国際比較調査にはご用心。

データを読み込み、理解する力は現代のビジネスにおいて重要な能力の一つと言っていいだろう。ビッグデータの様々なビジネス分野における活用や、データサイエンティストの活躍に見られるように、データドリブンのビジネス意思決定が広まっている。

昨日ちょうど出ていたニュース記事に、人事領域でのデータ活用についての記事があった。

TechCrunch – HR Technology Conferenceに見る人材領域イノベーションと日米温度差

表題の通り、日米での人事領域におけるデータ活用の違いについて語っているもので、内容自体は非常に興味深く読んだ。筆者が日本における人事領域でのテクノロジー活用の展開の遅さに警鐘を鳴らしていることは、筆者がまさに人事領域でのアプリケーションの提供をしていることを割り引いても、納得できる話だ。

新しいテクノロジーの導入に日本企業が慎重なことはこれまでにも様々な場で指摘されてきているので(例えば、ITメディア ー 日本人の生真面目さが企業をダメにする)、ここでもか、という印象である。

さて、しかしここで議論したいのはそこではない。筆者が記事の中で引用している日本企業におけるエンゲージメントの低さについての調査データだ。

エンゲージメントの高い社員は、比例してパフォーマンスが高くなると証明されているにも関わらず、アメリカ全体でエンゲージメントが高い社員は全体の三分の一以下に留まっているという。ちなみに日本はどうかというと、2013年のGallupの調査では7%とアメリカを大幅に下回る数字が出ている。調査会社により数字の違いはあるものの、Aon Hewittの調査でもダントツで世界最低水準となっている。

この手のデータはよく引用されており、日本の職場慣行について批判的に議論する上では使いやすいのだが、重大な落とし穴がある。実は、この手のサーベイ調査への回答の平均値を元に国際比較することには、かなり大きなハードルがある。

それは「項目の解釈」と「回答パターン」に関する問題だ。

事実を聞く質問(例えば、「あなたは通勤に何時間かけますか」)の場合は、世界中のどこで質問をしても、回答は比較的安定している。翻訳をしたとしても、質問が指し示す現象が劇的に変わることは無いし、事実を聞いているので、単純に事実を答えればいいからだ。この場合は、国際比較もしやすい。

それに対して、主観的な心理について聞く質問は、まったく違う問題を抱えている。まず、どんなに頑張って翻訳をしても、国、言語によって解釈に違いが生まれやすい。翻訳先の言語に、元の言葉の意味にちょうどぴったり対応する概念がない場合は特にそうだ。ここでいう、エンゲージメントはまさにそうだ。だからこそ、漢字やひらがなで表現できる日本語に翻訳がなされずに、そのままカタカナとして使われ続けている。もちろん、Gallupにせよ、 Aon Hewittにせよ、この問題は理解しており、慎重に翻訳をして、同じような意味の項目であることを担保していると思うが、それなりのチャレンジである、ということは改めて述べておきたい。

次に、よりこちらの方が大きな問題だが、国によってサーベイの回答パターンに違いがある。簡単に言えば、以下のような5段階の選択肢から、どれを選びやすいか、ということだ。

1. 全くそう思わない
2. あまりそう思わない
3. どちらとも言えない
4. そう思う
5. 全くそう思わない

日本人は相対的に見て、調査に回答する際に控えめに選択することが知られている。つまり、肯定的な回答をあまり選ばないのである。また、中庸な選択肢(この場合は3)を選びやすい傾向がある、と指摘する研究もある。

例えば、Anne-Wil Harzingは、様々な調査項目を含む、26カ国の調査データをもとにした分析で、各国の回答パターンについて報告している。肯定的な回答の選択率から否定的な回答の選択率を引いた値(相対的に肯定的に答えやすい度合いを示す)は、26か国中で日本が圧倒的に低い。

こうした、回答パターンの違いがあるため、エンゲージメントに関する調査回答の平均値に国間で差があったとしても、、果たしてその差違が、回答パターンの違いによるものなのか、それとも実際に感じていることが違うことによるものなのか、切り分けが難しいのである。データとして、日本人のエンゲージメントに対する回答が低いことは事実だとしても、それをすなわち「日本人はエンゲージしていない」と解釈するのは間違いかもしれない、ということだ。

まさに、冒頭の記事の筆者が書いている通り、データがReliable(信頼できる)かどうか、慎重に考える必要がある。特に、主観的な心理について聞く調査の回答についてはそうだ。そのまま文字通り国際比較をしても解釈をしてもいいのか、そうではないのか、用心した方が良い。

日本マクドナルドについて国際経営の観点から考える。

米マクドナルドが日本マクドナルドの売却を考えているというニュースが出ております。

(日経新聞)
日本マクドナルド売却 米本社、ファンドなどに打診

業績もここ数年かなり厳しかったようですし、本国でも様々な新しい強豪や若者の食生活の志向の変化もあって厳しいようなので、なるほどそうきたか、という感もあります。

マクドナルドについては、色々とビジネス系のサイトなどで分析や解説記事が出ておりますが、総じて日本の市場の構造的な変化に着目したり、藤田氏時代の人材育成や日本ローカルの市場を重視した経営をポジティブに評価し、その後の本社主導の経営をどちらかというと批判的に見る記事が多い印象があります。

例えば、窪田真之の「時事深層」 16 日本マクドナルドはなぜ低迷しているのか?–外食業界の”二極化”鮮明に とか、マクドナルドと「ライバル外食」を分析する 「独り負け状態」に歯止めはかかるか? など検索すると出てきました。

いずれにしても、これらの記事の特徴はマクドナルド、というグローバルビジネスの進出先の一つである、日本、という市場の視点から見た記事な訳です。まあ、日本で上場もしている、ずいぶん歴史もある企業で、日本人の読者が読むことを想定して書くわけで、ある種、当然かもしれませんが。

しかし国際経営という観点から言うと、ローカルの視点も面白いのですが、逆にアメリカ本社から見るとどう見えていたのだろうか、という本社の視点でも考えてみるのも、なかなか面白いです(敢えて、本社=グローバル、とは言ってません。多分、アメリカの視点が多分に含まれているので)。特に、本社から海外拠点に対するガバナンスやコントロール、という観点ですね。

ここからは、私の妄想です。

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改めて歴史を少々紐解いてみると、最初から現地資本(=藤田氏の経営していた貿易会社)に対するフランチャイズとして始まっているのですね(今は49.9%はアメリカとカナダのマクドの法人が保有しているようですが)。

ただし、このフランチャイズ相手は、米本社のいうことをあまり聞きません。

まず、アメリカで成功してきた地方のロードサイド店という思想を拒否して、銀座に店を開きます。さらには、標準化&規模の経済、というチェーンビジネスの原則をこれまた拒否してローカルメニューを投入。さらには、フランチャイズモデルにも素直にのっからず、社員による直営店舗を主軸にした経営を実施。ことごとく、独自路線を突き進みます。

アメリカの成功体験が判断の基軸になっているだろう米本社の経営陣からすれば、「俺たちのいうことを聞かずにやりたい放題やっている、面倒な現地のフランチャイジー」以外の何物でもなかったであろうと思われます。もちろん、日本経済の成長の中で、どんどんビジネスは成長していましたので、うまくいっているうちはまあ、大目に見ておくか、といったところだったのではないでしょうか。日本企業でも、業績を上げている現地のマネジャーは(本国中心主義の傾向の強い)東京の本社に対して発言権を持てる、というのは、ままある話のようですし。まさに、「勝てば官軍」ですね。

また、メジャー投資をしているわけではありませんから、乱暴なことは米本社からもなかなかできませんし。

さて、この後、2002年に折しものデフレの中で、低価格戦略がうまくいかず、藤田氏が引責辞任します。

さあ、こうなると、本社の経営層としてはある種、しめたもの、だったのではないでしょうか?今までいうことを聞かなかった現地の先経営者がいなくなり、業績も残念な状態、となれば、自分たちの「ウェイ」を展開して、自分たち流でちゃんと経営をする絶好の機会、と映ったはずです。

しかし飲食は文化に根付いている部分も多く、外国人が乗り込んでいってもそうそううまく行きません。となれば、いきなり本社から直接人を送るのではなく、、米国流の経営とコミュニケーションがちゃんととれる「話の通じる」現地のプロに任せよう、ということになります。さらに言えば、傾いた企業の経営者として、株主の代表である取締役会が外から候補を探して送り込む、ということ自体がとてもアメリカ的なのも、面白いところです。逆に言えば、彼らからすれば、おそらく自然な判断だったのだろう、と思われます。

さらに、そのプロでもうまく行かなかったとなると、いよいよ本社から人を直接送り込んで、ダイレクトにコントロールしなければなりません。うまく行かなくなればなるほど、気心の知れた、判断基準や能力がはっきりわかっている人に、直接判断をさせたくなる、というわけです。もちろん、この場合の能力、というのは本社の文脈ですので、上記のように文化や市場が違う、という場合にどれくらい機能するか、というのは別の話なのですが。しかし、意思決定する側からすると、認知バイアスもあって、一番確実なのはこちらから送り込むことだ、と考えたのではないかと。

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個別の戦略の良し悪しなどについては、ここでは主題ではありませんから触れませんが、率直に言って、日本マクドナルドに起きたことは、本国を中心に世界戦略を考えている側からすると、結構普通の意思決定を積み重ねてきた、ということのように見えます。

結果的にそれはうまくいかなかったわけで、今から考えると良くない意思決定だった、という風になるわけですが。数年前から、批判的な見方の論考は結構あったような気もしますので、現地市場から見ると数年前からすでに、おかしく見えたということかもしれません。

ただ、ここで考えたいのは、上記にあるような風景って、日本企業でも(それ以外の国の企業でも)沢山あるのだろうなあ、ということです。現地流でやっている合弁先の経営者を煙たく思っている本社の人とか、傾いたのを機に、立て直しに本社から乗り込むとか、その結果として現地の市場を踏まえずに手を打ってしまう、とか。世界に自社のウェイを広めたい、といった話も、以前に書いた通り、私自身がコンサルタントとしてお手伝いしてきたこともありますし、本社の側からすれば、筋の通った話であることが多いとおもいます。もちろん、視点が本社に偏っている、というのはあるのですが、一方で現地化すればいい、というのも偏った見方ですしね。

僕が思うに、ここから学ぶべきことは、向こうの本社には本社なりの思考の枠組みと、ストーリーがあって、その中で彼らなりに意思決定をしている、ということ、そして、それが現地から見ると、実に残念な意思決定に見えてしまうことだってある、ということです。それだけの判断基準や市場の違いを踏まえて、どうすれば効果的な意思決定ができたのだろうか、というふうに考えるための肥やしにするのが、このケースはいいのではないかと感じます。

日本は本当に集団主義なのかという問い。

日本は、集団主義であって、欧米の個人主義とは違う、という論考は
よく耳にする主張だが(そして、自分自身もそれを前提に幾つかの記事を書き、発表してきたが)、今日はこのことについて改めて考えてみたい。

まず、個人主義と集団主義の定義だが、HofstedeやTriandisによれば、個人主義は、個人が独立した主体であり、個人の利害が集団の利害に優先する、という価値観や考え方のことであり、集団主義は、逆に、個人は他の人々とのつながりの中で生きる存在であり、集団の利害が個人の利害に優先する、という価値観や考え方のことを指す。

これは、「自己」を何に依拠して定義するか、という問題であり、人のあり方の根本に関わるものだ。

しかし、ここでいう「集団」はかなり曖昧な議論である。

いわゆる「家族」や「親族集団」のことを指すこともあれば「会社組織」のことを指すこともある。個人主義の立場から見れば、どちらも個人ではない集団である、という点では共通だが、生活を共にする家族と、社会における経済活動の主体である「会社」は、どう考えても帰属の対象としては別のものだ。

現代の日本の文脈で考えれば、ワークライフバランスは、ほぼすなわち、「家族」をとるか、「会社」をとるか、という話だ(どうも、日本では、ワークライフバランスの話はほぼ常に、家族持ちの家族に対する責任と、会社に対する責任の対立軸で語られ、家族とも会社とも切り離された、「個人」という文脈で語られることは、僕が知る限り全くない。まあ、これは欧米でも程度の差はあれ、似たようなものかもしれないが)。

「中国化する日本」で一躍有名になった歴史学者、与那覇氏によれば、日本はどちらかといえば血縁関係で繋がる「家族」よりもむしろ、「藩」や「お家」のような、バーチャルな、仕組みとして成り立った集団を重きに置くのに対し、中国は血縁および同じ姓でつながる縁戚関係(実際に血縁があるかどうかはともかくとして)や、個人的な信頼関係を重視する、ということだ。実際、日本に関して言えば「遠くの親戚よりも遠くの他人」という象徴的なことわざが存在する。

Brewerは、このあたりの個人主義ー集団主義の二項対立の枠組みを批判して、「個人主義」「人間関係主義」「集団主義」の3つからなる枠組みを提示している。人間関係主義は、個人同士のつながり、すなわち「人脈」「コネ」を重視する考え方であり、集団主義は集団に対する帰属、すなわち「メンバーシップ」を重視する考え方だ。

個人主義者は自分の能力や実績、何をしているかで自己を定義し、人間関係主義者は、誰とつながっているのか、誰と親しいか、どのような人間関係の網の中にいるか、で自己を定義する。集団主義者は、どのような集団に属しているか、で自己を定義するのである。人間関係はあくまでも顔の見える個人の網であるのに対し、集団は抽象的な存在である。国家や企業がそれにあたるだろう。

改めて考えてみると、日本の文化はどの形なのだろうか?僕には今のところ、答えがない。なんというか、従来の集団的なものが、徐々に変わってきているような感じもするし、そうでもない感じもする。もやもやな感じである。

僕の友人は、個人主義的な要素が強い人たちが多い。「会社に縛られるのではなく、自分で決めるのが大事だし、その上で会社が自分のやりたいこととあっていれば、会社で働けばいいじゃない」というような考え方の人間が多い。彼らの家族・親族との関係はよくわからないが、家族・親族のために自分を犠牲にする、という雰囲気はあまり感じない。

一方で、極端な例だが、今年前半に結構物議を醸していた、満員電車でのベビーカーに対する批判が、「満員電車で会社に行かないといけない人たちに対して迷惑」というあたりには、ある意味、自分勝手なように見えつつ、結局は意思決定の基準は他者であるあたりが、個人主義とは言い難い。

加えて、組織や集団内における行動において、自分の主張よりも、周りの人たちの主張や利害を考慮して、明確な対立にならないように探っていくというのも、広く一般的な行動のように思われる(残念ながら電車で出くわした人たちは気を使うべき他人の範疇にも入らない人もいるわけだが)。

さらに違う話をすれば、都市部に出て働く人たちとは別に、地元で昔からの友人たちとつるんで、その輪の中で生きて行くことを志向する人たちも昔から存在する。

散漫な例だが、それだけ、多様な行動のパターンが存在する、というわけだ。日本の中にも、個人を優先している集団もいれば、組織を優先している人たちもいて、関係を中心に生きている人たちもいるのが現実である。そうなると、「日本」という括りで考えることに非常に疑問が出てくるわけである。

国際経営論の世界では、文化や制度を総じて国単位で議論することが伝統的だが、もはや「国」という単位の議論は、文脈によってはあまり意味がないのかもしれない。日本初の企業といえば、長期雇用の製造業だというわけでも、もはやないし。そうした「伝統的」企業の中の従業員の行動は、上述の通り、制度的な要因の影響を受けているわけで、それを「日本の文化」と言い切るのも、疑問を感じる昨今である。

肥満と経済をめぐる議論。

研究とは何も関係ないのだけど、最近、イギリスで興味深かったニュースといえばこれ。

BBC News- Obesity ‘biggest threat to women’s health’ in England

先日、3日だけ日本に仕事で帰る用事があり、バタバタと帰国したのだが、その際に改めて思ったのが、日本の女性は細い、ということ。イギリスに帰ってくると、ぽっちゃりというか、大きい女性が実に多い。街を歩いていて、明らかに風景が違うのである。

そして、その直後に見たのがこのニュース。何を言っているかというと、イギリスの医療に関するトップ(Chief Medical Officer)が、

肥満はイングランドにおける女性の健康に対する最大の脅威

だと言っているのである。

肥満の結果として様々な疾患の確率が高まることはよく知られているが、それらを考慮すると、イギリスでは肥満が医療政策上、最も対処を必要とする脅威だ、としている。国家財政が緊縮する中で、肥満という予防できる要因で医療費がこれから増加していく要因になるのは放置できない、というわけだ。

そして、単純に病院でどうこうする、という話だけではなく、安価な砂糖入り飲料(コーラとか)や、”健康的ではない”加工食品に課税をする砂糖税や、スーパーでのこうした食品に関する安売りプロモーションを禁止するといった医療以外の面での政策上の対策も求めているという、大掛かりな話だ。肥満の話まで経済政策につながってくるのである。

確かに、イギリスの加工食品は砂糖の含有率が多い。例えば、マヨネーズ一つとっても、日本のマヨネーズよりも数倍多い砂糖が入っていたりするし、レンジでチンで食べられる食品とかにも結構砂糖が入っててびっくりする。

そして、”健康的ではない”加工食品については、糖分や脂肪を多く含んだ食品の価格低下が肥満の増加に結びついている、という世界的な長期のデータに基づいた研究も発表されていたりする。

Guardian – Falling price of processed foods fuelling obesity crisis, says study

で、ここからが本題だ。

この話を放送していたニュースでも多少議論になっていたのだが、砂糖税については、安価な加工食品に食事を頼りがちな低所得層を直撃するのではないか、という批判もある。特に、これを主張しているのが、飲料メーカーの連合だったりするので、どれだけ本当かいな、という話はもちろんあるのだけど、しかし、一般論として、低所得者層の方が加工食品を食べるので肥満になりやすい、というのは、一般論として良く聞く話だ。

しかし、この手の話は鵜呑みにしないほうが、たいていは良い。なので、調べてみると、確かに、貧しい人ほどフレッシュな野菜を食べている量は少ない。

日本でも、低所得者層が肉や野菜が足りない食生活になっている、というデータがあるようだ。余談だが、この状況に対して、厚生労働省が出した「所得が低い人は・・・健康への関心を高めてほしい」というコメントが、「現代のマリーアントワネットかよ!」とネットを沸かしているらしい。たしかに、個人が意識を配ってどうこうなる話には限界があるので、厚生労働省の皆さんには老婆心ながら、もう少し、「なぜそうなるのか?」という部分に構造的に考察を加えてからコメントを書かれる事をお勧めしたい。

まあ、あまり根本的なところに踏み込むと、いろんな政策に関わってきてしまうから、その辺も全て分かった上で、敢えて触れないことにしたのかもしれないが。それはそれで残念な話である。

さて、話を戻そう。さらに、貧困と肥満の関係を調べてみると、確かに女性に関しては明確なリンクがあるのだが、男性に関しては関係がない、と言う不思議な結果になっている。

Adult Obesity and Socioeconomic Status

例えば、下のグラフの横軸が豊かさで、比率が肥満率だが、濃いオレンジ色の女性では明らかに右に行っている方が減っているが、薄いオレンジの男性では、それほど明確なパターンは見られない。

推察するに、男性の方が同じ低所得者層でも肉体を使う仕事をしている比率が多い、とか、そのあたりも影響しているのかもしれない。同じ低所得の仕事でも、比較的軽度の労働のサービス業に女性が多い、ということはイギリスでもありそうである。

そう考えると、経済的水準と、食事の偏り、肥満の間にはそれなりの関係がある、と考えるのが妥当だろう。もちろん、上のようにカロリー消費の側面にも光を当てないと問題の全体像はわからない。

たとえば、バスや地下鉄による通勤を抑制して、自転車通勤が増えるように、交通を整備する、といった政策は、通勤距離が東京ほどべらぼうに長くなくて、交通機関の値段が高いイギリスだと、結構効果的かもしれない。そんな風に、食事以外の政策にも、光をあてることが多分必要だろう。だからと言って、経済的格差が食事の差につながり、健康状態の差に影響していると思われる、という問題を放置していいという話にはならないが。

それにしても、肥満を通じて医療コストが増大すれば、国民皆保険である日本やイギリスでは、結局それを負担するのは納税者である。そして、豊かな人たちもそれなりに応分の負担をしないといけない。そう考えると、経済格差に起因する食の格差、そしてその結果としての健康格差の問題というのは、政策として考える価値があるテーマなのではなかろうか。

ビジョンは目に見えなければならない。

もう何年も前になるが、当時の職場の同僚と一緒に書籍を出版した。スイスに本拠地を置くビジネススクールIMDの北東アジア代表を現在勤めている高津尚志さんと一緒にやった、懐かしい仕事だ。

感じるマネジメント

(リクルートHCソリューショングループ著、英治出版)

この本では、株式会社デンソーさんで3年くらいかけて取り組んだプロジェクトの経験をベースに、ビジョンやバリューといった企業がが大切にしている考え方を社員に共有していく上で、どのような風に取り組めばいいのか、といったことをまとめている。

「ビジョン」とは、企業として将来実現を目指す姿を描き出すものであり、「バリュー」とは、その過程で大切にする価値判断の基準を定めるものだ。

どうしても、具体的な戦略や事業計画と比べ、「ふわふわしている」印象があるため、ビジョンやバリューが共有されることが、実際に経営にどのような影響を与えるのか?というのは、若干わかりにくい。プロジェクトに取り組んでいる当時からずいぶん同僚たちと議論した。

当時から私が主張していたメリットの一つは、共通のゴールと価値判断の基準を一人一人が自分のものとして内面化することによって、多くの人々の足並みが揃い、活動のコーディネーションのコストが低下するとともに、全体の効率が上がる、というものだ。

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最近は、自分の研究分野に直接つながりがないこともあって、こうしたことについて考える機会も減っていたのだが、昨日たまたま全く別の文脈で論文を探していて、そのものズバリの論文を発見した。University of Pennsylvania, Wharton School のANDREW M. CARTON氏らの発表した、以下の論文だ。

A (BLURRY) VISION OF THE FUTURE: HOW LEADER RHETORIC ABOUT ULTIMATE GOALS INFLUENCES PERFORMANCE

この論文で著者らは、大きく二つの仮説を設定し、検証している。


①リーダーが発信するメッセージに、企業の目指す将来像をイメージさせる言葉が多く含まれているほど、業務のコーディネーションが効果的になり、業績が高まる

②この際、同時に、企業が大切にする価値観が限られた単語数で表現されているほど①の効果が高まる


それぞれについて多少補足すると、①に関しては、例えば「患者の満足」は抽象的で、イメージが浮かぶものではないが、一方、「患者の微笑み」はイメージが浮かぶ表現である。こうした表現の方が、目指す姿が映像として色濃く頭の中で描かれやすく、効果が高い、と想定している。

②については、価値観が様々な言葉で表現されると、従業員にとっては何を元に業務の中で判断をすれば良いか混乱しやすくなる。人によって、異なる言葉を基準に判断が行われると、それはむしろ、パフォーマンスには逆効果になってしまい、①の効果を弱めてしまうだろう、と想定している。

実際にどのように検証をしたのかは煩雑になるので省略するが、結果としては、想定どおり、「将来像をイメージさせる言葉が多い」ほど業績にはプラスの影響があり、なおかつ、それは「価値観が限られた言葉で表現されている」ほど、そのプラスの影響が強いことが確認された。また、加えて、それらの効果が人々の間の業務のコーディネーションの効率によって媒介されていることも確認された。

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この分野のコンサルティングにある程度取り組んできた経験から言えば、この発見は非常に示唆に富んでいる。

ビジョンは、まさにビジョンという言葉が示す通り、未来を描き出すものでなければならない。しかし、実際には経営者が語る言葉は、時にして抽象的で、概念的なものになりがちだ。

逆に、バリューは、皆が共通して守るべき判断の基準を決めるのだから、絞り込んだ方が良い。いろいろ言うと分からなくなってしまう。しかし、経営者はときに、あれもこれも大事だ、といってしまいがちだ。

しかし、この研究からはそういったコミュニケーションは狙った効果に必ずしも繋がらない、ということを明確に示している。

もうすぐ年末である。年明けには、様々な企業の社長が念頭所感を発表するし、管理職の皆さんも自分の方針を部下に話す機会がいろいろとあるはずだ。そうした機会に、この研究の発見を参考にしてみるといいかもしれない。

  • 皆さんの働いてる組織の方針は、ビジョンを生き生きと描き出すように書かれているだろうか?経営者は、大事にすべき価値観を明確に絞り込んでコミュニケーションしているだろうか?
  • あなたが経営者、あるいは管理職だとしたら、あなたが語っていることは、これらの指針に従っているだろうか?