アカデミックキャリアを考える:なぜ博士課程の学生は、メンタルを病みやすいのか。

「博士課程学生はメンタルを病みやすい」という恐ろしいデータを示した記事を見つけました。

Why Are Ph.D. Students More Vulnerable to Psychiatric Disorders?

ちなみに、この記事の元になった研究はこちら。

Work organization and mental health problems in PhD students
(Levecque et al. 2017. Work organization and mental health problems in PhD students, Research Policy, Volume 46, Issue 4, Pages 868-879)

 

記事をかいつまんで翻訳&要約すると、

  • ある、ベルギーで行なわれた博士課程学生3000人以上を対象にした調査によると、「同じように高レベルの教育をうけたが、博士課程に参加していない人々」と比べて、2倍以上の頻度でメンタル疾患の症状を示していた
  • 具体的には、「憂鬱で不幸な気分を感じる」「常時ストレスを感じる」「考え事のために不眠、睡眠不足になる」「困難を乗り越えられないと感じる」「日々の活動を楽しめない」などなど。

ということです。筆者らによれば、あくまでもこれは相関ベースの研究なので、博士課程の学生が置かれた環境が彼らのメンタルに影響しているとは断言できないとのこと(メンタルを病んでいる学生のほうが、環境を悪く認知するかもしれないため)。

とはいえ、先行研究を見る限り、環境がメンタルの問題に少なからず影響することはよく知られているので、この調査結果は、少なからず「博士課程に所属すること」が、メンタルにはよくない影響がある、と示していると言えそうです。

 

さらに研究によれば、以下のような条件を満たしている学生は、相対的にメンタルの問題が生じにくいとのこと。

  • 知的刺激を受けるようなスーパーバイザー(指導教官)がいる
  • アカデミックなキャリアを歩もうという関心がある
  • 明確なキャリアプランがある

逆に言えば、

  • 指導教官から知的刺激が受けられない
  • アカデミックなキャリアに関心がない
  • キャリアプランが不確か

だと、メンタルの問題が生じやすい、ってことですね。まあ、そりゃそうでしょう。

指導教官の問題は深刻で、僕は幸い、指導教官二人から非常にいい刺激を受けて、今後も共同で研究ができそうな関係性を築けましたが、周りを見ていると必ずしもそうでもなさそうです。感覚的に言うと、ざっくり1/3くらいは、指導教官からあんまり刺激が得られないか、むしろ指導教官に足を引っ張られている、と感じている印象があります。

しかも、指導教官を変えることは相当な困難が伴うので、そうそう変えるわけにもいかず。途中で変えると新しい指導教官と研究の方向性ややり方についての考え方を揃えるのにえらく時間がかかるし、そもそも変えるための学内での交渉にも時間がかかるし、人間関係にも配慮がいるし、と一筋縄ではいかないのです。

なので、ここでハマるとメンタルを病みやすい、というのは想像がつきます。

LSEの場合は、学部内、また、学部を超えた全学レベルでその辺りを相談できる窓口がきちんと設けられてましたが、それでも、指導教官とのミスマッチの問題に直面すると、年単位で研究が滞り、卒業も遅れる(それに伴ってお金もかかる)というふうになりがちです。

 

また、キャリアの問題については以前に「過酷なアカポス(アカデミックポスト)市場の現状と、そこでの就職活動の実態」というポストで書きましたが、アカデミックキャリアの労働市場は、はっきり言ってかなりな無理ゲー状態ですので、キャリアについての悩みがストレスになる、というのも想像がつきやすいです。このことについては、ちょうど最近、日本でも新しい調査がでてました。

ポストドクターから大学教員への道険しく、文部科学省調べ (大学ジャーナル)

この研究の筆者たちも、以下のように書いてます。

Our findings also suggest that universities might benefit from offering PhD students clear and full information on job expectations and career prospects, both in and outside academia.

(日本語訳)
私たちの発見から示唆されるのは、博士課程学生に対して、卒業後の就職の見込みについて、アカデミック、それ以外(訳注:民間など)の両方の面で、明確かつ、十分な情報を提供することで、大学は(訳補足:メンタルを病む学生が減るという)メリットを得られるかもしれない、ということだ。

たしかに、全くおっしゃる通り。

ただ、博士学生を採り、指導する教授や准教授に、そこまで期待するのは構造的にかなり無理があると言わざるをえません。

そもそも、研究が好きでアカデミックに進み、アカデミックの人生を生きてきた人たちなわけで、それ以外のキャリアのことは視野にないし、そもそもよく知らない、という人も(社会人経験を経て学者になった、という人を除くと)多いかと。

さらに、彼ら、彼女らはアカデミックキャリアで成功した人で、どちらかといえば、博士学生に対しては、自分と同じようにアカデミックで成功してほしい、という期待を持ちがちです。なので、研究者として成功するためにどうするか、という指導は熱心にできたとしても(そういう善意の指導教官ばかりではありませんが)、「それ以外の人生もあるよ」とはなかなか勧めにくかろう、というふうに思います。まあ、率直に言えばダメだしすることになっちゃいますしね。

反面、学生の側からすると、↑にあるような「博士学生の就職きついよ」みたいな情報に触れるたびに「アカデミックで自分はやっていけるのか」「見切りをつけて、民間に就職したほうがいいのか」「でも、そうしたら、博士の意味がなくなってしまうんじゃないか」みたいなことが気になっているわけで。

なので、指導教官にキャリアの指導を任せると、学生側は情報不足のまま、自分の人生について不安が高まり、鬱々してしまう、という状況に得てしてなりがちなわけです。

LSEの場合は、キャリアセンターが博士課程の学生もターゲットにしており、アカデミック以外の進路についても様々な情報提供をしてました。広く自分のキャリアについて考えられるような説明会に博士課程の初期から参加できたり、アカデミックキャリアのこともよくわかっているキャリアカウンセラーに相談できたりします。また、実際にアカデミック、民間、公共セクターに就職した卒業生を読んでセミナーをやってたり、BCGやマッキンゼーからの博士学生をターゲットにしたセミナーもあったりするので、比較的恵まれていた、と言えるでしょう。

僕は正直言って、博士が終わった後のことが見えないままに4年も頑張るのは、人生上のリスクが高いと思うので、研究以外の人生も含めて自分の人生のことを早い段階から考える機会を設けて、アカデミックな世界における自分の実力と意欲を冷静にジャッジして、続けるなら徹底的にやる、やめるならスパッとやめる、という意思決定を促すべきだと思ってます。

日本の大学が、この辺りをどうしているかはよくわかりませんが。

 

と、いうわけで、表題の「なぜ博士課程の学生は、メンタルを病みやすいのか。」という問いに関しては、

  • 研究上、指導教官との関係性、指導教官からの研究上の刺激が重要な一方、残念な指導教官に当たってしまったり、関係性が悪化すると逃げ場がなくなりがち。
  • 博士課程の学生は、労働市場の構造上、将来が不安定になりがちで、なおかつ、それに対して広い視野と情報を持って(アカデミックキャリアではない道を選択することも含めて)対策を考えられるようにする支援体制が不足しがち。特に、指導教官だけだと不十分になりやすい

という二つの構造的な要因がある、と思われます。

すくなくとも、前者についてはなかなか対策が困難ですが(会社の上司も似たようなところがありますしね)、後者については、キャリアセンターなどが関与する体制にしていくのが大事であろうなあ、と思ってます。

 

 

なぜ30代後半からロンドンで博士課程に進み、そして今、中国のビジネススクールなのか(1)。

先日、イギリス留学から中国の大学に就職する(その1)ビザ獲得への長い道のりというポストで、いよいよ中国での仕事が始まるかと思いきや、ビザの獲得で右往左往してる、という話を書きました。本来であれば、先日、就労許可取得のためにサインした契約書によれば、明日(8/1)が雇用スタート日なので、すでに中国についていないとおかしいわけですが、未だにビザは取れておらず、ロンドンにおります。

振り返ってみると博士課程への出願を真剣に準備していた2012年にはリクルートにまだ在籍しており、30代(38歳)だったわけですが、今年の10月には43際になろうとしております。なので、40歳を挟んだ5年かけて、「日本でそれなりに大きな企業に勤める会社員」から、「独立コンサルタント」かつ「博士課程の学生」を経て、「中国のビジネススクールのアシスタントプロフェッサー」へとキャリアチェンジをした、ということになります。今回のポストの狙いは、なぜそもそもこういうことをやろうと思ったのか、ということについて、一度ちゃんとまとめておくことです。

本稿では第1弾として、博士課程進学までに何を考えてたか、というところをまとめます。大きなキーワードは、「長い人生の中盤戦」「戦略論で考えるキャリア選択」の2つです。


長い人生の中盤戦


 

個人的にはこのキャリアチェンジは、おそらく75歳くらいまでは働き続けるであろう人生の第2ラウンドのスタートだと考えています。

75歳までは働き続けるであろう、という想定については、すでにいろいろなところで様々な方が議論されてますので多くを議論する必要は無いでしょう。(1) 日本に限らず先進国どこにいようと年金支給年齢は遅くなるばかり、(2) 健康であれば、それくらいまでは働けそう(実際、父は72歳ですが、ペースは落としつつも現役ですし)という点と、これが僕にとっては大事ですが、(3) 働かないと退屈、ということが背景にあります。(3)については、人によって考えが別れるところだと思いますが、僕は、毎日面白い問題に挑戦して、それなりに世の中なり誰かの役にたっている、という実感があることが自己満足として大事だと思ってます。

75歳を一旦のゴールにおくと、僕は23歳から働き始めましたのでざっくり75-23=52年くらいは働き続けるわけです。で、40歳がちょうど1/3が過ぎたところにあたります。ですから、今がちょうど、人生を3つに分けると序盤戦が終わったところ、そして、40歳から55-57歳くらいまでが中盤戦、そして、それ以降は終盤戦に挑む、ということになります。

序盤戦は、リクルートでしゃかりきになって働き、自分なりに何かのプロになることを目指して走っていた、という時期です。コンサルタントとして、周囲の同僚や先輩と差別化された強みを持つこと、顧客から信頼され先方からお声がかかる状態になること、そして、組織内でひとかどの人材として認知されること、この辺りがゴールでした。幸い、30代中盤から37歳ごろにかけて、それなりにこれらのゴールは達成できていた実感がありました。コンサルタントとして充実したお仕事をし、リクルート外からの魅力的なお誘いを頂戴する機会もあったりと、それなりに自分のプロフェッショナルとしての価値に自信が持てていた訳です。

ただし、中盤戦ということを考えると、このままずーっとコンサルタントでやっていくのか、というのは疑問ではありました。まず、序盤戦で培った知恵と経験が活かせるとはいえ、中盤戦では中年を過ぎて体力が落ちていくことは間違いない訳で、コンサルタントという働き方には多少の無理が来るだろうなあ、という予感がありました。その上で、終盤戦にどう働きたいだろうか?と考えてみると、「研究」というのが浮き上がりました。

というのも、もともと研究に携わりたい、という欲求が昔からあったのです。今考えると何だそれ、という話ですが、実は小学生の卒業作文には、「僕の家系はみんなハゲだ。だから僕は毛生え薬を研究して、それでノーベル賞を取る」という、というトンデモ野望を書いてました(笑)。また、リクルートの中でも、ワークス研究所に2年所属し、その後もコンサルティングの傍で研究や調査にはずっと携わってきており、個人的にはコンサルティングよりも研究のほうが楽しいかも、と感じていたのです。ここから、アカデミック(大学)へのキャリアチェンジは、常に頭の片隅にありました。

しかし、ここで問題になるのが、資格です。実際に大学でちゃんと教授になろうとしたらPhD(博士号)が必要なので、人生のどこかでPhDの取得に時間を投資する必要がある訳です。確かに、日本にはプロフェッショナルとしての経験をもとにPhDなしでビジネススクールや経営学部に教授として転身される人たちもいます(官僚やコンサル、金融出身者など)。が、海外の大学を見れば基本的にはPhDは必須条件な訳です。そして、世の中には大学の国際的なランキングがあり、トップクラスの大学は世界レベルで競争しあっている。そう考えれば、ゆくゆく、日本においてもPhDを持っていないとアカデミックな世界でポジションが得にくくなるのは自明のように思われました。

また、どうせ新しい分野にチャレンジするなら、海外の大学で教員としてのキャリアをスタートするくらいのことまで視野に入れたほうが面白いだろう、とも思ったのです。終盤戦を視野に入れているにせよ、まだ中盤戦は始まったばかり。そう考えると、ストレッチした挑戦をしない理由はありません。体力もまだまだあるわけだし。また、大きな高望みをして始めれば、うまくいかなくてもそれなりに落ち着くだろうし、うまくいけば上々だし、という考えです。そう考えると、世界的に評価の高い大学でPhDをとることが、第一ステップになります。

と、いう訳で、終盤戦に「教育と研究にじっくり携わる」ということを前提に、キャリアの中盤戦を始めるにあたって、「体力があるうちに、アカデミックキャリアへの入場券であるPhDをとる」ことと、「どうせやるならグローバルのステージでそれに挑戦してみる」ということに賭けてみるか、と思った訳です。

 


戦略論で考えるキャリア選択


こうした長期の人生プランの一部としてのキャリアを考えた一方で、もう一つ、考えていたのは、戦略としてこの選択はどれくらい筋がいいのだろうか?ということです。結論としては、賭けではあるものの、それなりに勝算があるだろう、と判断しました。

戦略論には「ポジショニング学派」と「リソース学派」という大きな2つの潮流がありますが、その観点で考えたわけです。ポジショニング学派は、マイケル・ポーターに代表されるような、「自分がエントリーする市場において、どう独自の価値があり、競合と差別化されたポジションを確保するのか」と考えるアプローチですね。それに対して、リソース学派は、「どのようにして競合が模倣できない、価値ある独自の資源を構築するか」という風に考えるアプローチです。これをキャリアに当てはめて、「人生の序盤戦で培ったリソース(経験や貯金)」を元に、「どんなリソースを足せば次の展開が見えるか」を、「市場でどう、独自のポジションを取るか」をにらみながら考えた、というわけです。

まず、アカデミック市場におけるポジショニングを考える上では、2012年の夏に行った、ある海外学会での経験が大きく影響しました。修士論文でやった研究をもとに、当時の指導教官(が、その後の博士課程の指導教官にもなるわけですが)だった、Dr. Hyun-Jung Leeと一緒に学会論文を書き、それをAcademy of International Businessの学会に応募したのです。これが無事採択されまして、幸いリクルートから仕事として学会に出張してきてよし、という寛大なサポートももらえましたのでワシントンDCに出張し、初の学会発表に挑んだのでした。その際に、自分の研究に対する他の研究者からの質問やコメントに返答したり、他の研究者の発表に質問やコメントをしたりするなかで、「結構通用するな」という実感がありました。自分の英語でも通用する、また、中身についても研究者同士の議論にちゃんと入っていける、ということです。

そこから、社会人人生の序盤戦で培った「日本での人事、組織に関する実務経験」というリソースに、「英語で研究し、授業ができる」というリソースを組み合わせれば、それなりに独自のポジションを取りに行けるのでは?と考えたわけです。

日本の大学全体は上述の通り、少子高齢化で大学生人数が減りますから、かなり厳しい市場です。国としての研究予算も先細りがちだし。一方で、ビジネススクールだけみると、企業向けの幹部(候補)教育のジャンルは大にぎわいです。幹部候補をグローバル競争の中で活躍できる人材にどう育てるか、というのは、重要なテーマになっており、海外の大学とのネットワークをもとに、国際的な教員チームでその課題に応えられる国内のビジネススクールに企業からのニーズが集まっているのです。リクルート在籍中に、某有名私大のビジネススクールでそういう案件を企画実行するポジションのお誘いをいただいたこともあり、ニーズを実感してました。

ただ、正直言って、国内の市場を超えた、海外の市場がどうなのか、というのは考えてませんでした。今から後知恵で考えると、新興国に目を向ければ、高等教育のニーズは拡大基調です(若者が多いのと、大学進学率が上がっているので)。一方、博士課程卒業者は増え続けているので、「拡大基調ではあるものの、競争が過酷」な市場だと言えそうです(これについては、過酷なアカポス(アカデミックポスト)市場の現状と、そこでの就職活動の実態で詳しく書きました)。まあ、こちらについては、「海外の一流大学でPhDとっておけば、何か道が開けるんじゃないか」くらいの妄想で突き進んだ、と言っていいでしょう。まあ、結果的には、現状だけ見ればうまくいっている感じですが・・・・

加えて、リソースという観点では、知り合いのつてをたどって、一ッ橋大学や慶応大学、早稲田大学の教員に何人かお会いし、実際問題、40歳手前から博士をやるって通用するのか、また、やるなら海外がいいのか日本がいいのかなどをヒアリングしました。

この過程で、実務家からPhDをとりアカデミックに転身をする過程にいた先達にお会いできたことは、今考えると、実にラッキーでした。早稲田大学ビジネススクールの池上教授(僕がお会いした当時は准教授で、一ッ橋で博士課程中でした)や、同志社大学の客員教授でフランス国立労働経済社会研究所客員研究員もやっておられる山内麻里さん(当時、慶応大学で博士取得された直後)などは、今でも研究やキャリア選択について時々お話しする機会があり、博士課程を始める前のタイミングでご縁が作れたのは、実に運が良かったな、と今、振り返ると思います。この方々にお会いして、なるほど、実際にやっている人もいるのね、というのが見えてきました。

また、日本と海外の大学どちらがいいか、という点については、「日本の大学はかなりフレキシブルにやれるので、働きながらPhDを取得可能」が、「海外大学ではそうはいかないが、アカデミックなトレーニングという面での質は高い」ということです。特に、データを集め、分析する、という部分のスキルに関しては、欧米の博士課程の訓練を受けたほうが有利だろう、ということでした。また、「実際に就職することを考えたら、卒業までに論文を学会誌に発表しておく」ことが重要である、という今考えると非常に重要なアドバイスももらいました。

これらの情報を元に、海外でのアカデミックキャリアも視野に、欧米のトップスクールの博士課程に応募する、そこできちっと訓練を受けて、論文もその間に発表する、という具体的な方針が定まりました(結果的に、博士進学前から論文執筆に取り組んで、無事博士課程2年目に、国際ジャーナルに論文を発表できたのは、その後の就職活動で重要なリソースになりました)。その上で、いろんな大学に出願し、結果的に古巣のLSEだけで合格がもらえたので、LSEに進学することにしたわけです(アメリカなどの他の応募は全滅でした)。

もちろん、会社を辞めて海外へ、というのは、資金面ではかなりタフな選択でした。幸い、リクルートでの持株を売却したお金や、早期退職金の資金が期待できたので、よし、これは一発賭けてみよう、という決意に至ったわけです(実際には、幸い、何社かのお客さんからお声がけをいただいて、個人でコンサルティングの仕事を一部続けることもできたので、それもかなり資金面での支えになりました)。

 

と、いうところで、長くなりましたが第1弾はここまでにします。第2弾では、なぜ中国交通大学にしたのか、という部分についてまとめておこうと思います。

組織の「約束破り」に対して、個人はどう対処するのか

さて、社会交換理論に関する連載も第4回目です。

第1回目では、組織における様々な人間関係が交換で捉えることができること、第2回目には交換にもいろんなパターンがあること、そして、第3回目では、交換に関する世界共通の「規範」があり、受けた恩に報いることは多くの社会で望ましい行動だと考えられている、ということをご紹介しました。

第1回: 世の中は交換で回っている。

第2回: 職場における「恩に報いる」を科学する。

第3回: 「交換」に関する考え方は世界共通?

さて、今回は組織と個人の間の交換に注目して、組織が個人の期待を裏切ると何が起きるのか、というテーマについて検討します。まずは、日本における組織と個人の交換関係において、何が交換されているのか、について考えてみたいと思います。

 


「日本における組織−個人交換関係」


 

組織と個人の交換関係は重層的で、いわゆる「交渉型」交換と、「報恩型」交換の両方の要素を含んでいます(交渉型交換と報恩型交換については第2回をごらんください)。

交渉型交換としては、「どんな仕事を担当し、どんなアウトプットを出せば、どんな報酬や処遇が得られるか」について、組織(を代表する人事や管理職)と応募者が交渉し、合意することがそれに当たります。

日本の新卒採用の場合、「新卒」という一つの集団として採用されるケースが多いので、採用の時点で入社後に担う仕事内容や、報酬について個人レベルでの交渉が行われることは稀です。(もちろん、企業によっては、特殊な能力を持つ人材を採用するためには、新卒であろうと職務内容や報酬面で個別の交渉も辞さない、というケースもあるでしょうが・・・)。

一方で、中途入社、特にそれなりに経験を積んだプロフェッショナルな人材を採用するケースは、双方にかなり期待が明確にあるでしょうから、交渉を通じて握る要素がそれなりにありそうです。

採用する企業側は「どんな役割を担ってほしい」「どんな成果をあげてほしい」という期待が明確にあるはずですし、応募するプロフェッショナルの側も「自分にはこういう経験があり、こういうことができる。逆に、こういうことは自分の得意領域ではないが問題ないか」という風に期待値を調整する会話が行われることが一般的でしょう。またそれに対応して、報酬やその他の条件についても、かなり明示的な会話が行われ、双方の交渉で細部を詰める、ということは珍しくないはずです。

私自身も、過去にある外資系企業の人事部門のビジネスパートナー(事業部門にコンサルタント的に入っていき、組織開発をする仕事でした)としてお誘いいただいた際に、先方から明確に「この仕事はピープルマネジメントのポジションではない(=部下がつく、いわゆる管理職パスではない)が問題ないか」と言われ、「いや、僕は人のマネジメントは得意分野じゃないので、その方がいいです」という会話をした記憶があります。

もちろん、交渉の余地があるかどうかは双方の交渉力に依存しています。が、ここでのポイントは、明確に条件(給与やその他の待遇)と、貢献内容(職務の範囲や求められる成果)を双方が合意している、という点です。

ただし、組織と個人の関係は交渉で明確にできる要素だけではありません。もっとはっきりしない、言語化されない双方の期待が存在します。

例えば、典型的な日本企業の正社員の場合、「真面目に勤めて、就業規則を守っていれば、そうそう簡単に解雇はされないはずだ」という期待が従業員側にはあるでしょう。また、「組織から求められた成果を順当に上げていけば、ある程度の年齢で管理職になれて、それなりに収入が増えていくだろう」というのも、多くの人が暗黙的に組織に期待する約束だ、と言えます(これが現実的な期待かどうか、というのはさておき、伝統的な日本企業に正社員として勤める際に、こういう期待を持つ人が多いのは今でもある程度当てはまるかと思います)。

では、こうしたメリット(安定的な雇用と、内部昇進の機会、勤続に伴う給与増)と引き換えに、個人は何を(交渉を経ずに)組織に約束してきたのでしょうか?

伝統的な日本企業の正社員について言えば、「残業も厭わず頑張って働く」し、「自分の業務に直接関係ないことでも、組織運営上の行事(例えば飲み会や、社員旅行)には参加する」「異動や転勤を言い渡されたら、基本的には受けいれる」、すなわち「組織の命に忠実な正社員としての振る舞い」が、個人が組織に対して暗黙的に「約束」してきたことなののではないかと思います(もちろん、これらが時代とともに徐々に変化しているのは言うまでもありませんが)。

ですから、ある種のステレオタイプであることを承知で簡単に表現すると、日本の伝統的な企業における個人と組織の暗黙的な約束は、組織が個人を「長期的に面倒を見る」ことに対して、個人が「組織に対して忠実に勤める」ことだった、と言えます(このあたりの議論については、「日本企業の心理的契約」(服部泰宏著、2011年、白桃書房)が詳しいです)。

当然、ここにはばらつきがあります。企業により雇用に関する考え方が違い、それに伴って暗黙的な期待の醸成のされ方も違います(例えば、私の古巣のリクルートは、個人は自分のキャリアは自分で面倒見るもの、リクルートが合わなくなったら自分から去るもの、というふうな雰囲気があり、多くの人がそれを当然だと見なしていたと思います)。また、同じ組織の中に、雇用形態によって個人が組織に対して抱く期待は異なってくるのが自然ですし、さらに言えば、同じ組織、雇用形態でも、個人の性格によって、期待の形成の仕方が違う、ということも知られています。相手を信頼しやすい人もいれば、慎重な人もいる、というわけです。このこからは、暗黙的な期待は、個人が(自分なりの状況観測がもとになっているとはいえ)ある種、勝手かつ主観的に「約束だ」と認識しているものだ、とも言えるでしょう。

 


「約束」が破られると何が起きるのか


 

個人の間で「約束が破られる」ことが珍しくないように、個人と組織の間での約束(暗黙的なものも含む)が破られることも、珍しいことではありません。

例えば、「安定的な雇用と、内部昇進の機会、勤続に伴う給与増」が約束されている、と考えてきたのに、入社して何年か経つと、「何年経っても給与が上がらず、昇進については上が詰まっているせいでいつまでたっても機会がない」現実に直面する、といったケースは典型的な、「約束が破られた」ケースだと言っていいでしょう。

また、入社する段階では、「育児支援が充実していて、男性も積極的に育児休暇を取ることが奨励されている」と期待していたのに、実際に休暇を取ろうとすると「お前、休暇とか言っている場合か?プロジェクトはどうするんだ?」というふうに上司から言われた、と言ったケースも、「約束が破られる」に当てはまります。

このように、暗黙的な約束にせよ、明示的な約束にせよ、組織と個人との約束が破られたように個人が感じる場面は、少なからず存在するわけです。

こうした「約束破り」は、個人の心理に大きな影響を及ぼします。先行研究からは、「職務満足」「コミットメント」が下がり「離職意図」が上がることが、おしなべて示されています。また、組織に対する信頼も低下することもわかっています。

興味深いのは、過去の職場でそうした「約束破り」を経験した人は、次の職場に転職した際にも、企業をなかなか信用せず、明示的に交渉された役割と報酬だけを「約束」と見なして、それ以上の組織貢献をしようとしなくなる傾向がある、ということです。

裏切りは、人を慎重にする、ということかもしれませんね。

ただし、こうした「職務満足」や「コミットメント」の低下と、「離職意図」の上昇といった、「心理面」での悪影響が、実際の「行動」にどれくらい影響を与えるか、というと、実はあまり大したことがない、ということも同時にわかっています。多くの研究の結果を横断的に統合して再分析するメタアナリシス、という手法で分析した結果からは、「約束破り」を経験した人は、そうでない人に比べて、実際に離職しやすく、組織に貢献する行動をしない傾向があることがわかっています。ただし、心理に及ぼす悪影響に比べると、行動に及ぼす影響は比較的、軽微だ、ということも同時にわかっています。

これはどういうことでしょうか?

一つ考えられるのは、「人はそれでも生きていかないといけない」ということでしょう。つまり、組織に裏切られたと感じ、組織に対する信頼を失っても、個人はお金を稼いで生活していく必要があるわけで、簡単に組織を去ったり、組織内での自分のパフォーマンスを落とすわけにはいかないわけです。様々な事情から、組織らかは裏切られたけども、組織内に踏みとどまる、という行動を取ることは、十分に合理的な判断だと思えます。

組織から去るわけにはいかないし、パフォーマンスを落とせない。では、どうするか。研究からは、個人は「裏切られた」という気持ちを行動に反映する代わりに、自分が持つ組織に対する期待を調整しなおすことが多い、ということがわかっています。

これは、友人、知人関係でもあることですよね。「こんな奴だとは思わなかった」という経験を経て、相手への期待を調整しなおして、「あいつはそういう奴だと思って付き合う」に落ち着く、という。

特に、「暗黙の期待」に関しては、(極論すれば)自分が勝手に思い込んでいた、という話ですから自分の相手に対する期待を見直せばいいわけです。

組織を取り巻く環境も、個人を取り巻く環境も時間とともに変化するわけで、暗黙的な約束にせよ、明示的な約束にせよ、いつまでも無条件で守り続ける、というのはあまり現実的ではありません。また、そもそも、暗黙的な期待は、個人が採用担当者や上司、先輩から聞いたことなどをもとに自分の中で形成するものですから、それが100%守られるということは、そもそもあまり期待しにくい性質のものです。

ただ、明示的に議論できる部分は、状況の変化に応じてオープンに議論すれば良いわけですが、暗黙的な期待は、明確に言葉になっていないし、お互いの公式な合意もありませんから、そうはいきません。

そういう意味では、「約束破り」は、時間をかけて互いの期待値を調整する機能を担っている、とも言えるでしょう。組織への信頼を一気に失わせてしまうような大きな約束破りは、そのまま関係性の破綻につながりかねませんが、ちょっとした約束破りは、組織と個人の間の関係性構築のプロセスで相互理解を深めるための不可避のコスト、と考えたほうがいいのかもしれません。

海外拠点における「全部言わないと伝わらない」問題を巡る議論。

昨日の飲み会の話です。

一昨日、LSEで修士を同じ時期にやって、その後、シリコンバレーのインターネット系の某社の日本オフィスからシリコンバレーの本社というキャリアを歩んでいるN君(同社のロンドンオフィスに出張で来英中)と飲んだのですが、その際に、彼が翌日、大学生時代にお世話になった、今は日本で飛ぶ鳥を落とす勢いのインターネット系の某社のイギリス拠点で幹部をやっておられるTさんと飲む、という話を聞きつけまして、最近のインターネット業界の国際展開、その現場の実情について垣間見る貴重な機会だ、と思い、急遽、参戦させてもらったのでした。

夕方の6時半くらいからスタートして、実に11時半までN君の人生相談(彼だけTさんと僕より10歳以上若いので)から、両社のプロダクト系の組織運営のあり方まで、多岐にわたる議論で非常にご機嫌な飲み会だったのですが。

その中で、議論になったのが、表題の「全部言わないと伝わらない」問題です。

これは、僕が知る限り、イギリスやアメリカ、中国などへの赴任経験のある方にはおなじみのトピックなのですが。そして、多分他の地域でも似たようなことは起こりがちだと思います。どういうことかというと、

日本人赴任者が、現地の部下に何か仕事を任せたり、目標設定をする際に、日本であれば「これで伝わるだろう」という話し方では、全く相手が納得せず、「伝えたいこと」の背景にある、「会社の方針」「組織の現状」「今それが重要な理由は何か」「それを実現することでどんな意味があると考えているのか」「(他の人にではなく)その部下に任せる理由は何か」といった、背景・文脈状況を個別具体的に、毎度毎度説明しないといけない。

という現象です。

実はこの現象を僕が認識したのは、2011年に修士論文のために中国とイギリスで日系企業の赴任者と、現地従業員にインタビューした時が最初でした。そのインタビューからは、「全部話す」コミュニケーションが必要だ、ということを早期に認識し、自分のコミュニケーションスタイルを見直した赴任者は、比較的、現地のメンバーにリーダーシップを発揮しやすく、逆に、この点をいつまでたっても変えず、日本流のコミュニケーションを行っている方は、得てして部下を引っ張りきれず、成果が上がりにくい傾向がある、という傾向が浮かび上がってきました。

その後、様々な企業の日本人赴任者の方とお話しをする機会があった際に、時々聞いてみるようにしているのですが、僕が聞いている限り、これは、日本人赴任者が海外が直面する主要課題の一つ、と言っていいと思います。金融、電器メーカー、システム開発など、業界を問わない点が大きな特長です。

 


ハイコンテキスト文化な日本


これは、比較文化論における「ハイコンテキスト vs. ローコンテキスト」という考え方と密接に結びついています。

日本のコミュニケーションには、「お互いに言いたいことを全部必ずしも表現しない」「聞き手は、(前後の状況や、相手が誰なのか、話の流れなどから)表現されていない意図を推測しようとする」という点に特徴があります。

まさにこのコミュニケーションの特徴を象徴的に表すものとして、「空気読めよ」というものがあります。集団の中で、特にだれも言葉にしていない、でも、みんなが共有していると思っている雰囲気や暗黙のルール、会話の方向 ・・・ そうしたものを読み取れないと、「空気が読めない」と言われてしまうわけです。

別の例としては、「考えておきますね」というのがあります。例えば、顧客と営業の間の会話で、営業からの提案に対して、顧客が「考えておきますね」といった時の意図は何でしょうか?

とりあえずその場ですぐに「あ、いらないです」と断るのも角が立つので、とりあえず「考えておきますね」とやんわり会話を終わらせただけで、実は考える気はない

のか、それとも、

なかなかいい提案だと思っているが、いますぐ決断できないので、「考えておきますね」と文字通りの意図で言った

のか。どちらでも状況と雰囲気によってありえます(前者が多そうな気もしますが)。営業担当としては、本当のところはどう考えているんだろう、というのを、その顧客のいつもの行動や、表情、会話の流れなどから判断する、というわけです。

僕はこうしたことが苦手で、リクルート時代は先輩たちから「吉川は空気が読めない」といつも指摘されていました。先輩たちから、「いいか、お客さんと話すときは、お客さんが何を話してるか、だけじゃなくて、なぜお客さんがそういうことを言うのか、お客さんが社内でどんな状況に置かれているのか、そっちを考えろ」と良く言われたものです。「口に出してくれたらわかるのに」と思ってもダメなわけで、お客さんが言葉にしないところまで読み取って話せ、というわけです(諸先輩の指導のおかげで、多少はましになりましたが、残念ながら、今でも僕は日本人としてはできが悪いと思います)。

こうした傾向は、どうやらかなり古くから日本にはあるようです。日本の伝統芸能の世界では「皆まで言うのは野暮(=全部あからさまに話をしてしまうのは粋ではない)」といった感覚があるという話を聞いたことがあります。また、「あうんの呼吸」ということわざにも、全て言わなくても通じるのが良いことだ、という感覚が表れています。

このように、「言いたいことを全て言わない」「それでも聞き手が状況に応じて読み取る」というコミュニケーションの特徴を持つ文化を「ハイコンテキスト文化」と言います。コンテキストとは文脈、すなわちコミュニケーションを取り巻く周囲の状況のことを指します。言い換えれば、ハイコンテキスト文化とは、表現されたこと(=コンテンツ)の意味解釈が、前後や周囲の状況(=コンテキスト)に依存している傾向が強い文化だ、ということになります。

逆に、原則的に「言いたいことは口に出して表現する」「聞き手は、言葉として表現されたものが話しての意図だ、と受け取る」という傾向がある文化を「ローコンテキスト文化」と言います。こうした文化では、表現されたことだけで(逆に言えば聞き手の状況理解に頼らず)意図が分かるようにコミュニケーションがなされる傾向があります。

世界的に見ると、日本は、最高水準でハイコンテキストな文化だと考えられています。ちなみに、ローコンテキストな文化の例には、ドイツ、アメリカなどがよく挙げられます。イギリスはアメリカ人やドイツ人から見ると、「思ったことを口にしない」ように見えるようですが、日本に比べると、そうは言ってもローコンテキストな文化だ、というのが一般的な見方です。確かに、イギリスの高等教育におけるスピーチやエッセーの訓練には、「文脈が共有できていない相手にいかに効果的に意図を伝えるか」という要素がかなり強くあります。

 


日本における上司と部下の会話


このようなハイコンテキストスタイルは、日本における上司、部下関係においても広く見られます。具体的に言えば、上司は、部下に仕事を任せたり目標を設定する際に、細々と背景や状況を説明したりしませんし、逆に言えば、そういう説明がなくても、指示の裏に隠れている上司の意図や、組織的な事情を察せる人が「あいつは組織がよく見えている」というふうに評価されたりします。

このことは、日本の組織運用の特徴である、新卒採用 => 長期雇用とも関係しています。同じ会社に長い期間在籍することで、組織のさまざまな人と人間関係を構築し、組織の歴史を知り、どのように意思決定が行われ、仕事が回っていくのか、ということを学ぶことで、「皆まで言わなくてもわかる」ように、個人は育っていくわけです。

これは、ある意味非常に効率的です。もちろん、組織の「空気」を学んでもらう必要がありますからそれには時間がかかりますが、一度その空気に馴染んでしまえば、「全部言わなくてもわかる」人になってくれるわけで、管理職にとっては非常に楽です。

逆に、中途採用で新しい職場に入ると、スキル的には十分即戦力で機能するはずの人でも、実力を出し切れない、といった例をよく聞きます。この背景には、こうした「言葉にならない組織内の空気」を知らないこと、が一因になっているのではないか、と私は思っています。

 


”ハイコンテキスト” meets ”ローコンテキスト”


ある意味、日本の組織運営は管理職から見ると非常に効率的です。あまり多くを語らなくても、部下が職場の状況や上司の意図を察して自分から動いてくれるわけで、こんなに効率のいいことはありません。

ただし、これに慣れている日本の管理職は、海外で、日本よりもローコンテキストな社会で育ち、なおかつ、日本の組織の空気(=コンテキスト)を知らない部下に直面すると、大きな壁にぶつかることになります。

日本と同じように「あまり多くを語らない」スタイルでやってしまうと、相手は「よく分からない」からです。相手は、「言葉として語られない意図を、コンテキストをもとに解釈しなければいけない」ということをよく理解できませんし、さらに言えば、解釈のために必要なコンテキストを知らないわけですから、管理職の「言葉になっていない意図」を理解できるはずがありません。

大学時代からイギリスで学んだ経験があり、アメリカで仕事をしているN君はこのことを、「日本では、聞き手が相手の意図を解釈して読み取る責任がある」のに対して、「アメリカやイギリスでは、話し手が相手に伝わるように話す責任がある」のだ、つまり、「聞き手責任」vs. 「話し手責任」という点に、根本的な違いがある、と言ってました。確かに言いえて妙です。

日本のコミュニケーションに慣れている管理職は、言葉少なく語っても、「相手が理解してくれるはずだ」と自然に考えています。そして、相手が理解できないと、「なぜ分からないんだ」と憤ってしまうことすらあります。

しかし、逆に、そうしたハイコンテキストコミュニケーションに慣れていない現地の従業員は、原則的に「管理職が自分にわかるように全部ちゃんと説明してくれるはずだ」「言葉で言っていないことは、分からない」と自然に思っている傾向があります。逆に、管理職が言葉少なに話し、自分が納得できる説明をしてくれないと「この管理職は、自分をちゃんと扱ってくれない」と感じてしまうことすら起こりえます。

言ってしまえば双方の前提が違う、ので、すれ違う、という典型的な異文化コミュニケーション問題なのですが、これに対しては、どのように対策すればいいでしょうか?

最初の話に戻りますが、管理職の側としては、まさに「全部を話す」必要があります。相手が自分の言いたいことを理解できるよう、前提を言葉に出して話す、ということです。例えば、新たに仕事を任せる場合であれば、「事業や組織の状況」や、「これまでこんな風に取り組んできて、今度はこうするのだ、そしてその先にはこれを狙っている」といった時系列でのシナリオ、さらには、「なぜ(他の人ではなく)あなたに任せるのか」といったことまで話す必要がある、と考えたほうが安全です。

また、定期的に、グループや部で会合を開き、「上位組織の方針」「グループや部の方針」「最近の進捗状況(何を達成できたか)」「次の課題(何に取り組むべきか)」「体制(誰が何をやるか)」といったことを、改めて管理職から言語化して話し、全員で共有する場を持つ、というもの効果的です。

上記のインタビューで伺った、ある日系金融機関で働くイギリス人によると、「私はイギリス企業でもフランス企業でも働いたことがあるが、そういう、みんなで戦略を共有する場を持たないのは、この日本企業が初めてだ。みんなで理解を共通にする重要な場なのに、なぜそれをやらないのか理解できない」ということでした。逆に、この話を日本人赴任者にすると、「日頃の会話で端々に触れて話をしているのだから、わかっているはずだ。改めてわざわざそんな場が必要な理由がよく分からない」というのが一般的な反応です。私見ですが、ここにも典型的なローコンテキストとハイコンテキストの文化の違いが表れているように思います。

もちろん、永遠に、誰にでもこれをやり続けなければいけないのか、というと、おそらく違うでしょう。長年、勤めている幹部であれば、組織のコンテキストを徐々に理解していくはずですから、次第にこうしたコミュニケーションの必要性は下がっていくと考えられます。また、個人差ももちろんあります。相対的に空気が読める、という人も、海外拠点の人材の中にいるかもしれません。

しかし、大前提として、日本のような長期雇用の組織ではない、そして、社会全体として「空気を読む」「阿吽の呼吸」ということを重視する社会ではない、と考えると、基本的には「全部話す」必要がある、ということを理解しておくことが重要だと思われます。

 


”ハイコンテキスト” meets ”ハイコンテキスト”


最後に、ハイコンテキスト文化の出身者が、違うハイコンテキスト出身者と話すときはどうなのか、という点が残っています。

例えば、中国はハイコンテキスト社会だと言われていて、中国人同士で話しているときは、どうやらハイコンテキストな傾向があるようです。では、日本人が中国に赴任した時については、どうすればいいのでしょうか?

私がインタビューで調べた限りでは、やはりローコンテキストにする必要があるようです。中国の現地従業員から日本人赴任者について「もっと明確に意図を伝えて欲しい」「何を考えているか、よく分からない」という声を多く聞きましたし、日本人赴任者からも、「日本よりもはるかに何でも明確にしないと、中国の従業員は納得しないし動かない」という声を聞いています。

N君のシリコンバレーの職場の同僚は多くが中国人だそうですが、彼らとは完璧にローコンテキストでやり取りしている、とのことでした(ただし、中国人同士の中国語での会話にはうかがい知れない部分がある、とも言ってましたが・・・)。

さらに、これに関連して、最近行った中国のある日系企業の拠点での調査でも、「日本人上司のコミュニケーションの明確さ(意図を明確に話しているか)」と、「中国人部下から上司に対する信頼」の間には明確な相関がみられました。「全部言う」ことの重要性がここからも見えています。

実は、こうした、”ハイコンテキスト” meets ”ハイコンテキスト”の場合に何が起きるのか、という点については、ほとんど研究がありません。おそらく、比較文化研究を引っ張ってきたのが欧米の研究者のため、自然に、ハイコンテキスト vs. ローコンテキストがテーマとして研究されやすかったのだと思われます。上記のインタビューや調査などをもとに、これから論文にまとめていこうと思っていますので、また、改めて書こうと思います。

イギリス留学から中国の大学に就職する(その1)ビザ獲得への長い道のり

いよいよアカデミックポストに就職です。これから中国の大学に勤めることになるので、その顛末をご紹介していこうと思います。たぶん続きそうなので、(その1)としてます。今回は、ビザのお話です。現在、ビザの取得にえらい手間がかかっておりまして、半分愚痴、半分は今後、同じようなことをする人のための参考のためにまとめておこうかと。

各論に入る前に、背景を少々ご紹介しておくと。先日博士課程が終了しまして、無事、経営学博士になりました(LSEの手続きのため、正式に学位証明がもらえるのはもう少し先ですが)。その後の進路としては、中国の上海交通大学の安泰経管学院(同大学のビジネススクール)にて、Assistant Professor(日本だと専任講師相当?)の就職が決まっておりまして、8月から中国で働きます。ポジションはテニュアトラックで、期間は一旦4年、更新の可能性あり、という感じです。

上海交通大学 安泰経管学院上海交通大学 安泰経管学院

まあ、中国の大学に決めた理由、また、決まるまでの経緯についてはまた後日ご紹介することにして、今日は表題の通り、ビザの話です。


就労ビザ取得にはまず、就労許可がいる


当然、現地で働くわけなので、就労ビザを取得する必要があります。

僕の場合、大学に留学するためのビザ(イギリスの場合はTier4ビザ、というのがそれに当たります)の出願を、修士のときと博士のときとで2回やったことがあるのですが、両方共、自力でなんとかなりました。簡単にいえば、「大学からもらったオファーの証明書」と、「ビザの出願書類」と「財産証明(現地についてからの数カ月分の生活費が賄えるだけの額が銀行口座にあることがもとめられる)」を出せば、基本的にはそれでOKです。妻の帯同ビザについても戸籍謄本を翻訳すればそれで結婚関係の証明になり、十分であります。

しかし、今回は全く様相が違います。まず、中国での就労ビザを取るためには、中国の関連当局から就労許可(work permit)を取る必要があります。単に、就職決まりました〜といって、就職先からのオファーレターを持っていっても、大使館はビザを出してくれません。

で、その就労許可をとるために必要な書類がくせものでして。

① 無犯罪経歴の証明書 (これは、日本の警察に本人がいって出してもらう必要がある)

② 最高学歴の卒業証明 (これは、LSEから出して貰えばOK)

③ 仕事経歴の証明 (僕の場合はリクルート1社だけなので、リクルート分でOK)

④ 婚姻関係の証明書 (妻の帯同ビザ申請に際して、妻も連れてきていいよ、という書類を中国当局から出してもらう必要があり、そのための証明に必要)

⑤ 僕と妻のパスポートの現物 (はい、現物です。コピーじゃありません)

を、用意するように求められています。

①は指紋を元に日本が犯罪記録をチェックするので、指紋が必要で、つまり本人が日本に自分で行かないともらえません。僕の場合は、ロンドン在住ですから、わざわざこれのためにエアチケット取って日本に一時帰国しました。まあ、研究をむりやり絡めて、費用は指導教官の研究費からうまいこと出してもらったので実損はたいしたことないですが、お金なかったらどうするんだ!という話です。

さらに、①④に関しては、日本の外務省で書類の証明をしてもらい(公印確認・アポスティーユというそうですが)、その上で日本にある中国大使館でさらに確認・証明をしてもらう(正確に言うと、大使館からアウトソーシングされている、ビザセンターにやってもらう)必要があります。

②に関しても以下同文でして、イギリスのForeign Office→ロンドンにある中国大使館(からアウトソーシングされているビザセンター)に、証明をしてもらう必要があります。

さらにさらに、すべての書類には中国語翻訳が必要、という段取りになっております。

と、いうことで、5月にこのあたりの準備をスタートしたわけですが、結局今日、ようやくすべての書類がそろいました。実に、2ヶ月かかっております。また、日本での書類証明に必要な期間、日本にいるわけにもいかないので、この手の業務を専門にやっている行政書士に依頼をし、イギリスも同じく自分でやる時間がないので同じような業者に依頼しました。

結果として、かかったお金もバカにならない額でして、旅費を除いてもあっさり10万を超える費用がかかっております。こんなに手間と金がかかるってわかってたら、オファーを受ける際に、着任関連のコストとして請求できるか事前交渉したのに・・・と思っても、今更遅いわけでして、すべて(上記の旅費を除き)自腹です。

僕みたいに、海外留学からさらに別の国に就職、という行為をする人がどれくらいいるかわかりませんが、そういう奇特な方が万が一このページをご覧になった場合は、ぜひ、この点は事前交渉項目に入れておくことを熱烈にお勧めする次第です。


契約書をめぐる交渉


そして、上記の①から⑤は僕の方で準備する必要がある書類ですが、それに加えて、就職先の大学が雇用契約書を用意して、それに僕がサインをする必要がある、とのこと。

まあ、就職活動の際にもらったオファーがあるので、それの内容を元にした契約書を送ってもらうだけだし、あっさり進むはず、と思っていたら、思わぬ落とし穴がありました。

その話をしてから数日後に担当者から送られてきた契約書は、オファーの際の条件とは全く違う内容で、給料もめちゃくちゃ安い内容でして。担当者曰く、「これはあくまで就労許可申請用の仮のやつだから、とにかくサインして」とのこと。「仮のやつだから」と口約束で言われても、サインしてしまえばそれは契約なわけで、正直言って、そんなものにサインするわけにはいきません。

と、いうわけで丁重に(いや、あくまで丁重にですよ)、内容が全く違う内容なので、仮のものだとしてもこれにはサインできない、正式なものを送ってほしい、というふうに依頼をし、一応担当者からはOKの返事をもらいました。

ちょうど、昨日まで言っていたドバイでの学会(Academy of International Business)でお会いしたとある先生からは「中国の大学との契約については、内容を精査したほうがいいよ。僕の知っている元生徒たちによると、就職活動のインタビューの際に言われてた内容と、実際に就職してから求められることがかなり違うケースが結構あるみたいだから」と言われたので、なるほど、という感じもしました。まあ、もちろん、中国に限らず、どんな場合も契約の中身を精査するのは大事ですね。

が、そのやり取りをしてから1ヶ月経ちますが、なんの音沙汰もないので、どういうことかなーと首を長くして待っております。僕の方の書類がそろっても、向こうの契約書ができないと、物事は進まないはずなので、多少心配であります。


パスポートとは3週間さよなら


で、上記の通り、⑤パスポートの現物を送る必要がありまして。しかも、どうやら就労許可の獲得には2-3週間かかるらしく。現物を送る手間を考えると、実質3週間から1ヶ月近く、パスポートが手元にない状態になるわけです。

正直言って、日本にいるならともかく、イギリスにいる状況で3週間から1ヶ月近く、パスポートを手放すというのはどうかと思うわけですが、就職先の担当者に言っても「ルールだから」ということですので、まあ、しょうがないです。

と、いうわけで、博士課程が終わったら、ヨーロッパを去る前にしばしヨーロッパ旅行を楽しもう、みたいな甘い計画を立てていたのですが、どうも7月はロンドンで塩漬けになること確定です。博士課程をやっている間、週末も研究三昧の僕に付き合って、あんまりヨーロッパを満喫する余裕もなかった妻に最後くらいは・・・と思っていたのですが、台無しです。全く、我が家の平和をどうしてくれる、と中国当局に多少苦情を言いたい気持ちです。


最後はビザの申請


で、ここまでくれば、ビザを普通に申請すればいいだけなので、なんとかなるはずです。一応、エクスプレスサービスとかもありまして、まあ、数日でビザはでるはず・・・なのですが、上記の通り、そこまでたどり着けるのかがよく分からない現状であります。

また、これについては、結局どうなったのかなど、共有しますね。

 

「交換」に関する考え方は世界共通?

社会的交換理論についての3回目です。

第1回では、世の中の人間関係は「交換」に溢れていること、第2回では「交換」にも色々なタイプがあることをご紹介しました。第1回、2回のポイントをかいつまんで要約すると、以下のような感じになります。

第1回: 世の中は交換で回っている。

第2回: 職場における「恩に報いる」を科学する。

  • 人間は他者との関わりの中で、さまざまなものを交換しながら生きている。お金やモノのやり取りに加えて、お互いへの敬意や配慮、支援といった、形のない価値の交換もそこには含まれる
  • 交換には「明示的に交渉や約束をする」ことでなりたつ「交渉型交換」と、それらなしに成り立つ「報恩型交換」がある
  • 報恩型交換は、お互いが「相手にとって良かれと思って何かをしてあげる」ことによって成り立つ。「自分がしたことが 相手にとってあまり価値がない」場合もあるし、また、「自分が何かをしたからといって相手が返してくれるとは限らない」というリスクも存在する
  • 報恩型交換は、人間の間の心理的なつながりを育てる働きがある。「相手が何かしてくれたことに対して、自分が何かをし返す」ことの繰り返しを通じて、徐々に相互理解や信頼関係が構築される。

さて、第3回は、そもそもなぜ報恩型交換が、交渉なしでも成り立つのか、ということについてご紹介したいと思います。言い換えると、

なぜ私たちは、人から何かしてもらった時に、「恩」を感じて、「何か恩返ししなければ」という義務を感じるのでしょうか?

という問いですね。改めて考えてみると、これは実に不思議なことです。

 


「恩返しに関する普遍的な規範」


 

この問いをめぐっては、人類学、社会学、心理学、進化生物学などのさまざまな分野の研究者によって議論が行われてきたのですが、概ねのコンセンサスとしては「人類社会には『恩返しに関するを普遍的な社会規範 (the universal norm of reciprocity)』が存在し、それば個人の行動に影響を与えている」という風に考えるのが一般的です。

どういうことかというと、「人から何か良いことをしてもらった場合は恩返しをしなければならない」「恩返しをしない人間は、社会的に罰されるべきだ」という価値観、考え方が、あらゆる社会に規範(暗黙的なルール)として存在している、ということです。また、「人に対して悪い行いをしたら、報いを受ける」という価値観も同様に、世界中に存在するのではないかと考えられています。

実際、こうした規範を示すようなことわざや格言は多くの地域に存在するようですし、童話などのなかに、こうした倫理感が埋め込まれていたりもします。日本の場合は「情けは人のためならず」ということわざがまさにそうです。「鶴の恩返し」のような童話もありますね。こうした格言や童話、また、親や学校の先生による教育を通じて、「自分が何かを人のためにすれば、それは自分に返ってくるのだ」ということを人は学んでいくわけです。

こうした規範があるおかげで、私たちは、相手に何かをGiveしたら、多分なんらか帰ってくるだろう、というふうに考えることができます。だからこそ、安心して周りの人に対して協働的に振る舞うことができるわけです。もし、こうした社会的規範が存在しなかったら、と考えるとそら恐ろしいものがあります。まさに、ホッブスがいうような「万人の万人に対する闘争」のような恐ろしい社会になってしまいそうです(ホッブスの議論は、法制度に関するもので、ここで議論するような社会的規範に直接関するものではないですが、規範も「暗黙的なルール」だと考えれば、全く関係ない、とも言えないでしょう)。

では、なぜそもそもこうした規範が世界中に存在するようになったのでしょうか?人類の発展の歴史をさかのぼって検証することはできませんから、この問いに対する実証的な研究は不可能です。が、さまざまなシミュレーション等を通じて「進化のプロセスにおいて有利だったから」とというのがかなり確からしいのではないか、と考えられています。

乱暴に言えば、こうした規範を守る個体が多い人間集団は、メンバーがお互いに助け合うことで、群れとしての生存確率があがる、と考えられます。また、こうしたルールに従わない個人は周囲から罰せられるため、集団内で生き残りにくくなるわけです(簡単に言えば「村八分になる」とういことですね)。そして、結果的に、「恩返しの規範」を守る集団、個人が生存競争に生き残った、というロジックです。

これは、実証のしようがないというのが悩ましいところですが、今後、脳科学などの発展によって「脳の機能」として、こうした規範にしたがう仕組みがあるのか、といったところも研究が進むと面白いですね。

 


「恩返しに関する普遍的な規範」を巡る個人差


 

ただし、「普遍的な規範」があるからといって、みんながそのルールに従う、ということではありません。「恩返し」をめぐってはそれなりの個人差があることがわかっています。

この分野の研究は特に、組織と個人の関係に関するものが多いので、まずはそれらの研究から分かっていることをご紹介しましょう。世の中には、

会社から何かしてもらったら、自分はその恩に報いて、組織のために頑張る義務がある

という風に考える人と、

会社が自分をどう扱おうが、自分は自分の仕事を粛々とやるだけだ。

という風に考える人が存在します(もちろん、これは両極端の例をご紹介しているわけで、厳密に2種類に分かれるわけではありません。実際には「程度」の話です)。

そして、前者のタイプの人たちは、「会社が自分をサポートしてくれていると感じるか」「会社が自分をフェアに扱ってくれていると感じるか」「会社が、(処遇や機会などの面で)自分への約束を守っていると感じるか」によって、大きく態度や行動を変えることがわかっています。具体的に言えば、これらについて肯定的に感じている(=「会社は自分のことをちゃんとあつかってくれる」)場合は、、組織へのコミットメントが高くし、組織に貢献する行動をとる一方、否定的に感じている(=「会社は自分をちゃんと扱ってくれていない」)場合、組織へのコミットメントが低くなり、組織に貢献する行動をとらなくなる、といった具合です。

逆に後者の人たちは、「会社が自分をサポートしてくれていると感じるか」「会社が自分をフェアに扱ってくれていると感じるか」「会社が、(処遇や機会などの面で)自分への約束を守っていると感じるか」どうかによって、態度や行動があまり変わりません。会社が良くしてくれた場合にもっと頑張るわけでもなく、会社が良くしてくれないからといって頑張らなくなるわけでもないのです。

これらの研究からは、「企業は個人を大事にすべきだ、そうすれば個人は会社のためにがんばってくれるのだ」という主張が、単純すぎる議論だ、ということがわかります。もちろん、大きな傾向としては間違っていないのですが、その反応の仕方は、個人によってばらつきが存在するのです。

また、個人同士のやりとりについても、実証研究は少ないのですが、「恩返しに関する規範」に関する考え方の個人差があり、それが実際に行動に影響を与えることがわかっています。具体的に言うと、「恩返しの規範」に従おうとする規範が強い人は、「相手が自分をどのように扱うか」によって、「相手に対する自分の態度や行動」を変える傾向があります。「恩返しの規範」に従う指向が弱い人は、相手が自分をどう扱おうが態度や行動が変わらない傾向が見られています。

 


状況による違い


 

また、最近の研究では、状況によって「恩返し」をする程度がかなり変わるようだ、ということもわかってきています。

2015年に発表されたかなり新しい論文ですが、個人が「組織内で、他の人と関わり合う場合(例えば、職場の同僚同士)」と、「組織外で、他の人と関わり合う場合(例えば、近所の知人との付き合い)」では、前者(組織内)での方が、「恩返しの規範」に従わない傾向がある、という傾向が報告されています。

筆者らは、さらに実験を行い、(企業のような)組織内の環境では、人は「より計算高くなる」傾向があり、また、「他の人の行動を、『善意でしてくれた』というよりも、『仕事の中で役割としてやっている』と捉える」傾向があること、そしてそうした傾向が、「恩返し」が組織内で起こりにくいことにつながっているのではないか、と報告しています。

このことは、職場の信頼関係づくり、ということを考えると重要です。

前回ご紹介した通り、恩返し、をベースに成り立つ「報恩型交換」は、結果的に個人間の相互理解や信頼関係を育みます。そう考えると、職場の人間関係の方が、世の中一般の人間関係よりも、「ぎすぎす」しやすい、のは、もしかすると「組織内では恩返しが起こりにくい」ためかもしれません。

そう考えると、「お互いに何かをしてあげて、してもらったら恩に報いる」関係性や、それを促すような規範を、どのようにして組織内、あるいは職場で維持するか、というのは、組織運営にかかわる人にとっては、実はとても重要なテーマなのかもしれません。

 

 

職場における「恩に報いる」を科学する。

社会的交換理論についてのポストの第2弾です。今回は、交換をいくつかのパターンに分けて分析することで、さらに議論を掘り下げていこうと思います。

前回の投稿では、上司と部下、組織と従業員の関係を交換として捉えることができる、ということをご紹介しました。簡単にまとめると、上司から面倒を見てもらっている、と感じている部下は上司のために頑張るし、組織が自分を支援してくれている、と感じている従業員は組織のために貢献しようとする、ということです。同じような関係は、同僚同士、また、顧客と営業の間などでも見られます。

前回の投稿はこちら: 世の中は交換で回っている。

 


交換に当たって、交渉するか、しないか。


 

実は、「社会的交換」には、いくつかのタイプがあります。それらのタイプを分ける基準の一つが「交換に当たって、交渉するか、しないか」です。

お店などで私たちがものを買うときは、ペットボトルの水1本なら120円、ハムサンドイッチは250円、みたいな風に、購入するものに対して価格が明確に決まっています。市場などで多少価格交渉の余地があるとしても、「何を受け取ることに対して何を支払うのか」は実際にお金を支払う前に双方が合意して、その上でお金の支払い、商品の受け渡しが行われるのが普通です。このように、「経済的交換」においては、互いに何を交換するのか、を事前に交渉で決める点に特徴があります。

こうした交渉を通じた交換は、職場にも存在します。

先輩:「ちょっと今日、残業に付き合ってくれない?こんど一杯おごるからさ」
後輩:「わかりました。その代わり、いつものXXXじゃなくて、YYYYにしましょうよ」
先輩:「YYYYかー、いい店だけど高いんだよねー。まあ、しょうがないか。了解。」
後輩:「やった!じゃ、いいですよ。何から手をつけますか?」

と言うのは少々牧歌的な職場の会話ですが、解りやすい交渉型の交換の例です。職場での同僚同士、上司部下の間で、ちょっとした交渉は日常的に発生します。

同僚同士の例としては、休みの調整が挙げられます。有休を取っている間の仕事のフォローを同僚にお願いする代わりに、同僚が有休を取る際には自分がフォローをすることを確約する、といったことです。あるいは、長期休暇をフレキシブルに取れる会社では、誰がいつ休むか、についてチームの中で交渉が行われる、といった話を聞いたことがあります。「この夏は自分が譲る代わりに、年末年始の休暇は自分を優先してほしい」といった会話が生じ、合意が行われる、という意味では、交渉型の交換、と言えるでしょう。

また、部門間の壁が高く、よその部門の情報があまり流れてこないような組織であれば、部門の違う同僚同士で、「自分が持っている部門の機密情報を提供する代わりに、相手から、相手部門の機密情報を聞き出す」みたいなことも行なわれているかもしれません。

上司と部下の間であれば、目標管理で「何を達成すればこういう評価にする」というふうに握るのも、交渉のうえで明示的に合意する、という点で、交渉型交換だと言えますね。私はリクルート時代に、イギリスで修士過程に進学しようとして、当時の事業部長に「国際人事について専門的に勉強したいんですよ。会社負担で1年留学ってできないですかね。戻ってきたら、グローバル人事の新規領域開拓を頑張ります」みたいな交渉をしたことがあります。制度上、会社負担での留学の制度は廃止されていたため、残念ながら交渉は成立しませんでしたが・・・。

このように、交渉型の交換においては、何に対して何を交換するのか、について双方が合意する、ということが行われます。もちろん、実際の交換自体には時間差が生じる(例えば、最初の例でいえば、今日、残業に付き合うものの、おごってもらうのは数日後ですね)こともあるわけですが、合意自体はその場で行われる、というのが特徴です。

それに対して、前回ご紹介したような交換の場合、一方が「何かを相手に対してしてあげる」時点で、相手から「何を見返りにしてもらうのか」が決まっていません。しかも、「いつ」見返りが行われるのか、も決まっていません。そうした交渉なしに、一方的にGiveが行われる点が特徴的です。Giveする側からすれば、いつ帰ってくるか、どう帰ってくるかはわからない、という点に特徴があるわけです。

例えば、「上司が部下の面倒を見る → 部下が上司のために頑張る」という例について考えると、上司が面倒を見る時点で、部下から何が、いつ帰ってくるかはわかりません。それでも、上司が一方的に部下の面倒を見る、それに部下が恩を感じる、そして今度は部下が一方的に上司のために頑張る、ということが生じるのが、社会的交換の面白いところです。

交渉ありの交換を「交渉型交換」、交渉なしの交換を「報恩型交換」とここからは呼ぶことにします(学問的には、前者をnegotiated exchange、後者をreciprocal exchangeと呼びます)。

 


「報恩型交換」の特徴


 

このように「事前の交渉がない」ことは、報恩型の交換に参加する双方の心理や行動に様々な影響を与えることがわかっています。

①まず、Giveする側は、「相手に良かれと思ってGiveする」ことになります。相手が何を求めているのかは、交渉が行われていませんから(厳密に言うと)わかりませんし、それを相手がどれくらい「ありがたい」と思ってくれるかもわかりません。

ですから、報恩型交換の場合、交換に関わる2人が、相手の利害や置かれた状況を理解したり感じていないと、交換が成立しません。相手の気持ちが読めない2人が組み合わさると、お互いが「良かれと思って」やっているのに好意がすれちがう、そして結果としてお互いに「なんだこいつ」と感じる、みたいな風なことも起こり得る、ということです。

一方で、報恩型交換は非常に自由度が高いです。「今、何かに困っている訳では無いし、相手に何かして欲しい訳でも無い」状況でも、相手に良くしておけば、もしかしたら自分が何か困った時には相手が手を差し伸べてくれるかもしれない訳です。明確に利害をすり合わせる必要がありませんから、フレキシブルな協働が可能になります。

その意味で、報恩型の交換を好まず、交渉型の交換を志向する人ばかりの組織は、非常にギスギスしてしまいますし、あまり機能的ではありません(交換に関する個人の志向については、いずれ詳しく議論したいと思います)。

②次に、受け取った側は、「自分が求めたわけではないのに」相手が何かをしてくれた訳ですから、相手に対する好印象を持ちやすくなります。交渉型交換の場合、相手が何かしてくれてもそれは合意の結果ですから、「当たり前」ですよね。報恩型交換では、相手の行動は、「予期せぬこと」になり得ます。小さなことでも予期せぬ(自分にとってはありがたい)行動を相手が繰り返してとったり、また、仮に単発の出来事でも非常に印象的な行動だった場合、相手に対する好意や信頼が高まります。

例えば、「新しい職場に配属されてまだ居心地がイマイチ良くない状況で、最初にランチに誘ってくれた先輩」や、「勝負プレゼンの場で自分が詰まった時に、さらっと横からナイスフォローをしてくれたうえで、プレゼン後には『よくやった、お前の手柄だ』と褒めてくれた上司」みたいな人のことは、いつまでも「お世話になった」と覚えているものですよね。

③そして、報恩型交換で、最初にGiveする側にはリスクが伴います。困っている同僚を助けても、相手は自分に何もしてくれないかもしれない。部下のために良かれと思って機会を与えたり、こまめに指導をしても、相手は何も感じていないかもしれない。そう考えると、社会的交換を行う、というのは、大げさに言えば、「いつ、どんな風にリターンがあるのかわからない行為に自らを投じる」ということになります。

そのため、あまりよくわからない、誰ともしれない人同士の間では、「報恩型の交換」は起こりにくいのです。もちろん、個人差はあります。が、総じて言えば、「見返りが帰ってくるかどうかもよくわからない」のに、「相手のために自分の時間を割いてやる」のは、気が進まない、というのが一般的な真理だ、と言えるでしょう。

 


「報恩型の交換」は時間とともに育つ


 

こうした特徴があるため、報恩型の交換は、やり取りを通じて徐々に育つものだ、というふうに考えられています。

上司と部下の関係を例にとりましょう。

上司も部下も、最初に配属された時には相手がどんな人かはわかりません。ですから、相手が何を求めているのか、相手が何をすると嬉しい人なのか、については手探りになります。また、そもそも、自分が何かをしてあげたら何かを返してくれる人材なのか、ということも未知数です。

この状況で有効なアプローチは、「小出しにして相手の反応を見極める」です。

上司からすれば、いろいろとメンバーの反応を見つつ、メンバーにとって良さそうな行動を取ってみる。逆に、メンバーからも上司が喜ぶ、あるいは彼・彼女とは仕事がしやすいと感じるであろう行動を取ってみる。その上で、それに対して相手がどう反応するか、自分が行った行動に相手は反応してくれるか、を見極める訳です。

そして、お互いの「良かれと思って」が上手くかみ合えば、上述の通り相互の好意や信頼が生まれます。

相手のことを信頼していれば、リスクをとることができますから、相手のためにさらに一歩踏み込んで何かをすることが可能になるのです。例えば、上司であれば思い切って重要な仕事を部下に任せてみる、とか、部下であれば、上司から求められていなくてもチームのために必要だ、と感じる施策を考えて、上司に提案してみる、といった行動です。こうした行動にはいずれもリスクがあるため、相手が応えてくれる、という信頼がなければこういう行動は取りにくいのです。

これらの一歩踏み込んだ行動に答えてくれた相手には、さらなる信頼が生まれます。こうして、信頼が育ち、相互にコミットし合う関係性が発展していきます。逆に、そうなれば、信頼を生かして普段なら頼めないような無理を頼む、といったこともできるようになっていきます。

私がコンサルタントとして、あるいは会社勤めをして働く中で見聞きしてきた経験から考えると、どうやら世の中には、こうした一連のプロセスを意識して行う人もいれば、ほとんど意識していない人もいるようです。個人的には「やりすぎ」はどうかと思いますが、相手への信頼を勝ち取るために、自分から積極的にGiveをする、その上でTakeを求める、というアプローチの方が、仕事やキャリア上、成功しやすいのでは無いかな、と思っています。

「自分が相手にとってどう役に立っているか」「相手にとって、自分は嬉しい存在なのか」を考えずに、「相手が何も自分のためにしてくれない」と考えるのはあまり生産的では無い、ということですね。逆に、「良かれと思って」何かをしても、それに応えてくれない相手のために労力を投じるのは無駄かもしれない、ということでもあります。

そして、関係性を育むには、自分から投資するのが大事だ、ということでもあります。

次回は、「報恩型の交換」がなぜ交渉なしでも成り立つのか、私たちが「恩」を感じて、返さなければ、と思うのは何故なのか、について、さらに掘り下げます。

 

<続きはこちらから>

第3回:「交換」に関する考え方は世界共通?