間の間に返事をしなければなりません。ここはお互いに真剣勝負でして、応募側からすると、他にも受けていて、結果が出ていない大学がある中で、「このオファーを受けるか断るか」を決めることを求められます。一方で、オファーを出す側も、面接に呼んだ3-4人の中で優先順位を決めてオファーを出しているわけで、断られてしまったら次の候補は限られるし、なおかつ、その候補たちも他の大学も受けているため、もし手持ちの駒が全滅したらまた面接に呼ぶところから始めなければならず、かなり困ります。

実際、僕は上海交通大学でいい感触だったので、他の2校は上海交通大学のオファーはまだでしたが止むを得ず断りましたが、万が一、これで交通大学がダメだったらどうだったかと思うとヒヤヒヤものであります。この辺り、私は全てダメならコンサルタントに戻ろう、そうすれば死ぬことはない、と腹をくくっておりましたので良いですが、アカデミック一本で人生を考えていると実につらいだろうなあ、と思います。

 

生き残るためのポイント

冒頭で説明した通り、アカポスの労働市場は過酷です。それを考えると私はかなりうまくいった方だと思います。ですので、簡単に自分なりに結果につながったと思われるポイントを振り返って、整理しておこうと思います。

結論から言いますと、「相手を知った上で、全てのチェックボックスにチェックが付くように材料を揃えておく」ことと、あとは、「自分の売りと弱点は何かを知っておく」ことに尽きるかと。いわゆる孫子の言う「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」です。

「チェックボックス」に関して言うと、採用側が応募者に求めているのは「(a) トップ学会誌に研究を発表して、大学の実績に貢献してくれる」「(b) 授業をちゃんとやって、学生満足度を保ってくれる」「(c) 組織の一員として、組織貢献してくれる」といったところです。学部ごと、ポジションごとに詳細はいろいろですが、結局この3つができるよ、と示せば良いわけです。まあ、教員が採用されて何をやるか、そして、大学が組織としてどういう社会的なプレッシャーにさらされているかを考えれば、当たり前の話です。

私の場合は、博士の早めの段階で学術誌に他の博士課程学生と共同でやった研究が掲載されたのと、私の分野では世界的に知られた教授から、かなり強力な推薦状を書いてもらえたことで(a)はクリアできました。もちろん、コンサルタントとしての経験や能力があったことで助かった部分も多くある一方、加えて、博士課程の早い段階から目にみえる成果を出すことを念頭に時間を使ってきたこと、学会等でベテラン研究者との対話に加われるよう積極的に発言し、場に貢献する、といった地味な努力をやって人脈を作ってきた結果でもあります。

(b)については、LSEでの授業を最低限のコマ数担当し(大学からはたくさん担当できないかと求められますが、心を鬼にして断ります)、学生からのアンケート評価をきちっと確保。また、授業の責任者だった教員にお願いして推薦状を書いてもらい、「彼は授業できるし、同僚としても働きやすい」ということをアピールしてもらいました(あ、推薦状の使い分け大事です。逆に言えば、そのための推薦者をどう確保するか、ということでもありますが)。また、イギリスでの大学での教員資格を取るためのコースをとり、資格取得を就職活動開始前に終わらせておきました(イギリスで大学教員として教えようとしたら必須資格なので)。

さらに、(c)は学部の博士学生の代表を2年やって、学部側のスタッフと一緒にいろいろ博士課程の内容や、研究環境の改善に努めてきた、という実績を作っておきました。あとは、細かい話ですが、面接の際には必ず事前に既存の教員の研究内容を一通りチェックしておき、また、どんな授業、コースがあって自分が教えられそうなのはどれかを固有名詞で覚えておく、といった基本的な準備を徹底しました。当たり前ですが、誰でも自分たちのことを詳しく理解してくれている応募者は好きなものです。

いろんな意味で運や巡り合わせも多分にあるわけで、これらの準備ができたことが自分一人の努力の成果だというつもりは毛頭ありません。ただ、言いたいことは、就職活動で必要な材料を、一通り揃えられるように博士課程の時間を使うことが大事なのではないか、ということです。先日、とある若手研究者が言っていたのですが、

博士課程の全ての時間が、就職活動のための準備の時間だと考えて行動しなさい

というアドバイスに私も100%共感します。周りの博士学生を見ていると、研究しかやってない人が結構多く、しかも、学会等での人脈作りもあんまりやっていないなど、本当に卒業後のことまで考えて時間を使ってる?と疑問に思うことは少なからずあります。

もう一つ「自分の売りと弱点を知っておく」に関しては、私の場合、「組織論と国際人事という、かなり異なる二つの分野の研究のパイプラインをもっている」ということと、「コンサルタントとしての10年以上経験がある」ということがポイントでした。前者は場合によっては決定的な弱点になりうる話でして、幅の狭い研究領域(例えば組織論だけ、とか)で学科を作っている大学から見ると、「焦点が定まってない」「うちにフィットしない」という感じで、完全にアウトです。逆に言えば色々な専門性のある研究者がいる学科を狙って受ければ効率的に就職活動ができる、と言うことでもあります(途中で気づいてそうしました)。

後者のコンサル経験は、完全に「売り」ですね。企業向けのエグゼクティブトレーニング(要するに、カスタマイズした研修の提供)は、ビジネススクールのいい収入源になっているケースが多いのと、ビジネスとのパイプがあれば研究上も有利なことが多いので、その辺りは一貫してアピールするようにしてました。まあ、私の場合は、社会人経験が長いのでかなり特殊かもしれませんが、相手に対して自分が持っている材料がどう見えるのか、どれを生かしてアピールすればいいか、というマーケティング的な感覚で自分のことを捉えて、就職活動に生かすのが重要だ、と言う点は、誰にでも参考になるのではないかと思います。

アカポスだけが人生ではない

最後に、アカポスを目指すことだけが人生ではない、と言うことを少し。上記のように就職活動を始める段階で、かなりの材料を揃えておかないと厳しいのが現状です。逆に言えば、その材料を自分が博士の4年なり6年、その後のポスドクまで入れたら6年から8年の間に揃えられない、と感じた時点で、アカポス以外の人生も視野に入れてキャリアを模索した方が、正直言ってよいと思います。逆に、アカポスにこだわるのであれば、それだけの準備をするために意識をして時間を使うべきです。厳しいマーケットであることは少し調べれば分かりきっているわけで、必要な準備に時間を使わないで、就職できない、と嘆くのは、僕にはあまり賢い選択肢だと思えません。

もちろん、人生は自分のものですから、他人があれこれ言うものではありませんが。

私自身は、博士課程で学んだ、科学的に思考する技術や、批判的に物事を捉える技術、様々な分析手法などは、活かせる仕事がたくさんある(特に、今はビッグデータとかアナリティクスで、データを分析して方策を考えることが重視されてますし)と確信してます。なので、広い世の中を見てキャリアを考えた方が、長期的には幸せなことが多いのではないかな、と個人的には思います。私自身、今はアカデミックポストに就職しましたが、一生それで行く、とは決めず、選択肢をオープンに考えていますし。

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データとサイエンスの話。

先日、とある、機械学習に積極的に投資をしている、とある企業の知人から聞いた話が、昨今流行りのHRアナリティクスやデータサイエンスという観点で興味深かったかったので、書き起こしておこうと思います。

ポイントは「科学的思考」。データサイエンスが「サイエンス」を語るのであれば、科学的思考が必要なのでは?、というお話です。

知人から聞いた話を簡単にまとめると、以下のような感じです
(いろいろぼやかして書いてます)。

A社では、経営陣が、機械学習こそが次の重要な技術トレンドだ!と見定め、機械学習とそのビジネスへの適用に投資をしています。その一環として、機械学習を人事管理に生かせないか、というプロジェクトが始まりました。

チームは早速、人事にまつわる様々なデータを収集し、機械学習を生かして、データの分析を行いました。そこからは、様々な興味深い分析結果が得られたました。

「××なチームはパフォーマンスがいい」

「〇〇な人材は、成果が出ない傾向が高い」

といった形で、色々と、パフォーマンスにつながると考えられる要素が抽出されたのです。

しかし、このチームの方々は大きな問題に直面しました。

なぜ、〇〇や××がパフォーマンスにつながるのか、さっぱりわからなかったのです。データ上はパフォーマンスにつながる傾向があるのだけども、そこにどのような因果があるのか、納得できる説明ができなかったのです。

さあ、困りました。

「データ上は、これをやればパフォーマンスが上がると出ているんです」

と現場の管理職に伝えたところで、「なぜそれがパフォーマンスにつながるのか」がわからない限り、管理職が納得して動いてくれるわけがありません。

結果的に、チームはこの結果を組織運営に生かすことを断念し、別のアプローチを探ることになったのです。

なんとも、残念な、しょっぱいお話です。

まあ、後付けでこういう風に語ってしまうと、とても間抜けな話に見えてしまうのですが、プロジェクトに関わった当人たちは至極真面目に取り組んでいる人たちなわけです。その企業の機械学習への投資っぷりを考えると、かなり優秀な皆さんが関わっているんだろう、と思われます。

なのに、こうした間抜けな事故がおきてしまったのは、一体何なのか、ということを考えるのが本稿の目的です。

ここで、キーワードになるのが、「科学的思考」です。

科学的思考とは、自然界や社会で起きている現象を紐解き、新たな知識を獲得するための一連の手法のことを指します。近代から現代に至る自然科学や社会科学の発展を支えてきた、「知のお作法」と言ってもいいでしょう。

先ほどの事例で行われたことを簡単に要約すると、「データをたくさん集めて、高度な分析手法を使って、何らか興味深い示唆が得られないか探ってみること」ということになりますが、これは、科学的思考とは全く反しています。むしろ、真逆だと言ってもいいくらいです。

なぜこれに問題があるのか、を紐解くために、そもそもデータを分析する目的はなんなのか、というところから始めましょう。

HRアナリティクスのような形でヒトと組織にまつわるデータを分析する目的は、「ある組織現象(例えばハイパフォーマンスの発揮)が起きる要因は何なのか」を知ることであり、さらに言えば、「要因が現象を生む仕組み(言い換えれば、なぜ、どのようにしてその要因が現象の発生につながるのか)」や「どのような時にはその要因は有効なのか(逆に言えば、その要因が効かないような状況ってどんな場面なのか」といったことを理解することだ、と私は理解しています(もちろん、そこで得られた理解をもとに、打ち手を打つこと、がさらに上位の目的だということは言うまでもありません)。簡単にまとめると、以下の図のようになります。

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ちなみに、世の中には、データを分析するのだけれども、必ずしも「why」に対する答えが必要じゃない場面というのもあるのかもしれません。例えば、ウェブサイト上の消費者の動きから、「〇〇を買っている人は、××も買う可能性が高い」みたいな傾向を分析して、広告を表示する、みたいな場面が考えられます。ここでは、結果として売上が上がればいいので、なぜ〇〇の購入と××の購入がつながっているのか(=why)を知る必要はあまり無いかもしれません。

おそらく、アルファ碁のように、機械学習でゲームに勝つための能力を育てる、といった場合も同じでしょう。なぜその打ち手が優れているのかを説明できなくても、実際に勝つ可能性が高い打ち手が打てればいいからです。

しかし、HRアナリティクスのように、人事や組織運営に関わる場面では、whyが重要です。なぜならば、whyが分からないと人は納得できず、納得してもらえないと組織はなかなか動かないからです(ここが組織運営の悩ましいところです)。

そう考えると、やみくもにデータを分析して、何らかの関係性や法則性が見つかったとしても、それだけでは得るものがあまりありません。なぜならば、データは、何かと何かの間に関係があることは語ってくれても、なぜそこに関係があるのか(Why)は語ってくれないからです。

例えば、こういうことです(あえて、極端な例にしてます)。

「リクルーターとの会食で、食事を食べるのが早かった応募者の方が、入社後のパフォーマンスが高い」

ということがデータの分析から得られたとしましょう。でも、なぜ食事を食べるのが早かった学生の入社後のパフォーマンスが高いのかは、わかりません。このままでは、「食事を食べるスピードを選考基準にしましょう!」と主張しても「はあ?」と言われるだけでしょう。

ここから前に進むためには、「食事を食べるのが早い」ことが何を意味するのかを自分なりに紐解いて、それがパフォーマンス発揮にどのようにつながっているか、を仮においてみる(=仮説)必要があります。例えば、

(仮説1)食事を食べるのが早い人材は、総じて物事をやりきろうという意欲が高い。その結果、入社後のパフォーマンスも高いのだ。

とかですね。そして、それをさらなる分析で明らかにする必要があります。これを実際に検証しようとしたら、SPIのような適性テストのデータと突き合わせるとか、でしょうか。

ここで注目していただきたいのは、上記の仮説が筋がいいかどうかではありません(適当に考えた例ですからそこは勘弁してください)。仮説に、「why」に対する自分なりの仮の答え(=意欲が高いから)が含まれている、ということです。仮にこの仮説が非常に説得力あるデータで検証できたら、その説明が検証できたことになりますから、「食事を食べるのが早い応募者は、やりきる意欲が高い、そのため、パフォーマンスが上がるのである」という採用理論を構築することができます。そこまで出来れば、

対象者を絞り込んだ小規模な1Dayイベントを開いて、ランチにお弁当を出して、応募者がそのお弁当を食べるスピードを計測することで選考の判断材料にしましょう!

といった破壊的なイノベーションを提案し、周囲を説得することが可能になります。
(繰り返しになりますが、あくまでも例ですので、間に受けないでください笑)

ただし、議論はそれでは終わりではありません。

もちろん、自分が想定した仮説が、要因と現象の関係を説明する唯一のロジックだ、とは言えないかもしれませんから、他の説明方法はないかな?とさらにwhyを探求する、というのもありえます。例えば、こういう仮説も考えられます。

(仮説2)食事を食べるのが早いと、業務に費やせる時間の量が、食事を食べるのが遅い人材よりも多くなる。そのためにパフォーマンスに差がつくのだ。

これを検証するためには、自社の中堅社員の1日の時間の使い方をセンサーなどで把握して、そこで捉えた行動データと、評価データの関係を分析し、食事にかけている時間のパフォーマンスへの影響を見てみるといいでしょう。そして、仮にこれが検証できたら、さらにそれをもとに、

(仮説3) だとすると、「食事を食べるのが早い人材」がパフォーマンスを上げやすいのは、自社の様々な仕事の中でも「行動量が求められる仕事」に限られるのでは?

といった形で、理論にさらに磨きをかけていくことができます。

このようにして、一つの仮説に対して仮説に対して対立仮説をたてて検証をしてみたり、仮説が検証できた説明(=理論)をもとに次の仮説を立て、それを検証することで、現象に対する理解の厚みをましていくことができます。

これが、科学的思考の力です。

whyに関する論理的な説明を先に考えて(一般的にはこれをtheory =理論、と呼びます)、それを検証する、というアプローチをすることで、初めてwhyに対する答えに近づけるのです。さらに、仮説3で見たように、一つの仮説が検証されれば、その理論をもとに別の仮説を演繹的に積み上げ、さらに理論を発展させることができる、というのも重要です。

逆に、データを分析して何かの関係が見えたとしても、それ自体は、whyについて何も語ってくれません。whyへの答えを考えることができるのは、(私が知る限りではいまのところ)人間だけです。そもそも、whyへの答えを知りたがるのも人間だけかもしれませんが。そして、whyに対する答えがないと、次の理論の積み上げもできないのです。

もちろん、大量にデータを集めてとりあえず関係性を分析してみる、というのが全く意味がない、と言っているわけではありません。そこから、思いもしない関係性がみつかり、それをきっかけに上記の仮説検証サイクルが回り始めることもありえるからです。しかし、何度も言いますが、データを集めてとりあえず関係性を分析しただけでは、「why」に対する答えはまず手に入りません。

日立の以下の事例は、まさにいい例です。

ビッグデータで集客アップ:日立が見出した、イベント会場での「ヒトの行動パターン」とは?

①イベント会場の人の動きをセンサーで情報収集し、②そこから見えた意外な動きのパターンをもとに仮説を立て、③それをもとに会場の誘導方法を変えてみた、そうしたら、実際に効果が出たことで、仮説が検証できた、そして、次の年のイベントは、④得られた結果をもとに会場全体のレイアウトを見直し、それがうまくいくか検証する、というサイクルです。まさに、以下のくだりに、科学的思考の真髄が現れています。

もちろん、日立側が意図したとおりに来場客が動いてくれるかは分からない。今回も人の流れをセンサーで分析し、効果の検証を行う。しかし検証を行えること自体が大事だと、野宮氏は強調した。

結局のところ、本当にどうなっているか、は、自然科学にせよ社会科学にせよなかなか分からないわけで、「今までに分かっている理論から仮説を立てる」→「データを取り、検証してみる」→「その結果をもとに理論を進化させる」→「さらにそれをもとに次の仮説を立てる」というプロセスで、答えに接近していく、というのが大事なわけです。

逆に言えば、「とりあえず分析してみる」ときも、あくまでそれ自体がゴールではなく、この後の科学的思考のプロセスをスタートするきっかけなのだ、と考えて始めることが大事だ、ということです。冒頭の例に話を戻すと、そういう姿勢がチームで共有されていなかった、ということが最大の問題であると私は思います。

「うちの会社は・・・」の功罪

伝統的に日本経済の屋台骨と考えられてきた自動車、電気、精密などの業界でも、経営状況が芳しくない企業に関する報道を聞くことが、この10年くらい続いています。

去年は、三菱グループからの支援を受けて再生を図っていた三菱自動車がさらなる不祥事の結果、日産に救済されましたし、巨額の損失隠し、損失先送りが明らかになった東芝でも、さらなる不祥事が次々に明らかになり、債務超過も近いという報道も出ています。

こうしたニュースが報道されるたびに、「なぜ、会社は変われないのか」「なぜ、社会的に許されないとわかっているのに不正をしてしまうのか」ということが頭をよぎるのですが、本稿では、「組織アイデンティフィケーション(組織への自己同一化)」という観点から、この問題に切り込んでみようと思います。


「自分は何者か」という問いと、会社の関係


 

人間の心理の根幹にあるものの一つとして「自分は何者か」という概念があります。これをアイデンティティと呼びますが、心理学や組織行動論においては、人間がアイデンティティを定義するやりかたには、大きく3つがあると考えられています (Brewer & Gardner, 1996 参照)。

  1. 自分の持っている固有の特性で定義する(例えば、「自分は営業のプロだ」など)
  2. 自分にとって重要な他者との関係で定義する(例えば「自分は〇〇さんの弟子だ」
    「〇〇の妻・夫だ」など)
  3. 自分が所属している集団を元に定義する(例えば、「自分は〇〇社の一員だ」「自分は阪神ファンだ」など)

 

実際には、誰でも3つの方法のいずれのアイデンティティも持っており、なおかつ、それぞれのやり方のなかにも、複数のアイデンティティを併せ持っている、と考えられています。上の例のすべてが同じ人の中に混在しているわけです。

ただし、それらが常にすべて意識されているわけではなく、場面によって表面化する自己定義は変わる、と考えられています。例えば、営業担当者として顧客に訪問する際には、自社を代表して顧客を訪問している、というアイデンティティが強くなるかもしれません。また、仕事中に家族から子供が急に熱を出した、という連絡をうけた際は、子供の親としてのアイデンティティが表出しやすい場面と言えるでしょう。

もちろん、アイデンティティの中にも相対的な強さの違いはあり、「〇〇社の一員」としてのアイデンティティが非常に強く、自分の中で組織の一員であることが重要な位置を占めている人もいます。そして、このように、組織への帰属を元にアイデンティティを形成することを、「組織アデンティフィケーション」と呼びます。

組織アイデンティフィケーションの強い人の特徴には以下のようなものがあります。どうでしょうか?少なからず当てはまるところはないでしょうか?ちなみに、面白い点は、組織を去っても組織アイデンティフィケーションは必ずしもなくならない、ということです。会社を辞めたのに、会社の立場からものを語ってしまう、ついつい会社のいいところを自慢したくなる、というのは、その症状と言えるでしょう。

  • 組織が悪く言われると、自分が批判されたような気分になる
  • 組織が褒められると、自分のことのように嬉しい
  • 組織のことを「我々は」「自分たちは」「うちの会社は」という表現で語る
  • 他人が組織のことをどんな風に感じているか気になる

 


「組織アイデンティフィケーション」のメリット


組織にとって、従業員の組織アイデンティフィケーションを高めるメリットは無数と言っていいほど存在します (Ashforth et al. 2008参照)。

個人は、組織の成功を自分の成功だと感じるようになりますので、自分の仕事の範囲に限らず、主体的に組織のために行動したり、互いに支援し合う、という行動をとりやすくなります。また、顧客に対して組織を代表して行動したり、自分の所属するチームや部門の利害にこだわるよりも、組織全体にとっての利害を考えて行動する、といった影響も知られています。さらに、組織アイデンティフィケーションが強いと、離職意向が下がる傾向があります。

では、組織アイデンティフィケーションを促進する要因にはどのようなものがあるのでしょうか?

一つの大きな要因は、組織に際立った特徴があり、なんらか、優れている、と思えることです。人は誰も、自分について肯定的に感じたいという欲求がありますので、際立った特徴を持つ、優れた組織の一員だ、と感じることには非常に強い魅力があります。よく知られた、ブランド力のある会社であることも、アイデンティフィケーションを促します。また、厳しい採用をくぐり抜けて入社した、ということ自体も、特別感を通じてアイデンティフィケーションを促すのではないか、という指摘もあったりします。

高邁なビジョンを掲げることや、その実現に向けて組織や、そのメンバーが成し遂げたことを振り返り、称え合うことなども、同じような意味で、組織アイデンティフィケーションに寄与すると考えられます。

また、組織的に「その会社の人に染め上げる」ことも有効です。その会社のビジョンやゴールを理解し、その会社ならではの言葉遣い、ものの考え方、仕事の動きを学ぶこと、そうしたトレーニングを、他の部署のメンバーと一緒に受けることなどは、「組織の一員」という意識を醸成する上で有効であることが知られています。この意味で、日本の新卒一括採用と、その上での新入社員教育、また、定期的に行われる○年目研修といった仕組みがあること、さらには、長期雇用で、中途採用も限られるため、その会社固有の言い回しや言葉遣い、書類の作り方など、様々な「お作法」が存在することは、アイデンティフィケーションを促す仕組みになっている、と言えるでしょう。

 

 


「組織アイデンティフィケーション」の罪


さて、話が長くなってきましたので、もとのお題に戻りましょう。

組織アイデンティフィケーションには、上記のような様々なプラスの面がある一方で、組織の変革を阻み、不正を生みかねない、といった暗い副作用もあることが知られています。

たとえば、組織アイデンティフィケーションが強いことが、研究開発部門におけるクリエイティビティの低下につながる、失敗しつつあるプロジェクトを見直すことができなくなる、組織変革への抵抗を生む、といったマイナスの影響が報告されています。これは、組織への同一化が強すぎるがゆえに、組織内で主流の考え方とは異なるような外部の考えを取り入れたり、組織の現状を否定するような思考、判断ができなくなる、ということだと考えられます。

また、組織アイデンティフィケーションが強すぎる(over identificaiton)と、組織内における倫理的に問題がある行動について疑問を呈することができなくなったり、そういう行動に対して手を打つ行動に出られなくなる、といった悪影響が指摘されています。組織アイデンティフィケーションが強いと、組織を守ることは自分のアイデンティティを守ることに直結しますから、「組織(=自分)を守りたいがために」目の前の不正を見逃したりしてしまい、結果として、長期的な組織の繁栄のためにはマイナスな行動を取ってしまう、というわけです。

先ほど述べた通り、日本の伝統的な、よく名の知れた企業は、従業員の組織アイデンティフィケーションを促す仕組みが様々に整っています。そのことは、組織メンバーが一丸となって、互いに助け合い、組織のために行動する、といった意味でプラスに働いてきた時期も長かったと考えられます。が、一方で、そうそうたる大企業が自己改革に失敗したり、中からの不正でダメになっていく姿をみると、それが過ぎて、自己改革や、自浄作用が働かなる、といったことがおきているのではないか?とも思えるわけです。

 


まとめと考察


 

組織アイデンティフィケーションを強化することは悪いことではありません。むしろ、組織に個人を結びつけ、協働を促す上では欠かせないものだ、と言えるでしょう。ただし、過ぎたアイデンティフィケーションはむしろ害になりうるため、従業員には、「組織の一員」に完全に染め上げるのではなく、それ以外の様々なアイデンティティを育み、発揮する場面を作るのがいいのかもしれません。

最近良く聞く、プロボノや副業などの越境活動で会社以外の場で力を発揮し、人間関係を築くことは、間違いなくアイデンティティの多様化(個人の中でも、組織の中でも)につながると思われますし、男性が仕事に加えて、家族の一員として育児や家事に関わっていくことも、「組織への帰属」を基盤にしたアイデンティティだけではない自己意識につながると思われます。このように考えると、こうした活動は、組織への過度のアイデンティフィケーションを防ぐ、という面で、組織に好影響があるのかもしれません。

<参考文献>

Brewer, M. B. & Gardner, W. 1996. Who is This “We”? Levels of Collective Identity and Self Representations. Journal of Personality & Social Psychology, 71(1): 83-93.

Ashforth, B. E., Harrison, S. H., & Corley, K. G. 2008. Identification in Organizations: An Examination of Four Fundamental Questions. Journal of Management, 34(3): 325-374.

人の性格は環境で変わる(こともある)。

従来の心理学においては、個人の「性格(personality trait)」は成人になった後は、加齢にともなう緩やかな変化を除いては、大きな変化は無いと考えられてきました。

性格テストが企業の採用について幅広く活用されてきたのはこのためです。スキルや知識のような入社後に学べる要素と異なり、性格はあまり変わりにくいので、入社段階で見極めておきましょう、というわけです。たとえば、私が以前所属していたリクルートグループが提供しているSPIのウェブサイトでもこんな風に語られています。

SPI3は、人間の行動のベースである「基本的な資質」を「知的能力」と「性格」の2領域にわけて測定している適性検査です。これらは比較的変わりにくく、入社後育成しにくいため、採用時に見極めるべき領域だと言えます。

しかし、最近の研究からは、成人後の様々な経験によって、加齢による緩やかな変化の範囲を超えて、性格が変化することが明らかになっています。私の博士論文の執筆の過程で、この点についてなかなか面白い研究をいくつか見つけたので、ブログとしてまとめておこうと思います。


失業による性格の変化


例えば、働いていた人が職を失い、一定期間無職でいると、性格が変化する傾向がある、また、その影響は男性と女性によって異なる、ということを、ドイツでの7,000人近くを対象にした4年間の長期にわたる追跡研究から明らかにした研究がBoyceらによって2015年に発表されています。

同研究によると、男性は無職期間が続くと勤勉性が一貫して低下し、女性は社交性が低下していく傾向があるようです。また、無職期間に起きた変化が、再び就職して働き始めることで消えてしまう、と言う傾向も見られました。このことからは、「働いているか、働いていないか」ということが性格という、個人の根幹にあるような特性まで変化させる影響がある、ということがよくわかります。

こうした変化が生じる要因としては、環境の変化に合わせて日々の生活の行動、思考、感情が変化する、そして、新しい環境での生活が長期間積み重なることで、新しい行動、思考、感情のパターンが常態化し、性格そのものが変化する、ということが考えられています。また、男女で影響が異なる背景としては、社会的な役割期待が男女で異なることや、変化に面した時の対処の仕方に男女差があることなどが、要因として指摘されています。

 

 


職務を通じた主体性の向上


一方、働き続けている中で、日々の職務環境によって性格に変化が出ることを示す研究も、徐々に報告されています。例えば、Liらは、同じくドイツにおける450人あまりの3年間の追跡調査をもとに、主体性(proactive personality)が変化することを2014年に報告しています。

彼らの分析からは、職務上の特徴と、個人の主体性の間には、循環的な関係があることが示されています。具体的に言うと、

1.「自分の職務をコントロールできる」度合いが高く、「要求水準」が高い仕事についている人ほど、時間とともに「主体性」が高まっていく傾向がある

2.「主体性」が高い人ほど、時間とともに、より「自分の職務をコントロールできる」度合いが高い仕事につく傾向がある

ということです。人は、環境に合わせて性格を変化させていく(1)だけでなく、自分の性格に合わせて環境を選ぶ、あるいは環境を作り変えていく(2)、ということです。

このことは、企業の立場から考えれば、従業員をがちがちにコントロールするのではなく、自ら職務の内容をアレンジしたり見直したりする、といった自律性を発揮する空間を提供することが、「自ら仕事を作り変え、それを通じてさらに主体性を高めていく」という良いサイクルを生む可能性を示しています。また、そうした自らコントロールできる環境を提供することが、主体性の高い人材を引きつけ、引き止める上で重要だ、と言えそうです。逆に、上司があれもこれも口を出して部下に自分で判断をさせず、組織的にも様々な制度で従業員が自ら仕事をコントロールする余地をあたえないでいると、主体性のある従業員は去ってしまうし、また、残っている従業員の主体性も低下する恐れがある、ということでもあります。

逆に、個人の側からすれば、適度なプレッシャーのある中で、自らコントロールできる余地をあたえてくれる環境に身を置くことが、自分の主体性をさらに高めることにつながる、と言えそうです。

私の古巣、リクルートの創業者、江副氏が作った標語、「自ら機会を作り、機会によって自らを変えよ」には真理が潜んでいた、ということを示す研究と言えそうです。江副氏は人間についての非常に鋭い嗅覚を持っていた、というふうにリクルートの昔の話を聞けば聞くほど感じますが、ようやくアカデミックな研究が彼の考えに追いついた、と言ってもいいかもしれません。

また、単に自由を与えるだけではなく、高い要求をし、適度なプレッシャーを与えることもまた、従業員の主体性を伸ばす上では有効だ、ということもこの研究からは読み取れます。ただし、この研究とは別に、高い水準の要求をうける一方で、上司や同僚からのサポートがない状況が長く続くと、ストレスから肉体、精神に悪影響が出るという研究もありますから、あくまでもバランスが重要だ、ということは忘れてはいけませんが。


まとめ


 

このように、「性格は成年後はあまり変わらない」という通念の見直しを求めるような研究が最近、次々に発表されており、徐々に研究者の間でも性格の安定性については再検討の必要がある、という考え方が徐々に広まっています(もちろん、あくまでも年単位の時間をかけてのゆるやかな変化の話である、という点には留意が必要ですが)。

特に、主体性に関するLiらの研究は重要です。主体性は、様々な職務上のパフォーマンスや、キャリア上の成功に影響していることが知られているからです(もちろん、世の中、高度な主体性が求められる仕事ばかりではありませんが)。

採用時において、主体性を要件の一つに置いている企業は多いと思います。例えば、経団連の調査によれば、「主体性」は新卒採用で求める要件として「コミュニケーション力」に次ぐ第2位に2010年以降、安定して入っています。

しかし、「主体性」を採用時に求める企業群が、果たして入社後に、自らの職務をコントロールして、自律性を発揮できるような環境を提供しているのでしょうか?また、適度なプレッシャーをかけるとともに、燃え尽きないようにサポートを上司や同僚から提供する組織作りができているでしょうか?私のコンサルティングの経験から考えると、主体性の高い人を採用しても、入社後にそれをスポイルしてしまっている会社は少なからずありそうです。

人事に関わる仕事をなさっている方は、採用時に学生に主体性を求めるだけではなく、自分たちの組織がそれを活かし、育める環境になっているか、について振り返ってみるといいかもしれません。

また、採用時に主体性の非常に高い人材を仮に採用できなかったとして、入社後に伸ばすことも可能だ、という点も重要です。大学卒業時にはやや標準を上回る、くらいの主体性の人材を、入社後の機会とプレッシャーを通じて、数年で化けさせるような環境づくりができたら、企業の競争力の基盤となることは、想像に難くありません。むしろ、社会的には、そういう企業が増えることのほうが、価値が高いかもしれませんね。

 

参考文献:

Boyce, C. J., Wood, A. M., Daly, M., & Sedikides, C. 2015. Personality change following unemployment. Journal of Applied Psychology, 100(4): 991.

Li, W.-D., Fay, D., Frese, M., Harms, P. D., & Gao, X. Y. 2014. Reciprocal relationship between proactive personality and work characteristics: A latent change score approach. Journal of Applied Psychology, 99(5): 948.

分析の基本:相関と因果は違う

昨日の夜、とある人事業界の友人から、フェースブックのメッセージで、データ分析に関する質問をもらいまして。そこから始まった会話が、データ分析を語る上では基礎でありながら、結構大事な話だったので、備忘も兼ねて書いておこうと思います。

友人からのメッセージを引用すると、

https://blog.findy.us/saiyo-jikasougaku/

この考察は正しいのでしょうか。わかるようなわからないような。

(出典:筆者の友人)

で、このサイトが何をおっしゃっているのかというと、

成長を続けている会社というのはそのマーケットで勝ち切る人材がいる「採用に強い会社」であることが多いです。(中略)

古巣のレアジョブのケースでも150社くらい競合がひしめくマーケットで「なぜ一番に上場できたか?」「なぜ消える側の会社にならなかったのか?」というと、そこで働く人の差分、レベルが他社より高かったというのが大きな理由と感じています。

(出典:Findy社のウェブサイト。筆者はYamadaYuichiro氏)

と、いうわけで、「採用力が高い」→「企業としての成長力が高い」のではないか?という因果を仮説として提示されてます。この企業は、企業の採用を支援するビジネスを展開されていますので、動機としてはよくわかります。「採用を頑張れば成長力が上がります、だから採用に力を入れましょう(そしてうちのサービス使ってください)」という訳ですね。

で、この仮説を証明するために、自社のツールを使って求人票の質を分析し、求人票のクオリティと、時価総額の関係性をグラフにして表示されています。参考に、リンク先のサイトに載っている画像を引用しますね。

ただ、残念ながら、この分析には大きな問題があります。

 

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(出典:Findy社のウェブサイト。筆者はYamadaYuichiro氏)

 


この分析の問題点① 因果と相関は違う


 

まず一つ目は、相関と因果は違う、ということです。

統計を勉強すると必ず学ぶことですが、「AとBが相関としている」というのは「Aが高いとBも高い、Aが低いとBも低い」ということです。一方で、「AとBの間には因果関係がある」というのは、「Aが起きると、その結果、Bが生じる」あるいは、「Bが起きると、その結果としてAが起きる」ということを指します。

で、筆者の方は、「採用力が高い」→「企業としての成長力が高い」のではないか?という仮説を文中で提示されているのですが、そのあと、分析の段階になると、上の図にもあるように「採用力が高い=時価総額が高い」と、相関の分析をしてしまっています(あ、もちろん、時価総額が高いことと成長力が高いことは違う、という点も重要な問題点ですね。成長力を語るのであれば時価総額なり、売上、利益なりの増加率を見なければいけません)。

実際、グラフを見ると相関しているように見えますね。ただ、この相関を持って、「採用力が高い」→「企業としての成長力が高い」という因果は語れません。逆の相関があるからです。例えば、

「企業としての成長力が高い」→「採用数が多い」→「採用の経験が積める」

「企業としての成長力が高い」→「人がボトルネックになる」→「採用に力をいれる」

のように、「企業の成長力が高い」ことによって採用力があがる、という因果の流れはたくさんありえます。

なので、本当に「採用力が高い」→「企業としての成長力が高い」という因果を証明したいのであれば、相関からさらに踏み込んで、この向きの因果である、ということを示す分析をする必要があります。


この分析に潜む問題点② 因果とは本質的に時間差を含むもの


 

で、そのような分析をする上で考えなければいけないのが、因果というのは、本質的に時間差を含むものだ、ということです。

今回の例で言えば、「採用力が高い」と、「戦略にあった人が取れる」し、「競合よりいい人が取れる」ので、「人材がいい仕事をしてくれる可能性が高い」ために、「いいサービスが開発できたり、有効なマーケティング上のうち手を打ったり、効果的なコストダウン施策が打てる」ので、「成長力があがる」という話ですから、普通に考えれば、今この瞬間に「採用力が高い」ことが、企業としての成長力につながるためには、少なくとも数ヶ月単位の時間がかかりそうです(どれくらいの時間がかかるかは、企業の規模とか、意思決定の身軽さとかに影響を受けそうですが)。

なので、「採用力が高い」→「企業としての成長力が高い」ことを示す上では、今この瞬間の「採用力」と、「成長力」の関係を分析しても説得力が実はありません。少なくとも数ヶ月はずらしてデータをとって、その間の関係を分析する必要があります。

具体的にいえば、今日この瞬間の採用力を分析した上で、その後半年、あるいは1年、3年、という期間で見たときに、今この瞬間採用力が高かった企業が成長したのか、ということを分析しないと、「採用力が高い」→「企業としての成長力が高い」という仮説は検証できない、ということです。

なので、このサイトがこのデータをもとに結論として、

企業を成長させたい経営者ではあれば「採用力」は大事ですね。

と語っているのは、無理がある、と言わざるをえません。

 


補足


まあ、他にもいろいろ突っ込みどころはありまして、上にも書いた通り「成長力が高い」ことと「時価総額」は違いますし、「採用力がある」ということを測定するのに「求人票の質が高い」ことで測っていいのか、というのもあります。
さらに言えば、業界によって企業の実際の売上や利益と時価総額の関係にはかなりばらつきがあるし、ある瞬間の時価総額だけを切り取ると、その時の相場の状況の影響がすごく大きくなるのでは?という点も気になります。
が、そうした測定上のいろいろな問題点よりも、私としては、「相関」で「因果」を語ることの問題点がはるかに気になったので、上記の①②に焦点を当てて書いてみました。この手の記事は時々見かけますが、残念ながら統計分析のことを本格的に勉強したことがある人には問題があることが瞬間的にわかるので、気をつけたほうがいいかと。
ちなみに蛇足ですが、「採用も含めて、育成、評価、社内コミュニケーションなど、総合的に人事、組織作りをきちんとやっていると時価総額にプラスの影響がある」といいうことを示した研究は存在します。人事系の研究者であれば誰でも知っているのではないか、というくらい有名な論文で、Mark Huselid という研究者が1995年にAcademy of Management Journalに発表したものです(こちらからダウンロードできます)。
なので、総論として、質の高い人事を行うことが企業の成長に資する、という主張をするのであれば、それは根拠のある主張だと思います。ただ、個人的には、採用だけに論点を絞るのは、あまり筋がいい分析だとは言えないと思います。なぜならば、採用を頑張っても、とった人がそのあと活躍してくれないと成果に繋がらないからです。