先日、イギリス留学から中国の大学に就職する(その1)ビザ獲得への長い道のりというポストで、いよいよ中国での仕事が始まるかと思いきや、ビザの獲得で右往左往してる、という話を書きました。本来であれば、先日、就労許可取得のためにサインした契約書によれば、明日(8/1)が雇用スタート日なので、すでに中国についていないとおかしいわけですが、未だにビザは取れておらず、ロンドンにおります。

振り返ってみると博士課程への出願を真剣に準備していた2012年にはリクルートにまだ在籍しており、30代(38歳)だったわけですが、今年の10月には43際になろうとしております。なので、40歳を挟んだ5年かけて、「日本でそれなりに大きな企業に勤める会社員」から、「独立コンサルタント」かつ「博士課程の学生」を経て、「中国のビジネススクールのアシスタントプロフェッサー」へとキャリアチェンジをした、ということになります。今回のポストの狙いは、なぜそもそもこういうことをやろうと思ったのか、ということについて、一度ちゃんとまとめておくことです。

本稿では第1弾として、博士課程進学までに何を考えてたか、というところをまとめます。大きなキーワードは、「長い人生の中盤戦」「戦略論で考えるキャリア選択」の2つです。


長い人生の中盤戦


 

個人的にはこのキャリアチェンジは、おそらく75歳くらいまでは働き続けるであろう人生の第2ラウンドのスタートだと考えています。

75歳までは働き続けるであろう、という想定については、すでにいろいろなところで様々な方が議論されてますので多くを議論する必要は無いでしょう。(1) 日本に限らず先進国どこにいようと年金支給年齢は遅くなるばかり、(2) 健康であれば、それくらいまでは働けそう(実際、父は72歳ですが、ペースは落としつつも現役ですし)という点と、これが僕にとっては大事ですが、(3) 働かないと退屈、ということが背景にあります。(3)については、人によって考えが別れるところだと思いますが、僕は、毎日面白い問題に挑戦して、それなりに世の中なり誰かの役にたっている、という実感があることが自己満足として大事だと思ってます。

75歳を一旦のゴールにおくと、僕は23歳から働き始めましたのでざっくり75-23=52年くらいは働き続けるわけです。で、40歳がちょうど1/3が過ぎたところにあたります。ですから、今がちょうど、人生を3つに分けると序盤戦が終わったところ、そして、40歳から55-57歳くらいまでが中盤戦、そして、それ以降は終盤戦に挑む、ということになります。

序盤戦は、リクルートでしゃかりきになって働き、自分なりに何かのプロになることを目指して走っていた、という時期です。コンサルタントとして、周囲の同僚や先輩と差別化された強みを持つこと、顧客から信頼され先方からお声がかかる状態になること、そして、組織内でひとかどの人材として認知されること、この辺りがゴールでした。幸い、30代中盤から37歳ごろにかけて、それなりにこれらのゴールは達成できていた実感がありました。コンサルタントとして充実したお仕事をし、リクルート外からの魅力的なお誘いを頂戴する機会もあったりと、それなりに自分のプロフェッショナルとしての価値に自信が持てていた訳です。

ただし、中盤戦ということを考えると、このままずーっとコンサルタントでやっていくのか、というのは疑問ではありました。まず、序盤戦で培った知恵と経験が活かせるとはいえ、中盤戦では中年を過ぎて体力が落ちていくことは間違いない訳で、コンサルタントという働き方には多少の無理が来るだろうなあ、という予感がありました。その上で、終盤戦にどう働きたいだろうか?と考えてみると、「研究」というのが浮き上がりました。

というのも、もともと研究に携わりたい、という欲求が昔からあったのです。今考えると何だそれ、という話ですが、実は小学生の卒業作文には、「僕の家系はみんなハゲだ。だから僕は毛生え薬を研究して、それでノーベル賞を取る」という、というトンデモ野望を書いてました(笑)。また、リクルートの中でも、ワークス研究所に2年所属し、その後もコンサルティングの傍で研究や調査にはずっと携わってきており、個人的にはコンサルティングよりも研究のほうが楽しいかも、と感じていたのです。ここから、アカデミック(大学)へのキャリアチェンジは、常に頭の片隅にありました。

しかし、ここで問題になるのが、資格です。実際に大学でちゃんと教授になろうとしたらPhD(博士号)が必要なので、人生のどこかでPhDの取得に時間を投資する必要がある訳です。確かに、日本にはプロフェッショナルとしての経験をもとにPhDなしでビジネススクールや経営学部に教授として転身される人たちもいます(官僚やコンサル、金融出身者など)。が、海外の大学を見れば基本的にはPhDは必須条件な訳です。そして、世の中には大学の国際的なランキングがあり、トップクラスの大学は世界レベルで競争しあっている。そう考えれば、ゆくゆく、日本においてもPhDを持っていないとアカデミックな世界でポジションが得にくくなるのは自明のように思われました。

また、どうせ新しい分野にチャレンジするなら、海外の大学で教員としてのキャリアをスタートするくらいのことまで視野に入れたほうが面白いだろう、とも思ったのです。終盤戦を視野に入れているにせよ、まだ中盤戦は始まったばかり。そう考えると、ストレッチした挑戦をしない理由はありません。体力もまだまだあるわけだし。また、大きな高望みをして始めれば、うまくいかなくてもそれなりに落ち着くだろうし、うまくいけば上々だし、という考えです。そう考えると、世界的に評価の高い大学でPhDをとることが、第一ステップになります。

と、いう訳で、終盤戦に「教育と研究にじっくり携わる」ということを前提に、キャリアの中盤戦を始めるにあたって、「体力があるうちに、アカデミックキャリアへの入場券であるPhDをとる」ことと、「どうせやるならグローバルのステージでそれに挑戦してみる」ということに賭けてみるか、と思った訳です。

 


戦略論で考えるキャリア選択


こうした長期の人生プランの一部としてのキャリアを考えた一方で、もう一つ、考えていたのは、戦略としてこの選択はどれくらい筋がいいのだろうか?ということです。結論としては、賭けではあるものの、それなりに勝算があるだろう、と判断しました。

戦略論には「ポジショニング学派」と「リソース学派」という大きな2つの潮流がありますが、その観点で考えたわけです。ポジショニング学派は、マイケル・ポーターに代表されるような、「自分がエントリーする市場において、どう独自の価値があり、競合と差別化されたポジションを確保するのか」と考えるアプローチですね。それに対して、リソース学派は、「どのようにして競合が模倣できない、価値ある独自の資源を構築するか」という風に考えるアプローチです。これをキャリアに当てはめて、「人生の序盤戦で培ったリソース(経験や貯金)」を元に、「どんなリソースを足せば次の展開が見えるか」を、「市場でどう、独自のポジションを取るか」をにらみながら考えた、というわけです。

まず、アカデミック市場におけるポジショニングを考える上では、2012年の夏に行った、ある海外学会での経験が大きく影響しました。修士論文でやった研究をもとに、当時の指導教官(が、その後の博士課程の指導教官にもなるわけですが)だった、Dr. Hyun-Jung Leeと一緒に学会論文を書き、それをAcademy of International Businessの学会に応募したのです。これが無事採択されまして、幸いリクルートから仕事として学会に出張してきてよし、という寛大なサポートももらえましたのでワシントンDCに出張し、初の学会発表に挑んだのでした。その際に、自分の研究に対する他の研究者からの質問やコメントに返答したり、他の研究者の発表に質問やコメントをしたりするなかで、「結構通用するな」という実感がありました。自分の英語でも通用する、また、中身についても研究者同士の議論にちゃんと入っていける、ということです。

そこから、社会人人生の序盤戦で培った「日本での人事、組織に関する実務経験」というリソースに、「英語で研究し、授業ができる」というリソースを組み合わせれば、それなりに独自のポジションを取りに行けるのでは?と考えたわけです。

日本の大学全体は上述の通り、少子高齢化で大学生人数が減りますから、かなり厳しい市場です。国としての研究予算も先細りがちだし。一方で、ビジネススクールだけみると、企業向けの幹部(候補)教育のジャンルは大にぎわいです。幹部候補をグローバル競争の中で活躍できる人材にどう育てるか、というのは、重要なテーマになっており、海外の大学とのネットワークをもとに、国際的な教員チームでその課題に応えられる国内のビジネススクールに企業からのニーズが集まっているのです。リクルート在籍中に、某有名私大のビジネススクールでそういう案件を企画実行するポジションのお誘いをいただいたこともあり、ニーズを実感してました。

ただ、正直言って、国内の市場を超えた、海外の市場がどうなのか、というのは考えてませんでした。今から後知恵で考えると、新興国に目を向ければ、高等教育のニーズは拡大基調です(若者が多いのと、大学進学率が上がっているので)。一方、博士課程卒業者は増え続けているので、「拡大基調ではあるものの、競争が過酷」な市場だと言えそうです(これについては、過酷なアカポス(アカデミックポスト)市場の現状と、そこでの就職活動の実態で詳しく書きました)。まあ、こちらについては、「海外の一流大学でPhDとっておけば、何か道が開けるんじゃないか」くらいの妄想で突き進んだ、と言っていいでしょう。まあ、結果的には、現状だけ見ればうまくいっている感じですが・・・・

加えて、リソースという観点では、知り合いのつてをたどって、一ッ橋大学や慶応大学、早稲田大学の教員に何人かお会いし、実際問題、40歳手前から博士をやるって通用するのか、また、やるなら海外がいいのか日本がいいのかなどをヒアリングしました。

この過程で、実務家からPhDをとりアカデミックに転身をする過程にいた先達にお会いできたことは、今考えると、実にラッキーでした。早稲田大学ビジネススクールの池上教授(僕がお会いした当時は准教授で、一ッ橋で博士課程中でした)や、同志社大学の客員教授でフランス国立労働経済社会研究所客員研究員もやっておられる山内麻里さん(当時、慶応大学で博士取得された直後)などは、今でも研究やキャリア選択について時々お話しする機会があり、博士課程を始める前のタイミングでご縁が作れたのは、実に運が良かったな、と今、振り返ると思います。この方々にお会いして、なるほど、実際にやっている人もいるのね、というのが見えてきました。

また、日本と海外の大学どちらがいいか、という点については、「日本の大学はかなりフレキシブルにやれるので、働きながらPhDを取得可能」が、「海外大学ではそうはいかないが、アカデミックなトレーニングという面での質は高い」ということです。特に、データを集め、分析する、という部分のスキルに関しては、欧米の博士課程の訓練を受けたほうが有利だろう、ということでした。また、「実際に就職することを考えたら、卒業までに論文を学会誌に発表しておく」ことが重要である、という今考えると非常に重要なアドバイスももらいました。

これらの情報を元に、海外でのアカデミックキャリアも視野に、欧米のトップスクールの博士課程に応募する、そこできちっと訓練を受けて、論文もその間に発表する、という具体的な方針が定まりました(結果的に、博士進学前から論文執筆に取り組んで、無事博士課程2年目に、国際ジャーナルに論文を発表できたのは、その後の就職活動で重要なリソースになりました)。その上で、いろんな大学に出願し、結果的に古巣のLSEだけで合格がもらえたので、LSEに進学することにしたわけです(アメリカなどの他の応募は全滅でした)。

もちろん、会社を辞めて海外へ、というのは、資金面ではかなりタフな選択でした。幸い、リクルートでの持株を売却したお金や、早期退職金の資金が期待できたので、よし、これは一発賭けてみよう、という決意に至ったわけです(実際には、幸い、何社かのお客さんからお声がけをいただいて、個人でコンサルティングの仕事を一部続けることもできたので、それもかなり資金面での支えになりました)。

 

と、いうところで、長くなりましたが第1弾はここまでにします。第2弾では、なぜ中国交通大学にしたのか、という部分についてまとめておこうと思います。

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