経営・組織理論を考える(5)なぜ組織はお互いに似ているのか?

戦略論を勉強した方には、「企業は、他の企業と違うことをやらないといけない」というのはほ、おなじみの考え方だと思います。

マイケル・ポーターの3つの基本戦略で議論されているのは

  • 差別化 - 他社よりも高い価値の商品・サービスをプレミアム価格で提供する
  • コスト優位 - 他社よりも低いコストのオペレーションを行い、低価格で勝負する
  • 集中 - 独自の市場セグメントに集中する

の3つですが、これらはいずれも、「他社と同じことをやっていても儲からない」という発想が基礎になっています。

また、ジェイ・バーニーが発展させた資源ベースの戦略論の立場からは、ビジネス活動を通じて利益を得るためには、企業は

  • 独自の価値があり、
  • 希少で(=他社が持っていない)
  • 模倣困難な(他社がコピーできない)資源を、
  • 組織的に活用する

・・・ことが必要であると言うことになります。いずれも、「異なることをやる」のが戦略の基礎である、と言うことになります。

しかし、現実に存在する企業の組織のあり方を眺めてみると、まったく異なる光景が浮かび上がってきます。

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どの組織も実に「似ている」

組織構造は基本的に「ピラミッド構造」になっており、その分け方も機能別、事業別、地域別部門のいずれか、あるいはその合わせ技(マトリックス組織)くらいでありまして、この原則に合わない構造の企業を見ることはほとんどありません(コンサルティングなどの問題解決の専門家からなる組織はプロジェクト制なので少し例外ですが、それでもたいていの場合インダストリー×プラクティス、というマトリックス構造になっており、組織は階層化されています)

こうした公式の構造に加えて、組織の中で行われている活動の様子を見ても、頻繁に行う活動をルーティン化した業務プロセスが決まっており、それに伴うフォーマットやルールがあり、業務用の情報システムに落とし込まれている、というところは多くの企業で類似です。

もっとソフトな部分だと、例えば多くの企業にミッション、ビジョン、バリューのような理念的なものが定められていて、人事制度も等級制度、評価制度、報酬制度があって、研修を含む各種育成の仕組みがある、と言った部分もそっくりです

もちろん、中身を見ると企業の独自性があるのですが、一歩引いてみると、皆、似ているのです。世界中のビジネスパーソンが「異なることをやるのが大事だ」という戦略論の考え方を学んでいるはずなのに、組織同士はある意味、とてもよく似ている。

これは何故でしょうか?

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回答(1):「そういう構造が効率的だから」

この回答の理論的基盤は、ドイツ人社会学者マックス・ウェーバーによって提唱された「官僚制(bureaucracy)」の考え方にあります。

「官僚制」と言うと、どうもあまりいいイメージがありませんが、マックス・ウェーバーが主張したのは、「国王や有力貴族の恣意的な判断」や「身分」によって政府が運営されていた貴族制のシステムに比べると、「身分やコネクションにかかわらず登用された官僚がルールに基づいて政府を取り仕切る」官僚制は非常に効率が良い、と言うことです。ウェーバーが考える官僚制の条件は以下のようなものです。

  • 階層化構造
  • 公式な意思決定ライン
  • 組織的な分業 → 部門ごとの担当業務の明確化
  • 意思決定の権限をルールによる定義する(誰が何を決めていいか、を明文化)
  • 業務のルーティン化
  • 専門的なトレーニングの実施
  • 組織的な個人の能力の評価と、能力に応じた登用

こうした仕組みは大規模で複雑な業務を効率的、安定的に運営する上では非常に有効です。ルールによって個人の恣意が入る余地を制限し、なおかつ、専門分化によって専門性を高めることができます。また、下位階層で処理できない問題のみを順次上の階層に繰り上げていく、というルールによってそれぞれの階層が自分の取り扱うべき問題に集中できる、と言うわけです。

ですから、多くの企業がこういった考え方で組織を作っているのは合理的だ、と言えます。言い換えれば、組織づくりには原理原則があり、合理的に考える経営者はそれに基づいて組織づくりをする、それゆえに組織はお互いに似通っていく、というわけです。

一方、官僚制を徹底しすぎると、ルールと構造がどんどん重たくなっていき、環境がどんどん変化したり、自ら環境に働きかけて変化を起こしていく、といったダイナミックな組織活動には向かなくなります。「大企業病」というのはまさにこの問題を指した言葉ですね。

とはいえ、ある程度、組織が大きくなってくると、程度の差こそあれ官僚制的な仕組みを取り入れないと効率が悪くてしょうがない、と言うのも現実であります。そのため、官僚制をベースに起きつつ、その問題を解決するための様々な打ち手が探求されている、というのが、組織論の発展の歴史、とも言えるでしょう。

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回答(2):「効果的でない企業は淘汰されるから」

2つ目の回答は、マイケル・ハノンとジョン・フリーマンが生物学の進化論に刺激を受けて提唱した「組織生態系理論(organizational ecology)」に基づくものです。

彼らは、組織がお互いに似ている理由は、市場における淘汰が起きているからだ、と主張します。

  • 企業が、様々な構造を試したり、制度を導入したりすることによって、組織形態は多様化していく
  • それらの企業は、市場での競争を通じて淘汰のプレッシャーにさらされる。言いかえれば、相対的に効率的、効果的な企業が生き残り、そうではない企業は退場する(廃業したり、吸収合併されたり)
  • 多様な構造や制度のうち、もっとも効率的、効果的なものを備えた企業が生き残るので、結果的に生き残った企業を観察すると、似通っているように見える

というロジックです。

生物学には「収斂進化」という考え方があります。

  • イルカは哺乳類、サメは魚類で、生物学的には全く別々の経路をたどって進化したのにお互いに形がとても似ている。
  • コウモリは哺乳類、中生代の翼竜は爬虫類の仲間(ジュラシックパークとかで空を飛んでるあれです)なのに、骨の構造だけ見れば鳥と似てる。

こうした現象を、「生物は、生きている環境での生き残りに向いた形に進化していくので、同じような環境で生活している生物はお互いに形態が似ていく」というロジックで説明する考え方です。イルカとサメであれば、水の中で効果的に魚を食べて生きていこうとしたら体は流線型なのが効率的だし、コウモリ、翼竜、鳥であれば、空を飛び回ろうとしたら、軽い体で翼を大きく面がとれるようになっているほうが良い、ということになります。

マイケル・ハノンとジョン・フリーマンが提唱した上記のロジックは、これと非常に似ていますね。特定のビジネス環境で有利な組織のあり方はある程度決まっていて、それに当てはまる組織が生き残る、というわけです。

さらに、この理論の面白いところは、グローバル化や技術の変化によって産業構造が変化する際に、新たなプレイヤーが急激に勢力を伸ばす一方、その変化に適応できない企業が退場を余儀なくされるといった現象も説明できる点にあります。環境が変われば、それに適した企業のあり方も変わる、というわけですね。

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回答(3):「社会的プレッシャーがあるから」

 

この「淘汰」に基づく説明は、非常に面白いのですが、一つ弱点があります。それは、企業が自らを改革する(滅びる前に自らを作り変える)ということを、否定している点です。「組織には慣性があり、多くの改革努力が失敗する」ということを考えると、あながち否定できないところもあるわけですが、とはいえ、多少無理のある前提だと言わざるをえません。

一方で、1つ目の「官僚制」を基にした説明は、企業経営者が主体的に合理的な意思決定をする存在だ、ということが暗黙的な前提になっています。「効率的、効果的な構造や仕組みを経営者が導入する結果、企業がお互いに似ていく」というわけですから。

しかし、この前提は必ずしも正しくありません。多くの企業が「右へ倣え」で同じような仕組みを(本当にそれが効率的、効果的かどうか分からないのに)一斉に導入する、といった現象が存在するからです。

例えば、2000年代には多くの日本企業がいわゆる「成果主義」人事を導入しましたが、その時点では成果主義人事が日本でうまく効果的に機能するかについての評価は固まっておらず、様々な批判もありました。そんな中で、「これからは成果主義だ」と唱えた経営者を駆り立てたものはなんだったのでしょうか?

こうした点について、ウェーバーとはまったく異なる観点から説明を行ったのが、ポール・ディマジオと、ウォルター・パウエルらによる、「新制度主義(new institutionalism)」です。

制度と言うと、一般的には企業の中の人事制度などの仕組みを想定しますが、ここでいう「制度」とは、「社会で広く受け入れられ、当然のことだと考えられている慣行、ルール」のことを指しています。ディマジオ&パウエルの主張のポイントは、「こうした制度によって生じる社会的プレッシャーによって組織はお互いに似ていくのである」と主張しました。

  1. 成功している(高業績をあげている)企業で用いられている構造や制度は、それだけで「正しいものだ」と認知されやすくなる。そのため、他の企業がそうした企業の構造や制度を模倣するようになる
  2. ある慣行やルールが、一度、社会で広く受けいられると、「それは正当なものだ」という風に受け止められるようになる。それによって、「それを導入する」ことに対してお墨付きが得られ、逆に、「それを導入しない」ことを組織内で説明するのが難しくなる
  3. さらに、ある慣行やルールが、法律や業界標準などの形で公式なルールになると、企業はそれに応じた社内の構造や制度を整備せざるをえなくなる

1つ目の例としては、古くはGE、今で言えばGoogleで行われている人事の仕組みを事例として取り上げて、「わが社でも導入すべきだ」ということがあげられます。「すごい会社がやってる」→「うちもやろう」と考える、という訳です。

2つ目は、1つ目と似ていますが、社会的に広く受け入れられている、と言う点に違いがあります。一昔前のエントリーシートは、これに当たりますね。最初にソニーが導入した時には、全く過去に例がない新しい取り組みだったのですが、その後「当たり前」の仕組みになった結果、「その後の採用工程でどう使うかをあんまり考えずにとにかくエントリーシートを課す」企業が登場し、「面接に行ったら、明らかに面接官がエントリーシートを読んでない質問をしてくる」といった不満が応募者から出るようになりました。まさに、「ある仕組みが社会的な正当性を得ると、効果的かどうかを考えずに導入されるようになってしまう」というわかりやすい例と言えるでしょう。

こうした正当化のプロセスには、コンサルタントやビジネススクールのスター教授など、様々な「識者」が「これがベストプラクティスだ」「これからはこうだ」みたいな主張をすることが重要な役割を負っています(エントリーシートの流行には、リクルートを始めとした採用サービス各社が一役買いました)。流行を作り出すことによって、企業内の担当者がそれに乗っかるお墨付きを与える、というわけです(必ずしも、そういう意図があってやっているとは限らないのですが、結果的にそうなる、というわけです)

3つ目の例としては、コンプライアンスや個人情報保護などが当たりますね。日本でJ-SOX(内部統制に関する規制)が導入されて各社に内部統制の部門ができた、みたいなのは典型的な例です。これも、そもそも法律になるのは「世の中で受け入れられたこと」であることが多い、また、法案が作られるプロセスで、様々な「識者」が政治家に働きかけている、ということを考えれば、2つ目の延長線上にある現象だ、と考えることもできるでしょう。

僕は、1990年代に成果主義が流行った背景には少なからず1つ目と2つ目が関わっていると思います。当時は日本はバブル崩壊後で企業業績が非常に悪く、経営者の間に「日本的なやり方」への自信が失われていた時代です。その結果、アメリカ企業のやり方のほうが「正しい」のではないか、という思いが生まれ、そこに「先進的」な日本企業数社が成果主義導入に踏み切った、と言うニュースが流れたことで、「我が社も」と言う流れができた、と言う訳です。その過程で多くのビジネス機会を得たコンサルファームがたくさんあったことは言うまでもありません。

この、ディマジオとパウエルの主張の面白いところは、そもそも企業による合理的な判断には限界がある、ということを前提にしている点です。そもそも、経営者の手に入る情報は限られるし、世界は様々な存在が互いに影響を与え合う複雑な場である、それゆえに、「手に入る情報」をもとに最大限考えて判断するしかない。そんな中では、「高業績を上げている企業」がやっていることや、権威ある識者が薦めることが意思決定に影響を与えるのは自然なことだ、ともいえるわけです。

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ここから何を学ぶべきか。

1と2が示唆することは「広く見られる組織の構造や仕組みには、一定の合理性がある」ということです。それゆえに(1)多くの企業経営者がそれらを採用している、あるいは、(2)それらを採用した企業が生き残っている、というわけです。

一方、3が示唆することは、「広く見られる、みんなが受け入れている組織の構造や仕組みは、社会的に作り出されたものである」ということになります。本当にそれがどれくらい効果的、効率的かに関わらず、「みんながそれを受け入れる」ことで正当性が生まれ、それを受け入れるプレッシャーが生じるからです。

現実はおそらくこれらの理論の中間にあります。いずれもある程度正しいし、いずれも完全には世界を説明しきっていない、というわけです(社会科学の理論はたいていそんな感じです)。

変化が続く現代の社会において組織運営を行っている経営者や管理職の方々にとってのこれらの理論からの示唆は、「多くの企業が採用している組織のあり方には一定の合理性がある(1)」一方で、「環境が変化したら、それに合った組織のあり方や運営の仕方も変わる(2)」。しかし、「世の中で喧伝されている『これからはこれだ』が本当に自社にとって効果的、効率的かどうかはわからない(3)」ということですね。

「だからどうしろって言うのよ」というツッコミが聞こえてきますが、上でも述べたように、社会科学の理論はあくまでも社会の一側面を切り取って説明するもので、あらゆる場面に当てはまる普遍の法則ではありません。なので、自社の置かれた状況を分析し、判断をするための「思考の道具」として「今この場面に当てはまるのはどれなのか」という風に使っていただくのが良いかと思います。

 

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「適切な離職率の水準ってあるの?」という問いへの組織論研究からの(現時点での)回答。

昨今、労働市場の活況を受けて離職率が高まっている、という問題意識を日本の大企業の方からも聞くようになりました。

ただ、詳しく聞いてみると「働き盛りの層が何人か最近辞めた」といった話で、僕の感覚からすると「いやいや、全然それは離職率高いとは言わないです」という風になったりするのですが(リクルート→イギリス→中国のため、相場観が高止まりしてます)。とはいえ、「今までは全くと言っていいほど辞めなかった」という感覚をお持ちの人事の皆さんにとっては、危機感が湧く状態なのでしょう。

一方で、「離職率が低いのは、企業として新陳代謝が進んでいないことの表れである。むしろ、一定レベルの離職があったほうが良い」というような主張も存在します。ちょうど昨日、フェースブック経由でジーンクエストというバイオベンチャーの経営者の高橋さんのブログを拝見しました(以下、リンク先からの引用。強調は原文より)。

勤続年数の長さを誇る組織は、体の細胞の入れ替わりのなさを個人の体が誇っているようなもので、これまで話してきた非連続性の創出ができていないということになります。
特にベンチャーだと、成長する過程で幹部人材やメンバーの入れ替わりが起こることはよくありますが、生命の誕生から成長の過程では、そのステージによって必要な細胞が変わっていくことは自然なことで、逆に必要な細胞が入れ替わらないと成長することができません

このブログ記事は、生命論の観点から組織について考察していて、離職に関するところ以外にも色々と興味深いです。

しかし、離職率に関しては、最近の組織論研究からの知見に基づくと、

「会社にとって、離職率がある程度あったほうがいい」という主張は、
一般的な原則としては成り立たない

というのが、現時点の回答になります。

(ちなみに「一般的な原則としては」という部分が大切でして、これが当てはまらない状況は色々考えられます(追記:上記のブログの主題であるベンチャーはおそらくまさにそれにあたるかと)。スカッとしませんが、組織現象というのは大抵そうです)。

と、いうわけで、ここでは、まず、離職率と組織のパフォーマンスの関係に関する理論について紹介した上で、実証研究から何がわかっているか、について紹介して、最後に「一般的な原則」が当てはまらない状況について考察しようと思います。

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理論的な観点

離職が組織パフォーマンスに与える影響に関する研究には長い歴史があるのですが、大雑把にまとめてしまうと主張としては二つ。

一つは、「離職はパフォーマンスを下げる」というもの。例えば、

  • 人材が流出することで、その人材が持つスキルや知識、経験(=ヒューマンキャピタル)と、その人の社内外のネットワーク(=ソーシャルキャピタル)が失われる
  • それらが失われることで、組織の機能状況が低下し、パフォーマンスに悪影響が出る

という理論です。

組織の中で個人が機能するためには、汎用的な技術やスキルに加えて、その会社のルールや仕事のやり方を学習し、社内外の人脈をもっていることが必要です。そして、そうやって機能する状態になった人が抜けてしまうと、その穴をふさぐ労力を誰かが投じる必要があるわけです。それにともなって、一定の混乱が生じることは避けられない。そうした「穴が空く」頻度が高いほど、円滑な組織活動に与えるダメージは大きくなる、というわけです。

このロジックに対しては当然のことながら、「それって辞めるのが誰かによるよね」という反論がありえます。「組織内であんまり機能していない人材」がいなくなっても害は小さいのでは?さらに言えば、「いるだけで周りに害を及ぼす」ような人だっている。

こうした考えを元に提唱されたのが二つ目の理論的主張、「一定水準の離職はむしろ組織パフォーマンスを高める」というものです。この派の論者は、離職が生じることによって

  • 無駄な給与を払わなくて良くなる
  • 新しい人が代わりに加わることで、組織が活性化する
  • 組織にフィットしない人材を退社することができる

などのメリットがある、そして、

  • 離職率が低いうちは、これらのメリットが離職のデメリットを上回る。
  • そのため、ある程度の水準までであれば、離職率が上がることは組織パフォーマンスにプラスに働く

と主張します。もちろん、離職率が高くなりすぎると、デメリットがこれらのメリットを上回ってしまいます。そのため、このロジックに基づくと、離職率と組織パフォーマンスの関係は逆U字カーブを描くはずだ、ということになります。

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実証研究からの示唆

こうした議論を元に、実際のところどうなの?ということを確認するための実証研究がたくさん行われています。当然、研究によってサンプルや時期、環境が異なるため、結果は必ずしも一貫しません。一つ目の主張を支持する研究もあれば、二つ目の主張を支持する研究もあります。

ここでは、これらの結果を一つ一つご紹介する代わりに、2013年に発表された、Tae-Youn ParkとJason D. Shawによる104本の論文を元にしたメタアナリシスの結果をご紹介します。メタアナリシスとは、これら数多ある研究の結果を統計的に統合、再分析する手法で、そこから導き出される結果は、個別の研究の行われた状況を超えた、普遍的、横断的な傾向だ、と言えます。

また、一般的に離職と言えば自主的離職(個人が自分から辞める)ですが、この研究では、「組織による解雇」と「ダウンサイジングによる解雇」(組織による解雇に似ているが、解雇のあと、ポジションを埋めるための採用が行われない点が異なる)も広い意味での離職と見なして、これらについても分析を行っています。

この研究からの主なポイントをまとめると以下の5点。

  1. トータル離職率(上記3つの種類の離職のトータル)が高いほど、組織パフォーマンスは下がる傾向がある
  2. この傾向は、パフォーマンス指標の種類(従業員生産性、顧客満足度、財務業績等)にかかわらず一貫している。
  3. 離職の要因別にみると、「自主的離職」「ダウンサイジングよる解雇」はパフォーマンスにネガティブな影響がある一方、「組織による解雇」がパフォーマンスに与える影響はプラスでもマイナスでもない(統計的に有意ではない)
  4. トータル離職率、自主的離職率については、離職率の水準が高いほど、離職率と組織パフォーマンスとのマイナスの相関が大きくなる傾向が見られる(→加速度的にネガティブな影響が大きくなる)
  5. 離職率のパフォーマンスへのマイナスの影響は、総じて組織の規模が小さいほど大きい

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これらの分析結果で最も重要なポイントは、上記で述べた一つ目の理論的主張である「離職はパフォーマンスを下げる」が支持され、二つ目の「一定水準の離職はむしろ組織パフォーマンスを高める」は支持されなかった、ということです。これを言い換えると、冒頭で述べた通り、

「会社にとって、離職率がある程度あったほうがいい」という主張は、
一般的な原則としては成り立たない

ということになります。

上記で紹介したPark & Shaw論文は、相当な数の研究を束ねた再分析のため、ある種、これで離職率とパフォーマンスの関係をめぐる論争については一旦の決着がついた、と見ていいんじゃないかな、と僕は思っています(もちろん、今後さらにここを起点に新しい研究が行われるはずですから、さらなる発見が期待されるわけですが)。

ですから、「一定の人数が辞めたほうがいいのだ」「新陳代謝を促す人事制度上の仕組みがあったほうがいい」といったアドバイスを耳にしたら、「何を根拠に言ってます?」「それってどんな状況の場合の話ですか?」と確認してみるべきです。上記の5を考えると、小規模な組織の経営者や人事の方は特にそうですね。

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もう一つ興味深いのは「組織による解雇」とパフォーマンスとの関係がプラスではなかった、という点です。一般的に考えれば「組織による解雇」は「貢献度が低かったり、組織に害を与える人材を解雇し、代わりに、もっと組織活動に合致した人を採用する」ということですから、理屈上は、組織パフォーマンスに貢献しそうです。

しかし、メタアナリシスからは、組織による解雇は組織パフォーマンスに必ずしもプラスの影響を与えない、という結果になっています。これはなぜでしょうか?

考えられる要因としては、「必ずしも、解雇した人より優秀な人を採用できるとは限らない」「新たに採用した人が、組織にうまく馴染んで成果を上げてくれるとは限らない」などがあります。人事に関わっている方々には実感があると思いますが、いい人を惹きつけ、見極め、採用するのは難しい。そして、せっかく苦労して採用してしまった人も、活躍するとは限らない。「活躍していない人を解雇して、もっと活躍できそうな人でリプレースしよう」というのは、捕らぬ狸の皮算用かもしれない、ということです。

とは言え、解雇が組織パフォーマンスにマイナスの影響を持っているわけではないということからは、

個人に自発的に辞められるよりも、組織として合わない人に辞めていただくような働きかけをする方が、組織にとってはダメージが少ない

というのは重要な示唆だと言えるでしょう。

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「一般的な原則」を超えて

しかし、最後に一つ、重要な「ただし」があります。

上記でも繰り返し書きましたが、これらの結果は多くの状況をおしなべて俯瞰したときに得られる「一般的な傾向」です。組織論に限らず社会科学の研究は(物理などの自然科学と同じように)一般的、普遍的に通用する法則を見出そう、ということに関心があり、メタアナリシスはその最たるものです。

これを裏返すと、こうした傾向が当てはまらない「特殊な状況」というのも存在するかもしれない(というか、存在するだろう)、ということが言えます。

例えば、ベンチャー企業などでよくあるように、戦略的なピボットを行って、その結果「今までと断絶した活動を行う、そのためには今まで社内にあったスキルや知識、経験があんまり役に立たなくなる、逆に、全然違うスキルや知識、経験が必要になる」といった状況では、離職のパフォーマンスへの影響があろうがなかろうが、人を入れ替える必要性が一定数生じるはずです。いま、パフォーマンスをあげていない活動の遂行にダメージがあったところでそれは問題では無いわけですし。頭で紹介したブログからの引用にあった通り、経営のステージが変わる場合も、似たようなことがあるかもしれません。

そもそも、ベンチャー企業はおそらくあんまり「離職率とパフォーマンスの関係」を分析する研究の対象にならないと推測されますしね(新しい事業を生み出す段階の企業では、離職率以外にパフォーマンスに影響を与えそうな要因が山ほどあるので)。

また、個別の人のレベルで、「自身が組織に貢献しないだけでなく、周囲の人材に悪影響を与えるなど、組織に害のある人」というのも存在しますよね。そういう人は、解雇することによって一時的に混乱が生じたとしても、解雇したほうが良いのかもしれません。

このように、様々な「特殊な状況」が考えられるということも念頭に、参考にしていただけると幸いです。

参考文献:
Park, T., & Shaw, J. D. (2013). Turnover Rates and Organizational Performance: A Meta-Analysis. Journal of Applied Psychology, 98(2), 268-309.

職場に子供を連れて来てもええじゃないか。

「職場に子供」というと「は?」と言われるかもしれません。確かに、僕も日本で働いていた時は、職場には大人しかいないのが普通だと思って特に疑問も持たなかったのですが、最近、その「常識」が大きく揺さぶられる事件が二つほどありまして。職場に子供を連れてくることって結構「あり」ないんじゃないかな、と考えてみました。

その1:育休プチMBA

今僕がやっている研究プロジェクトの一つに、ワーキングマザーの育休からの復帰に関する支援プログラムの効果を検証する、というプロジェクトがあります。これは、静岡県立大学の国保祥子さんと、英Durham University Business SchoolのDr. Chiahuei Wuと一緒にやっているもの。

このプロジェクトは、国保さんが過去数年やってきた育休プチMBAというプログラムをベースになっています。育休中のワーキングマザーを対象に、ケーススタディを通じて復帰後の仕事について様々な視点から考えるワークショップを複数回実施する。そして、その前後での彼女らの仕事やキャリア、仕事と家庭の両立に対する態度がどのように変化するか、また、復帰後のパフォーマンスはどうか、といったところを、ワークショップに参加していない人たちとの比較も含め、分析し、効用を明らかにすることを狙っています。

19社の企業様からのご協力をいただいたパイロットスタディを行っていて、かなり意味のある変化が生じるということが見えてきているのですが、それよりもここで紹介したいのは、ワークショップの様子。

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(出典:国保さんのブログより)

ご覧の通り、子供を抱えたり、マット上で遊ばせた状態で(サポートスタッフが1人ついてます)真面目なケーススタディの議論をしているわけです。僕は、事前に子連れ参加あり、と聞いてはいたものの、この写真を見てなんだか結構とショックを受けました。それだけ、暗黙の前提に縛られてたってことでしょうね。

子供が周りにいて動いてても問題なく議論が成り立つのは、男性よりもマルチタスクが上手な女性ゆえ?と思ったりしますし、ある程度大きくなると動き回って危ない(なので、このワークショップではお子さんは1歳未満に限定してます)といった気になる部分もあるわけですが、少なくとも、小さな子供が周りにいたり、抱いてても、真面目なケーススタディの議論が成り立つ、というのがポイントです。

その2:安泰経済与管理学院(うちのビジネススクール)の夏休みの状況

次に、先週あたりから私の身の回りで起きている現象です。

日本と同じく、中国も小学校や中学校が夏休みに突入しているわけですが、何が起きているかというと、うちのビジネススクールの教務や人事などのアドミスタッフたちが子供たちを大学のオフィスに連れてきて、

  • 会議室で子供には夏休みの宿題をさせておいて、時々覗きに行く
  • 空いてる公共スペースのソファとかデスクでお母さんが仕事をしてて、横に子供もいる
  • ランチタイムには小さい子供を連れて大学の中庭でお散歩

みたいなことがそこかしこで行われているのです。

さらには、若手の教員たちの中にも、男女問わず子供を研究室に連れてきて、自分が仕事をする傍らで子供は遊んでるor勉強している、という人がいるようです。エレベーターで子供と一緒に乗っている同僚を見かけます。

改めて思い出してみると、LSEにいた頃も、僕の指導教官が小学生の娘を大学のオフィスに連れてきていて、僕とのミーティングの傍に娘さんがiPadで何かやってた、みたいなことがありました。

もちろん、大学は普通の企業とは少々性質が違う組織(特に、教員が若手でも自分の研究室を持っている、というのは、全然違いますよね)ではあるのですが、それなりに厳しいナレッジワークの現場でもあります。その中で、普通に子供たちが職場にいる、それでも仕事は回っていく、という風景はなかなか新鮮なものであります。

さらに、この話を先日、友人と話していたら、同じような事例が日本の職場で出てきました。なんでも、彼の知人のコンサルタントは夫婦共々マッキンゼーに勤めていた当時、赤ちゃんを職場に連れて行って2人で面倒見ながら仕事をしてたらしいのです。これまたマッキンゼーは一般的な働き方の職場ではありませんが、タイトなスケジュールのプレッシャー下の厳しいナレッジワークの現場でもそれが成り立つ、という実例ではありますよね。

職場に子供を連れてきてもええじゃないか運動。

こうした事例を考えてみると、日本でも夏休みにお父さん、お母さんと一緒に子供がオフィスに来て、その辺で勉強していても別にいいのでは?とも思うわけです。

「家庭を仕事に持ち込むなんて、不謹慎な」みたいなことをいう管理職が出てきそうですが、実際にやっている上記の二つの例を見る限り、時々様子を見る必要はあるし、多少ぐずったりとかもあるかもしれませんが、真面目な議論や仕事がそれでダメになってしまうわけでは決してない。

そもそも、家庭と職場が分離したのは工業化時代以降の話であって、農業の時代には、家の周りで働いているので子育てを皆でしながら農作業をしてたそうですから、こういう「不謹慎な」みたいな感覚が一般的になったのはおそらく比較的新しいことだと思われます(→詳しくは「社会学講義(筑摩書房 橋爪大三郎他著)」の家族社会学のパートが面白いです)。

また、日本の通勤事情を考えると、子供を乗せて満員電車に乗るなんて、という意見が当然想定されます(企業内託児所の議論でも同じですね)。が、これまた、オリンピックの議論にも見る通り、朝はテレワークで、少し遅めの時間から時差通勤をしたりとか、いくらでも解決策はありますよね。そもそも、リモートオフィスのような都心じゃない職場を提供する企業も増えてきているわけで、満員電車で長時間揺られてオフィスに通うことが「当たり前」と考えなくてもいい企業も出てきている。

顧客訪問どうする?とか、情報管理は?とか(スマホの扱いはルールがいるでしょうね)いろいろ懸念はありますが、家族訪問日みたいなのをイベントとして実施している会社(リンク先は京セラさんのサイト)もありますしねえ。夏休み期間は子供を会社に連れてきてもOK!みたいにするのもありかなと。

毎日会社に通うのは子供にとってはつまらないでしょうから、各家庭せいぜい数日、あるいはたまーに、というのが現実的なラインでしょうね。ただ、夏休みの間の毎日、子供が日中いる場所を確保するというのは子育て中の夫婦にとってはなかなか大変じゃないかなあとも想像します。そういう意味で、職場における子供に関するルールというか規範をゆるーくしたら、助かることもあったりするのかなあと思ったわけです。

どうでしょうかね?成り立たないでしょうか?自分自身は子育てをしてないので、当事者感がなくて恐縮なのですが、思いのほか、ありじゃないかなあ、と思ったので書いてみました。ご意見お待ちしております。

プレゼンテーションはコミュニケーション、といってもそれはどんなコミュニケーションなのか。

「プレゼンテーションはコミュニケーションだ」というのは、よく耳にするフレーズです。

プレゼンテーションは、聞き手に自分の考えを伝えるわけだから、コミュニケーションに決まってるじゃん、当然だよね、と思われるかもしれません。

しかし、コミュニケーションを「自分の考えを相手に伝えることだ」と捉える考え方こそが、世に数多ある「相手不在の一方通行の残念なプレゼン」の源泉なのではないか、と僕は思っています。

「プレゼンテーションはコミュニケーションだ」といっても、人によって、そもそもコミュニケーションってなんでしたっけ、というところの認識にずいぶん幅があるわけで。

最近、効果的なプレゼンと残念なプレゼンの違いの根底にあるのは、表面的なスキルの問題ではなくて、「コミュニケーションとは何か」に関する根本的な捉え方の違いなのではないか、と思う出来事が最近幾つかありまして。今日はその辺のことを、コミュニケーションに関する理論的な考察も交えて書こうと思います。

二つのコミュニケーション観

コミュニケーションを「自分の考えを相手に伝える」と捉える考え方は、コミュニケーション論における古典的なモデルである「土管(conduit) モデル」にピッタリ当てはまります。これは、コミュニケーションを、

  • 「話し手」が、自身の意図(伝えたいこと)をメッセージ媒体(話し言葉や書き言葉、ジェスチャー)に変換する
  • メッセージが「話し手」から「聞き手」に向かって伝達される
  • 「聞き手」は、受信したメッセージをもとに「話し手」の意図を解読する

という風にモデル化するものです。

このモデルによれば、コミュニケーションのゴールは、話し手の頭の中にある意図を、寸分たがわず、聞き手の頭の中に再現することです。そして、コミュニケーションの効率は、この変換、伝達、解読のプロセスで生じるエラー(誤解や見落とし)をどれだけ避けられるか、によって決まる、と考えます。「コミュニケーション=話し手と聞き手を繋ぐ土管」であり、それがいかにスムーズに流れるようにするか、という考え方ですね。

このモデルの源流は、もともとは通信技術や情報圧縮理論を専門とする工学系の研究者によって提唱されたShanon-Weber モデルという考え方にありまして、非常に工学的、機械的にコミュニケーションを捉える考え方です。

この考え方を極端に推し進めると、古典的な大学教授の授業になります。教授が一方的に自分の考えを話し、黒板に書き、それを生徒は黙って聞いてノートをとる、というあれです。当然、生徒は予備知識がなかったり、授業の中身に集中してなかったりしますから、聞き逃しや理解漏れが生じる。そうなると、試験の問題に答えられない。だから、「よくできたノート」をコピーしてその中身を暗記することが重要になるわけです。

組織の例としては、部下に自分の考えをとうとうと語る上司、というのは、こうした土管モデルでコミュニケーションを捉えている、と言えそうです。自分がしっかり考えを説明すれば、相手はそれを受け取れるはずだ、という思考です。

多くの家電製品やコンピューターのマニュアルも、土管モデルで設計されてますね。マニュアルを書くエンジニアが「知っている」ことを、いかにミスなく漏れなく「紙の上に書かれた図や文字」という媒体で伝達するか、に注力しているからです。頑張って作っているのはわかりますが、残念ながらあんまり読みたいと思えないし、頭に入ってこないですよね。

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この「土管モデル」が決定的に見落としているのは「聞き手」の主体的な関与です。

私たちは通常、人の話を聞いたときに、相手の意図をただ受け止めるわけではありません。むしろ、相手が言ったことを、自分の考えていることや知っていること、感じていることとつなぎ合わせたり、比較したりして、「相手が話したこと」を「自分なりの世界」の中に位置付けていきます。

例えば、「上海マジで暑い。死にそう」と僕がフェースブックに書き込んだとしたら、東京に住んでいる友人の多くは、「東京も今年は暑いんだよなー。上海もか」と頭の中で自分たちの日常を連想しながら読んで、頭の中で「上海も東京も今年は暑い」という風に変換するはずです。

それに対して、長年上海に住んでいる友人たちは、同じ投稿を読んでも、「いやいや、今年は結構マシだけどなあ」と、経験則に照らして僕の投稿を読み(実際、昨年、一昨年の方が暑かったそうです)、人によっては「そういえば吉川君、今年が上海で最初の夏だっけ?」と考えることもあるでしょう。

つまり、「聞き手」は、「話し手」の発信したメッセージ媒体(この例だとフェースブックの投稿」を受動的に受け取るだけではなく、自らの持っている知識や経験を元に主体的に考えるのです。聞き手が違えば、同じメッセージ媒体を受け取っても、そこから刺激されて考えること、その結果としての解釈は異なっているのです。

さらに言えば、「話し手」が「聞き手」の頭の中に起こした思考がレスポンスとして帰ってくることで、さらに「話し手」の頭の中でも思考が生じます。例えば、上述の僕のフェースブック上の書き込みに、上海の住人から「いや、今年はマシだよ」とコメントが入ったら、僕の現状に対する認識(=上海マジ暑い)が、新たな認識に変質するはずです(例えば、「もっと暑いこともあるってどーすりゃいいんだ・・・」とか)。

この点に注目すると、コミュニケーションとは「話し手」が、「聞き手」の頭の中の思考を促す刺激を発信する活動であり、複数の個人が互いに刺激しあい、新しい認識を形成していく活動、という風に捉えることができます。

このようにコミュニケーションをより動的、相互作用的に捉える考え方は、「constitutiveモデル」と呼ばれており(*)、古典的な「土管モデル」に代わって、コミュニケーション研究では徐々に重視されるようになってきています。

*英語の研究論文で使われている、”constituitive model of communication”をうまく翻訳する日本語が思いつかなかったので、そのままにしてます。

 

「プレゼンテーションはコミュニケーション」を「constituitiveモデル」で解釈する

冒頭で、


しかし、コミュニケーションを「自分の考えを相手に伝える」ことだ、と捉える考え方こそが、世に数多ある「相手不在の一方通行のプレゼン」の源泉だと僕は考えています。


と、書きました。

これは言い換えると、コミュニケーション=土管モデルでプレゼンテーションを考えるとろくなことが無い、ということです。

自分が考えたこと、言いたいことを、どれだけうまくスライドに落としこむか、ということを考えて行き着く先は、家電製品やコンピューターのマニュアルです。残念ながら、そういうプレゼンは世の中にたくさんありますよね。

これまでの経験から僕が大切だと考えているのは、「constitutitiveモデル」的に、「聞き手は自分の経験や知識をもとに自分で主体的に考える人たちなのである」というふうに捉え、彼らの思考をどのように刺激するか、に集中することです。

具体的には、

  • 「聞き手」はどんな人なのかを考える
  • 自分のプレゼンテーションを通じて、「聞き手」の頭の中でどういう思考を刺激したいのか考える
  • その刺激を起こすために、どんな素材を使って、どんな順番で何を話すといいか考える

ということですし、

  • 「聞き手」の頭の中で生じている思考をプレゼンテーションの途中で掴んで、それに応じてコミュニケーションを調整するための準備をする

ということです。

「聞き手」を想定することが重要なのは、聞き手によって、「知っていること/知らないこと」「当たり前だと思っていること」「興味があること」が違うからです。人間は考えるときには、(無意識に)様々な前提をおいて考えているので、前提を揃えないと、話し手と聞き手の間で思考が噛み合いません。

また、人の話を聞いて考えることは、エネルギーを必要とする活動ですから、ちゃんと動機付けをする必要があります。「この話は自分にとって価値がある話だ」ということをどうやって感じてもらうか、ということです。

あとは、よく語られることですが、スライドを文字でぎゅうぎゅう詰めにすると、聞き手は考えられません。複雑な図やグラフ、表も同じです。むしろ、経験則的には「スカスカ」のスライドを適宜はさみこみ、じっくりとお話をする方がいいようです。スライド上で全部説明しないほうが、むしろ聞き手は自分で頭を使うということではないかと。

結局のところ、「constituitiveモデル」的に考えると、プレゼンテーションの成果は、「自分の考えをどれだけ表現できたか」ではなく、「相手の思考をどれだけ刺激できたか」「その結果として、どれだけ、新しい認識を作り出せたか」です。なので、「自分の考えをどう伝えるか」ではなく、「相手にどう思考を促すか」という観点で考えるのが、プレゼンテーションの準備で重要だ、ということになります。

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そして、「聞き手」の頭の中で生じている思考を掴むためには、「聞き手を見る」ことが重要です。プレゼン中にスライドや手元の資料を読んで喋るのは、聞き手を見ることができなくなりますから問題外です(加えて、自信がなさそうに見えますしね)。

なので、「聞き手を見る」ためには準備が必要です。スライドがなくても全部お話ができるようにリハーサルを徹底的にやって、さらに、聞き手から出そうな反応や疑問、理解が詰まりそうなポイントについてあれこれ頭の中で思考実験をすることです。そうすれば、話しながらスライドを見る必要がなく、聞き手をじっくり観察して、反応があるかどうか確認しながらお話できますし、質問が出たらそれに合わせて軌道修正できる。

また、「問いかけ」を投げかけるのも一つの方法です。スライドに最初から「質問」を埋め込んでおいてもいいし、「どうかな?」と感じたら、話を止めて「どう思います?」と聞いてしまえばいいのです。これも、余裕がないとできませんから、準備が大事です。古い言葉で、「段取り八分、仕事は二分」というのがありますが、まさにプレゼンテーションでも同じではないかと。繰り返しになりますが、相手に目を向けるためには、自分の準備が十分にできていることが重要だ、というわけです。

 

経営・組織理論を考える(4)心理的契約 と契約違反

社会交換理論の基本的な考え方については何度かご紹介しました。

世の中は交換で回っている。

経営/組織理論を考える(2)社会的交換理論 (social exchange theory)

一言でまとめると、上司と部下、社員と組織、社員同士、営業担当と顧客など、様々な関係において「一方が、何かを相手のためにおこなう(give)と、相手から恩返しが帰ってくる(take)」というお話でした。

こうした交換のベースが成り立つためには、一定の期待が必要です。「相手に何かをすれば、それなりにちゃんと帰ってくるだろう」というものです。これには二つの要素があります。一つは「人間や人間の集団はそもそもそういう風に振る舞うものだ」という普遍的な期待(個人の信念、と言ってもいいですね)。もう一つは、「この人(あるいは、この組織)は、こういう風に振る舞うだろう」という個別の人や組織に対する期待(信頼、と言ってもいいでしょう)です。そうした期待がないと、明確な見返りを約束されでもしない限り、相手にgiveをすることは割が合いません。

ここで浮かんでくる問いは、「では、その期待を裏切ると何が起きるのか?」ということです。

本稿では、社会的交換理論をベースに発展した「心理的契約」という概念をもとにこの点について考えます。

組織と個人の間には、「暗黙の心理的な契約」があると考えられています。従業員が組織に対して、「会社は自分をこういうふうに扱ってくれるだろう」というふうに期待する一方で、「自分は会社に対してこういうふうに貢献しなければいけない」というふうに自分の責務を感じるのです。

具体的に言えば、正社員の場合であれば、「ある程度頑張れば、自分の頑張りを認めてくれて、昇給や昇進の機会を会社は与えてくれるはずだ」とか、「自分の能力を最大限発揮できるよう、研修や配属を通して、適切な機会を与えてくれるはずだ」「この会社にいれば、一人前の社会人として恥ずかしくない収入や地位が得られるだろう」「◯歳くらいまでには年収はXXXX万円くらいにはなるだろう」などを期待するわけです。

逆に、「残業はある程度やらないとダメだよな」とか、「転勤の辞令がでたら、会社の一員として、世界中どこでもいくんだ」、さらには「早く一人前になって上司のサポートがなくてもちゃんと仕事ができるようにならないと」「会社の名前に傷がつくようなことはできない」など、様々な「社員としての義務」を感じるわけです。

こうした「契約」は、職務定義書や、雇用契約書に言葉として書いてある範囲を超えた、暗黙的なもので、いわゆる法的にサインをするような「契約」とは別のものです。採用段階でのリクルーターや人事との会話や、入社後の上司や先輩との会話、周囲を観察することを通じて、徐々に形成されるもの、と考えられています。日本の場合は、職務定義書や雇用契約が存在しない場合が多いですから心理的契約が雇用関係において果たす役割は大きいと考えられますが、欧米の研究でも、こうした、必ずしも書面に基づかない暗黙的な心理的契約が存在することが確認されています。

企業によって、組織が従業員に約束すること、期待することは異なります。コンサルタントとして、私は幾つかの企業の「人材マネジメントポリシー」の作成に携わりましたが、各社の経営者の従業員に対する考えというのは似ているようで微妙に異なっていて、それをどのように言葉で表現し、伝えるのかに頭を捻ったものでした。

ただ、上で述べた通り、個人が感じる社会的契約は、あくまでもリクルーティングや入社後の受け入れ研修、上司や同僚との関わりを通じて形成されるものです。経営層が考える「自社として約束したいこと」「期待すること」が必ずしも従業員にそのまま共有されるとは限りません。

組織としてのポリシーが様々な人事制度や仕組みに反映され、人事や管理職が同じような認識を持つようになってはじめて、共通の期待が形成されていくようになるのです。逆に言えば、同じ会社の中にあっても、個人によって認識している心理的契約には違いがあるのが自然な状態だ、と言えます。

組織が従業員との「約束」を裏切るとき

このように、心理的契約はその名の通り、個人の心の中に存在するものです。そして、ときに、個人は組織の「裏切り」を経験することになります。

例をあげればキリがありません。

 

  • 若手にどんどん機会を与える社風だ、と言われていたのに、入ってみたらオペレーションの仕事ばかりで全然チャレンジの機会がない
  • 長く勤められるという安定的な雇用だと思って働いてきたのに、経営不振から突然リストラが始まった
  • 女性活躍を支援する制度が充実している、と言われて入社したのに、先輩女性社員は産休・育休後に復帰するとマミートラックに配属されていて、意欲を失っている
  • 3年間現場を経験したら本社で企画の仕事ができる、と期待していたのに、5年目の異動でも現場から脱出できなかった

本人にとっては、「こういう機会、支援が組織から得られるはずだ」と思い、「その期待と引き換えにその組織に入社し、頑張ってきた」わけですが、その「得られるはず」のものが得られないために、「裏切られた」と感じるわけです。

こうした機会や支援、といった要素以外にも「約束」の裏切りは生じます。例えば、

  • テクノロジーを通じて社会正義を実現することにコミットしている会社だと思って入社したのに、軍と契約して自分たちが開発したテクノロジーを軍事目的に転用を始めた

みたいなケースです。最近、GoogleがAIをめぐって米軍と契約していたことに従業員が反発している、というニュースがありましたが、当事者の従業員はこういう心理ではないかと推測します。

このように、組織としての理念に共感して入社したのに、組織が理念に反するような行動をとった、というのも心理的契約違反になります。本人にとっては、「理念の実現に向けた大きな活動の一部」に自分はなれる、と思っていたのに、そうではなかった、「裏切られた!」というわけです。

こうした「裏切り」を、学術的には心理的契約違反と呼びます。こうした「裏切り」が個人に及ぼす影響については、組織研究者によって様々な研究が行われています。本稿の最後では、この点について議論します。

 

心理的契約違反(=裏切り)は個人にどんな影響を及ぼすか

この問いに対する自然な仮説は、心理的契約違反は個人の組織に対するネガティブな態度や、行動につながるのではないか?ということですよね。しかし、研究からは、「態度」についてはその通りなのですが、「行動」に関しては必ずしもそうではない、ということが示されています。

「態度」に関するわかりやすい例としては、組織に対する「愛着的なコミットメント」が低下し、「離職意向」が上昇します。この会社が好きだからこの組織のために頑張りたい、という気持ちが減り、「転職したい」という気持ちが高まるというわけです。

しかし、一方で、こうしたことが、そのまま組織に対するサボタージュや、実際の転職につながるかというと、そうでもありません。実証研究からの証拠を見る限り、「気持ちは下がるけど、行動までには至らないことも多い」というのが、せいぜいです。

この「行動には至らないことも多い」理由としては幾つかの説明が提唱されています。

まずは、「思い通りにいかないことがあったとしても、人は働いて、食べていかないといけない」ということです。組織が自分の期待通りに自分を扱ってくれないとしても、職場における自分の役割や責任は存在し、顧客の期待があり、給与をもらわないと自分は生きていけない。そうした意味で、多少心理的に組織に対してネガティブになることがあるとしても、行動までには直接至りにくいのではないか、ということです。

当然、ここからはさらに、「心理的契約違反が繰り返し続くと、行動に影響が出ることはあるのか」「どんな心理的契約違反だったら、行動に影響が出やすいのか」「人によって心理的契約違反が行動に影響するつながりやすいさの違いはあるのか」といった様々な問いが考えられ、それを世界中の研究者が色々と掘り下げているわけですが、そこについては、本稿では割愛します。

次が、そもそも、心理的契約違反は組織と個人の間での互いの期待値調整のプロセスなのだ、という考え方です。この考え方に則ると、「こんなはずじゃなかった」が起きるのは当然のことで、個人の側はそれを受けて、「そうか、この会社はこういう会社なのね」と期待値を調整するものだ、ということになります。

上で述べた通り、心理的契約は採用や最初の上司や同僚とのコミュニケーションで形成するものですし、あくまでも個人が勝手に心の中で作り上げるものです。ですから、経営者が本当に約束しようと思っていることとズレが生じるのは自然なこと、と言えます。また、上記のリストラの例のように、経営状況の変化から約束を作り直さなければならなくなる、というのも普通のことです。例えば、

  • 日本企業に入社して、日本で働いてくつもりだったのに、海外企業と合併して、外国人が自分の上司になった。英語で外国人と働くなんて、自分は期待してなかったのに・・・

みたいなケースは、個人が何を期待していようが、期待値調整をせざるをえない状況です。

この立場にたつと、心理的契約違反は必ずしもネガティブなものではなく、個人に適応の機会を提供する学びのチャンス、という風に捉えることもできます。もちろん、求められる程度が大きい場合には適応しきれない、ということも起こるはずですし、個人差もあるでしょう。

「心理的契約違反」という風に呼ぶと、人事、組織運営上、避けるべきもの、という風に考えてしまいがちです。しかし、これらの議論からの重要な示唆は、「心理的契約違反」は必ずしも「避けるべきもの」ではない、ということです。

当然、採用時点で嘘をついて、結果的に「裏切られた」と思わせることには百害あって一利なしです。

しかし、コミュニケーションには限界があること、また、組織が変化しなければならない場面があることを考えると、従業員が心理的に「裏切られた」と感じることはある程度、避けられない。だとすれば、そのあとの適応をどうやってうまく促すか、こそが問題だ、ということになります。