日本は本当に集団主義なのかという問い。

日本は、集団主義であって、欧米の個人主義とは違う、という論考は
よく耳にする主張だが(そして、自分自身もそれを前提に幾つかの記事を書き、発表してきたが)、今日はこのことについて改めて考えてみたい。

まず、個人主義と集団主義の定義だが、HofstedeやTriandisによれば、個人主義は、個人が独立した主体であり、個人の利害が集団の利害に優先する、という価値観や考え方のことであり、集団主義は、逆に、個人は他の人々とのつながりの中で生きる存在であり、集団の利害が個人の利害に優先する、という価値観や考え方のことを指す。

これは、「自己」を何に依拠して定義するか、という問題であり、人のあり方の根本に関わるものだ。

しかし、ここでいう「集団」はかなり曖昧な議論である。

いわゆる「家族」や「親族集団」のことを指すこともあれば「会社組織」のことを指すこともある。個人主義の立場から見れば、どちらも個人ではない集団である、という点では共通だが、生活を共にする家族と、社会における経済活動の主体である「会社」は、どう考えても帰属の対象としては別のものだ。

現代の日本の文脈で考えれば、ワークライフバランスは、ほぼすなわち、「家族」をとるか、「会社」をとるか、という話だ(どうも、日本では、ワークライフバランスの話はほぼ常に、家族持ちの家族に対する責任と、会社に対する責任の対立軸で語られ、家族とも会社とも切り離された、「個人」という文脈で語られることは、僕が知る限り全くない。まあ、これは欧米でも程度の差はあれ、似たようなものかもしれないが)。

「中国化する日本」で一躍有名になった歴史学者、与那覇氏によれば、日本はどちらかといえば血縁関係で繋がる「家族」よりもむしろ、「藩」や「お家」のような、バーチャルな、仕組みとして成り立った集団を重きに置くのに対し、中国は血縁および同じ姓でつながる縁戚関係(実際に血縁があるかどうかはともかくとして)や、個人的な信頼関係を重視する、ということだ。実際、日本に関して言えば「遠くの親戚よりも遠くの他人」という象徴的なことわざが存在する。

Brewerは、このあたりの個人主義ー集団主義の二項対立の枠組みを批判して、「個人主義」「人間関係主義」「集団主義」の3つからなる枠組みを提示している。人間関係主義は、個人同士のつながり、すなわち「人脈」「コネ」を重視する考え方であり、集団主義は集団に対する帰属、すなわち「メンバーシップ」を重視する考え方だ。

個人主義者は自分の能力や実績、何をしているかで自己を定義し、人間関係主義者は、誰とつながっているのか、誰と親しいか、どのような人間関係の網の中にいるか、で自己を定義する。集団主義者は、どのような集団に属しているか、で自己を定義するのである。人間関係はあくまでも顔の見える個人の網であるのに対し、集団は抽象的な存在である。国家や企業がそれにあたるだろう。

改めて考えてみると、日本の文化はどの形なのだろうか?僕には今のところ、答えがない。なんというか、従来の集団的なものが、徐々に変わってきているような感じもするし、そうでもない感じもする。もやもやな感じである。

僕の友人は、個人主義的な要素が強い人たちが多い。「会社に縛られるのではなく、自分で決めるのが大事だし、その上で会社が自分のやりたいこととあっていれば、会社で働けばいいじゃない」というような考え方の人間が多い。彼らの家族・親族との関係はよくわからないが、家族・親族のために自分を犠牲にする、という雰囲気はあまり感じない。

一方で、極端な例だが、今年前半に結構物議を醸していた、満員電車でのベビーカーに対する批判が、「満員電車で会社に行かないといけない人たちに対して迷惑」というあたりには、ある意味、自分勝手なように見えつつ、結局は意思決定の基準は他者であるあたりが、個人主義とは言い難い。

加えて、組織や集団内における行動において、自分の主張よりも、周りの人たちの主張や利害を考慮して、明確な対立にならないように探っていくというのも、広く一般的な行動のように思われる(残念ながら電車で出くわした人たちは気を使うべき他人の範疇にも入らない人もいるわけだが)。

さらに違う話をすれば、都市部に出て働く人たちとは別に、地元で昔からの友人たちとつるんで、その輪の中で生きて行くことを志向する人たちも昔から存在する。

散漫な例だが、それだけ、多様な行動のパターンが存在する、というわけだ。日本の中にも、個人を優先している集団もいれば、組織を優先している人たちもいて、関係を中心に生きている人たちもいるのが現実である。そうなると、「日本」という括りで考えることに非常に疑問が出てくるわけである。

国際経営論の世界では、文化や制度を総じて国単位で議論することが伝統的だが、もはや「国」という単位の議論は、文脈によってはあまり意味がないのかもしれない。日本初の企業といえば、長期雇用の製造業だというわけでも、もはやないし。そうした「伝統的」企業の中の従業員の行動は、上述の通り、制度的な要因の影響を受けているわけで、それを「日本の文化」と言い切るのも、疑問を感じる昨今である。

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投稿者: 吉川克彦(Katsuhiko Yoshikawa)

国際人事・組織論に関する研究者、コンサルタント。PhD (Management, London School of Economics and Political Science)。2017年8月より、上海交通大学安泰経管学院にて、Assistant Professorに就任予定。

主な研究分野は組織論、人材マネジメント論、国際経営論。
Journal of World Businessに査読付き論文が掲載されたほか、Academy of International Business, Academy of Management, Association of Japanese Business Studiesなどの学会にて研究発表の実績あり。また、日本国内でダイバーシティマネジメントについての書籍を出版。また、人事関連の雑誌への寄稿、新聞への論考を掲載。主な研究実績についてはこちら。

コンサルタントとして、様々な業界の日本企業の人事・組織変革を支援。主なテーマは、企業理念の浸透、ダイバーシティマネジメント(女性活躍促進を含む)、人事諸制度の再構築、海外法人における人事体制の確立、次世代リーダー育成、採用戦略の立案など。

1998年にリクルートに入社。人材、組織に関する研究、コンサルティング、サービス開発に
従事。2013年に同社を退社。

1974年 兵庫県西宮市生まれ。京都大学経済学部卒。2011年にLondon School of Economics and Political Science にてMSc. Management, Organisations and Governance 優等修了(Distinction) および、PhD in Management (Organisational Behaviour and Employment Relations Track)を終了。

ご連絡はこちらまで。 katsuhiko78@gmail.com / k.yoshikawa@lse.ac.uk

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